鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

歌川広重の歩いた甲斐道 最終回

2009-11-29 07:49:36 | Weblog
天保12年(1841年)の11月(霜月)、広重はまたまた甲府に滞在しています。おそらく10月の後半か11月の初旬、江戸から甲州街道で甲府にやってきたと思われます。目的は甲府道祖神祭の幕絵を完成させるため。広重は、甲府城下緑町一丁目の「幕御世話人衆中」より11枚の幕絵制作を依頼されていました。翌年1月の上元に行われる甲府道祖神祭礼において通り両側に飾る幕絵です。『旅中 心おほへ』の11月の日記によれば、13日から幕絵の制作を続け、19日には筆を納めて別れの宴会を開いています。そして翌20日早朝に甲府城下を出立して、甲州街道を江戸へと帰途につきました。 . . . 本文を読む

歌川広重の歩いた甲斐道 その10

2009-11-28 06:47:26 | Weblog
歌川広重の甲州道中(甲州街道)におけるスケッチは、『日々の記』という旅日記の中に挿絵のような形で挟みこまれていましたが、それが実際どのようなものであったかはよくわからない。しかし『旅中 心おほえ』の方には枚数は多くないけれども甲州道中におけるスケッチが載っています。「座頭ころばし」(野田尻宿と犬目宿の間の矢坪坂のこと)、「犬目峠」、「高尾本社」、「大善寺」(勝沼)、「酒折宮」、「善光寺」(甲府)の6枚です。それぞれを、描かれた順に立ち寄っているとすると疑問が出てきます。「犬目峠」(上野原)と「大善寺」(勝沼)の間に「高尾本社」(八王子)があるからです。広重は「犬目峠」まで写生に行って、それからまた江戸に戻り(帰途、小仏峠から高尾本社に立ち寄る)、それからまた江戸より甲府に向けて出立し、その道中、「大善寺」・「「酒折宮」・「善光寺」を描いたのでしょうか。もしそうであるとすると、広重はわざわざ「犬目峠」まで江戸から出かけたことになります。広重はこの犬目峠からの景観を気に入っていたようで、カラーの口絵の部分にも「「不二三十六景 甲斐犬目峠」「『富士見百図』より 甲斐犬目峠」、「富士三十六景 甲斐犬目峠」の3枚が載せられています。また「大月原」も同じく3枚。犬目峠を越えて大月まで足を延ばしていたのかも知れません。 . . . 本文を読む

歌川広重の歩いた甲斐道 その9

2009-11-27 06:12:54 | Weblog
「身延道」というのは、駿州往還または河内道とも呼ばれ、富士川沿いに甲府盆地から太平洋に抜ける幹線。近世には日蓮宗総本山である久遠寺を詣でる人で賑わったという。広重も、4月の甲府へ向かう甲州道中において身延詣での旅人と出会っています。鰍沢(かじかざわ)で舟に乗り換える旅人が多かったが、広重は難所続きの川下りを避けて、徒歩で行くことを選んだとみられる、と解説にあります。前に「御坂みち」で触れたヘンリー・ギルマール一行もこの「身延道」(駿州往還・河内道)を利用しています。彼らは明治15年(1882年)7月16日に御岳昇仙峡に出かけた後、7月18日には鰍沢に宿泊しています。翌日は鰍沢より舟に乗り、波木井(はきい)から身延山の参道を通って久遠寺に赴き、それからまた波木井に戻って、そこから富士川の急流を舟で下っています。南部に上陸して茶屋で一泊。それからふたたび舟に乗り、松野でいったん上陸した後、そこから東海道の蒲原に到着しています。蒲原に到着したのは7月20日のこと。鰍沢・南部で宿泊する2泊3日の「身延道」の行程でした。南部の宿では、ヘンリー・ギルマールは、「人が歩く何百という音が、畳に絶え間なく落ちる雨音のように聞こえた」と記していますが、この記述からも「身延道」が、明治時代中期においても多くの人々に利用されていたことがわかります。富士川水運については次のようなギルマールの記述が注目されます。「私は現在富士川が交通路としてどの程度利用されているかは知らない。おそらく、舗装道路や自動車のために川を使用する交通手段は終了したと思うが、我々が富士川を下った時には、船はまだたくさんあり、苦労して流れに逆らって船を引っ張って行く男たちの群れにたえず出会った。」 . . . 本文を読む

歌川広重の歩いた甲斐道 その8

2009-11-25 06:41:32 | Weblog
天保12年(1841年)の4月下旬か5月上旬頃、それまでに甲府道祖神祭礼のための幕絵の下書きをある程度完成させた広重は、甲府城下を出立して「御嶽道」を歩いて金櫻神社を参詣し、その後に「身延道」(河内路)をたどっておそらく身延山の久遠寺まで赴いたものと思われます。新津健さんは、前記論文で「御嶽道では甲斐の山を描き、身延道では川と舟の情景を実見したかったのではないのか」としていますが、金櫻神社や身延山久遠寺自体に興味・関心があったというよりも、そこにいたるまでの道筋における絵の題材となるような景観(「山水の奇勝」)を探ることが一番の目的であったようです。その写生旅行から江戸に戻った広重に、待ち受けていた出来事とは何かというと、5月9日には徳丸原で高島秋帆が銃隊訓練を行っており、5月22日からは老中水野忠邦を中心とする天保の改革が始まっています。北町奉行所には市中取締掛が設置されます。物価高騰の原因の一つであるとして奢侈が禁じられ、風俗の取り締まりが強化されていくことになります。10月7日には日本橋堺町の水茶屋から出火。中村座・市村座を含む一帯が焼け野原になりました。また10月11日には「蛮社の獄」で逮捕され、三河国田原城下に蟄居中の渡辺崋山が自殺。その10月か11月初旬頃、広重はふたたび甲州街道を歩いて甲府城下へと向かったのです。もちろん春に一段落つけた幕絵を完成させるためでした。翌年の小正月の道祖神祭礼のために、緑町一丁目の「幕御世話人衆中」より依頼されている幕絵11枚をすべて完成させなければならなかったのです。 . . . 本文を読む

歌川広重の歩いた甲斐道 その7

2009-11-24 06:20:52 | Weblog
川崎市立日本民家園で購入した「日本民家園収蔵品目録6」、『旧広瀬家住宅 附山梨県甲州市塩山広瀬家民俗調査報告』の中に、「年中行事」の項目として「道祖神祭り」に関する記述がありました。これは広瀬保さん(明治38年〔1905年〕生まれ)および頼正さん(保さんの長男)から聞き取り調査をしたものをまとめたもの。この記述によると、上萩原における道祖神祭りは一時途絶えていたものの、近年、祭りのうち「ドンドヤキ」が復活したという。かつて道祖神の小屋(オコヤ)は1月11日に作っていたらしい。2006年は広瀬家が「オベットウヤ」の当番であったとのこと。道祖神祭りは「ドウソジンバ」(道祖神場)を中心にして行われ、ここにヒノキとスギで「オコヤを作り、竹竿に「オコンブクロ」(お金袋)と、紙を切り刻んだ飾り(御幣)を下げました。「オコンブクロ」を下げるのは、お金が貯まるようにとの願いから。御幣は、御神体として「オコヤ」の中に納めるもので、「オベットウヤ」の若い当主は、これを持ってお祓いをします。「オベットウヤ」の当番に当たった家の若い当主が、「ドウソジンサン」の前でお祓いをした後、各家をお祓いして廻り、その後ろを子どもたちが「カゴウマ」(籠馬)を持ちながら廻りました。その後、「オベットウヤ」の家で宴会が開かれたらしい。1月13日には、米の粉で「マユダンゴ」を作りました。マユのほか、豊作を祈ってカボチャ、ナス、キュウリなどの農作物、俵を三つ重ねたもの、札束などを作り、「オカイコがたくさん採れるように」「オダイジンになれるように」と願ったのだという。1月14日の夕方には「ドンドヤキ」を行う。この日に「オコヤ」を焼き、その火で各自が持ち寄った「マユダンゴ」を焼いて食べたそうだ。この「ドンドヤキ」のみ、近年復活したとのことですが、「マユダンゴ」の飾りは現在ではやってはいないそうです。1月20日に道祖神の「オヤマ」(オコンブクロ)を「「コロバス」。「オヤマ」をコロバシた後、「オコンブクロ」をくじ引きで分けたという。これで一連の道祖神祭りが終了したのでしょう。ちなみに「カガミヒラキ」も「オタウエ」も1月11日に行ったとのこと。この1月11日は、道祖神の「オコヤ」(お小屋)を作った日でもありました。「オコヤ」を作ったところは道祖神(上萩原の場合「丸石」)のある広場、つまり「道祖神場」であったでしょう。 . . . 本文を読む

歌川広重の歩いた甲斐道 その6

2009-11-23 06:51:36 | Weblog
取材のために道を歩いていると、いたるところで道祖神に出あいます。特に道祖神の豊かさを感じたのは山梨県でした。日本民家園(川崎市)の旧広瀬家住宅がもともとあったところである甲州市塩山上萩原を訪れた時、そこにあった道祖神がまず印象的なものでした。石段の上に「丸石」が乗っており、その他の石造信仰物もその近くに集まっていました。そうとうに古そうなもので、そのちょっと独特な空間の雰囲気は脳裡に刻まれました。それからいろいろな道祖神を見かけましたが、初めて訪れた山梨県立博物館にも「丸石」道祖神があり、かつて上萩原で見た道祖神を思い出しました。御坂峠を越えて河口の集落に入った時、通り沿いにいくつか見かけた道祖神は石段ないし石垣の上に置かれた、屋根をもつ石製の祠の中に置かれた道祖神でした。石鳥居や木製の玉垣まである立派なものでした。この道祖神の一つは、『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』の例の古写真(臼井秀三郎撮影・P15下)の中央やや右側(通りの右側)にしっかりと写っています。この道祖神のところを右手に折れると善応寺というお寺の参道に入ります。右端の板葺きの屋根の向こうに見える樹木は、河口浅間神社の杉の巨木の杜であるでしょう。しかし甲府市内を歩いた時には、ほんの一部でしかないけれども、「丸石」道祖神も石垣のある「石祠」道祖神も見かけることはありませんでした。ところがかつて(幕末)は通り両側に幕絵を張り出すなど盛大な「道祖神祭」が繰り広げられた城下町であったのです。では、甲府にはどういう道祖神信仰があったのか。それに関する記述があったのは、『山梨県の道祖神』中沢厚(有峰書店)という本でした。これは山梨県内の「豊かな」道祖神について、各地をくまなく足で歩いた調査の蓄積の上に成り立った著書で、よくまとめられた労作でした。 . . . 本文を読む

歌川広重の歩いた甲斐道 その5

2009-11-22 06:21:13 | Weblog
広重ら有名な絵師たちが描いた幕絵が通りの両側に延々と飾られた、甲府城下の道祖神祭とはいったいどういうものであったのか。それについては高橋修さんの「甲府道祖神祭礼と歌川広重の関わり」、井澤英理子さんの「甲府道祖神幕絵の制作」に詳しい。井澤さんによると、「広重の甲州旅行の目的が、緑町一丁目の甲府道祖神祭の幕絵を描くことであったことは、ほぼ確実」。滞在期間は、準備や細工所(アトリエ)での作品制作に没頭しますが、一方で芝居見物や甲府城下の散策、狂歌会、御幸祭見物、親しい者との飲み会などを楽しむ余裕を見せています。そして下絵がある程度完成すると、甲府城下を離れて「御嶽」や「身延」地方、「夢山」方面へ足を伸ばし、美しい甲斐の風光を楽しんでいます。これは絵の題材を取材する写生旅行でもありました。11月かそれ以前、ふたたび江戸から甲州街道を利用して甲府にやってきた広重は、下書きを完成させて彩色を行い、11月19日の朝にすべての幕絵を完成させました。広重が緑町一丁目の道祖神祭のために完成させた幕絵はおそらく11枚であり、それは「東都名所」シリーズでした。「東都」とは江戸のこと。江戸の名所を11枚描いたということは、11ヶ所の江戸名所を描いたということになる。しかしそのうち現存するのは、残念ながら「東都名所 目黒不動之瀧」一枚のみ。幕絵は、「麻布五反分を横に広げて五段に重ねて作った、横幅十メートル以上もの長大なもの」(井澤)で、「細工所」(アトリエ)の床に麻布を伸ばして枠で固定して描いたもの。下絵を描いた時、広重の傍らには、今まで彼が画きとめた江戸名所のスケッチがあったようだ。『江戸近郊図写生帖』などがそれ。他には「両国大花火」・「隅田川の桜」・「洲崎汐干狩」などの絵柄があったと考えられます。あとの7枚は、どこが選ばれていたのか興味があるところです。井澤さんによれば、この「甲府道祖神祭の幕絵制作は広重にとっても会心の出来栄え」であったのです。ではこれらの広重の「会心」の作である幕絵が緑町一丁目の通り両側に飾られた「甲府道祖神祭」というものは、どういうものだったのでしょうか。甲府城下および甲府近辺からやってきた人々は、城下の商店街をそぞろ歩きながら、正月の冷たい風にゆらぐ幕絵を見物したわけですが、緑町一丁目ではリッチなことに広重の描いた「東都名所」の幕絵を鑑賞することができたのです。 . . . 本文を読む

歌川広重の歩いた甲斐道 その4

2009-11-21 05:28:25 | Weblog
笹子峠を越えてから広重が道連れになった「江戸講中」の一団を、勝沼宿から「横道」に入ったことから、私は、その「江戸講中」の一団を、富士浅間神社の参拝および富士遥拝を目的とする江戸庶民の集団ではないかと推測しましたが、彼らは大月宿から富士道を通って上吉田に向かうという「富士講」の一般的なルートをとらずに、勝沼宿から下黒駒へと向かう「横道」を通り、下黒駒から御坂道(旧鎌倉街道)に入り、御坂峠を越えて富士山方面に向かった(あくまでも私の推測)ことを考えると、一つの可能性として、彼らは河口村の御師(おし)に率いられた江戸のどこかの町の富士山を信仰する集団(道者の組織=講のメンバー)ではないか、ということが考えられます。当時、富士山の登山は女性は禁じられていますが(途中までは登ることができた)、4月(旧暦)初旬という時期を考えると、彼らは富士登山(登頂)を目指したわけではなさそう。とすると、この「江戸講中」のメンバーには女性も含まれていたかも知れないし、もしかしたら子どもも含まれていたかもしれない。伊藤堅吉さんの『富士山御師』によれば、河口村は古くから富士山遥拝の霊地であり、そこには浅間神社北口本宮があり、御師の経営する宿坊がありました。河口村からは河口湖の湖面越しに富士山の全貌を遥拝することができましたし、河口湖は禊(みそぎ)をする場所でもありました。この湖畔から上吉田に向かい、吉田の浅間神社を参拝して途中まで登る(女性が入ることができるところまで)というコースを、この広重が出会った「江戸講中」の一団はたどっていったのかも知れません。彼らを率いているのは河口村の御師(推測)。河口村のその御師が経営する宿坊に泊まり、その御師の案内で富士山に向かうのです。この河口村の「檀那場」は、甲斐・信濃ばかりか、越後・上野(こうづけ)・下総・武蔵・駿河・伊豆・相模方面にも広がっており、江戸市中にも存在した可能性がある。しかし、幕末には富士講の驚異的な普及とともに、上吉田の御師たちおよび上吉田(宿坊)にその繁栄を奪われ、道者数は激減。河口村の御師集団は衰退の一途をたどっていました。「富士講」により上吉田に繁栄を奪われた、河口村の御師たちがかろうじて細々と維持してきた道者の一団、それも江戸市中ないし近辺の一団が、広重が甲府盆地に入ったところで道連れになった「江戸講中」であったのかも知れません。 . . . 本文を読む

歌川広重の歩いた甲斐道 その3

2009-11-20 06:35:52 | Weblog
百姓勝右衛門宅で奥から出て来た女性は、70半ばを越したかと思われるおばあちゃんでしたが、「毒蛇済度の旧地」の碑の由来を詳しく知っているばかりか、実は昨年、信州善光寺から江戸・江の島・鎌倉・大山へと寺社参詣および見物の旅に、たった一人で出た女性でもありました。広重は詳しくは記していませんが、そのおばあちゃんの「毒蛇の由来」についての話しぶりからして、その旅にまつわることを詳しく物語ったに違いありません。「其外いろいろ物語る」とあるから、広重は興に乗ってそのおばあちゃんの話を聞き続けたのです。おそらく広重は聞き上手でもあったのでしょう。「粉麦の焼餅をちそう」になりながら、広重はおばあちゃんの話に耳を傾けました。さて、このおばあちゃんは、何を思い立ってか、寺社巡りに出たわけですが、その行程は、信濃善光寺→江戸→江の島→鎌倉(鎌倉→江の島であった可能性も)→大山でした。おそらく甲州街道を歩き下諏訪から中山道に入って、途中長野の善光寺に向かい、善光寺から北国街道を歩いて追分で中山道に入って碓氷峠を越え、江戸に至ったのでしょう。江戸見物をしてから、今度は東海道を利用して、途中から金沢道をたどり(あるいは藤沢から江の島道をたどる)、鎌倉や江の島を巡り、それから大山道に入って大山詣でをしたのです。大山からは矢倉沢往還を歩いて足柄峠を越え、それから須走を経由して籠坂峠を越え、甲州に戻ったと思われます。ざっと考えてみても20日ばかりはかかったと思われる長旅を、70半ばの甲斐の山奥の百姓家の女性が、同行者なしでしているのです。寺社詣でを思い至った理由は何か。その経費はどのように工面したのか。寺社で彼女は何をお願いしたのか。「江戸見物」では、どこを回ったのか。「其外いろいろ物語」った話の内容とはどういうものだったか。知りたいことはいろいろありますが、広重は、それらを聞いているのでしょうが、何も詳しいことは記していません。 . . . 本文を読む

歌川広重の歩いた甲斐道 その2

2009-11-19 06:55:42 | Weblog
広重の甲州への旅行は数回にわたっているというが、その数回の旅行の詳細についてはまだ私にはよくわからない。参考文献が挙げられているので、それを読めばわかるかも知れません。『日々の記』と『心おほへ』から、天保12年(1841年)に2回、甲府を訪れていることは確実。同年4月と11月です。『日々の記』は4月2日の江戸出立から始まり、23日に甲府で辻屋仁助から依頼された小鐘馗の絵を描いたところで終わっています。御嶽道や身延道を歩いたのは、この第1回目の甲府旅行の23日以後における可能性が高い。『心おほへ』の日記は、11月13日の甲府出立から始まり、22日に府中明神前の松本屋に泊まったところで終わっています。1回目の甲府行きの往路は甲州街道を歩き、また復路も甲州街道を利用した可能性が高い(身延道を歩いてまた甲府へ戻っているので)。第2回目の甲府行きの復路は、甲州街道を利用しています。往路はというと、スケッチの検討からやはり甲州街道を利用しているように思われます。つまり2回とも、往路も復路も甲州街道を利用しているらしいということになるのです。 . . . 本文を読む

歌川広重の歩いた甲斐道 その1

2009-11-18 06:34:30 | Weblog
「山梨県立博物館」発行の『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』については以前に触れたことがありますが、私にとってはたいへん嬉しい購入品でした。というのも、広重が甲州街道を歩き、その日記を残していることは知っており、またその日記の引用文も目にしたことはあるのですが、その全文がどこに載っているかを何度か調べたことがあるものの、結局わからずじまいだったから。ところがこの『調査研究報告書』には、その全文が載っていたのです。しかも広重が関係した「甲府道祖神祭」についても、「幕絵」の記載を中心に詳しい。そもそも広重が「甲府道祖神祭」の「幕絵」を描いていたということも私は山梨県立博物館を訪れて初めて知ったのです。以下、この『調査報告書』をもとに、甲斐国内において広重が歩いた道について、まとめてみたいと思います。 . . . 本文を読む

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その最終回

2009-11-14 07:05:12 | Weblog
甲府盆地から御坂峠を越えて河口湖に出るところにあった河口村。この「山梨県河口湖湖畔北岸の山峡」にある河口村が富士山御師の「揺籃の地」であったという、私にとっては意外な歴史的事実を教えてくれたのは、伊藤堅吉さんの『富士山御師』でした。この河口村は、西川・釜抜川・山神川という3河川が、河口湖に流入する川口扇状地にできた集落であり、山峡に点在していた御師たちが、鎌倉往還の開発により、往還筋に逐次移住して成立した集落だと伊藤さんは記しています。御坂峠のある御坂山地は、そうとうに古くから富士山を遥拝する霊地であって、御坂の主稜を乗り越してこの山里に入った崇敬者が、真正面に見える富士山を遥拝した所が創建当時の浅間社(貞観7年〔865年〕創建)があった地であったと伊藤さんは言う。河口湖は、富士山を遥拝し、登山する前に禊(みそぎ)をする場所でもあったのです。かつて御坂峠を越えて河口村に入った富士山信仰者は、河口湖で禊をして湖越しに富士山を遥拝し、それから上吉田へと向かって、その上吉田から頂上を目指しました。富士山御師は、その河口村の浅間神社の神職中の祈祷師として発生しましたが、妻帯もし、農業も営んでいました。かつては御坂山地の山峡各地に点在していたのが、鎌倉往還が整備されていくにつれ、往還筋に集まるようになり、西川の水を往還沿いに側溝を築いて呼び入れ、やがて上・中・下の3宿が出来あがっていきました。各御師たちは各地からやってくる富士山信仰者(富士登山者・道者)のために宿坊をつくり、その宿坊は最盛期には140もの数に達したという。江戸時代の文化期にはこの河口村の戸数は271、人口は1100人を越えました。御師たちがお札を配って回り(配札行)、そして宿坊に泊め、富士登山へと案内した、富士山信仰者が住む地域(檀那場)は、甲斐・信濃・越後・上野(こうづけ)・下野(しもつけ)・下総・武蔵・駿河・伊豆・相模地方にまで及んだという。宿坊を経営する御師たちの苗字は、中村・梶原・渋江・友谷・小河原・宮下など。中でも中村姓は河口村に最も多いものでしたが、この中村一族は、御師たちの中でも最も勢力を張った一族であったようです。私が出会ったN・Kさんも、N・Tさんも、そのような富士山御師の子孫であった可能性が高い。しかし富士講の驚異的普及により、幕末には上吉田にその繁栄を完全に奪われてしまっていました。 . . . 本文を読む

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その9

2009-11-13 07:23:17 | Weblog
『富士吉田市史研究』第2号の「近世吉田地方における絹織業」(神立孝一)によれば、郡内地方には「男は山稼(やまかせぎ)、女は絹稼」という言葉があって、「山稼」と「絹稼」が郡内地方の重要な生業であったという。郡内地方は水田に適する土地が少なく生産性が高い地域ではありませんでした。したがって山稼や絹稼は現金収入を得るために重要な生業であったのです。男は入会山からの燃料材等の刈出しを行ったり荷駄賃稼ぎを行ったりし、女は機織りなどを行いました。「女は蚕を養ひ絹を織り其余農事を業とす」という記録があるように、女性は蚕を飼って織物を行い、それを販売することでそれを生計の大きな足しにしていました。同じく『富士吉田市史研究』第4号「稲作・養蚕と年中行事─富士吉田市上暮地の調査から─」(長沢利明)によれば、この地域の養蚕は、春蚕と秋蚕の2回が一般的であったようだ。春に始まった蚕(春蚕)は初夏には終わり、秋になれば秋蚕が始まりました。上暮地では、集落東方の山中にある白糸の滝のところに「オシラガミサマ(御白神様)」があり、祭日である4月15日(旧暦)は、養蚕農家の参詣者で大いに賑わったという。「オシラガミサマ」は、「オコガミサマ(御蚕神様)」、「カイコガミサマ(蚕神様)」、「コカゲサマ(蚕影様)」とも呼ばれ、蚕(養蚕)の神様でした。「オシラガミサマ」には、招き猫がたくさん奉納されていたとのことですが、これは蚕の大敵であるネズミを捕らえる猫のシンボルでした。「天神」は「機神」でもあり、また「道了尊」も「機屋の神」であり、したがって「天神社」や「道了尊」も養蚕農家の信仰を集めたという。先の神立論文によれば、御師の村である上吉田村においては「養蚕と絹織物は無かった」という。近辺の松山村や新屋村などではかなり早い時期から養蚕と絹織が行われており、それらの村々では、養蚕や絹織は年貢納入のための換金作物としてのウェイトが高かった、という。この郡内地方では田んぼが少なく地味も痩せており、大部分の農家が年貢である米を他の地域から購入していました。「絹稼」は重要な現金収入源であったのです。そういう地域であったために、この地域の農民たちは「米相場や換金作物、生産物の相場から影響を受けることに」なり、相場の変動はただちに生活に影響しました。ということは彼らは相場の上下に敏感であったということでもあるでしょう。 . . . 本文を読む

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その8

2009-11-12 06:35:15 | Weblog
臼井秀三郎が写した河口村の鎌倉往還(御坂みち)の路上両側に敷かれているのは、茣蓙であり、それはどうも養蚕関係のものであることがわかってきました。実は『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』に抜粋されているヘンリー・ギルマールの『いなごの喰った年』の中に、次のような記述があります。場所は吉田。「きれいな山中湖を過ぎ、吉田に着いた。旅行者はすぐに吉田が養蚕地であることに気づく。なぜなら、通りに沿って茣蓙が並べられ、その上で何百万という数の金色の繭が干されているからである。もしそれがなければ、スイスに少し似ていることを思い出すかもしれない。家の屋根にあるこけら板の重しには、スイスで見かけるように、石または石ぐらい重い綱が使われているからである。」これは御師(おし)の町である上吉田のことではないように私には思われます。上吉田周辺の街道筋の村か、あるいはこれは吉田の記述ではなく河口村の記述であるかもしれない。あるいはほかの村と同様な光景が、河口村でも見られ、それらを全部ひっくるめた記述かも知れません。道両側に、真ん中の通り道をのぞいて茣蓙が延々と敷かれている光景に興味をもったギルマール一行は、その景観がもっとも整然としていた河口村の通りを、同行カメラマンである臼井秀三郎に写させたのかも知れない。明治15年7月14日のギルマールの『旅行日誌』には、「舟を漕いで島から戻り、湖上の向こうにある内陸部の写真を撮った。それから、昼食。その村の写真を撮り、藤野木に向けて出発した。」もちろん「湖上」とは河口湖の上ということであり、「村」とは河口村のこと。村の写真を撮った場所は、現在のN・Kさんの家の前。左手には現存するN・Tさんの家が写り、また中央右手にはやはり現存する道祖神が写りました。通り両側、用水路に沿って延々と敷かれているのは茣蓙であり、白い布のようなものは「何百万という数の金色の繭」を天日干ししているものかも知れません。茣蓙も白い布のような何かも、この当時、河口村の重要な生業(なりわい)の一つであった養蚕に関係するものであることは間違いのないもののようです。こういう沿道の光景は、山中湖から河口村までの沿道(鎌倉往還の)で、この時期(旧暦では6月中旬頃)にはよく見られた光景なのでしょう。当時の村人にとってはあたりまえの光景でしたが、外国人一行にはきわめて興味深い光景であったのです。 . . . 本文を読む

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その7

2009-11-11 06:52:30 | Weblog
マーケーザ号という420トンのスクーナー型ヨット(補助機関として蒸気機関を持つ)が、イギリスのカウズという港町を出発したのは1882年(明治15年)1月8日。イベリア半島、地中海などの旅行を経て4月24日にセイロンのコロンボに到着。セイロンの旅行を楽しんだ後、ギルマール一行はコロンボからシンガポールまではフランス郵船のシンド号に乗船。シンガポールからふたたびマーケード号に乗り込み、台湾を経由して琉球に上陸(6月28日)。3日ばかり滞在した後、日本へ向けて出航し、7月4日に横浜に到着しました。横浜で通訳や写真師(臼井秀三郎)を雇ったギルマール一行は、最初の日本旅行として、富士山の周囲をぐるりと回ることを決め、7月8日に横浜を人力車に乗って出発しました。暑い盛りであり、国内ではコレラが大流行していました。ギルマール一行がこの真夏の最初の日本旅行で悩まされたのは、下肥(肥料)の糞尿の臭いであり、旅宿における蚤や蚊の襲来、雨によってぬかるんだ泥濘の道、外国人一行を一目見ようと集まる群集でした。蚤や蚊の襲来が外国人旅行者を悩ませるものであったことは、他の外国人旅行者の記述にもひんぱんに出てきますが、ギルマール一行も例外ではありませんでした。とくにギルマールは、蚤や蚊の遠慮のない襲来には相当に閉口したようです。ギルマール一行は7月13日に河口村の旅宿に泊まっていますが、ここで彼らは「不快のどんぞこ」を経験。それは「無数の蚤と蚊」の「襲撃」でした。ギルマールは次のように記しています。「我々はその時には蚤袋が絶対に必要であることには気が付いていなかった。後でそれが絶対に必要であることを悟った。蚤袋は上等な麻の袋で、足の部分を覆うところはないが、腕を覆う部分はある。ただし、その部分の端は閉じている。手や指を覆う部分はない。その袋は首の部分できつく締めるようになっている。実際、その時代、その蚤袋なしには日本を旅行することはできないと言われていた。しかし、今述べたような障害を別にすれば、この地域が大変魅力的な場所であることを認めないわけにはゆかない。我々は河口湖に映る富士山のすばらしい写真をいくつか撮ることができた。そして、夜に赤軍(蚤と蚊)と戦闘したことをほとんど忘れてしまったのである。」翌日の夜は藤野木に泊まりますが、そこには蚤や蚊はいなかったため、彼らは安眠することができました。 . . . 本文を読む