鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.6月取材旅行「下谷龍泉寺町」 その7

2009-06-30 06:20:30 | Weblog
星野天知(1862~1950)は、もっとも早く一葉の才能を見抜いた人物の一人。本名は慎之輔。日本橋本町四丁目の砂糖問屋「伊勢源」の経営者である星野清左衛門の次男坊。日本橋伊勢町の絵具染料問屋平田喜十郎の長男平田喜一(禿木〔とくぼく〕・1873~1943)とは、家が近いということもあって早くから知り合い、明治20年(1887年)には、二人一緒に日本橋教会の北原牧師に洗礼を受けています。すなわち天知も禿木もクリスチャンということになる。明治22年(1889年)から、巌本善治(よしはる)の「明治女学校」で武道・心理学・東洋哲学・漢文などを教えていたようだ。明治23年(1890年)には『女学生』という雑誌を創刊。かたわら白表紙『女学雑誌』の編集に当たっていました。この『女学生』の明治25年(1892年)12月23日発行の第30号に、無署名の「明治廿五年文界」が載っていて、その中で、「吾人はまた茲(ここ)に一新女流作家を紹介するの栄を得たるを喜ぶ、そは彼(か)の『都の花』九拾五号より『うもれ木』の一篇を出せし一葉女史なりとす」として、「筆は着想の凡ならざると共に鋭く、人をして其婦人の作なるを疑はしむるものあり、尚此後も文学のために尽くさるヽ由なれば、吾人は其造詣する所愈々(いよいよ)深からんを望むものなり」とその将来を期待しています。この無署名文章の筆者を、勝本清一郎氏は星野天知と推定していたという(和田芳恵『一葉の日記』)。『うもれ木』は、明治25年の11月から12月にかけて『都の花』の第95号から第97号に掲載されましたが、それを天知が読み、その着想の非凡さと鋭さに注目したのです。一葉に着目した天知は、三宅(旧姓田邊)花圃(かほ・龍子)を介して、天知が創刊した『文学界』に寄稿を依頼。それによって生まれた作品が『雪の日』でした。明治25年の11月11日、番町の田邊花圃の家を出た一葉は、半井桃水に自分の作品(『うもれ木』)が『都の花』に載ったことを知らせるために、人力車に乗って三崎町の桃水宅へ急ぎました。桃水は一葉に、「明治女学校の教師の何某といふ人、我がむさし野へ君のこと頼みに来たり。女学雑誌に執筆あり度(た)し」ということであったが断った、という話をしましたが、和田芳恵さんは「明治女学校の教師」とは星野天知のことだろうとしています。その天知が、自ら一葉宅を訪れたのです。 . . . 本文を読む

2009.6月取材旅行「下谷龍泉寺町」 その6

2009-06-29 06:38:57 | Weblog
通り沿いにあった「下町まちしるべ旧竜泉寺町」には、龍泉寺町について次のように記されています。「本町名は、古刹『竜泉寺』にちなんで付けられた。『竜泉寺』の創建は大変古く、慶長から元和の頃(1596~1623)にさかのぼる。そのためこの付近一帯は早くから竜泉寺村と呼ばれていた。そして延宝七年(1679)の頃、吉原から金杉へ抜ける道筋に民家が建ち始め、町並ができた。そこは竜泉寺村の内であったが、いつしか竜泉寺町と呼ぶようになった。明治二年(1869)竜泉寺町は下谷竜泉町と改称した。その後、同二十四年には竜泉寺村、千束村および三ノ輪村の一部を合わせ町域を広げるとともに下谷竜泉寺町となった。そして明治四十四年に下谷を略し再び竜泉寺町となった。明治文壇の女流作家樋口一葉は、明治二十六年七月からこの地に住んだ。わずか十箇月だったが、ここでの生活があってこそ一葉文学が生まれたといえる一葉ゆかりの地である。」では「竜泉寺」はどこかというと、今回確認してはいないけれども千束稲荷神社付近にあって、吉原から金杉通りへと抜ける通り沿いにあった町並み=「龍泉寺町」は、けして竜泉寺の門前町ではないということになる。これはやはり吉原遊郭との関係で生まれた町並みと考えていい。大音寺通り(現・茶屋町通り)は、江戸時代の全盛期には多くの「網笠茶屋」と呼ばれる茶屋があって、吉原への遊客が「網笠」など身の回りの品を預けていくことが多かったという。「網笠=編笠」は、もちろん日除けのためだけではなく、遊郭へ赴く男たちが道行く人々に顔を見られないようにするためのもの。その編笠や身の回りの不要なものを茶屋に預け、それから「お歯ぐろどぶ」を右手に見て、土手通りに出て大きく右へ回り、見返り柳のところでまたまた大きく右折して「五十間町」を抜け、「大門(おおもん)」より吉原遊郭の引手茶屋へと入っていったのでしょう。明治になってからはもっぱら人力車が利用されたと思われますが、江戸時代においてはこの金杉通り経由のルートの場合、徒歩か駕籠の利用であったと思われる。吉原遊郭が目の前になったところで、茶屋が建ち並ぶこの通りで編み笠や手荷物を預け、それから「大門」を潜ったのです。明治になると、人力車が利用されるようになり、客は車に乗ったままこの通りを素通りするようになり、それによりかつてあった茶屋は姿を消していったと考えられます。 . . . 本文を読む

2009.6月取材旅行「下谷龍泉寺町」 その5

2009-06-28 06:13:51 | Weblog
前回、馬場孤蝶が、吉原通いの人力車の特徴として、客に後ろへ反り返させるように腰掛けさせるようにしていた(高台が後ろへ向けて斜めに低くなっている)ことを挙げ、それは車夫が人力車を輓いて疾走するのに非常に都合が好かったからではないか、と解釈していたことを紹介しましたが、よく考えてみると、ただたんに疾走するのに都合がよかったからだけではないのではないか、と思い始めました。というのは、吉原に向かう男たちの多くは、不夜城に入る姿を見られたくはなく、屋形船には障子を立て、歩いていく者は編笠を被っていたという、ある本の記述を目にしたから。つまりそっくり返るようになっていたのは、道行く人にまともに顔を見られないようにという乗り手の都合にあったのではないか。さて孤蝶によると、上野の山下、浅草公園、吉原遊郭の内外の吉原へ行く客をあてにする車夫たちは、一般に悪性の者であって、その中でも一層質(たち)の悪い者を「もうろう組」と言ったという。その質の悪さの具体例として、孤蝶は以下のような話を紹介しています。「明治二十六、七年頃であったと思うのであるが、僕の知人の或る紳士が、夕方浅草を歩いていて、車夫がしきりに勧めるので、吉原まで乗ることになったが、するとその車夫は綱輓きにしてくれといって、仲間を四、五人連れて来た。…断れば、喧嘩になって面倒だと思って、結局は皆の頭(かしら)へ二円もやればそれで済むだろうという気で、乗っておるというと、その五人輓きの車は少しも駈けないで、唯歩くように緩々(ゆるゆる)と進んで行くのであるが、その代り、後から来る車を皆止めてしまって、その車の後へ附かせてしまう。多分花川戸の方から行ったのであろうと思われるのであるが、吉原通いの車が何町も続いて、その先頭には、山高帽を冠(かぶ)った紳士を乗せた五人輓の車が立ち、その全体が練り物ででもあるかのように、悠々緩々(かんかん)と進んで行くのであるから、これは如何にも奇観であったろうと思われると共に、先頭の車上の紳士の面はゆさは又、察するに余りがあるのであった。」吉原に着いてからは他の車夫たちと喧嘩を始めたりして、その手打ち金も含めて十円ものお金をいたぶり取ってしまったのだという。これはもうゆすりたかりの世界で、こういう「もうろう組」と呼ばれるようなよほど質の悪い車夫が、吉原通いの人力車の車夫の中にいたということです。 . . . 本文を読む

2009.6月取材旅行「下谷龍泉寺町」 その4

2009-06-27 06:33:28 | Weblog
一葉の店(荒物屋・駄菓子屋)の前をひっきりなしに音をたてて往来した人力車については、馬場孤蝶の『明治の東京』の興味深い記述があります。それは「時代に取り残された乗物」のうち「人力車のことども」という文章。「明治になってからの乗物としては、人力車ほど長い間、交通機関としての任務を果たしたものはないのだ」と、まず馬場は言う。「始めのうち、雨除けにだけ幌を使って、日除けには使ってくれなかったと思う。吾々は蝙蝠傘(こうもりがさ)をさして乗っていたことを記憶する。だから冬の寒風のなかでも、雨か雪でない限りは、吹き晒(さら)しで乗っておる訳であったので、年始廻りの時など、一時間近くも、車上におると全くふるえ上ってしまう程寒かった。冬の寒風を防ぐために、一般に車体を全部包むようになったのは、恐らく大正になってからではなかったかと思う。車輪を護謨輪(ごむわ)にするとか、梶棒の横木のとこへ呼鈴を附けるようになったのは明治四十年頃であったといってよろしかろう。」これだけの記述からもいろんなことがわかってきます。一葉在世当時、人力車の車輪にはゴムの輪がついておらず、もちろん当時の道は舗装されてはいないから、道を走る時にはガタガタと大きな音がしたということ。呼び鈴(警告用)が付いていないから、人力車の車夫たちは自ら声を出して道を往来したということ。冬の寒風時でも、当時は車体を包むような幌はなく、ガタガタと音がして乗り心地が決してよいとはいえない席に、吹きっさらしの状態で乗っていたということ。「吉原通いの車夫が『アラヨ』というような懸け声をしながら、前記の円筒形の堤燈を振り廻して、行人(こうじん)を警(いまし)めながら疾走するのは、当時での見物(みもの)であった。」そして吉原通いの車について、その特徴を次のように記しています。「吉原通いの車の特徴は、高台と称して客の腰をかけるところが、後の方へ向けて斜(ななめ)に低くなっているので、客は殆ど膝頭が胸近くとたいたいになるくらいに、後へ反って乗っておるという風であった。つまり、客にそういう風に後へ反り返るように腰かけさせるというと、車夫が輓いて疾走するのに、非常に都合が好かったからであったのであろうと思う。」まだまだ面白い記述はあるのですが、それはまた次回ということで。 . . . 本文を読む

2009.6月取材旅行「下谷龍泉寺町」 その3

2009-06-26 06:06:56 | Weblog
当時の大音寺通り(現・茶屋町通り)界隈のようすは、『たけくらべ』の有名な冒頭部分で的確に、そして簡潔にまとめられています。「廻れば大門(おおもん)の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火(ともしび)うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来(いきき)にはかり知られぬ全盛をうらないて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申(もうし)き、三嶋神社(みしまさま)の角をまがりてよりこれぞと見ゆる大廈(いえ)もなく、かたぶく軒端(のきば)の十軒長屋、二十軒長や、商いはかつふつ(まったく─鮎川)利(き)かぬ処(ところ)とて…」と以下続いていくのですが、「廻れば」とは、大音寺通りを土手通りへと向かい、お歯ぐろ溝(どぶ・横堀)を右に見て土手通りに出て右折すればやがて吉原遊郭の入口である大門近くの「見返り柳」が見えてくるということ。「三階」とは遊郭の高楼で三階建ての立派なものが多かったことを示し、その高楼での嬌声や三味線の音がつねに大音寺通り界隈に聞こえてきました。「明けくれなしの車の行来」の車とは、もちろん自動車ではなく人力車のこと。人力車は大音寺通りをひっきりなしに行き交い、その車輪や車夫の声は、一日中あたりに響いたということ。「三嶋神社の角を曲がりて」とは、神田や上野方面から吉原遊郭に赴く場合、人力車は金杉通りを通って「三嶋神社」(右手)を越えたところで右折し、大音寺通りに入ったということ。右折してすぐに左斜め方向に、まっすぐに吉原遊郭へと通りが延びていますが、これが大音寺通りで、その界隈にはこれぞという大きな屋敷や商店はなく、軒端が傾いているような十間長屋や二十間長屋が集まっていました。このような大音寺通りの、右手(金杉通りからやってきた場合)に入れば「飛不動(とびふどう)」(龍光山正寶院)に至る路地があり、その反対側(左手)の一画に一葉一家が出した荒物屋(後に駄菓子屋)がありました。当時の大音寺通りの街並みについては、『資料目録 樋口一葉』のP51~52に詳しい考証図が掲載されています。店先を左方向(金杉通り方向)へ行き、途中万金そば屋や中川造酒屋のある四辻を左折すれば、大音寺前や鷲(おおとり)神社の門前に至りました。『たけくらべ』の冒頭部分に、「南無や大鳥大明神」と出てきますが、これが「酉の市」で有名な鷲(おおとり)神社のこと。 . . . 本文を読む

2009.6月取材旅行「下谷龍泉寺町」 その2

2009-06-25 06:17:31 | Weblog
一葉の住居遍歴を調べるには、『資料目録樋口一葉』(台東区立一葉記念館)のP97の表が便利です。ちなみにこの本のP90には、中段右側に「一葉女史碑」建碑(中萩原の慈雲寺)の日に、一葉とごく親しかった関係者が碑をバックに集まって写したあの記念写真が納められています。半井桃水は黒(?)の帽子を被り、その右隣りの馬場孤蝶は羽織袴姿。樋口くにの左隣りには丸坊主の長男悦。そして悦の前には、やや笑みを浮かべたやはり帽子を被る阪本三郎(渋谷三郎・眞下専之丞の孫で元山梨県知事)がいる。戸川秋骨は、帽子をとって左手に持っていますが、髪は白いものが目立つ。他の写っているメンバーについても知りたいけれども、今のところ詳細は分からない。その写真の下にはカラーで慈雲寺の満開のイトザクラが写っています。空の青に、ねじまがった幹や枝の黒と咲き誇る花の桜色が鮮やかに映えています。さて「一葉の住居遍歴」の表に戻りますが、これを見ると、一葉はそのわずか24年の短い生涯に15も住居を遍歴しています。引っ越しは14回。物心がついてから(3歳頃)としても12回。平均すれば2年に1回は引っ越しをしていることになります。引っ越し先は、当時の区で言えば、「第四大区七小区」(後の本郷区)・下谷区・芝区・神田区にまたがっています。この中で本郷区と下谷区には比較的長く居住しており、一葉にとってこの両区の地域はとりわけよく見知っているところであったと思われます。一葉の住居遍歴(15回)の場所については、『樋口一葉と歩く明治・東京』監修野口碩(小学館)のP6~8の「明治・一葉マップ」が便利。これは明治25年(1892年)刊の「新撰東京全図」を利用したもの。このマップを見ても、一葉の行動半径が本郷区・下谷区の両区におもにまたがっていることがわかります。P6の地図で、新吉原は北に位置していますが、その西に鷲(おおとり)神社や大音寺があり、その上に⑭とあるのが下谷龍泉寺町の一葉のお店兼住居があったところ。ここから上野や神田に仕入れに出る場合のルートは、店の前の大音寺通りを右手へ進み、金杉通りに出て左折。それを進んで行けば上野の停車場や上野広小路、さらには湯島や神田界隈に至りました。その方面から陸路吉原遊郭に向かう客は、この道筋を人力車に乗って進み、金杉通りを右折して大音寺通りに入り、一葉の店の前を通って吉原遊郭へ入ったのです。 . . . 本文を読む

2009.6月取材旅行「下谷龍泉寺町」 その1

2009-06-24 06:33:05 | Weblog
下谷龍泉寺町(したやりゅうせんじちょう)は、一葉(奈津・夏・なつ)が、母たき(多喜・滝)、妹くに(邦子)と相談して、荒物と駄菓子を売る店を開いたところ。明治26年(1893年)の6月、ついに金策が尽き、その月29日に家族会議を開いて実業に就くことを決めました。「是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商ひといふ事はじめばや」(「につ記」7月1日)。その後店探しに奔走してついに見つけた家が、下谷区下谷龍泉寺町368番地の2軒長屋の一軒でした。店は幅二間(約3,6m)の大音寺通り(現・茶屋町通り)に面していました。7月20日、一葉たちは、今まで3年近く住んでいた本郷区本郷菊坂町から、下谷龍泉寺町へと引っ越しを行い、落ち着くとすぐに開店資金の調達と売り物の買い出しに走り回ります。開店は8月6日。店の飾り箱(ショーケース)には、布海苔、元結紐、各種箒(ほうき)、はたき、みがき粉、わらじ、箸、楊枝(ようじ)、歯磨き粉、石鹸(せっけん)、たわし、マッチなどが並べられました。店番は主として妹のくにが行い、一葉は仕入れに出ます。一葉が初めて仕入れに出たのは、開店当日の8月6日。本郷の紙店に出かけて、半紙や浅草紙を二円近くで仕入れています。店を出て、前の大音寺通りを右へと進めば本郷へと至ります。左へと進めば、突き当たりに横堀(おはぐろどぶ)に架かる石橋があり、その向こうに吉原の遊郭が広がっていました。この下谷龍泉寺町に住む人々は当時およそ2000人。吉原遊郭に仕事を持つ兼業者が多く住んでいましたが、彼らの多くは長屋住まいのごく貧しい生活を送る人たちでした。一葉の店の前の大音寺通りには、ひっきりなしに廓(くるわ)通いのお客を乗せた人力車が音を立てて駆け抜けました。この下谷龍泉寺町368番地は、現在は台東区竜泉3-15-2付近。一葉一家が住んだのは翌明治27年(1894年)5月1日まで、およそ10ヶ月近く。その次の引っ越し先が、本郷区丸山福山町。そこで2年半ばかりを過ごした一葉は、明治29年(1896年)11月23日に肺結核により永眠しました。しかしこの丸山福山町において名作『たけくらべ』『十三夜』『にごりえ』などを次々と発表。「奇跡の14ヶ月」といわれる所以ですが、それらが生まれる下地となった場所は、吉原遊郭に続く大音寺通りに面したこの下谷龍泉寺町でした。 . . . 本文を読む

中萩原・慈雲寺の「一葉女史碑」 その最終回

2009-06-23 06:19:34 | Weblog
藤助(後の眞下専之丞)が、兵馬新作として甲州石和代官所谷村出張所詰となって、江戸~谷村間を行き来したルートは、江戸~渋谷~登戸~原町田~道志~谷村というものであったようです(『樋口一葉と甲州』荻原留則)。その道筋の原町田に脇本陣武蔵屋というのがあって、そこが新作の定宿でしたが、その脇本陣の娘渋谷クニと新作はねんごろになり、二人の間に子どもが生まれました。それが渋谷徳治郎で、後にその徳治郎と妻とよとの間の次男として三郎が生まれました(慶応3年〔1867年〕)。渋谷三郎は、明治18年(1885年)、東京専門学校邦文法科(現・早稲田大学法学部)に入学しますが、上京して間もなくより、樋口家に頻繁に出入りするようになりました。一葉は明治5年(1872年)生まれであるから、当時は13歳。長男泉太郎は21歳でこの年明治法律学校に入学しています。泉太郎は三郎より3歳年上。次男虎之助は三郎より1歳年上ですが、この時は分籍して久保木家に預けられ、薩摩焼の錦襴様焼付絵師になるための修業をしています。妹くには11歳。姉ふじ(大吉とあやめが中萩原村を出奔した時、あやめのお腹にいた)は28歳で、久保木長十郎と再婚し、その間に生まれた長男秀太郎が当時4歳。明治18年当時、樋口家はどこにあったのかというと、東京府下谷区上野西黒門町20番地(現在の台東区上野1丁目付近)。三郎は明治21年(1888年)7月、東京専門学校を卒業しましたが、一葉の父則義はこの三郎を娘奈津の許婚(いいなづけ)として想定していました。三郎はその後、新潟三条区裁判所を振り出しに、検事・判事を歴任し、秋田県知事(大正3年、第2次大隈内閣の時に任命される)の後、大正5年(1916年)には山梨県知事に任命されて赴任することになりましたが、同年10月、大隈内閣が崩壊したことにより免官。正味5ヶ月の山梨県知事でした。中萩原の慈雲寺における「一葉女史碑」の除幕式は、大正11年(1922年)10月15日に午前11時から行われますが、恵林寺の棲悟宝岳師が大導師をつとめた後、元山梨県知事阪本三郎氏が遺族を代表して謝辞を述べていますが、この阪本三郎が実はあの渋谷三郎のこと。この序幕式には、阪本三郎のほか、一葉の次兄虎之助、半井桃水、馬場孤蝶、妹邦子、その子悦がそろっており、しかも一枚の記念写真にしっかりと納まっているのに私は感動を覚えました。 . . . 本文を読む

中萩原・慈雲寺の「一葉女史碑」 その6

2009-06-22 06:31:45 | Weblog
眞下専之丞(晩菘)の経歴を見て興味が惹かれるのは、彼が蕃書調所の調役であったこととと、まだ触れていませんが明治になって横浜(野毛)に居住し、「融貫塾」という私塾を開き、さらに原町田にもその「融貫塾」の支塾を開いて多くの門下生を育てたこと。その門下生の中には、三多摩の自由民権運動において著名な石坂昌孝や村野常右衛門などがいる。後者はさておき、前者の蕃書調所との関係が、一葉の父大吉のことも絡めて大変興味深いところです。専之丞が蕃書調所の調役を命ぜられたのは安政3年(1856年)2月10日。西之丸勤務中の上役であった留守居役古賀謹一郎に、その学識や力量を認められての抜擢であったという。この蕃書調所が九段下に完成し、開所したのは翌安政4年(1857年)の1月18日。この蕃所調所は、後に神田小川町に移転し、さらに一ツ橋門外に移って洋書調所と改称され(文久2年〔1862年〕)、さらに翌文久3年には開成所と改称されますが、専之丞は元治元年(1864年)6月に小十人組御番人を仰せ付けられるまで、この幕府の洋学教授機関に調役の重要な一員として勤務し続けました。足掛け9年間に渡ります。樋口大吉夫婦(一葉の両親)が二人一緒に中萩原村を出奔し、江戸に出てきたのは安政4年4月のこと。この時、蕃書調所は九段下に開所してわずか3ヶ月後。大吉は同郷の出身である専之丞を頼って江戸に出たのですが、当時、専之丞はその蕃所調所の調役をしており、九段下の役宅に住んでいました。江戸に出てきた大吉夫婦が身を落ち着けたところは、実はこの専之丞の住む九段下の役宅であったのです。同年7月17日、大吉は専之丞の世話でこの蕃書調所の小使いとなっています。さて、当時の蕃書調所の「御役人方」のメンバーにはどういう人たちがいたかというと、御頭は古賀謹一郎。御組頭が水野正之助・松野章二。勤番衆の一人として眞下専之丞。句読教授職に箕作阮甫(げんぽ)・杉田成卿。教授職手伝に川本幸民・手塚律蔵・高畠五郎・原田敬作・松木弘安・東條英庵・村田蔵六・市川斎宮(いつき)ら。そして手伝並には津田眞一郎・西周助・山内六三郎・赤松大三郎などがいました。教授にあたったのは、いずれも幕末の洋学者として著名な錚々たる面々です。専之丞も、また小使いであった大吉も、これらの学者たちと常に交わりつつ、幕末外交の難局を肌身に感じながら過ごしたことになるのです。 . . . 本文を読む

中萩原・慈雲寺の「一葉女史碑」 その5

2009-06-21 05:25:53 | Weblog
眞下(ましも)専之丞(晩菘〔ばんすう〕)について最も詳しいのは、管見の限りでは荻原留則さんの『評傳晩菘眞下専之丞』という本。これによれば、専之丞(藤助)が生まれたのは寛政11年(1799年)のこと。生地は樋口一葉の父母である大吉やあやめと同じ甲斐国山梨郡中萩原村。父は鶴田氏で通称仙右衛門。質店も営む村内屈指の資産家であったという。浄土真宗(西)法正寺(ほうしょうじ)の住職について学んだ時の「同学の友」に、3歳年下の樋口八左衛門という者がいましたが、これが一葉にとっては父方の祖父になる。藤助は文政4年(1821年)の時に「ふじ」という名前の妻を迎えていますが、結婚して4年後の文政8年(1825年)に妻を郷里に置いたまま江戸へ出ます。江戸へ出たのは実はこれが2度目で、結婚する前に一度江戸へ出ているようだ。なぜ藤助がそれほどに江戸へ出たかったのかはよくわからない。慈雲寺の「眞下晩菘先生之碑』には「十六歳のとき、幕吏の巡行にあい、その威光の盛なるをみて、大吏の不当さを、発奮して江戸に上る」とありますが、「大吏の不当さを、発奮して」というところがやや意味不明。幕府の役人がやってきて、その威光の盛んなことに驚くとともに、その幕府役人のやり口の不当さを不満として、発奮して江戸に上った、ということであるのでしょうが、ではなぜ自ら幕府役人になろうとしたのかがよくわからない。文政8年、江戸へ走った藤助は、旗本小原氏の下僕となり、文政11年(1814年)には小原家の用人となって小原家の庶務・会計一切を任せられ、名前も「兵馬新作」と名乗るようになっていました。翌文政12年、妻ふじが一子勝之丞を伴い江戸に出ます。甲州石和代官所谷村出張所詰代官手代となった新作は、天保元年(1830年)、妻ふじを伴って任地に出発します。天保6年(1835年)、代官柴田善之丞以下の者が在任を終えて甲府へ場所替えに。翌7年、新作は幕府の許可を得て、御家人眞下家の株を買うという形で眞下家の家督を相続、眞下専之丞となります。それからの経歴は次の通り。支配勘定出役→保金山(南巨摩郡早川村)金山奉行→御作事方書方出役→蕃書調所調役出役→蕃所調所勤番筆頭→洋書調所調役組頭→小十人組御番人→陸軍奉行支配→江戸城御留守居役支配。大政奉還の半月後に願い出て辞職。江戸城を去ったのは、慶応3年(1867年)の暮れ、69歳の時でした。 . . . 本文を読む

中萩原・慈雲寺の「一葉女史碑」 その4

2009-06-19 06:28:54 | Weblog
樋口一葉が生まれたのは明治5年(1872年)3月25日(旧暦)。新暦では5月2日ということになり、「立夏」よりも少しばかり前になる。父は樋口為之助(43歳)。母は多喜(39歳)。生地は東京府第二大区一小区幸橋御門内。当時為之助は東京府庁に勤める小役人でした。この年、為之助は新戸籍法の関係で則義(のりよし)と改名しています。「樋口為之助」は、一葉の父が江戸に出て旗本に仕えた時に名乗ったもので、もともとの名前は「大吉」。母の名前ももともとは「あやめ」でした。『日本文学全集3 幸田露伴 樋口一葉』(集英社)の塩田良平さんの解説を読んだ時、「大吉というのが一葉の父で、後江戸に出て、旗本に仕えて樋口為之助を名乗り、さらに八丁堀同心に出世した」とあり、また「母多喜は幼名あやめ、同じく農古屋氏の出であり、大吉と手をとり合って出奔したほどの恋仲であった」とあって、大吉とあやめが同じ村の出身で、幕末に一緒に村を出奔して江戸に出て、やがて八丁堀同心に出世し、明治になると東京府の小役人になったことを知りましたが、どういう事情があって二人が村を出奔し、誰を頼って江戸に出て、どういう才覚をもって立身出世したのか、細かい事情はわかりませんでした。いずれにしろ、もともとは農民の倅(せがれ)に過ぎなかった大吉が、れっきとした幕臣(武士)となり、さらに明治維新期においては士族になっていたのです。幕末において、農民出身の者がその才覚でもって(あるいはその才覚を認められて)幕臣となった例はしばしば見受けられますが、しかしそれほど簡単なことではありませんでした。あやめと手をとり合って出奔し江戸に出た大吉が、どういう経緯で幕臣になったのかはとても興味あることでしたが、調べていくうちに同じ中萩原村出身の眞下専之丞(ましもせんのじょう・晩菘)の存在が極めて大きかったことを知るに至りました。この眞下晩菘(専之丞)というものが何者かを調べていく際に、大きな参考になったのは荻原留則さんという方が書かれた『樋口一葉と甲州』(甲陽書房)という本でした。聞くところによると荻原さんは昨年ご高齢で亡くなられたということですが、地元山梨県において甲州側から樋口一葉およびその関係者を丹念に調べられて、それを数冊の著書としてまとめられた方でした。眞下晩菘についても、もっとも詳しく調べられたのはおそらくこの荻原さんであるでしょう。 . . . 本文を読む

中萩原・慈雲寺の「一葉女史碑」 その3

2009-06-18 06:11:37 | Weblog
上萩原村は後に神金村に属しますが、中萩原村は後に大藤村に属しました。今は両方とも甲州市となっています。一葉の『ゆく雲』には、「我が養家は大藤村の中萩原」と「大藤村」が出てきます。上萩原村が他村と併せて神金村になったのは明治8年(1875年)のこと。中萩原村が他と併せて大藤村になったのも、おそらく同年であるに違いない。村の名前は違っても、上萩原と中萩原は隣り合わせの集落で、歩いてもそんなに遠い距離ではありませんでした。眞下晩菘(ましもばんすう)が生まれたのは、この中萩原村。樋口一葉の父大吉が生まれたのもこの中萩原村。一葉の母あやめが生まれたのもやはりこの中萩原村でした。上萩原村の広瀬家(旧宅が日本民家園に移築)の檀那寺は中萩原村にある瀧見山法正寺(ほうしょうじ)でしたが、このお寺の宗派は浄土真宗西本願寺派。広瀬家が加入していた五人組は同じ寺の檀家、つまり法正寺の檀家でした。葬式や法事の際には法正寺の僧侶が読経にやってきたのでしょう。法正寺の檀家の中には広瀬姓の家が5,6軒あって、同族ではないか、とされています(『旧広瀬家住宅』〔川崎市立日本民家園〕)。さてこの法正寺ですが、このお寺は一葉の父が生まれた樋口家の菩提寺である等々力山万福寺(勝沼)の末寺であり、また一葉の母が生まれた古屋家の檀那寺でもありました。樋口一葉の祖父八左衛門はこの法正寺の僧侶について学んだことがありますが、その同学の友に藤助というものがおり、この藤助が後に江戸に出て眞下専之丞(ましもせんのじょう・晩菘)になるのです。上萩原村と中萩原村は隣り合わせの村とは言え、江戸時代においては支配が異なりました。上萩原村は石和の代官所の管轄下にあり、中萩原村や下萩原村は田安家の代官所の管轄下にありました。幕末、この中萩原村と上萩原村との間に、柏原堰という灌漑用水の引き水の配分をめぐって訴訟沙汰が起きるのですが、嘉永5年(1852年)9月には、田安家の代官所(田中陣屋)の対応を不服として、一葉の祖父(つまり大吉の父)である八左衛門が、中萩原村の小前百姓百二十人の総代として江戸表に出て、時の老中阿部伊勢守正弘に駕籠訴を決行します。その駕籠訴の時にいろいろと八左衛門らに便宜を図ったのが眞下専之丞であったのです。この訴訟事件は、一葉の父大吉(後の則義)が眞下専之丞を頼って江戸へ出ようと決意する契機となった出来事でした。 . . . 本文を読む

中萩原・慈雲寺の「一葉女史碑」 その2

2009-06-16 06:07:31 | Weblog
一葉の『ゆく雲』に、「冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ」と「中萩原」について記した箇所の「冬の雪おろし」とは、いわゆる「雪おろし」(屋根の雪おろし)ではなく「シバマクリ」のことである、というのは前に指摘したことがあります。この「シバマクリ」については、一葉は母や父から故郷の思い出話としてよく聞いたことではないか、そう私は思っています。上萩原の広瀬さんの聞き取りでは、「かつては『シバマクリ』という強い風が吹き、芝をまくった。これは冬場、南アルプスから吹く風で、いわゆる空っ風である。この風で軽い土が舞い、砂ぼこりが吹き上がり、ひどいときは風が黄色くなって向こうの山が見えないほどだった。…大きな家はギシギシ軋(きし)んで揺れた。剪定のため脚立に上っていると、葺き落とされるくらいの風だった。…風が強いため、軒は『高くなんかはできないんだよ』と言われていた。…3日大人しい日が続くとそのあと3,4日は風が強かった」とありますが、棟の「芝棟」の芝がめくれ上がってしまうほどの冬の冷たい、「身を切る」ような空っ風であったのです。「シバマクリ」と呼ばれる所以です。冬の南アルプスだから、全体は雪で白く覆われています。「雪おろし」とは、白く雪で覆われた西方の南アルプス(赤石山脈)から吹き下ろす身を切るような強い空っ風のことであり、冬になると、父や母の思い出話として一葉は、きっと聞いたことがあるのでしょう。「田舎の冬の空っ風は、こんなものではなかったよ。シバマクリと言ってね、家全体がギシギシと音を立てるほどの風が吹き続けるんだよ。土が舞い上がって、あたりの山が見えなくなる時もあったねえ」。そういった母たきの思い出話を、幼い一葉は記憶に留めていました。広瀬頼正さんの話においても、その「シバマクリ」のために家がギシギシと音を立てて揺れる中、真っ暗闇の中で寝ていた思い出は強烈なものであったように思われました。その「シバマクリ」は、地球温暖化か何かはよくわからないけれども、最近はほとんど吹かなくなったそうです。「近年、風が吹くのはひと冬に5日か7日ぐらいで、年によっては吹かないこともある」そうです。屋敷地の西側に防風林を設け、軒を低くせざるをえなかったほど「シバマクリ」はずっと昔から吹いていたのに、近年になってなぜかほとんど吹かなくなってしまったという頼正さんの話は、なぜか強く印象に残りました。 . . . 本文を読む

中萩原・慈雲寺の「一葉女史碑」 その1

2009-06-15 05:50:40 | Weblog
甲州市塩山上萩原へ行ってから一週間後、目を通せなかった樋口一葉関連本を読むために、甲州市塩山図書館へ行きました。開館時間は午前10時。早朝に家を出発すれば、開館時間まで付近を歩くことができます。実は、上萩原の旧広瀬家住宅があったところへ向かう道筋、大菩薩峠へとつながる旧青梅街道の左手に、「樋口一葉女史先祖旧邸跡並墓所」という「塩山市・一葉会」が建てた白い案内標示を目にしていました。「ああ、一葉の先祖が生まれた中萩原というところはここだったんだ」と思いながら、車から下りることはせずに、上萩原へと向かったのです。まずはあの場所へ行って、その周辺を歩いてから、時間になったら塩山図書館へ戻ろう、そう考えました。幸いに天気は良好です。 . . . 本文を読む

日本民家園「旧広瀬家住宅」について 最終回

2009-06-14 05:54:14 | Weblog
現在の中央線の、八王子~甲府間が開通したのは、明治36年(1903年)の6月11日のこと。甲府から東京まて約7時間ほどで行くことが出来るようになりました。日帰りはなかなか厳しかったかも知れないが、東京で一泊して翌日には戻ってくることが出来たのです。この鉄道開通が甲州街道に及ぼした影響は著しいものがあったに違いない。樋口一葉の『ゆく雲』には、中萩原村のことがちらりと出てくる場面があります。「我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峯々垣(かき)をつくりて、西南にそびゆる白妙(しろたえ)の富士の嶺(ね)は、おしみて面かげを示めさねども冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といいては甲府まで五里の道を取りにやりて、ようよう鮪(原文は旧字─鮎川)の刺身が口に入る位」。この『ゆく雲』が雑誌『太陽』に発表されたのは明治28年(1895年)5月。ということはまだ八王子~甲府間に鉄道は開通していない。日本鉄道品川線(現山手線)の停車場として新宿駅の駅舎が建造されたのが明治18年(1885年)。甲武鉄道(現中央本線)の新宿~立川間の開通が明治22年(1889年)。同鉄道の立川~八王子間の開通も同年のことで、同時に八王子駅が開業しています。ということは、東京から勝沼や塩山、あるいは甲府方面に行く場合は、八王子まで鉄道(日本鉄道品川線と甲武鉄道)を利用し、八王子からは人力車や馬車、ところによっては徒歩で甲州街道を行くのが最も便利であったということになります。したがって『ゆく雲』の冒頭は、次のような文章で始まっています。「酒折の宮、山梨の丘、塩山、裂石、さし手の名も都人(ここびと)の耳に聞きなれぬは、小仏ささ子の難処を越して猿橋のながれに眩(めくる)めき、鶴瀬、駒飼見るほどの里もなきに、勝沼の町とても東京(ここ)にての場末ぞかし、甲府は流石(さすが)に大廈(たいか)高楼、躑躅(つつじ)が崎の城跡など見る処のありとは言えど、汽車の便りよき頃にならば知らず、こと更の馬車腕車(くるま・人力車のこと─鮎川)一昼夜をゆられて、いざ恵林寺の桜見にという人はあるまじ。」これらの情報は、一葉が、出入りする故郷の人々から耳情報として得たものであるかも知れないし、また、母のたきから聞いたことも含まれているのでしょう。「冬の雪おろし」とは、あの「シバマクリ」のことであるに違いない。 . . . 本文を読む