鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その5

2014-05-30 05:44:21 | Weblog
柏ヶ谷(かしわがや)あたりの街道筋で筵(むしろ)を敷いて、背中を日光にあぶりつつうずくまっていた翁が、崋山の問いかけに、おもむろに話し始めたことは次のようなことでした。①早川村の幾右衛門のことをお尋ねだが、この細道を入って行けば集落があり、そこからさらに進んで行くと川があるから、それが早川である。そのあたりで幾右衛門のことを尋ねればよろしい。②幾右衛門は、このあたりでも有名な酒好きの老人である。年は80ほどにもなるだろうか。③幾右衛門には4人の娘がいて、二人は江戸に出た。④その二人のうち姉にあたる娘は、若い時に江戸に出て奥女中としての奉公をし、花を飾り錦を着て帰ってきたが、それからまもなく母親が死んだため、娘ばかりの家だからということで、その江戸から帰ってきた娘が小園村の清蔵のもとに嫁ぎ、清蔵の弟の長右衛門という者を幾右衛門が養子とし、幾右衛門の次女と結婚させてその家を継がせた。⑤幾右衛門も清蔵も、貧しい暮らしをしているが、たいへん世話好きの人で、特に清蔵の方は、小園村についてはいうまでもなく他村へも出掛けて人のために忙しく世を送るうちに一家の暮らし向きも満足いくものではなくなっているようだ。⑥しかし清蔵の家は小園村の旧家であり、祖先は大川靱負(ゆげい)といって小田原北条氏の家来か何かであったようだ。⑦その村には金子某という、かつてはやんごとなき武士であったが、早く世を避けてその地にやってきて住みついた者がいたのだが、大川氏はその金子家を頼ってやって来て、一緒にその地に住みつくようになったらしい。⑧大川家はまもなく早川村に長泉寺というお寺を開き、豪農として知られるようになった。⑨家紋は軍配団である。⑩だから大川家は小園村では草分けの家である。以上のことを、その翁は懇ろに崋山に教えてくれました。幾右衛門は酒に酔った勢いで川に落ちて死んだというのは事実と異なり、確かに有名な酒好きではあるがいまだ健在であること、またその長女である「お銀さま」が嫁いだ先が小園村の旧家である大川家であるといったことまで詳しく聞けたことにより、崋山は大いに喜び、大山街道から左折するその細道(「古東海道」の一部)を梧庵とともに足早に進んで行きました。 . . . 本文を読む

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その4

2014-05-28 05:58:21 | Weblog
『綾瀬市史 民俗調査報告書 6 小園の民俗』によれば、近世末における小園村の戸数は42戸。高札場は1ヶ所。村の鎮守社は子之社(子之明神)でした。西隣の早川村との境には目久尻(めくじり)川が南流し、東側には台地(相模原台地)上の平坦地が広く続き、その台地の下の、目久尻川流域の平地に集落がありました。目久尻川の沿岸に水田があり、台地の平坦地には畑が広がっていました。集落は、目久尻川に架かる小園橋の東側の低地から台地近縁にかけて南北に連なっていたほか、子之社の東側に数軒、北端部の柏ヶ谷(かしわがや)との境の足柄道(大山道)沿いに数軒、そして目久尻川の支流であった谷戸川の谷の最頂部付近に数軒ありました。小園橋の東側の低地から台地近縁部にかけて南北に連なる地域が本村(ほんむら=村の中心地)であり、「お銀さま」(佐藤まち)が嫁いだ大川家は、その本村にありました。本村の東側の台地には「小園っ原」と呼ばれる畑地が広がっていましたが、そこではサツマイモや粟(あわ)などが栽培されていました。またそこに広がっていた雑木林(ヤマ=平地林)にはクヌギやナラなどの落葉樹が繁茂していて、燃料である薪(まき)はそこから得ることができました。お寺は本村に東光山延命寺がありましたが、明治20年(1887年)2月の節分の夜に全焼し、現在は地蔵堂として残っています。『小園の歴史』(小園を尋ねる会)によれば、この小園村の領主は佐倉藩の堀田家でした。高座郡では、小園村を含めて吉岡・国分・上河内・用田、合わせて五ヶ村が佐倉藩堀田家の領地(佐倉藩領)でした。天保2年(1831年)当時の佐倉藩の領主は堀田正睦(まさよし)であり、正睦は文政8年(1825年)3月に家督相続をしており、天保5年(1834年)には25歳で寺社奉行になっています。天保2年当時は22歳の青年藩主であったことになる。矢倉沢往還(大山道)はその小園村の北端を縫うように走っていました。崋山が、大山街道筋の柏ヶ谷付近で言葉を掛けた翁は、村の北端を走る大山街道沿いに数軒あったという小園村に属する農家の老人であったのかも知れない。小園村の戸数は当時わずかに42戸。大川家のことも含め、村の事情について詳しく知る立場にいた者であったのかも知れません。 . . . 本文を読む

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その3

2014-05-27 06:00:44 | Weblog
『-蚕糸業史-蚕糸王国日本と神奈川の顛末』(小泉勝夫編)には、「近世になっても神奈川の養蚕状況を詳しく知ることは難しい」とあります。しかし諸史料の記述の紹介により、各地で養蚕が行われていたことを同書は教えてくれます。崋山が歩いた大山街道近辺を中心に見ていくと、大和地域では以下のような史料が示されています。延享3年(1746年)の「鶴間村明細帳」によれば村中で養蚕が少々行われていました。文政9年(1826年)の「深見村地誌取調帳」には、「農間之稼、男者(は)縄をなひ、女者蚕少々飼申候」という記述があります。また史料は示されていませんが、天保年間、長後村周辺では養蚕が行われていました。座間地域では1700年代はじめにはすでに養蚕が行われており、元禄14年(1701年)の「栗原村村鏡」には「蚕村中ニ而(て)女之稼仕候」とあり、また宝永4年(1707年)の「栗原村明細帳」には「かいこ少々仕候」とあるとのこと。また荻野山中藩が文化12年(1815年)、領内の村々に御触書「養蚕要略」(現存せず)を出して養蚕の奨励に力を入れたという史実も示されています。注目すべきは、崋山が荏田宿で出会った猟師(兼鍛冶屋)孫兵衛の出身地である半原村についての記述。享保13年(1728年)の「半原村差出帳」によれば、「当村蚕場ニ御座候付御年貢之儀ハ山絹仕出シ、夏成八七月中、秋成ハ九中、冬成ハ極月廿五日ヲ限リ御上納仕候」「当村山方農業之間、男ハ薪取リ或ハ江戸近所ヘ日用ニ罷出候(まかりいでそうろう)、女ハ絹糸仕候事」とあり、半原村は蚕場であって、年貢は山絹を上納していたことがわかります。また半原村上細野の染矢勇八という者は、天明8年(1788年)の3月から12月にかけて自家の生糸や自村の生糸を甲州の郡内地方へ販売に出向いていたという記述も出てきます。さらに同村の小島紋右衛門は、文化4年(1807年)、桐生から八丁式撚糸機を導入。天保元年(1830年)には上州から撚糸職人を招いて、八王子に織物用撚糸を供給するようになり、また江戸方面にも縫い糸や組み紐用糸を出すようになったという。そして天保年間には「半原絹」という上等の絹を生産するようになっていました。このように見てくると、神奈川県各地において、近世のかなり早い時期から「女之稼」「農間之稼」として養蚕が広まりつつあったことを知ることができるのです。 . . . 本文を読む

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その2

2014-05-26 05:30:57 | Weblog
大山街道を西行(せいこう)する崋山が、桑畑に注目し始めるのは長津田宿に近付いてからのことであり、それ以前においては桑畑や養蚕のことについては言及していません。荏田宿あたりでは、山(丘陵)が多くて田んぼは少なく、特産物はないと記しています。崋山は現在の世田谷区上馬(かみうま)あたりを通過していますが、そのあたりはかつては上馬引沢(うまひきさわ)といって台地上の村でした。したがって水田は蛇崩川の両岸にあるだけであって、あとは畑地や竹やぶ、雑木林でした。畑地で栽培されていたのは、陸稲(おかぼ)・大麦・小麦・ナス・キュウリ・スイカ・里いも・さつまいも・ねぎなどであって、巨大市場である江戸へと出荷する近郊栽培が主体でした。したがって桑畑はなかったものと思われます。しかし、長津田宿あたりから下鶴間宿あたりにかけては、桑畑が目立ち、養蚕が盛んに行われていた様子が崋山の日記の記述から伺われるのです。蚕卵紙は東北地方から来るものがよい、とか、桑の木は「作左衛門」より「村山」の方が上等だといった評価が農民の間で固まっており、また八王子が絹織物の盛んなところとしてもよく知られていたことなどがわかります。生糸や養蚕というと、横浜開港以後に爆発的に広まったというイメージがあるのですが、それ以前に、かなり農村において「農間稼ぎ」として広まっていたことを、崋山の記述は私たちに教えてくれます。江戸時代における養蚕普及の実態は、果たしてどうであったのか。それを探る一つの文献として、『-蚕糸業史- 蚕糸王国日本と神奈川の顛末』(小泉勝夫編)という本がありました。 . . . 本文を読む

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その1

2014-05-25 06:35:39 | Weblog
先月(5月)は東急田園都市線の鷺沼(さぎぬま)駅から相模鉄道(相鉄線)のさがみ野駅まで歩きました。崋山と梧庵が泊まったのは、その間の大山街道の荏田宿と下鶴間宿。休憩したのは恩田茶屋と長津田宿。崋山は日記に、小屋の中で赤ん坊を背中にしょった母親の立ち姿を描いています。これは恩田茶屋で働いていた女性を描いたのかもしれない。この恩田茶屋から見えた風景で、崋山が興味関心を持ったのは、田んぼの間に多数の桑の木が植わっていることでした。梢(こずえ)はみな人間の背の高さほどに切り揃えられています。すでに養蚕について興味関心を持ち、それなりの知識をもっていた崋山は、このあたりが養蚕の盛んな地域であることを知り、地元の人たちからいろいろな情報を収集しています。長津田近辺だけでなく、大山街道沿いでは鶴間あたりも養蚕が盛んなところであることを、崋山は聞いています。下鶴間宿を出立して沿道を眺めてみると、長津田で聞いた通り、やはり桑の木が多く植えられていました。崋山はこのあたりも養蚕が盛んなところであることを確認し、土地の人からさらなる情報を収集しています。崋山はただ「物見遊山」的に沿道の風景を眺めているだけではありません。その土地の土の色や産物や特産物などについても観察を怠りません。自分が属している田原藩の「経世済民」につながるようなヒントをつねに求めている崋山の姿勢が、そこには現れています。宿屋や道中で出会った人たちに、崋山はざっくばらんに話しかけ、そして交流を深め、それを通して興味関心をもったことについて詳しいことをさりげなく聞きだしていく、といった形で崋山は情報を集積していったのです。その姿勢は下鶴間宿の「まんじゅうや」を出立してからも変わらない。今回は、いよいよ崋山が「お銀さま」に会う『游相日記』三日目の旅の取材旅行。相鉄線のさがみ野駅から綾瀬市小園(こぞの)を経て、相鉄線・小田急線の海老名駅までを歩きました。以下、その取材報告です。 . . . 本文を読む

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その最終回

2014-05-21 05:25:07 | Weblog
『神奈川の写真誌 明治前期』(有隣堂)の解説によると、ミハエル・モーゼル(1853~1912)の写真は、コロジオン湿法による陰画ガラス原板から鶏卵紙に焼き付ける方法であり、写真撮影の移動のためには、大型の暗箱カメラ、薬品、薬品処理のための道具一式を必要とするものでした。またインターネットで『ザ・ファー・イースト』を検索してみると、その発行者であり主筆であったのはジョン・レディ・ブラックであり、明治3年(1870年)5月30日に『ザ・ファー・イースト』を写真入(しゃしんいり)隔週新聞として創刊。明治6年(1873年)7月より月刊誌に変更し、明治7年(1874年)10月から発行所を横浜から東京に移しますが、政府の干渉にあって明治8年(1875年)8月31日に廃刊となりました。「ちょんまげ時代の日本最初の写真旬刊誌『ザ・ファー・イースト』」(岡部昌幸)によれば、『ザ・ファー・イースト』に掲載された写真の多くはミハエル・モーゼルが撮影したものであり、オリジナルのプリント(焼き付け写真)を直接新聞紙に貼りつけたものでした。印刷の上では写真製版はまだ発明されていなかったのです。ミハエル・モーゼルについては、インターネットでも詳しい記述はなく、また『幕末明治 横浜写真館物語』斎藤多喜夫(吉川弘文館)でも、彼が写真家であって写真館を営む人物ではなかったせいか、全く触れられていません。しかし彼の写した明治初期の日本各地の風景写真は、大山街道下鶴間宿を写した幾枚かの写真を初めとして、私にはきわめて貴重なものに思われました。これらのミハエル・モーゼルが写した風景写真は、これからも関心をもって見ていきたいと考えています。 . . . 本文を読む

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その18

2014-05-18 05:43:39 | Weblog
下鶴間宿を写した明治初年の古写真が気になって、『神奈川の写真誌 明治前期』(有隣堂)を調べてみたところ、P280~281に「鶴間の村」というのがあり、それは大山街道に10人ほどの男女が並んでいるものでした。解説には、これは明治7年(1874年)6月号の『ザ・ファー・イースト』に載っているが、撮影は明治4年(1871年)秋ごろであろう、とされています。真ん中には横向きの一頭の馬も写っています。左端は着物姿の女性であり、右から2人目の縁台に座る男は洋装で帽子をかぶっています。またP288にも「鶴間の村」というのがあり、これは例の、鶴林寺の境内から下鶴間宿の中心部を写したもので、解説には、明治4年秋に撮影したものであり、下鶴間は、そこからさらに田名、宮の下、大山へと行く外国人たちの第一休憩所として知られるようになったと記されていました。横浜居留地の外国人たちが、横浜を出発した最初に休憩をとるところであったらしい。もちろん彼らは馬に乗って移動していたはずであり、P280~281の古写真に写っている馬は外国人が乗ってきた馬の可能性もある。もう1枚、P291に「田舎の茶屋」という古写真があり、解説には「諸国商人宿泊 松屋」という看板が掛かっているとあります。場所は特定されていませんが、これが下鶴間宿の旅籠「松屋」であることは、「下鶴間ふるさと館」にあった「松屋」の写真から明らかです。現在、「下鶴間ふるさと館」になっている小倉家の東隣にあった旅館です。店先に10人ほどの男女が写っているのですが、注目されるのは左から3人目の男が洋装で帽子をかぶっていること。この洋装の男は、P280~281の古写真で、右から2人目の縁台に座る洋装の男と同一人物のように思われます。ということは、「松屋」を写した写真も、「鶴間の村」を写した2枚の写真も、明治4年(1871年)の秋ごろ同時期に写されたものではないか、と推測することができます。では、誰が写したのか。『神奈川の写真誌 明治前期』の解説によると、写真の撮影・焼付を担当したのは、オーストリア生まれのミリエル・モーゼルである、と記されています。モーゼルは明治2年(1869年)の秋、日本を訪れたオーストリア海軍極東艦隊付写真技師の助手であった人物で、当時『ザ・ファー・イースト』を発行していたジョン・レディ・ブラックの専属のカメラマンでした。 . . . 本文を読む

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その17

2014-05-17 05:11:12 | Weblog
崋山は下鶴間について次のように記しています。「鶴間といふ所二あり。一を上とし、二を下とす。下は赤坂の達路、駅甚蕭々、わづかに廿軒ばかりありぬらん。左り右より松竹覆ひしげり、いといとよはなれたる所なり。」 鶴間には上鶴間(かみつるま)と下鶴間(しもつるま)があって、下鶴間は大山街道の宿場ではあるがたいへん寂しいところであり、わずか20軒ほどの人家しかない。街道の左右は松の木や竹が生い茂っており、とても世間離れしたところである、といった意味。確かに下鶴間を写した古写真を見ても、街道筋の人家は少なく、宿場のまわりに松林や竹林が広がっている様子がよくわかります。この古写真については、「下鶴間ふるさと館」でもらったパンフレットにも掲載されていて、「明治4年頃の下鶴間宿(『ザ・ファーイースト』より)横浜美術館蔵」と記されています。やや高いところから宿場を見下ろす形で写真を撮影したもの。これはどこから写したものだろうか。このような位置から下鶴間宿中心部を見下ろせる場所はというと、鶴林寺の境内しかありません。その境内の東端から大山街道筋を見下ろしたものであるとすると、左側手前にわずかに屋根が見える屋敷は長谷川彦八宅かその東隣の家のものということになる。長谷川彦八宅は、崋山と梧庵が長津田宿の兎来(とらい・たばこ屋の主人新倉藤七)から紹介状を貰って泊めてもらおうと立ち寄った家ですが、何か宴会のようなものがあって賑わしく、そこで二人は「まんじゅうや」と呼ばれる旅籠に入って旅の第二夜を過ごすことになったわけです。また右側の土蔵のある家は、雑貨商を営む小倉家ではないかと推測されます。パンフレットによると、小倉家の母屋は街道に面して建ち、間取りは、街道から見て左手に広い土間があり、土間沿いの街道寄りに床高の低い12.5畳の「みせ」、奥に10畳の「ざしき」、右手前方寄りに8畳の「なんど」、その奥に床と棚を持つ8畳の「おくざしき」があったとのこと。屋根は建築当時は茅葺きを軒先まで葺き下ろした入母屋(いりもや)造りの屋根であったという。古写真の大山街道の奥は長津田・江戸方面であることになり、崋山と梧庵は、その大山街道を長津田方面からやってきて、境川を渡って下鶴間宿に入り、写真左手下側あたりにある長谷川彦八宅に立ち寄ったということになります。 . . . 本文を読む

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その16

2014-05-16 05:48:53 | Weblog
天保2年(1831年)9月21日(陰暦)の夕方、下鶴間宿に至った崋山と梧庵は、長津田宿のたばこ屋「万屋」の主人新倉藤七(兎来)からの紹介状を貰って長谷川彦八宅を訪ねます。この長谷川家の場所は、『大山道今昔』によると八王子街道と大山街道がぶつかった地点からさらに西に進んで右側、鶴林寺の手前であり、これは「下鶴間ふるさと館」のある交差点の向こう、右側に見えた土蔵のある立派な屋敷のあるところに該当します。同書によるとこの時の長谷川彦八は8代目で、下鶴間村の名主や質屋もやっていて、多くの作男や番頭がいる豪農であったという。当時の長谷川家は一般の宿泊所ではないが本陣的な役割をし、役人などを宿泊させたという。兎来の書いた紹介状(伝書)をもって崋山と梧庵が訪れたということは、長谷川彦八(8代目)は、兎来と何らかの交際があったものと思われる。俳句かあるいは挿花(允中流)関係の付き合いであったろうか。現在もそうであるように、崋山が訪れた時も「門塀」は「巨大」であり、立派な屋敷であったようです。しかしあいにくその日は多数の客であふれかえって、賑やかに飲食をしている情況のため、はばかられて宿泊を求めることはやめ、そのまま大山街道を進み、坂道を上がったところにあった「角屋伊兵衛」という宿に二人は宿泊することになりました。この「角屋伊兵衛」宅は俗に「まんじゃうや」と言って、おそらく店先でまんじゅうを売っていたお店でもあったと思われる。出て来たのは年老いた翁であり、「主(あるじ)夫婦は近くの村で結婚式があって出掛けているので、湯などの用意もありませんし、たいした料理もお出しすることができません。私と孫娘がいるばかりですが、それでもよろしければお泊り下さい」と言って、二人を部屋に招き入れました。夕食の時に酒を所望したが、その酒は意外とおいしく、また食事も美味。味にうるさい崋山が、酒についても食事についても「よし」「うまし」と満足しているのは珍しいこと。翁とその孫娘だけの接待でしたが、心のこもったおもてなしであったのでしょう。 . . . 本文を読む

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その15

2014-05-15 05:55:15 | Weblog
私が、崋山の長津田近辺における養蚕関係の記述で興味深く思うところは、蚕卵紙は奥州より来たものが良いと土地の人に評価されているらしいこと。(蚕ノ本ト云ふは、奥州ヨリ到ヲ佳ト為ス)。このことは、蚕卵紙は各地から来ているが、それらの中でも奥州産が良いということであり、奥州産の蚕卵紙の評価が固まっていたということだと思われる。当時の蚕卵紙の流通の実態について、私は今のところよくわかりませんが、北関東の上州地方(現在の群馬県)や東北の南部(現在の福島県の伊達地方あたり)から、蚕卵紙が専門の商人によって各地に運ばれていたのではないだろうか。であるならば、長津田近辺の養蚕を農間余業としていた農村にも、蚕卵紙を背負った商人が出入りしていたということになる。この天保年間を中心とする幕末の養蚕や蚕卵紙の流通の具体的な実態について、詳しく知りたいと思わせる崋山の記述です。 . . . 本文を読む

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その14

2014-05-14 06:07:12 | Weblog
崋山が「蚕ノ本」と記しているのは、蚕卵紙(蚕紙)のことであると思われる。この蚕卵紙は「奥州ヨリ到(いたる)ヲ佳(よし)ト為ス」と崋山は記す。「蚕卵紙は奥州産のものがよいとされている」ということを、崋山はおそらく河原松五郎(琴松)あたりから聞いたのだろう。その蚕卵紙を崋山は見せてもらい、素描しています。縦一尺ばかり(30cmほど)、横五、六寸ばかり(15cmほど)の長方形をなし、それに卵が幾数万かわからないほど重なり合いびっしりと産み付けられている。その色は赤黒く、まるで鮫皮のようだと崋山は記しています。「起蚕ノ法、常ニ殊ナル無シ、不記(しるさず)」と書いているということは、崋山は養蚕の知識についてはある程度もっていて、聞いたことはその養蚕の一般的なやり方と異なってはいないから、あえて記すまでもないとしているということであり、崋山はすでに養蚕に関心を持っており、それなりの知識を持っていたということを示しています。聞いたことで崋山が特筆に値すると思ったことは、まず蚕は潮風を嫌うから、沿海地方は養蚕には適しないということと、養蚕と織物(絹織物)を同じ場所で行うのは不利であるということ。実際、長津田や鶴間あたりでは養蚕がもっばら行われ、八王子では絹織物の生産が盛んであるといったことを、崋山は詳しく聞いたのです。 . . . 本文を読む

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その13

2014-05-13 05:46:02 | Weblog
崋山はどこで桑の木を見掛けたのだろう。「長蔦、鶴間ハ養蚕ヲ専トス」と崋山は記しています。「長蔦=長津田」近辺では養蚕が盛んであったのです。しかし一方、荏田宿では「産物なし」と記しています。おそらく荏田宿を出立して長津田宿に至る途中の田んぼの間に桑の木が植えられているのを崋山は目にしたのだと思われます。となると、田んぼが広がっていたことを考えてみて、恩田茶屋から片町あたりまでの恩田川の流域あたりではなかったか。『ホントに歩く 大山街道』によると、この辺りはかつて田奈村と言って、恩田・長津田・奈良の三つの村が合併してできた村でした。米・麦・大豆などを主に作っていたが、大正時代以降は野菜や甘藷(かんしょ)の栽培が盛んになり、その後、養蚕も盛んになり、大正10年(1921年)には、村の全戸数の72%にあたる480戸が従事し、養蚕組合もあったという。しかし崋山の記述を見てみると、田んぼの間に桑の木が、高さ五、六尺に梢(こずえ)が切り揃えられる形で植えられていたらしい。その桑の木は、もちろんその葉を蚕(かいこ)に食べさせるものでした。「八王子ハ織(おり)ヲ専(もっぱら)」とした、ともあるように、このあたりで作られた生糸は八王子に運ばれて絹織物になったものと思われます。ということは、江戸時代末期において、すでにこのあたりでは養蚕が行われ、生糸が生産されていたらしいことが、崋山の記述によってわかるのです。 . . . 本文を読む

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その12

2014-05-12 05:23:13 | Weblog
「まず奥の方へとお入り下さい」と崋山と梧庵を、奥の部屋に案内した兎来は、「平屋の小さな家ですから、わざわざお迎えできるような部屋もないのですが」と付け加えて、酒を買いに行き、肴(さかな)を設け、蕎麦を出すなどして懇ろに接待する。出された蕎麦は色がきたなくて味もよくない。麦飯を所望したところ、これはとてもうまかった、と味にうるさい崋山はわざわざ記しています。接待を受けていると、松五郎という名前の農民もやってきました。この松五郎とは街道の向かい側やや左手に住み、旅籠も営んでいる河原浅右衛門松五郎という者で、やはり太白堂孤月の門人でした。俳号は「琴松」(きんしょう)。嘉永7年(1854年)に亡くなっていますが、天保2年(1831年)当時何歳ほどであったかはわからない。崋山は「九月廿一日」の日記の冒頭に「箍(たが)掛りしばりあけけり萩の花 武長ツタ 琴松」の句を挙げ、「長津田の農松五郎、名ハ琴松とよぶ。余にこの句をおくる」と記しています。畑に麦をまきにいく途中、たまたま兎来宅に立ち寄って崋山と初めて会い、麦まきをした後で兎来宅にやってきて座をともにしたのでしょう。「はなしかけて麦蒔(むぎまき)に行ぞ世は豊(ゆたか)」と崋山は句を詠んでいます。同じ太白堂孤月の門人であることもあり、琴松と兎来は親しい友人であったのかも知れない。畑の麦まきに行く途中で立ち寄って、崋山を兎来から紹介されたものの、麦まきの仕事があるのでそれをやり終えてからまた来ますからという琴松に、崋山は一人の農民の旺盛な勤労精神を感じ取ったのかも知れない。それが「世は豊」に表されています。兎来については、崋山は「旭陽堂と号、万屋藤七、経師、行燈、たばこをなりわひとす」と記しています。「経師(きょうじ)」とは表具屋のことであり、たばこや行燈を販売するほかに、表具屋もやっていたようです。「大海や何所まで秋のとゞく音 兎来 草」と日記には記されています。兎来が自ら筆をとって、崋山の日記に自分の詠んだ俳句を書き込んだのでしょう。長津田宿は内陸部にあり、海からは遠い。江ノ島か鎌倉あたりの海に出掛けて、実際に海を見て詠んだ俳句であるようです。兎来にとって自慢の句の一つであったものと思われます。 . . . 本文を読む

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その11

2014-05-11 04:22:08 | Weblog
恩田の茶店で休んだ後、大山街道の坂道を上がったり下ったりしながらようやく長津田宿に至った崋山と梧庵は、下宿(しもじゅく)の常夜燈を見てしばらくして、街道左手に刻みたばこの店看板がある「万屋」を見つけ、提灯がぶらさがるその店先へと入っていきました。このたばこ屋の主人が「沢月堂兎来」という俳号をもつ太白堂系の俳人でもあるということは、崋山は太白堂(六世)孤月からすでに聞いており、その紹介状も孤月からもらっていました。店先に入ってみると、その主人と思われる兎来(新倉金次郎・当時37歳ほど)は菊の花を花瓶に挿している最中で、客が来たということも気が付かない様子で挨拶もしない。崋山が描いた「万屋」の素描には、店看板が掛かっている店先の右側奥に、花瓶に花が活けられている様子が描かれていますが、この花瓶に兎来は菊の花を挿していたのかも知れない。兎来は允中流(いんちゅうりゅう)挿花を嗜んでおり、「照雲斎兎来」という花号をもつ風流人でした。梧庵や崋山が言葉を掛けても、菊の花を挿すことに熱中していた兎来は、「猶(なお)ものもいはで面壁して、この枝かの枝折撓(おりたわ)め」ることを続けて、ややあってようやく菊の花を挿し終わりました。この「万屋」では、刻みたばこや提灯(ちょうちん)を売っていたらしい。大小の提灯を売っていたことは、崋山の素描で、店の左側の店先に提灯が5つほどぶら下げられていることからわかります。これは店先の街道筋に出された縁台のようにも見える。素描ではその縁台に客人らしき男が一人座って、店の板の間に座る主人らしき男と会話をしている様子が描かれています。このあたりの日記の描写では、好きなことに取り組んでいると客が来たことにも気が付かないほど、仕事そっちのけで熱中してしまう兎来の凝り性的な姿が、崋山の筆によって活写されています。 . . . 本文を読む

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その10

2014-05-08 06:06:35 | Weblog
大山街道長津田宿は、恩田川南岸の台地上に形成されていました。『長津田の歴史を訪ねて─長津田風土記─』林房幸(みどり新聞社)によれば、崋山が立ち寄ったたばこ屋万屋(新倉)藤七(兎来〔とらい〕)宅は街道の南側にあり、崋山に宿泊を強く勧めた河原松五郎(琴松〔きんしょう〕)宅は、兎来の家の斜め上(かみ)にあったとのこと。下宿の大山常夜燈は窪田三郎氏宅前にあり、当時の宿場は現在の御幸通りに面した家並5,60軒、はたご屋6,7軒ほどの規模であったという。崋山が旅の第一夜を過ごしたあの荏田(えだ)宿のおよそ2倍ほどの規模であったということになる。金子勤さんの『大山道今昔』はさすがに詳しく、新倉藤七宅跡は「長津田六ノ十五」であり、河原松五郎宅跡は「長津田五ノ九ノ二四」であると記しています。河原松五郎宅はたばこ屋万屋藤七宅の街道隔てた左斜め前にあり、農業を行う傍ら旅籠も営んでいました。『長津田の歴史を訪ねて』によれば、「万屋藤七」は通称であり、本名は新倉八左衛門金次郎。夫婦の間に子はなく、兎来の死後はその家は廃絶したという。『横浜・緑区 歴史の舞台を歩く』相澤雅雄(昭和書院)によれば、「沢月堂兎来」は太白堂6世孤月の門人であり、允中流(いんちゅうりゅう)挿花を嗜み、花号は「照雲斎兎来」であったとのこと。「長津田の米に命をつながれて 御法の里へかへるけふかな」の辞世を残して、慶応2年(1866年)2月1日に72歳で亡くなったという。ということは天保2年(1831年)当時、37歳であったということになります。この兎来(新倉藤七)のお墓があるのは、宿場の南にある曹洞宗慈雲山大林寺。この大林寺は、長津田村領主である旗本の岡崎家(1500石)の菩提寺でもあるとのこと。一方「琴松」は本名河原浅右衛門松五郎。号は「太貫亭」。「兎来」と同じく太白堂孤月の門人。嘉永7年(1854年)5月19日に没しているという。崋山は立ち寄ったたばこ屋万屋藤七宅を素描しています。左側の縁先の上に提灯が五つほど吊り下げられています。街道に面して縁台と板の間があり、中央やや右側にある店看板の右奥には花瓶に花が活けられています。屋根はおそらく茅葺(かやぶき)でしょう。「たばこ屋」というからには、「たばこ」(刻みたばこ)を売っている店でもありました。この「刻みたばこ」は、秦野あたりから仕入れたものであったかも知れない。 . . . 本文を読む