鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その9

2015-04-11 06:37:47 | Weblog
崋山らが伊良湖の浜で雇った船とは、どういう種類のものであったのだろう。まず操船する船子は3人。「わがのりし船ハ漁せる小船にて、長さ二丈あまりもありぬべし」と崋山は記しています。漁船で、長さが「二丈あまり」。「一丈」が「十尺」でおよそ3.3mだから、「二丈あまり」となるとおよそ7mの長さ。それに、船子3人、そして崋山、鈴木喜六(田原藩士・案内人)、供の者と、崋山一行の3人、合わせて6人が乗り込みます。途中から「風よしとて、かゝるさゝやかなる船に五反ばかりもあらん帆を斜にはれバ」とあるから、これは帆船であったことがわかります。漁船にして帆船であり、長さは約7m。船子が3人で、それ以外に3人ばかりも乗せることができる船。「前に立てる船子」が、大波が押し寄せてくるのを見て大きな声を張り上げると、船尾にいる船子が声を合わせて舵(かじ)を取り、その押し寄せる大波を乗り越えていきます。この情景を描いたのが「神島渡海」のスケッチ。舳先(へさき)のところに大波が押し寄せてくるのを知らせる船子が一人おり、船尾に舵(かじ)を取る船子が二人いて、その間に崋山を含めた3人の乗客が描かれています。崋山はこの帆船を「五反ばかりもあらん」と記していますが、このスケッチで見ると「六反帆」のように見える。舳先を見ると、「水押」(みよし)がずんと突き出た「一本水押」の漁船。これは一般にどう呼ばれている漁船なのだろう。それを調べるのに、一つ参考にしたのは『東京風俗志 上』平出鏗二郎(ちくま学芸文庫)の「船舶」関係のの文と絵。「漁船」としては、釣船・四ツ手船・網船・鵜飼船・田船・部賀船(べかぶね)・茶船・伝馬・小荷足(こにたり)・まき船などが紹介されています。この中で、崋山が描く船にもっとも形態的に近いのは「小荷足」かと思われます。平出は、「まき船とて沖に漕ぎ出でて貝を獲るに用ふるものあり。その形荷足に似て港板(みよし)更に長し」と、「まき船」について説明しており、この「まき船」がもっとも崋山の描く船に近いかと思われますが、この「まき船」についてはいろいろ調べてみましたがよくわからない。伊良湖村の半農半漁の農民が所有していた漁船で、沖合いで漁をするための小型帆船であり、「小荷足(こにたり)」に似た船、というのが今のところ私が調べて得たこの船に関する情報です。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その8

2015-04-10 06:11:02 | Weblog
崋山はいよいよ伊良湖の浜から船で神島へ赴きます。崋山が伊良湖浜から船に乗るのは、初めてではなくこれが2回目。文化5年(1808年)16歳の時に、藩主三宅康友に従って初めて田原に来た際、伊勢神宮に参拝しようとしてここから船出したことがあったのですが、船中一人残らず船酔いをして嘔吐したために、渡ることはできませんでした。それ以来、崋山は、「武士として生まれた以上、いついかなる場合に船に乗って戦(いくさ)に出るかもしれないのに、あれぐらいの渡海で船酔いしてしまうとは口惜しいことだ」と思い続け、日頃そう思っているからこそ、今回、神島へ渡ってみようと試みたのだと日記に記しています。伊良湖明神へと参詣し、その間に神島へ渡るための船を手配させ、参詣を済ますと芭蕉塚に立ち寄ったあと、すぐに浜に出て船に乗り込んでいることを考えると、神島へ渡ることは最初から予定されていたものと思われる。渥美半島の陸地だけでなく、三河湾全体を海上から、あるいはまたいくつかの島々から眺め、さまざまな情報を集めて見たいと崋山は考えていたものと推測することができます。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その7

2015-04-07 06:03:56 | Weblog
天保4年(1833年)の4月(陰暦)に崋山が訪れた伊良湖村や伊良湖明神は、ほとんど跡形もなく消滅しており、かつての姿を現地で想像することは極めて難しい。その理由は、明治後期に陸軍第一技術研究所伊良湖試験場がこのあたり一帯に築かれたことにある。この伊良湖試験場は、大砲の射撃データを収集するための軍事施設であり、伊良湖神社の案内板に記されていたように、明治38年(1905年)の伊良湖試験場の用地拡大に伴う集落の集団移転により、崋山や芭蕉たちが見た伊良湖村やその周辺の景観は大きく変貌してしまったのです。またやはり明治以後のことと思われますが、西山長池や豊島池も干拓等のために消滅し、かつての伊良湖神社や西山長池、豊島池の景観は、崋山のスケッチによって辛うじてしのぶことができるばかりと言ってよいでしょう。この明治後期に築かれた陸軍第一技術研究所伊良湖試験場は、大正時代になると、監的哨(かんてきしょう)などの建設や軽便鉄道の敷設が行われたり、また太平洋戦争末期には本土決戦用の二十八インチ榴弾砲陣地が構築されたりと、施設の拡充が図られていきました。インターネットで調べてみると、この陸軍第一技術研究所伊良湖試験場の正門は小中山町の田戸(たど)神社前、小中山児童公園のあたりにあったということであり、福江漁港近くの小中山町から伊良湖岬一帯にかけては、いわゆる「戦争遺跡」が現在でも各所に散在しているという。神島の監的哨もそうであり、伊良湖ビューホテル下の断崖にあった伊良湖防備衛所跡(海軍による伊良湖水道機雷封鎖監視所跡)もそう。このあたり一帯にそのような軍事的施設が多数あったことは今回初めて知ったことであり、伊良湖水道や伊良湖岬一帯が近代日本の軍事的要衝地であったことを確認できたのは、今回の取材旅行の収穫の一つでした。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その6

2015-04-06 05:57:57 | Weblog
『参海雑志』中の崋山のスケッチは、必ずしも時系列ではありません。訪問した場所に関する記述、日時の経過に従ってスケッチが描かれるというわけではないということです。これは多分、崋山があとで日記をまとめて書き、その時にスケッチを挿入したことと関係があるようです。スケッチはすでにそれぞれの場所で雁皮紙(がんぴし)か何かにメモのように描いておいて、あとでそれを参考に、和綴じ本に、文章とともに簡潔にあるいは精密に描いたものと思われます。時系列では必ずしもないという具体例は、「西山長池」「戸島池」の次に、「神島、船ヲアグル図」や「神島風俗」のスケッチがあることです。すでに触れたように、崋山一行は伊良湖の浜から帆船で神島に渡り、神島訪問の後、いったん伊良湖の浜に戻って、左手に西山長池や豊島池を眺めながら保美村を経由して畠村に至っているからです。必ずしも時系列にスケッチを挿入しているわけではないということは、『参海雑志』のスケッチの舞台(立ち位置や風景)を考証する際、留意しておくべきことです。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その5

2015-04-05 06:08:44 | Weblog
前に触れたように、崋山が「小山ノはな」として描いたスケッチは、伊良湖岬の西端、現在の「道の駅 伊良湖クリスタルポルト」の南側にその姿を見せる「古山」が海岸に落ち込むところと、その荒磯のやや沖合を、おそらく神島に向けて航行する小さな帆船を、鳥瞰図として描いたものであり、向こうに見える海はもう伊勢湾ではなく太平洋(遠州灘)になります。「古山」についての崋山の記述で注目されるのは、神島に渡る時は、この山の上で火を焚くということであり、山頂で火を焚けば船で迎えに来るのだということ。その山頂には火を焚くところが三ヶ所あって、一つは「公事」のためのもの、一つは「急ぐ事」のためのもの、一つは「私の事」のためのもの、と崋山は記しています。神島に渡る場合は、山頂で火を焚けば、神島から船を出して迎えに来るというのです。崋山の場合は伊良湖村の船を雇ったので、神島からの迎えの船を利用したのではなく、もちろん山頂で火を焚くということもありませんでした。これらの情報を崋山は誰から聞いたのだろう。明神下の彦次郎だろうか。それとも雇った船の船乗りからだろうか。いずれにしても、まわりに気軽に声を掛け、興味をもって貪欲に情報を集めている崋山の姿をうかがうことができます。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その4

2015-04-04 06:01:33 | Weblog
崋山は文章としては記していないが、宮山山頂の伊良湖明神に詣で、彦次郎家を出立して伊良湖の浜に向かう途中、芭蕉塚に立ち寄っています。それがわかるのが芭蕉塚と円通院を描いたスケッチ。画面右側の大石の上に芭蕉の句碑が立っています。画面左側の道(これが旧街道〔田原街道〕か)を隔てた向こうにあるのが円通院。円通院は現在は伊良湖小学校の近くにありますが、これは明治38年(1905年)の「伊良湖試砲場用地拡大に伴う集落移転」の際、伊良湖明神とともに移転されたものであるでしょう。円通院の奥に描かれるのが「古山ノハナ(鼻)」であるとすると、円通寺は伊良湖の浜辺の近くにあったものと思われる。大石の上に立つ芭蕉句碑のあたりからは、伊良湖岬の西端の「古山ノハナ」や、その先に浮かぶ神島、さらにその先の伊勢志摩の陸地、さらに三河湾の島々や知多半島、伊勢湾などが見えたはずです。この句碑が建てられたのは寛政5年(1793年)のこと。刻まれている芭蕉の句は、『笈の小文』中の、芭蕉が伊良湖岬で詠んだ「鷹ひとつ見つけてうれし伊良胡崎」。同行していたのは当時保美に隠棲していた芭蕉の愛弟子杜国(坪井庄兵衛)と越人(越智十蔵)。俳諧を嗜んでいた崋山は、もちろん芭蕉の『笈の小文』に目を通したことがあり、芭蕉が伊良湖岬に来たことも、また伊良湖岬で詠んだ俳句も知っていたものと思われる。また杜国が罪を得て保美に隠棲しており、芭蕉がその杜国を訪ねて渥美半島にやってきたことも知っていたはずです。崋山はここで芭蕉や杜国らが眺めたのと同じ風景を眺め、あらためて深い感慨にふけったものと思われる(崋山がこのあたりにやって来たのはこれが初めてではなく、三度目)。崋山は文政8年(1825年)、33歳の時に「四州真景」の旅に出掛けていますが、この時も崋山は芭蕉の『鹿島紀行』を意識して旅行しています。崋山は神島を訪ねた後、畠村から川を下って古田から船で佐久島へ渡っています。この畠村(現田原市福江町畠)の近くには潮音寺というお寺があり、そこには杜国のお墓があります。この畠村は罪を得た杜国が所払いとなってしばらく移り住んだことがある土地でもあり、崋山が潮音寺を訪ねた可能性は高いと思われますが確証はありません。ただし畠村にあった美濃大垣新田藩の陣屋の姿は、崋山はしっかりとスケッチに残しています。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その3

2015-04-03 06:09:38 | Weblog
崋山が伊良湖明神参詣と神島渡海のために、伊良湖村の彦次郎家に立ち寄ったのは天保4年(1833年)4月16日(陰暦)の午後のこと。崋山が次のように記しているのが注目される。「をとつひきのふハおうむぞうといふ御山のまつりなりとて奕徒あまたあつまりてところをもふけ、公をもはゞからぬ事とぞ。さるをもてこの彦二郎が家もかれがためにかりとられ、余がいたりし時猶衾(ふすま)ひきかつぎねぼれ顔にてにげさりつ。」 「をとつひきのふ」とは、旧暦の4月14日と15日。2日間にわたって行われた「おうむぞうといふ御山のまつり」とは、伊良湖明神で行われている「御衣祭(おんぞまつり)」のこと。宮山の麓へ至る参道沿いには多数の露店が並び、近在近郷の老若男女がお祭りや参詣などを楽しみにやってきて、大変な賑わいの2日間だったのですが、その祭りが終わった直後に崋山たちはやってきたのです。このお祭りに集まってきた男たちを相手に開かれたのが博奕場(賭場)であり、その賭場として博徒によって借りとられていた家の一つが彦次郎家であり、ここで夜を徹して博奕(ばくち)が行われていたのです。まだ片付けも終わっていないところに、いきなり侍姿の旅人がやってきたものだから、衾(ふすま)などを担いで男たちがあわてて逃げ去ったというのです。私は伊勢原市の大山について調べていた時、あの頂上へ至る参道(登山道)の各所では、近在近郷の男たちによって、敷かれた筵(むしろ)の上で博奕が行われている日があったことを知りました。博奕は村人の間にも相当に行われ、それが男たちの楽しみや娯楽であることを知ったのですが、この渥美半島やその周辺(島々を含む)においても、伊良湖明神の「御衣祭」という盛大な行事に合わせて開かれた賭場で、各地から集まってきた男たち(誰もがやったわけではないけれども)が博打を楽しんでいたことが、崋山の記述からわかるのです。もちろん田原藩をはじめとして各地の領主は賭博を禁じていたのですが、博奕に手を出すものは相当に多かったのでしょう。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その2

2015-04-02 06:25:44 | Weblog
『参海雑志』中の多数のスケッチの中でも私が興味関心を持つのは風景画と風俗画。特に風景画については、崋山はどこからこの絵を描いたのかに興味関心を持ちます。崋山の風景画は基本的に「真景図」(写真)であり、彼が見たそのままの風景を描いています。その風景は彼が興趣を感じたものであり、ぜひ描きとめておきたいと思ったもの。彼が興趣をもったかつてのある場所の風景が、彼のスケッチのおかげで蘇ってくるのです。実際に彼がたどったルートをじっくりと歩いてみることによって、そのスケッチを描いた時の彼の立ち位置(スケッチを描いたその場所)がわかってくる時ほど、ぞくぞくとすることはありません。そうか、この場所で彼はこの絵を描いたのか。その場所からの風景は180年余の間にこのように変化したのか(あるいは変化しなかったのか)。そしてその変化をもたらしたものは何だったのか。そういったことを探る恰好の材料となるのです。それはまるである風景を写した古写真と現在の風景とを対比するのに似ています。前回は、田原から伊良湖へ至るまでの間で、彼の風景画が描かれた場所を特定していきましたが、伊良湖・神島・佐久島においても同様のことを試みてみました。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その1

2015-04-01 05:35:24 | Weblog
『参海雑志』に描かれているスケッチ(素描画)は全部で60図。『四州真景』の場合は35図、『毛武游記』が21図(『渡辺崋山集 第2巻』の『毛武游記』中の「図」と記されたものを数えたもの)、『訪瓺録』は21図、『游相日記』が20図。ということを考えると、『参海雑志』のスケッチ数は他の日記に較べると圧倒的に多いと言うことができます。しかしその割には多数のスケッチを含む『参海雑志』についての検証も研究も、管見の限りでは、まだまだ不十分であるように思われます。現地調査を踏まえた『参海雑志』についてのまとまった考察がなされた本や論文を、私は今のところ一冊も目にしていません。『渡辺崋山 優しい旅びと』の著者である芳賀徹さんは、「これまで見てきた崋山のどの旅行記にも劣らずすばらしいのは『参海雑志』である。(中略)ここでも、こまやかな観察のなかに人間崋山が躍如としていて私たちを惹きこむ」と記されています。60図のスケッチは「近代デジタルライブラリー 参海雑志」で見ることができるようになりました。それに含まれる多数の風景画をもとに、『参海雑志』の世界とその魅力を解読していきたい。前回は田原から伊良湖まで。今回は伊良湖から神島。そして次回は神島から佐久島までの取材旅行をまとめてみようと思います。 . . . 本文を読む