鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

清水清次の首

2008-07-31 05:10:25 | Weblog
「保土ヶ谷道」に沿った願成寺(がんじょうじ)という高野山真言宗のお寺で、「鎌倉事件」の犯人として戸部の刑場で処刑された清水清次と間宮一(はじめ)の墓があることを知った時、私の脳裡(のうり)には、その2人の顔が甦(よみがえ)りました。「この2人の顔を知っている」、そう思ったのです。しかしその後調べてみると、間宮一については私の記憶違いで、私が覚えていた写真はおそらく別人のもの。間宮の顔写真は残っていないと思われます。しかし、清水清次の顔写真(といっても晒し首の写真ですが)については、「それを見た」という確かな記憶がある。いったい何に載っていたかということが気になって、『F.ベアト幕末日本写真集』を開いてみたところ、「鎌倉事件の現場」の写真はありましたが、肝心の清水清次の写真はない。気になって、図書館で調べてみたところ、ついに載っている本が見つかりました。 . . . 本文を読む

元治元年(1864年)の横浜 その3

2008-07-28 06:18:21 | Weblog
『F.ベアト幕末日本写真集』のP13~14の横浜パノラマ写真の左側中央には、横浜天主堂の三角形の尖塔が見えます。その尖塔の右側に、建築中の大きな2階建ての建物がある。この建物はどういう建物か。参考になるのは、二代広重の「武陽横浜一覧」(『横浜浮世絵と近代日本』〔神奈川県立歴史博物館〕P138掲載)。この絵の中央右下に「テラ」とあり「鐘楼」とある。たしかに三角形の尖塔が聳えていますが、これが横浜天主堂。その左に「両替店」とある。この絵の視点は、ベアトのそれよりもずっと西に寄っていますから、この「両替商」が、ベアトの写真に写っている建築中の建物である可能性がある。おそらく二代広重が描いた当時、有名な両替店であったのでしょう。ではこの両替店とは、どこだったのか。一つ可能性があると思われるのは、居留地78番に開業していたイギリス系の植民地銀行「チャータード・マーカンタイル銀行」ではないか。そう思ったのは、『絵とき横浜ものがたり』のP126~127の「横浜繁栄之図」。描いたのは同じ二代広重!この絵の中央に大きくこの銀行の「ベランダ・コロニアル」様式の建物が描かれ、真ん中の門柱の左横には「両替」という文字が書き込まれています。その銀行の左手には海鼠(ナマコ)壁の蔵のようなものがあり、その屋根の向こうに三角形の尖塔がのぞいています。「時鐘」とありますが、これが横浜天主堂の鐘楼塔です。説明によると、この銀行は文久3年(1863年)に開業しているという。もし建築中の建物が「チャータード・マーカンタイル銀行」であったとすると、元治元年(1864年)の夏、それは二代広重の絵に見るような建物として、新築中だったのでしょうか。二代広重には、この「両替店」は、「横浜之繁栄」を示すものとして興味深いものであったようだ。2階のベランダの鉄製の手すり。1階ベランダの唐草模様の鉄製の飾り。鉄製の門扉と塀。窓はベランダの床面まである大きな「フランス窓」。それが正面に、1階・2階合わせて六つも開いている。そしてベアトのパノラマ写真を見てみると、寺院のような建物に交じって、こういった「ベランダ・コロニアル様式」の建物がところどころに散見されるのです。居留地20番のイギリス領事館の、海に面した建物もそういう建物の一つでした。 . . . 本文を読む

元治元年(1864年)の横浜 その2

2008-07-27 06:06:43 | Weblog
『絵とき 横浜ものがたり』の絵の中で、元治元年(1864年)のものを探してみると、一枚だけ見つかります。それはP122~123の、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の「イギリス海兵隊の上陸」という絵。描いたのは、おそらく、同誌の通信員で画家でもあるチャールズ・ワーグマンと思われますが、なぜかここには作者名は書かれていません。このワーグマンの絵は、P128~129(「大火事の横浜の本町通り」)にも載っています。『図説アーネスト・サトウ』を見てみると、ワーグマンは、生麦事件の現場推測絵(P24)、別の横浜大火の絵(P48)、明治10年(1877年の横浜の街頭を描いた絵(西南戦争に向かう兵隊が描かれる)(P79)が掲載されています。あのフェリーチェ・ベアトともとても親しい間柄であったようです。「イギリス海兵隊の上陸」の絵は、1864年8月発行の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載された、とありますから、西暦では6月頃、和暦では5月頃に描かれたものと思われます。この絵については、前に触れたことがありますが、最初、私はこの手前のボートが接岸しているところは、堀川の河口部だと思っていましたが、子細に点検してみるとそれは誤りでした。上陸場所はおそらくフランス波止場。この波止場は、『F.ベアト幕末日本写真集』の例の横浜パノラマ写真(P13~14)にちゃんと写っています。写真の中央やや右側に、海に向かって飛び出ている埠頭がそれ。その北側の埠頭に立ったワーグマンが、そこからイギリス海兵隊の上陸を描いたものということになります。したがって、この絵の中央右側に描かれた建物群はイギリス領事館、その向こうの丘は「山手」であり、その山手とイギリス領事館との間には堀川が流れていることになる。山手の丘の上には、すでに洋風の建物が建っているのが見え、また上から階段が下に少しばかり延びていて、その崖の際に兵隊が一人立っているのが見えます。彼らイギリス人上陸兵は、これから整列して居留地内の通りに出て、そこから行進して山手に向かい、堀川に架かる谷戸橋を渡って、それから谷戸坂を登り、山手のイギリス軍キャンプ野営地に向かうのです。 . . . 本文を読む

元治元年(1864年)の横浜 その1

2008-07-26 05:23:58 | Weblog
アーネスト・サトウが横浜に上陸してから2年後の横浜を写したパノラマ写真は、あの有名なフェリーチェ・ベアトが山手から写したもの。『F.ベアト幕末日本写真集』のP13~15に掲載されている2枚の写真の下の写真になります。というよりも、この本の表紙と裏表紙を飾っている写真が、それです。ソンダースが写したものと思われる前年(文久3年夏)のパノラマ写真がそうであったように、この写真においても、この町に住んでいるはずの人物はほとんど、見事なまでに写っていません。わずかに谷戸橋の居留地側のたもとに、大きな荷物を積んだ荷車の傍らにいる4、5人の男たち(おそらく外国人)が見えるに過ぎない。この谷戸橋は、現在の谷戸橋よりも堀川の河口に寄った地点にありました。谷戸橋から居留地を貫く通りにも、堀川沿いの居留地側の通りにも人影はまったく見られない。それに対して港の沖合いにはおびただしい数の船が浮かんでいます。「港内に停泊しているのは、下関遠征前の4国連合艦隊であろう」と説明文にありますが、私もこれは、下関に向けて出港する前の四ヶ国連合艦隊を写したものだと思います。実は、ベアトはこの四ヶ国連合艦隊の1隻に乗船し、いわゆる従軍カメラマンとして下関に赴き、四ヶ国連合艦隊による下関砲撃事件を実見し、またその場面をカメラにおさめているのです。ベアトは、彼が乗ることになる四ヶ国連合艦隊を、山手から、外国人居留地を含めて、パノラマ写真として写しだしたのです。写した地点は百段坂の上ではなく、谷戸坂の上よりやや東側(海側)に入った崖の上。写した時期は元治元年(1864年)の夏。おそらく6月の中旬頃(和暦)。時刻はわかりませんが、谷戸橋のたもとに立っている男たちの人影からおおよそを推定できます。太陽は西南西から差しています。ということは午後3時から4時前後。ソンダースが写したパノラマ写真と同じく、夏のうだるような暑さの昼下がりの写真ということになるでしょう。 . . . 本文を読む

文久3年(1863年)の横浜 その3

2008-07-24 05:43:27 | Weblog
この文久3年(1863年)の5月(和暦)には、下関沖合いにおいて長州藩が外国船を砲撃するという事件が発生しています。実は、幕府は、長州藩を中心とする尊王攘夷派の朝廷工作により、やむなく攘夷決行の開始日を、この年の5月10日(西暦では6月25日)に定め、それを全国諸藩に通告していました。この日を目指して着々と準備を整えていた長州藩は、この10日の夕刻、下関の沖合いに潮待ちのために停泊したアメリカの商船を標的に定め、11日の未明、軍艦2隻でもって砲撃を加えたのです。この砲撃により損傷を受けたアメリカ商船はほうほうの体(てい)でその場を立ち去りました。さらに意気盛んな長州藩は、同月23日にはフランスの軍艦を砲撃。26日にはオランダ軍艦を砲撃しました。しかし6月に入ると、長州藩は外国軍艦による報復攻撃を受けることになる。まず6月1日、下関の沖合いに、突如、アメリカ軍艦1隻が姿を現し、長州藩の砲台や軍艦を砲撃。長州藩は必死に応戦したものの、軍艦2隻が沈没し、もう1隻についても再起不能の損傷を受けました。さらに6月5日、今度は2隻のフランス軍艦が関門海峡に姿を現し、正午前から長州藩の各砲台を砲撃。やがて上陸したフランス兵は前田砲台を占領し、砲台の火薬庫から火薬や砲弾を取り出すと、それを海岸に運んで海中に投げ入れました。このアメリカ軍艦もフランス軍艦も、横浜からやってきた軍艦でした。下関で長州藩に対する報復措置がアメリカ軍艦やフランス軍艦によって行われてしばらく後に、私の推測ですが、ソンダースによって山手から写された写真が『図説アーネスト・サトウ』に掲載されている横浜のパノラマ写真なのです。報復措置として下関の砲台や軍艦を砲撃した軍艦は、なんという名であったかというと、アメリカ軍艦はワイオミング号、フランス軍艦はジョレス提督の乗るフランス東洋艦隊旗艦セミラミス号とタンクレード号でした。この3隻のうち、セミラミス号を除く2隻は、今まで触れていませんが、この2隻も横浜に戻って来ているとしたら、6月中旬の時点で、横浜沖に停泊している外国軍艦は16隻前後ということになる。この文久3年の6月8日、目を土佐藩の高知城下に転ずれば、この日の深夜、中江篤助(兆民)の住む山田町にあった牢獄(山田町の牢)では、土佐勤王党(土佐藩の尊王攘夷派)の中心的な活動家3名が処刑され、それを兆民は目撃します。 . . . 本文を読む

文久3年(1863年)の横浜 その2

2008-07-23 05:38:24 | Weblog
アーネスト・メーソン・サトウがラッセル・ロバートソンとともに、ランスフィールド号という船で横浜に到着したのは、1862年9月8日(文久2年8月15日)のこと。19歳の青年でした。彼は、兄エドワードが図書館から借りてきた、ローレンス・オリファントの本、『中国と日本へのエルギン伯使節団の物語』(1859年・ロンドン刊行)を読んで、日本への好奇心を駆り立てられました。横浜港の東波止場に上陸したサトウは、さっそく居留地20番のイギリス公使館を訪れ、ニール代理公使に無事到着の報告をした後、居留地70番の「横浜ホテル」に赴き、そこで来日初日の夜を過ごします。そしてそのまま約2ヶ月ほど、そこに仮住まいをすることになります。サトウにとって、横浜の風景は、「これにまさる風景は世界のどこにもあるまい」と思われるほどのものでした。外国人居留地には、入母屋(いりもや)の屋根を持つ2階建ての家が5、6軒建っていて、そこには小使や別当、そして娘(ラシャメン)が住んでいました。居留地の通りには2人乗りの馬車が雷のような音を立てて走っていました。9月19日(旧暦8月26日)の夕方、ホテルから散歩に出たサトウは、居留地や居留地を見下ろす丘の上などを歩きますが、この「居留地を見下ろす丘の上」とは、百段坂の上の浅間神社境内に違いない。この日、サトウは初めて百段坂の上から、日が落ちてきた横浜の全景を見下ろしたのです。ソンダースが写したものと思われる横浜全景よりも、9ヶ月前の横浜を、彼は見下ろしました。居留地の向こうに見える横浜港には、イギリス・フランス・オランダの計5隻の軍艦が停泊していました。その2日後の日曜日の午後、横浜居留地は騒然とします。イギリス人商人ら4名が、生麦村の東海道の路上で襲撃されるという事件(「生麦事件」)が発生したからでした。サトウは、横浜ホテルの前で、馬に乗って慌しく通りを走っていく外国人の群れを見送っています。10月11日(閏8月18日)、サトウは同じ通訳生のロバートソンとともに最初の遠出に出掛けますが、その目的地はリチャードソン(生麦事件で殺害された商人)の殺害場所、すなわち生麦村でした。さらに12月2日(旧暦10月11日)、サトウはニール代理公使らとともに、初めて江戸に向け馬で横浜を出立していますが、これは「生麦事件」の賠償金を幕府に要求するのが、一つの大きな目的でした。 . . . 本文を読む

文久3年(1863年)の横浜 その1

2008-07-22 05:48:20 | Weblog
ベアトが写した横浜全景の写真は、元治元年(1864年)の6月頃のものと推定され、前に、この写真は横浜全景を写した最も古いものではないか、としましたが、実はそれよりも前に横浜全景を写したものが存在していました。今まで何度か取り上げている『図説アーネスト・サトウ』横浜開港資料館編(有隣堂)の表紙および裏表紙を飾っている写真が、なんとそれだったのです。この写真は、同書のP34~35にそのすべて(パノラマ写真)が掲載されています。これは、解説によれば、イギリス陸軍工兵大尉ブラインが、1864年6月29日付(和暦では元治元年5月26日)で陸軍省に送ったもの。撮影時期は、1863年10月18日(和暦では文久3年9月6日)に献堂式を行うブライン設計のクライスト・チャーチが建築中であることなどから、1863年後半と思われる、とありますから、文久3年の9月(和暦)以前に写されたものと考えられます。ベアトが山手より横浜全景を写したのは元治元年6月頃(和暦)。この写真は、その前年である文久3年の夏頃のもの。ベアトよりも1年近く前に、山手より横浜全景を写したものだということになるのです。 . . . 本文を読む

2008.7月「保土ヶ谷道~横浜山手」取材旅行 その最終回

2008-07-18 06:10:08 | Weblog
横浜居留地を防衛するために、イギリスとフランスの軍隊が山手に駐屯を開始したのは1863年(文久3年)6月下旬から7月にかけて(西暦)のこと。8月、イギリス海軍提督キューパーの率いる7隻のイギリス艦隊が鹿児島へ向けて横浜沖を出港。「薩英戦争」が勃発します。あの「生麦事件」により、事態はたいへんなことになったのです。1864年5月28日(元治元年4月23日)、サザー中佐率いるイギリス海兵隊軽装歩兵が、軍艦コンケラー号で香港から横浜に到着していますが、この上陸の光景は、『絵とき 横浜ものがたり』のP122~123、「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」の挿絵として掲載されています。右側上に描かれているのが山手。手前の、ボートで多数のイギリス海兵隊の軽装歩兵が上陸しているとこがフランス波止場。ここから歩いて、堀川に架かる谷戸橋を渡り山手(ブラフ)のイギリス軍キャンプ(野営地)に向かうのです。彼らは野営地に到着すると、ラッパの合図で一斉にテントを立ち上げ、各兵隊には防水シートと毛布が支給されました。野営地はもともとは畑が広がっていたところであったようです。この絵が掲載された頃、山手のイギリス軍キャンプには、砲兵隊や工兵隊、インド人の歩兵隊など陸軍部隊が約900名、海兵隊530名が駐屯していたという。隣接しているフランス軍キャンプには、約300名の兵士が駐屯していたという。合わせて1700名余が駐屯していたことになります。この歩兵たちがラッパの合図で立ち上げたテントや、キャンプ内の将校たちの兵舎がどういうものであったか、またイギリス軍のようすはどういうものであったかがわかるのは、『図説アーネスト・サトウ』のP38~P41の写真。もちろん白黒ですが、彼らイギリス兵は、緋羅紗の服を着ていて、一般に「赤隊」と呼ばれていたといいますから、カラーであれば、森の緑、テントの白、兵服の赤が目立ったはずです。『絵とき横浜ものがたり』のP182~183には、二代広重の「横浜高台英役館之全図」が掲載されていますが、これは明治2年(1869年)のもの。左の2階建ての建物が山手120番のイギリス公使館。右の2階建ての建物は書記官の住まい。この公使館の和風の広い庭の前の通りを、軍楽隊を先頭に、赤い上着、黒いズボンを履いた多数の歩兵が行進しています。後にこの跡地は分割されて外国人居住地になりました。 . . . 本文を読む

2008.7月「保土ヶ谷道~横浜山手」取材旅行 その9

2008-07-17 05:35:10 | Weblog
「百段坂」は、地図や絵に描かれているのだろうか。と思って、『絵とき 横浜ものがたり』と『横浜浮世絵と近代日本』を見ていくと、地図では、『絵とき…』のP148~149の、一川(歌川)芳員の「横濱明細全図」に出ています。P149の真ん中やや右上に、堀川に架かる前田橋が描かれ、そこからまっすぐ山手の方に進むと直線の階段が延びていますが、これが百段坂。階段を登りきったところには鳥居があり、神社らしきものがある。そしてそこには「浅間山」と書き込まれています。もう1枚は、『横浜浮世絵…』のP68の、五葉舎万寿老人による「官許改正新刻 横浜案内絵図」。これは明治3年(1870年)のものですが、中央やや左下、堀川に架かる前田橋を渡って直進すると、わずかにこの百段坂が描かれています。この頃には、浅間神社のほんの近くにも山手の外国人居住区が存在していることがわかります。山手の丘の上は、たいへんな変貌をとげているのです。絵はどうか、というと、写真と違ってなかなかない。『横浜浮世絵…』の中に、浅間山の浅間神社が描かれている1枚の浮世絵を見つけました。それはP138の「武陽横浜一覧」。作者は二代歌川広重。慶応2年(1866年)のもの。あの尖った三角形の横浜天主堂の塔が描かれていた横浜浮世絵です。この絵の下、左右に長く流れている川が堀川(人工的に掘削されたもの)。その中央に橋が架かっていますが、これが前田橋。ここからさらに手前の丘(山手)に向かって家並みがせ描かれていますが、これが百段坂へと向かう通り両側の家並み。百段坂は描かれていませんが(位置からして描きようがない)、登りきったところに石鳥居があり、登りきる手前に、弁髪を垂らした中国人の男と、さらにその少し下に日傘をさした人物が描かれています。石鳥居からは石畳の参道が延び、その先には浅間神社の社殿の屋根があります。石鳥居の右側には、着物姿の若い女性が立っています。これは、浅間山のやや西方の上空からの視点で描かれていますが、説明にもあるように、ここからは実際は、左手に描かれているところの富士山は見えるはずがない。港崎(みよざき)遊郭も描かれていますが、これはこの年の「豚屋火事」で焼失します。面白いのは、弁天の杜から戸部の間に長い木造の橋が架かっていること。かつては戸部方面から横浜に行く(陸路)には、吉田橋を通過するしかなかったはずです。 . . . 本文を読む

2008.7月「保土ヶ谷道~横浜山手」取材旅行 その8

2008-07-16 05:32:47 | Weblog
アーネスト・サトウが、上海・北京に滞在した後、横浜に到着したのは1862年9月8日(文久2年8月15日)のことでした。年齢は二十歳前の19歳。通算約25年におよぶ日本での勤務の始まりでした。19歳のサトウは、横浜ホテルでの仮住まいの後、年末には堀川に架かる谷戸橋際のイギリス公使館(外国人居留地20番)の東の角部屋に住むことになりました。来日直後にサトウが遭遇した事件は、9月14日(日曜日・旧暦8月21日)の「生麦事件」でした。サトウは、横浜ホテルの前で、神奈川方面に馬を走らせる人々の群れを見送っています。サトウが来日した当時の、江戸(高輪の東禅寺)と横浜のイギリス公使館および領事館のメンバーについては、『図説アーネスト・サトウ』のP27に表がある。オールコック大使一行8名が富士山登頂を行ったのは、1860年9月。それから2年が経っていますが、このメンバーの中に、オールコックとともに富士山に登った「公使館の常任館員」が何人か含まれていると思われます。サトウはイギリス公使館付通訳生として外交官生活を開始しますが、1863年8月2日(文久3年6月18日)、イギリス軍艦バロッサ号に通訳生として乗り組み、鹿児島に向かい「薩英戦争」に遭遇します。サトウは1864年7月下旬からの四ヶ国連合艦隊の下関遠征(下関戦争)にも、艦隊総司令官のクーパー提督付通訳として参加。戻って来てから起きた事件が「鎌倉事件」でした(同年11月21日・元治元年10月22日)。この日、横浜山手に駐屯していたイギリス軍の中でも主力部隊である第20連隊第2大隊のボールドウィン少佐とバード中尉が、江の島や鎌倉の大仏を見るために横浜を出発。鎌倉の鶴岡八幡宮の参道近くで襲撃され、殺害された事件でした。この事件後、この事件の目撃者が横浜の神奈川奉行所に呼び出され、一人一人取り調べを受けますが、その証言を翻訳(日本文から英文に)したのが実はこのサトウでした。また清水清次が戸部の刑場に到着した時、横浜イギリス領事代理フラワーズとともに清水と面会、通訳としてその訊問に立ち会ったのもサトウだったのです。サトウの通訳としての実力は、すでに高く評価されていました。サトウは、その関係からか、蒲池源八・稲葉丑次郎、そしてこの清水清次の処刑に、戸部刑場において立ち会っているのです。清水が処刑されたのは、訊問翌日の午前11時頃でした。 . . . 本文を読む

2008.7月「保土ヶ谷道~横浜山手」取材旅行 その7

2008-07-15 06:02:17 | Weblog
安政6年(1859年)11月から慶応2年(1866年)10月の「豚屋火事」で焼失するまで、今の横浜公園(横浜スタジアムを含む)の辺りにあった港崎(みよざき)遊郭は、写真に写されているのだろうかと、ベアト写真集を見てみると、実はちゃんと写真に撮られているのです。といっても遠景であり、その内部を撮ったものは残念ながらなさそうですが……。その遠景が撮られている写真とは、1枚は、前に掲げたP13~14の写真。写真中央やや右手に吉田橋がありますが、その吉田橋の向こう、右側に広がっているのが港崎遊郭です。おそらく焼失する2年前の夏の写真。もう1枚はP18の下の写真。山手を越える地蔵坂の上から写したもので、遠景中央が港崎遊郭で、その向こうに弁天社の杜が黒く見えています。これはいつ撮られたものかわからない。ここが今、横浜スタジアムや横浜公園のある地域の、かつての姿なのです。こうやってベアトの写真を子細に見ていくと、あらためて興趣に尽きないものであることを感じます。よくぞ、写真に残しておいてくれた、そういう思いを強烈に抱かせるのです。この写真が写された時、その写された場所では、多くの人々の営み(人生)が繰り広げられていたであろうことを思います。おそらく、「鳶の小亀」も、このP13~14の写真が写されたその瞬間に、この写された横浜のどこかに生きていたことでしょう。その2年余の後に、自分が港崎遊郭でフランス人水兵を殺し、そして市中引き回しの上、処刑されることになるとは思ってもいなかったはずです。 . . . 本文を読む

2008.7月「保土ヶ谷道~横浜山手」取材旅行 その6

2008-07-14 05:52:08 | Weblog
フェリーチェ・ベアトの『F・ベアト幕末日本写真集』のP13~14の上半分に、「野毛山から見た横浜」という写真があります。これはいったいどこから写したものだろう。前に「横浜道~海岸通り」その4で推測してみたことがありますが、ヒントとなるのは写真中央やや右下に光る川筋。舟が浮かんでいますが、これが大岡川。その河口付近には野毛橋(現都橋)が架かっているはずですが、この写真では木々と人家に隠れて見えない。その先の吉田橋はよく見える。中央に向けてややせりあがっている木造の橋がそれ。前景左手は野毛町。その手前の比較的大きな建物は神奈川奉行所の御役宅。ということは中央下部の森の下の方には太田村陣屋があるはずです。この太田村陣屋というのは、現在の場外馬券売り場(ウィンズ横浜)がある辺りにあったもの。その上(西側)となると、現在の中央図書館がある辺りの上の丘の突端付近ということになります。現在の野毛山公園に向かう野毛坂の途中から丘をよじのぼったのだろうか。それとも神社か何かがあって、その石段を上がり、その神社の境内から撮ったものだろうか。左手端っこの真ん中には弁天社の杜があり、また中央真ん中から右手に山手の森が続いています。よく見ると、港の沖合いには夥しい数の船が浮かんでいます。このページの下半分の写真を考え合わせて見ると、この写真は、おそらく下関遠征のために四ヶ国の連合艦隊が集結したさまを撮影したもの。ということは、この写真がベアトによって撮影されたのは、元治元年(1864年)の夏。さらに6月の中旬頃(旧暦)のある日と絞り込むるかも知れない。もしその推定が正しければ、この年の10月22日(旧暦)に「鎌倉事件」が発生し、その翌月の11月17日に江戸の千住で清水清次が逮捕され、江戸から唐丸駕籠で、11月29日に戸部の牢屋敷に運ばれてきた清水が、同日、荷馬に乗せられて横浜市中引き回しの上、夕刻に戸部の牢屋敷に戻った(処刑は翌日に延期)ことを考えてみると、市中引き回しの一行は、 ベアトが写した横浜のこの町中を(同じ風景の中を)、おそらく戸部の牢屋敷→野毛の切り通し→野毛橋→吉田町→吉田橋(ここに清水は、翌日、首を晒される)→現在の馬車道とほぼ重なる通り→弁天通り→居留地内→弁天通り→吉田橋→吉田町→野毛の切り通し→戸部の牢屋敷(くらやみ坂付近)というルートをたどったと思われます)。 . . . 本文を読む

2008.7月「保土ヶ谷道~横浜山手」取材旅行 その5

2008-07-13 06:05:16 | Weblog
歩いて取材旅行をしていると、思いがけなくも強い興味をそそられる出会いというものがあるものです。それは「人」であったり「もの」であったり、「風景」であったりするのですが……。今回の取材旅行でもそれを味わいました。願成寺(がんじょうじ)というお寺に、「鎌倉事件」の犯人のお墓があるとは、出掛ける直前まで知りませんでした。この「犯人」とされている清水清次の晒し首の写真をどこかで見たことがあるな、という記憶の甦りから、帰宅してから調べていくと、あの有名な幕末・維新期に活躍した写真家フェリックス・ベアトやイギリス公使館付通訳生アーネスト・サトウ、そしてイギリス公使オールコックなどが「鎌倉事件」と深く関わっていることがわかってきたのです。ベアトは、イギリス人士官2人が鎌倉で殺害される直前、その日の午前に江の島で2人と会っており、またサトウは、犯人と思われる人物たちの処刑に立ち会っているのです。調べていくと、サトウはこの事件の関係者や目撃者からの事情聴取に、通訳として立ち合ってもいるのです。帰国直前のオールコックは、最後の自分の仕事として、この事件の犯人の逮捕と処罰を幕府側に対して強硬な姿勢で迫りました。それによって、異例の速さで「犯人」が逮捕され、イギリス側の立会いのもとに「市中引き回しの上、獄門」という重い処罰がなされたのです。以後も外国人殺傷事件は発生しますが、犯人は、以前と違ってほとんどことごとくが逮捕され、厳しい処罰を受けることになったということを考えると、この「鎌倉事件」は画期的な事件であったということが言えるのです。この願成寺は、もともとは現在の地にあったのではなく、明治に入ってから現在地に移転してきたという。それ以前はどこにあったかといえば、「くらやみ坂」の近く。つまり戸部の刑場のほんの近くにあったのです。ということは、戸部の刑場で処刑された犯罪者たちは、この寺の墓地に埋葬された可能性が高い。現に清水清次がそうであり、間宮一(はじめ)がそうであり、「鳶の小亀」がそうでした。清水や間宮、「鳶の小亀」以外にも、戸部刑場で処刑された者のお墓が、この寺の墓地には多数あるのかも知れない。これらのお墓は、もとの「くらやみ坂」の近くから、明治時代に入って、現在地に移されたことになるのです。 . . . 本文を読む

2008.7月「保土ヶ谷道~横浜山手」取材旅行 その4

2008-07-12 05:50:29 | Weblog
幕末における外国人殺傷事件の主なものとしては、次の12の事件を挙げることができます。①安政6年(1859年)7月27日、横浜町3丁目でロシア士官と水夫、合わせて4名が襲われ、士官1名・水夫2名が死亡した事件。②安政6年10月11日、フランス領事代理ルーレイロの雇い人(洋装清国人)が、港崎(みよざき)町外で2名の武士に襲われ死亡した事件。③万延元年(1860年)1月7日、イギリス公使館付通訳の伝吉(日本人漂流民で外国籍)が殺害された事件。④万延元年2月5日、オランダ商船長ら2名が、横浜町4、5丁目の境で襲われ死亡した事件。⑤万延元年12月5日、アメリカ公使館通訳ヒュースケンが、江戸麻布中の橋付近で、薩摩藩士らにより斬殺された事件。⑥文久2年(1862年)8月21日、イギリス商人ら4名が生麦村で、島津久光の行列と遭遇し、1名が斬殺され2名が重傷を負った事件(生麦事件)。⑦文久3年(1863年)9月2日、武蔵国久良岐郡井戸ヶ谷で、フランス士官が殺害された事件(井戸ヶ谷事件)。⑧元治元年(1864年)10月22日、鎌倉でイギリス士官2名が殺害された事件(鎌倉事件)。⑨慶応3年(1867年)7月6日、長崎の丸山遊郭で、イギリス水兵2名が斬殺された事件(イカルス号事件)。⑩慶応4年(1868年)1月11日、備前藩兵が、神戸三宮で外国人3名を負傷させた事件(神戸事件)。⑪慶応4年2月15日、堺港でフランス人水兵15名が土佐藩兵に襲撃され死傷(9名が死亡)した事件(堺事件)。⑫慶応4年2月30日、京都縄手通りでイギリス公使パークス一行が襲撃され、イギリス兵10名が負傷した事件。襲撃(殺害)したのは、多くが尊王攘夷派の武士でした。ほかにも外国人殺害事件は起きています。たとえば、この願成寺(がんじょうじ)にお墓がある「鳶の小亀」による事件もそうです。細かく調べて行けば、もっと多数にのぼることでしょう。 . . . 本文を読む

2008.7月「保土ヶ谷道~横浜山手」取材旅行 その3

2008-07-11 05:44:46 | Weblog
私が記憶していた写真は、やはり「間宮一」のものではなかったようです。別人のものだった可能性が高い。清水清次の写真は、これは確かに存在します。首が斬られ晒し首にされた者の写真としては、あの江藤新平の写真とともに有名なもののようです。「鎌倉事件」とはどういうものであったか、調べていくと、ベアトやアーネスト・サトウ、さらにオールコックなど多彩な人物が関係していることを知り、驚きました。 . . . 本文を読む