鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

太宰治の『津軽』と「津軽四浦」 その最終回

2016-03-17 05:30:03 | Weblog
太宰が、「津軽第一の海港にしようとして、外ケ浜奉行がその経営に着手したのは寛永元年である」とした、「寛永元年」とは西暦では1624年であり、二代藩主津軽信牧(のぶひら)の命を受けた開港奉行は森山弥七郎でした。この森山弥七郎は、越後、越前、近江まで移住民を募って新しい港町を建設したとのこと。森山弥七郎ら津軽藩士が、どのような伝手を利用して、移住民を、越後、越前、近江まで募ったのか興味あるところですが、その詳細はわかりません。当時の、日本海を利用した海上交通と深いつながりがあることは確かなことでしょう。開港以前の青森は、善知鳥(うとう)村という漁村であり、現在の善知鳥神社近辺が、青森市発祥の地であるらしい。青森湊は、北前船の寄港地として、また漁港として、開港以後栄えていきますが、明治になると、廃藩置県によって青森県が誕生するとその県庁所在地となり、また鉄道の開通によって首都東京と直結したため、城下町であった弘前とは異なる雰囲気を持ち、その両市で学生生活を送った太宰も、その雰囲気の違いを敏感に感じ取っていたようです。 . . . 本文を読む

太宰治の『津軽』と「津軽四浦」 その14

2016-03-15 07:03:44 | Weblog
太宰は、青森市について次のように記しています。「この海岸の小都会は、青森市である。津軽第一の海港にしようとして、外ヶ浜奉行がその経営に着手したのは寛永元年である。ざつと三百二十年ほど前である。当時、すでに人家が千軒くらゐあつたといふ。それから近江、越前、越後、加賀、能登、若狭などからさかんに船で交通をはじめて次第に栄え、外ヶ浜に於いて最も殷賑の要港となり(以下略)」。それ以前に外ヶ浜の中心港として栄えたのは油川でしたが、寛永2年(1625年)、青森開港によって港を閉ざされています。青森開港にあたっては、各地から集団的に人々が移住してきますが、特に越前・越後・近江の人たちが多く、中でも越前から移住して来た人たちが多く、「越前町」が生まれたほどであったという(『青森市の歴史』)。青森の町は、開港当初より、越前・越後・近江地方との結びつきが強く、それはやはり日本海を利用する海上交通の存在を抜きにしては考えられないものと思われます。 . . . 本文を読む

太宰治の『津軽』と、「津軽四浦」  その13

2016-03-13 08:05:48 | Weblog
津軽弘前藩を支えた「津軽四浦」とは、深浦・鰺ヶ沢・十三湊(とさみなと)・青森の四湊でしたが、太宰治が実際に足を運び(あるいはかつて住んでいたことがあって)『津軽』で詳しく言及したところは、そのうち深浦・鰺ヶ沢と青森でした。では、青森については、太宰はどのように記しているでしょうか。その記述には、近世後期から明治にかけて隆盛を極めたあの「北前船」が青森にもたらした影響の「余韻」のようなものがうかがえるでしょうか。 . . . 本文を読む