『渡辺崋山 優しい旅びと』の著者である芳賀徹さんが、「これまで見てきた崋山のどの旅行記にも劣らずすばらしいのは『参海雑志』である」とし、「ここでも、こまやかな観察のなかに人間崋山が躍如としていて私たちを惹きこむ」と記した、崋山の日記『参海雑志』。これをインターネットで見ることができ、それに載っている挿絵をすべて見ることができることを知って、その挿絵の中の数々の風景スケッチが、いったいどこで描かれたものか、また日記に記載されている土地などが現在はどういう景観の中にあるのか、といったことを知りたくて、『参海雑志』における崋山が歩いたルートを歩いてみようと思ったのが、今年に入ってからのことでした。何回かに分けて歩いてみたわけですが、今回の取材旅行も、以前のそれと同様に、崋山が日記に記さなければ歩くことはまずなかったところを歩いたことになります。崋山の旅を歩くことによって、全く未知の土地を、わくわくしながら歩くことが出来たわけで、私は魅力的な崋山の日記に、そしてまた何よりも魅力的な人物であった渡辺崋山という人に感謝しなければなりません。「四州真景」の旅から始まった「崋山の旅」をたどる取材旅行も、この「『参海雑志』の旅でひとまず終えることになります。2010年から始まったので、およそ5年をかけたことになります。まだ崋山関係で歩きたいところは多々あるのですが、それについてはまた別の機会に、新たな取材旅行の報告をしたいと考えています。 . . . 本文を読む
私は西尾市の八ツ面山あたりから藤川宿を経て吉田船町まで、二日間をかけて歩いてみましたが、八ツ面山から藤川宿まで約5時間、藤川宿から吉田船町まで約8時間かかりました。途中、各所に立ち寄ったり休憩をしたりしているので、実際は12時間(半日)ほどの行程であったでしょう。崋山一行もおそらく、西尾城下から吉田船町(現豊橋市)まで、半日ほどかけて歩いているのではないか。とすると、崋山一行は、藤川宿・赤坂宿・御油宿を通過して、その日の夕刻頃には吉田船町に至ったことになります。その途中で崋山は、風景スケッチを5図描いたものと推測することができます。もし藤川宿に泊まっているならば、八ツ面山から藤川宿に至る途中の風景スケッチは、夕闇の中であるから描くことはできません。おそらく崋山一行は、豊川を渡った吉田城下のどこかの旅籠で宿泊し、翌朝、田原城下へと向かったものと考えられます。とすると、崋山一行が佐久島から吉良吉田に上陸して、西尾城下に泊まったのが天保4年(1833年)4月18日のことであるから、吉良道から東海道藤川宿に出て、赤坂宿・御油宿を通過して吉田城下に至ったのが4月19日。そして田原城下に戻ったのが4月20日である、との推測が成り立ってきます。これが確かであるかどうか断定はできませんが、崋山一行が歩いたであろう道筋を実際に歩いてみたことによって、無理のない推測であると私は考えています。 . . . 本文を読む