鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

「特別展 江戸時代かながわの旅─『道中記』の世界─」について その2

2013-06-27 04:41:30 | Weblog
手に入れたいと思っていた特別展のカタログ(図録)は、ミュージアムショップにありました。それは青表紙の糸綴じ本風の図録で、最初は古本を積み重ねてあるのかと思いました。この図録で「道中記について」というコラムを書かれているのは古宮雅明さん(企画普及課長)。それには「一生一度の大旅行となる伊勢参り、大山詣や鎌倉巡りなど数泊程度の手軽な小旅行、湯治の旅など、江戸時代の人々は想像する以上に旅に出たようです」とあります。これは私もいろいろな地域の文献資料に目を通してきて、同様なことを実感しています。「時代が下るにしたがって旅人はますます増加し、それに伴って案内書の需要も高まり」、「旅に関する諸情報を提供する出版物」、すなわち「道中書」が数えきれない程に出版されるようになりました。有名な『東海道中膝栗毛』もそのような定義のもとにおいては「道中書」の一つであったということになります。「道中記」は、「道筋・宿泊・交通・費用などの基本情報はもとより、名所旧跡景勝地等の見どころ・名産品・食べ物・土産品など、旅を楽しむために旅人が求める諸情報を提供」するものであり、「現代の私たちが利用する旅行ガイドブックの基本的要素は既に江戸時代に出そろっていた」と古宮さんは指摘しています。 . . . 本文を読む

「特別展 江戸時代かながわの旅─『道中記』の世界─」について その1

2013-06-24 05:00:17 | Weblog
神奈川県立歴史博物館で「特別展 江戸時代かながわの旅─『道中記』の世界─」が開かれていることを知り、ぜひ行きたいと思っていましたが、なかなか行く機会を持つことができず、そうこうしているうちに会期の終わりが近づいてきました。特にカタログを是非手に入れたいと思っていたので、日曜日の午前中に行って、すぐに戻ってくることにしました。ということで、久しぶりに横浜へ出て、馬車道沿いの神奈川県立歴史博物館へと行ってきました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その最終回 

2013-06-23 06:18:26 | Weblog
崋山が参加した前小屋天神社のかつての場所は、現在の群馬県太田市前小屋町の観音寺(これが天神社の別当寺でした)の近くであったらしい(同じ前小屋町の菅原神社の場所でもなく、また深谷市前小屋〔南前小屋〕の天神社の近くでもない)ことがわかりました。おそらく大正2年(1913年)の利根川大改修以前までは観音寺の近くに昔からあったものが、大改修により前小屋村が2つに分断された際、利根川の北岸に村社の「菅原神社」として新たに整備されるとともに、利根川の南側の南前小屋にも天神社が設けられたもの(しかし現在の小山川橋北詰にある天神社ではない)と考えることができます。前小屋村の村社としての「天神社」が、利根川大改修によって前小屋村が北と南に分断されたことによって、その「天神社」も北と南に2つに分かれたということでしょう。崋山は次のように記しています。「抑(そもそも)この処は前小屋天神とて、むかしハ川のあなたなる尾嶌にそひたる地なりしが、洪水の後川の瀬かはり、今は川の南になりていとわびしき処なりき」。土地の人に聞いた話だと思われますが、かつての前小屋村は利根川の北側に、尾島町に隣接してあった(つまり陸続き)ということであり、利根川の激しい「川瀬」の変化をこのことからも知ることができます。では天保2年(1831年)当時、利根川は前小屋村の北と南に分流していたのか。崋山は前小屋村の青木長次郎家から、金井烏洲(うじゅう)の案内で高島村の伊丹新左衛門家へと、夜中に西へ「十二三町」ほど移動しています。川越えをしたという記述はなく、当時においては利根川は分流してはいなかった(明治17年の「迅速図」では北と南に分流している)ものと推測することができるのですが、確かなところは分かりません。分流していなかったとすれば、崋山らは湾曲する利根川の南側に広がる田んぼの中の道を、高島村を目指して歩いて行ったものと思われます。とするなら、その道は現在は利根川の流れや河原によってそのほとんどが消滅していることになります。 . . . 本文を読む

2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その15 

2013-06-22 04:40:40 | Weblog
『尾島町誌 通史編上巻』(尾島町)には、「二ツ小屋村」と「前小屋村」は、「入会渡船をはじめ、馬渡船四足立二艘、三足立一艘、歩行(かち)渡三総の計六艘により営業」という記述がありました。「二ツ小屋の渡し」と「前小屋の渡し」について記されたものですが、崋山はこの二つの渡しを利用しています(前小屋村へ行く際には「前小屋の渡し」、高島村から桐生へと戻る時には「二ツ小屋の渡し」)。崋山によると、「前小屋の渡し」は尾島町から「わずか半里」ほどの距離にありました。その渡し場に至れば「木小屋」が「処所(ところどころ)に」並び建っていました。閑散とした川面に老齢の渡し守(船頭)がいて、崋山らは「あしの葉」のような粗末な渡し舟に乗って利根川の早瀬を渡り、対岸に到着。そこから洪水で荒れ果てた様相を見せる河原を横切って行くと、やがて田んぼの広がりのあるところへと出て、それから「会所道」と記された案内に従って田んぼ道を進んで、前小屋の集落へと至ったのです。尾島町から半里ほどで利根川の渡し場に至ったということは、大イチョウのあった浄蔵寺や賀茂神社の南側に利根川があったということを考えると、現在の早川に流れに沿うような形で(川幅はずっと広い)かつての(天保年間の)利根川が流れていたものと考えることができるのです。その利根川を「前小屋の渡し」で渡れば、そこには広い河原があって、その河原を越えれば前小屋村の田んぼや集落があり、また集落の外れに書画会の会場である「前小屋天神社」(村社)があったものと推察することができるのです。 . . . 本文を読む

2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その14 

2013-06-20 05:26:08 | Weblog
利根川は江戸時代から戦後にかけてもしばしば大きく「川瀬」を変えていることは、『尾島町誌』の記述からもうかがえることです。明治17年(1884年)の「迅速図」を見てみると、当時、利根川は前小屋付近で北と南に分流しており、前小屋村はその利根川の乱流部の洲島(中州)にありました。利根川乱流部の洲島にあったと言えば、あの金井烏洲(うじゅう)が生まれ育った島村も同様であり、島村の北と南には利根川が分流していて、その南側の利根川は「烏川」と呼ばれていました(「烏洲」の号はそれに由来する)。利根川の中洲にあったということは、絶えず洪水による災害に見舞われていたということであり、『尾島町誌』には前小屋において見られたその水害対策のいくつかについて記述が見られました。たとえば屋敷内に「ケヤキヤマ」と呼ばれた防水林を持つ家があったこと、母屋の西または北に風除けも兼ねた防水用の竹藪があったこと、物置の敷地を一段高くしている家があったこと、「クワゼンシバリ」と言って燃料である薪や桑の枝を洪水に流されないように保管しておいたこと、非常用として食糧や飲み水を保管しておいたこと、母屋は幾分高く土盛りがしてあったこと、半数以上の家が舟を持っていたこと(それらの舟は荷物運送用であり、あるいは川猟用であるとともに、また非常用のものでもあったでしょう)等々。屋敷地の西側と北側に屋敷林があり、それは西からの強風と利根川の水害に備えたもの(防水林)であって、敷地内の母屋や物置は一段と高く土盛りがしてあったことが、以上の記述からわかるわけですが、これが前小屋村や島村などのかつての景観を推測する際の一つの大きなポイントとなるところ。崋山は前小屋の集落に入って行く際に、「人家とおぼしくてくろふしげり合ふたる藪ある道に入る」と記しています。この「くろふしげり合ふたる藪ある道」とは、人家の敷地の西と北にあった防水林(エノキやケヤキが密生し、また竹藪がある屋敷林)に沿った小道のことではなかったか。 . . . 本文を読む

2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その13 

2013-06-19 05:26:35 | Weblog
『尾島町誌 通史編下巻』の扉写真は「大正初期の利根川改修工事」であり、その撮影場所はというと「尾島町二小屋地先」。現在の新上武大橋の北詰付近からの撮影ということになります。その写真を見てみると、中央やや右側に大型の帆掛け船が1艘浮かんでいるのですが、これは紛れもなく「利根川高瀬船」であるでしょう。同書によると明治初年頃、二ツ小屋や前小屋などには河岸(かし)があり、それぞれ小舟や漁舟、あるいは高瀬船などの持ち船を有していたという。小舟は近距離用の荷物輸送に使用するものであり、10~15艘くらい並んで漕いで行き、帰りは帆を立てて帆掛け舟として追風に送られて航行したという。また同書によれば、大正時代の半ば頃、南前小屋の保護者たちは交代で舟を漕ぎ、子供たちを対岸に渡していた(子どもたちは亀岡にある小学校へと通っていた)とのこと(対岸の船着場は「天神様」=現在の菅原神社の近くであったことはすでに触れた通り)。そして当時の南前小屋では、半数以上の家が自家用の舟を持っていたという、とも記されていました。その舟は普段は利根川に浮かべておいたらしい。これが近距離用の荷物輸送に使用した「小舟」か、あるいは利根川での川猟に使用した「漁舟」であったのかも知れない。 . . . 本文を読む

2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その12 

2013-06-17 05:46:17 | Weblog
『渡辺崋山』ドナルド・キーン/角地幸男訳(新潮社)によれば、崋山が小関三英という「新しい友人を得た」のは、天保2年(1831年)4月16日(旧暦)のこと。崋山が「游相日記」や「毛武游記」の旅に出掛けたのがその年の秋のことだったから、崋山が小関三英を知ったのはそれより前のことになる。三英は出羽庄内の人で、蘭方医ではあるがもっぱら洋書を読むことにより西洋世界のこと全般に通じていた。幕府奥医師である桂川家(当時は6代の甫賢〔1797~1845〕)がその学問好きなところを気に入り、その衣食住の面倒を見ていたようだ。順序としてはまず崋山は天保2年の春、小関三英を知り、それからその年の秋に「游相日記」や「毛武游記」の旅に出かけ、翌天保3年に高野長英を知ることになる(おそらく小関三英より紹介されたか)わけですが、実は、すでに触れたように崋山が桐生から前小屋天神の書画会に赴いて、島村の金井烏洲(うじゅう)や高島村の伊丹新左衛門などと交わった時、つい半月ほど前に上州から江戸へと帰って行った高野長英というシーボルト門下の俊才について耳にした可能性は十分にあり、すでにこの頃から崋山は「高野長英」なる人物について気に留めていた可能性がある。長英が小伝馬町の牢を脱獄したのは弘化元年(1844年)の6月30日(晦日・旧暦)の未明。『板橋区史通史編上巻』によれば、「六月晦日の夜四ツ時(午後四時頃)」、板橋宿の水村長民(水村玄銅の父親)宅に長英がお供の若者一人とともに現れたという。水村長民は、武州足立郡大間木村の高野龍仙の家まで二人を案内。長英は高野龍仙の家にしばらく身を寄せた後、高橋景作・柳田鼎蔵らの門人を頼って上州に逃れ、しばらくそこに潜伏した後、奥州街道を避けて郷里水沢に向かったという。長英は知り合いや門人の多い上州の地理について詳しく、その知り合いや門人を頼ってしばらく身を潜めた後、郷里の母親に会うべく上州を旅立ったと考えられる。板橋宿の水村長民宅に立ち寄ったのが、「六月晦日の夜四ツ時」であることについては疑問が残りますが、長英が脱獄後、まず上州を目指したのは興味深いことです。 . . . 本文を読む

2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その11 

2013-06-16 05:01:48 | Weblog
『岩波新書』佐藤昌介(岩波新書)によれば、高野長英が「アルバイトとして崋山のために蘭書の翻訳をすることになった」のは天保3年(1832年)からのこと。崋山が「毛武游記」の旅をしたのは天保2年(1831年)のことだったから、その翌年からになる。同書によれば、「おそらく長英を崋山に紹介したのは、吉田塾の先輩小関三英」(こせきさんえい・1787~1839)であろうとあり、三英と崋山との交わりは天保2年以来のことであるとも記されています。崋山はしかし、長英の学識や語学力については高く評価していたが、政治的知見に関しては必ずしも高く評価はしていなかったようだ、とも記されています。崋山は三宅友信に宛てた書簡の中で、長英については、「高氏(長英)の学、伍長に限る。隊将はいまだなるべし」と評しているという。長英の本領とするところは、医学を中心とした西洋科学の最新研究にあったということであり、政治的識見については崋山から影響を受けたとはいえ、崋山から見ればそれほど高いものではなかったようです。 . . . 本文を読む

2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その10 

2013-06-10 05:18:45 | Weblog
シーボルト(1796~1866)という「高名なオランダ人医師」(実はドイツ人)が長崎にやって来たのは文政6年(1823年)の夏のことでした。吉田塾の門人たちの中でいち早く長崎のシーボルトのもとへ赴いたのは村上随憲であり、シーボルトが来日した年におそらく長崎へと赴いて、シーボルトから医学や蘭語を学んで、文政7年(1824年)には境町で蘭方医として開業しています。長崎滞在はそれほど長くはありません。一方、長英が長崎へ向けて江戸を出立したのは文政8年(1825年)の7月のこと。長崎に到着した長英はシーボルトの鳴滝塾に入塾を許され、文政9年(1826年)にはシーボルトから「ドクトル」(医学博士)の学位を授与されました。彼が長崎から戻って江戸で開業したのが天保元年(1830年)のこと。長英の長崎滞在は文政8年(1825年)から文政11年(1828年)にかけて、足かけ4年間にわたりました。村上随憲も高野長英も、江戸の吉田塾で同門であり、また長崎のシーボルトの門下生でもあったのです。境町に開業した村上随憲は、上州における蘭方医の嚆矢(こうし)となり、また上州で最初の種痘を行った人物でもありました。崋山も「高名なオランダ人医師」シーボルトのことは知っていたはずです。崋山は文政9年(1826年)、シーボルトの助手をしていた薬剤師ハインリッヒ・ビュルゲル(1806~1858)との会談(江戸の長崎屋)に参加しています。長英が長崎のシーボルトに学び、数多い塾生(鳴滝塾)の中でも傑出した才能を有していて、医学博士(ドクトル)の学位をシーボルトから授与されたこと、またその蘭語の実力(翻訳力の確かさ)が相当なものであるということについても、崋山は高島村の伊丹新左衛門や島村の金井烏洲(村上随憲と親しい)などから耳にしたのではなかったか。しかもその長英の江戸での開業地は「麹町貝坂」であり、崋山の居住地(三宅藩上屋敷)から目と鼻の先であったのです。 . . . 本文を読む

2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その9 

2013-06-09 05:44:49 | Weblog
『金井烏洲』しの木弘明(群馬県文化事業振興会)には、高野長英(1804~1850)が天保2年(1831年)の秋に境町の村上随憲(ずいけん・1798~1865)のもとに来遊したことが記されています。長英は境町から武州高島を経て10月22日(旧暦)に江戸に帰着したとも記されています。日光例幣使街道の宿場町境町には商人宿の一つとして井上六左衛門家(日光例幣使街道に面する)があり、その西隣で村上随憲が医業を開いていました。この村上随憲は熊谷近郊の久下(くげ)村に生まれ、医者を志して江戸に出て吉田長淑(ちょうしゅく・1782~1827)に就いて蘭方を学び、8年間の在塾中に小関三英や高野長英を知りました。長崎に赴いてシーボルトの門に入り、文政7年(1824年)に境町で開業しました。そこへ初めて高野長英がやって来たのが天保2年の秋のこと。境町から武州高島を経て江戸へと戻ったということは、島村の金井家や高島村の伊丹家に立ち寄ったことも十分に考えられるところ。前掲書にも金井烏洲(1796~1857)が10月頃に長英と会った可能性について触れられています。村上随憲は長英よりも6歳年上。長英が吉田長淑の内弟子になったのは文政4年(1821年)の18歳の時であったから、村上随憲は高野長英にとって吉田塾における兄弟子的な存在であったでしょう。長英が長崎から江戸に戻って麹町貝坂で開業したのが天保元年の秋(11月頃か)であったから、江戸で開業して少し落ち着いてから、兄弟子の随憲に久々に会うために、その開業地である上州境町を初めて訪ねたということであるのかも知れない。随憲が島村の金井烏洲と親しく交わっていたことは確かなことであり、烏洲が随憲を仲立ちとして長英とこの年の秋に出会った可能性はきわめて高い。この年には沢渡の福田宗禎が長英の弟子となっており、長英は沢渡の宗禎宅にも来遊しています。高野長英が高島村の伊丹家に立ち寄ったかどうかは定かではありませんが、立ち寄ったとしたら10月の中旬過ぎのことであり、崋山が伊丹家に泊まったのが同年の10月29日(旧暦)のことであることを考えると、蘭方医である伊丹新左衛門やその新左衛門に就いて学んでいた佐々木雄逸、そして金井烏洲との会話の中で、長崎でシーボルトに蘭方を学んだ高野長英という俊才の名前が出て来たことは十分に考えられることなのです。 . . . 本文を読む

2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その8 

2013-06-07 05:21:54 | Weblog
高島村の伊丹新左衛門家は、前小屋村の青木長次郎家から、西へ「十二、三町」ほど(約1.2Km)の距離にありました。とても大きな門や塀があり、広い敷地や屋敷を有する農家でした。むかしは有名な豪農であったらしいが、今は落ちぶれてしまったものの、まだ大きなゆったりとした構えを見せていました。烏洲がいつ連絡したのか、酒肴を用意して待ちわびていた様子であり、迎えた伊丹新左衛門は喜んで奥の間に崋山らを通し、懇ろにもてなしてくれました。この伊丹新左衛門は「西医の法」を好み、患者を治療していました。つまり蘭方医でした。伊丹家には「洋学生」が滞在しており、そこで「西医の法」を学んでいました。その「洋学生」がぜひ話に加わりたいと座に出てきて自己紹介をしたのですが、名前を「佐々木雄逸」と言い、仙台出身で「医を業」とする者でした。崋山が知っている人の名前を聞くとすべて答えました。崋山は伊丹新左衛門について次のように記しています。「伊丹新左衛門、号水郷、好洋学為医。郷中及乞療者不少云(伊丹新左衛門は水郷と号し、洋学を好みて医を為す。郷中療を乞う者少なからずという)」。崋山は、「此夜ハ皆々打つどひ、おのがじゝかたり合て夜明けたり」と記しており、集った人々が夜通し語り合ったことがわかります。崋山にとっても、楽しい一夜であったはずです。座にいた人々は、渡辺崋山・岡田東塢・金井烏洲・伊丹新左衛門・伊丹唯右衛門・佐々木雄逸・宮沢雲山・高木梧庵らであったでしょう。 . . . 本文を読む

2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その7 

2013-06-05 05:50:36 | Weblog
金井烏洲(うじゅう)の兄莎邨(しゃそん)と岡田東塢(とうう)の二人が「清人について詩を学ぶのが目的」で、長崎に到着したのは文政元年(1818年)の9月(旧暦)のこと。そしておそらく文政2年(1819年)の秋に二人は長崎を出立し、故郷に戻ったのが文政2年の暮れ(12月)。烏洲は文化13年(1816年)に江戸に出て詩文や画技を学び、郷里に戻ったのが文政2年の春。足かけ3年間を江戸で学んだことになる。その文政2年の冬、烏洲は新戒村の福島紀伊と結婚しています。烏洲は絵を良くするとともに月琴や横笛の名手であり、客があれば月琴を弾き、また近隣に出掛ける時には必ず月琴を携えてこれを弾くことを常にしたということについては、すでに触れたところですが、烏洲の親友であった岡田東塢も実は月琴を嗜み、月琴で清楽(中国の楽曲)を弾くことができたという(『足利の人脈 江戸時代から現代まで』)。岡田東塢がいつ月琴という楽器に触れることになったかは定かではないけれども、可能性としては莎邨とともに長崎で過ごした1年間ではなかったか。莎邨も東塢も長崎で月琴を覚え、二人とも長崎から月琴を携えて郷里に戻ってきたのではないか。烏洲はその長崎から帰ってきた兄莎邨から月琴を習い、また兄の親友であった東塢からも月琴を習ったり、また一緒に演奏するようなことがあったのではないか。私は、高島村の伊丹新左衛門宅において、烏洲や東塢が崋山らを前にして月琴をつま弾く場面(その月琴は烏洲が島村の自宅から携えてきたもの)を想像してしまうのです。そしてこの夜、東塢は崋山らに、思い出深い長崎での1年間の見聞を詳しく語ったのではないか、とも思うのです。 . . . 本文を読む

2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その6 

2013-06-03 05:23:16 | Weblog
前掲書『金井烏洲』によれば、烏洲の父万戸は文八郎と言い、俳諧に長じていました。烏洲はその次男で、通称は左平太で本名は彦兵衛。金井家は豪農で「養蚕長者」として資産があり、父文八郎は「万戸大尽」と言われたほど。万戸(文八郎)の俳諧は文化文政期に頂点に達し、「上毛俳壇は、ほとんど万戸の手中にあったといってよい」としの木さんは指摘しています。長男の忠雄(烏洲の兄)は古賀精理の高弟であり、「莎邨(しゃそん)」という号を持っていました。万戸はこの長男である莎邨に大きな期待を持ち、その莎邨のために「呑山楼」という離れを造ったほど。万戸がこの「呑山楼」の庭前に芭蕉句碑を建てたことについては、前にすでに触れた通り。莎邨は文政元年(1818年)に、中国人に詩を学ぶことを目的として長崎に至っています(9月)。この莎邨の「西遊」に同行したのは五十部村(よべむら)の岡田東塢(とうう・立助)であり、これはこの二人が極めて親交が深かったことを示しています。しの木さんは「莎邨・烏洲はその没するまで東塢とその子行山と深く交わっている」と指摘しており、文政7年(1824年)に莎邨は亡くなりますが、その弟烏洲と東塢も親しく交わり続けたものと思われます。ということは、前小屋の青木長次郎方に崋山らが到着した時、そこには金井烏洲もすでに到着しており、岡田東塢と談笑しながら、岡田から崋山のことも詳しく聞いていたのではないか、という推測が成り立ちます。前小屋天神へと赴く一行の中にも烏洲はおり、そしてその夜の宿(高島村の伊丹新左衛門宅)を手際よく手配していたのも烏洲だったのではないか、という推測が成り立つのです。実際、崋山や東塢らを高島村の伊丹新左衛門家へと、真夜中の道を案内したのはこの烏洲であったのです。 . . . 本文を読む

2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その5 

2013-06-02 06:09:35 | Weblog
金井烏洲のアトリエ『呑山楼』からの眺めはどのようなものであったのか。実は烏洲自身が描いた『呑山楼』およびその近辺から四方の眺望を描いた絵がありました。それが載っているのが『絵で見る近世の上州 下巻』青木裕(みやま文庫)。そのP66からP72にかけて、順に北→東→南→西の眺望が描かれています。北には赤城山が見え、右向こうには日光連山。木々や畑地の向こうには利根川が流れ、その手前の岸辺には船が繋留されています。東には利根川の下流域が見渡され、その向こうに筑波山が小さく見える。南にはゆったりとした利根川の流れ(南を流れる分流)があり、帆掛船が2艘浮かんでいます。また武甲山など秩父の山々も描かれています。この2艘の帆掛船は、おそらく「利根川高瀬船」であると思われます。西には利根川の上流があるはずですが、それは人家や木々の繁りのために隠れて見えない。遠く右手に浅間山の噴煙が立ちのぼり、手前左に妙義山があり、さらに荒船山の平らな山頂も見える。これが利根川の中洲にあった島村の「呑山楼」およびその近くからの眺望でした。この絵から判断すると、金井烏洲の屋敷は、島村があった中洲の下流側で、南に流れる利根川分流(烏川)に面してあったのではないか。たいていこの辺りの農家は、西北側に屋敷林(ケヤキや竹が中心)があるのですが、それは利根川の洪水に備えるためのものであり、また強い西風や「赤城おろし」と言われる北からの強風から屋敷を守るためのものでした。四方に赤城山・日光連山・筑波山・武甲山・秩父連山・浅間山・妙義山・荒船山などが望め、また南北に利根川の流れが見える景勝の地であったのです。特に屋敷地内の一画に建てられた「呑山楼」の2階からは、その眺望が堪能できたものと思われます。『金井烏洲』しの木弘明(群馬県文化事業振興会)によれば、この「呑山楼」は父万戸が長男である莎邨(しゃそん)のために建てたものでしたが、莎邨が若くして亡くなったために烏洲が使うようになったもの。谷文晁と万戸との間には親しい交遊関係があり、文晁はこの「呑山楼」にいく度か来遊したことがあるとのこと。また万戸は、「呑山楼」の庭先に芭蕉句碑を建てており、それには酒井抱一の手による「降ずとも 竹植ゆる日は みのと笠 翁」という文字が刻まれていたという。万戸は竹を愛し、邸内には竹が密生していました。 . . . 本文を読む