鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

韮山代官江川太郎左衛門英龍の過労死 その3

2008-04-29 06:32:11 | Weblog
ディアナ号の修復場としてなぜ戸田村が選ばれたのか。ロシア側が初め候補地として申し出たところは、浦賀・清水・掛塚の三港でした。しかし清水や掛塚(天竜川の河口)は東海道沿いであり、また浦賀も江戸に近い重要港ということで幕府側の認めるところとはなりませんでした。幕府側が提示したところは、伊豆国の妻良・子浦・白浜、あるいは相模国の野比・長沢(いずれも三浦半島)であったらしい。しかしロシア側は承知せず、筒井や川路は、伊豆国の海岸に限ってロシア側が見分することを許可。その結果、ロシア側が見出したのが戸田村でした。戸田には大川という川が流れていますが、その北側は旗本小笠原安房守順三郎の領地、南側は沼津藩水野出羽守忠良(ただなが)の領地でした。総戸数は600近く、人口は3000人ほどの、漁業・回船・石切りで栄えた村でした。湾口は狭く、湾内はまるで湖のよう。湾口からは駿河湾が見え、その向こうに晴れていれば富士山がくっきりと見える。湾内の波はいたって静かで、広い砂浜が延び、また外海から中が見えない。この港を見出した時、おそらくロシア側の士官は感嘆の声をもらしたにちがいない。ロシア側の提案に対して、下田の応接掛が全員集まって協議。その結果、戸田村がディアナ号の修復場として許可されることになったのです(11月23日)。では、そのディアナ号の戸田村で修復の「諸事監理役」になぜ江川太郎左衛門英龍が任命されたのか。大きく二つの理由がありました。一つは、戸田村が沼津藩および旗本の領地であったとはいえ、韮山代官所から近かったこと。二つ目は、英龍が造船術については当時天下の第一人者であったこと、でした。幕閣は、本来は下田奉行支配向でやるべきところだが、地震や津波による復興のために忙しく、また与力同心も人数不足であるからとして、韮山代官所の方に仕事を振り向けました。事態は、代官所の方でも同様であったにも関わらず……。英龍は、しかしそれを引き受けることに。その命を受けたのは、仲田正之さんの『江川坦庵』によれば、韮山を出立して江戸に向かう途中の小田原宿においてのこと。安政元年(1854年)の11月29日のことでした。その命を受けて東海道を取って返す英龍に、ディアナ号が宮島村の沖合いで座礁したとの注進が入ります。驚いた英龍は、三島→沼津城下→原を通過して、その日の夜、宮島村近くの鮫島村に到着します。 . . . 本文を読む

韮山代官江川太郎左衛門英龍の過労死 その2

2008-04-26 06:24:06 | Weblog
下田港に来航したディアナ号の乗組員は501名(通詞の堀達之助の下田奉行宛上申書による・異説もあるがおそらくこれが正しいか)。その内訳は、士官27名(使節プチャーチンを含む)・陸兵49名・水兵425名。うち水兵一人が大津波の時に大砲の下敷きになって死亡したため、ディアナ号沈没時のロシア人総数は(おそらく)500名。そのうち、江ノ浦に退避したプチャーチンら一行はおよそ30名(20名余という異説もある)、一本松の浜辺に打ち上げられた幕府船に乗船していて、戸田村へと送られたロシア人が18名。ポシェットらとともに下田に残っているロシア人がおよそ30名(詳細はわからないので大体の推定)。とすると、ディアナ号に乗り組んでいて、宮島村の三四軒屋浜に上陸したロシア人は、およそ420名前後となる。記録によると、12月6日の早朝、宮島村を出立し、東海道を東進して沼津城下経由で戸田へと向かった一行は、使節プチャーチン以下210名。勘定留守役中村為弥、御普請役森山栄之助もこれに付き添っています。翌12月7日に同じく戸田へ向かったロシア人はディアナ号艦長レソフスキー少佐以下210名とある。合わせて420名。だいたい計算は合うことになる。ただ歩くだけではない。前触れも出さなくてはならないし、休憩場所(原宿)での食事も用意しなければならない。またトラブルが生じないように厳重な警護の体制もとらなくてはいけない(沼津藩兵や小田原藩兵が動員される)。宿泊先の江ノ浦の準備(寺・部屋割・食事の手配)もしておかなくてはならない。  しかも念頭に置いておかなくてはならないことは、東海道筋は、前月の11月4日に発生した大地震によって壊滅的な打撃を受けていたことです。  休憩場所に予定されていた原宿の被害は比較的軽微であったと言いますが、沼津では、御殿(藩主の住まうところ)を始めとして家臣の屋敷や長屋、勘定所などの諸役所、大手外の番所・太鼓門・櫓などが全壊し、城下も上土(あげつち)町の中ほどから出火して川廓(かわぐるわ)町まで焼失していました。  目的地の戸田村も、593軒中、津波による流失が24軒、全壊81軒、水死30人…と大きな被害を受けていたのです。  プチャーチンらが歩いていく東海道筋の村々も、大地震による被害の後遺症からまだまだ立ち直ってはいなかったはずです。 . . . 本文を読む

韮山代官江川太郎左衛門英龍の過労死 その1

2008-04-25 06:13:25 | Weblog
沼津から吉原本町手前までの旧東海道を歩き、取材したことの報告をしていく中で、旧東海道を歩いたプチャーチンをはじめとした多数のロシア人(ディアナ号乗組員)のことについて触れました。このような多数の異国人が、範囲はかなり限られていたとはいえ、幕府にとってもっとも重要な公道である東海道を歩いた(幕府側からすれば歩かせてしまった)ということは、「前代未聞」であり「空前絶後」のことでした。これはある意味では幕府の沽券(こけん)に関わることであったはず。そのことにしっかりと目の行き届いた記述をしているのは、やはり吉村昭さんでした。『落日の宴』で、吉村さんは次のように記しています。 . . . 本文を読む

2008.4月「沼津宿~吉原宿」取材旅行 その9

2008-04-23 04:07:19 | Weblog
ここまで書いてきたところで、ひさしぶりに吉村昭さんの『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』を本棚から取り出し、その中の関連部分を読み返してみました。このあたりのことについては私なりに細かく調べてみたつもりですが、読み返してみて、吉村昭さんの徹底した取材にもとづく詳細で正確な記述にあらためて感嘆させらました。今まで不確かであったところがはっきりし、またブログの記事で間違っていたところを訂正することになりました。一本松新田の浜に打ち上げられた船は、「日本の船」で、ディアナ号とともに下田港を出港した「エンクヴィスト海軍大尉を指揮者とした十八名の『ディアナ号』乗組員を乗せた船」であると明記されている。また「一本松に上陸したエンクヴィスト海軍大尉ら十八名のロシア人たちを、五艘の船に分乗させて戸田村に護送するよう手配した」ともある。私は、18名はおそらくプチャーチンらの一隊と合流し宮島村に向かったのでは、としましたがそれは間違いだということになります。宮島村に上陸したプチャーチンがディアナ号を戸田村の港に曳航して欲しいと要請した相手は江川太郎左衛門。プチャーチンと通詞の森山との会話は、ロシア側のオランダ語通訳官を介してなされただろうと考えた私は、その通訳官はとうぜんにコンスタンチン・ポシェート海軍少佐であろうと推測して、そのようにブログに書いてしまいましたが、『落日の宴』では、「ポシェットは…プチャーチンから下田にのこるよう命じられているので、あらためて命令がないかぎり下田をはなれるわけにはゆかぬ、と言ったという」とある。つまりポシェットは、ディアナ号には乗っていず、したがってプチャーチンのそばにはおらず、プチャーチンと森山の会話の通訳をしているはずはない。ポシェットは下田柿崎村の玉泉寺にいるのです。どういう資料を読み込んで記述されたのか、吉村昭さんの徹底した調査にあらためて敬服する思いでした。 . . . 本文を読む

2008.4月「沼津宿~吉原宿」取材旅行 その8

2008-04-22 06:00:00 | Weblog
安政元年(1854年)の11月下旬から12月初旬にかけて、この駿河湾沿いの東海道を行き来した人々の中には、有名な人物では韮山代官の江川太郎左衛門がいます。他に幕末の通詞(つうじ・通訳)として有名な森山栄之助(後に多吉郎〔たきちろう〕)や堀達之助(たつのすけ)もいます。この2人は、長崎のオランダ通詞の出身で、オランダ語を流暢(りゅうちょう)に話すことが出来ました。したがって、プチャーチンや士官たちとは、ロシア側のオランダ語を話せる通訳官を介して会話をすることが出来ました。森山栄之助については英語も通訳可能な通詞であって、アメリカやイギリスとの重要な外交交渉にも頻繁に顔を出します。当時は幕府直参(じきさん)の御普請役(ごぶしんやく)として、外交機密に深く関与した人物でもありました。おそらく長崎出身のオランダ通詞としては、幕末においてもっとも有能で、そしてもっとも出世した人物ではないかと思われます。戸田村からの要請を受けて、森山は、11月29日に下田を出立。戸田に到着した森山は、18名のロシア兵が上陸した、原と吉原の間の一本松に向かいます。そしておそらくその途次、ディアナ号の座礁を知り、原宿を経由して富士郡宮島村の三四軒屋浜に急行。12月2日の午後には、森山はディアナ号艦長のレソフスキー海軍少佐の傍らにあって、ディアナ号が多数の漁船に曳航されて戸田へ向かっていったものの、途中でとつぜん元綱が切られ、ディアナ号がふたたび流されてくる様子を、望遠鏡で見詰め続けています。やがてディアナ号は沈没。翌3日にプチャーチンらの一行が江ノ浦から東海道経由で宮島村に到着すると、通訳としてプチャーチンらに対応し、6日にはプチャーチンら200余名のロシア人とともに東海道を戸田に向けて出発しています。森山は、ロシア兵や沼津藩兵らとともに、原→沼津城下→江ノ浦(泊)→西浦海岸→真城(さなぎ)峠を経て、翌7日に戸田村に到着。森山は、その道中、常にプチャーチンのそばにいたはずです。おそらく森山とプチャーチンとの会話は、ロシア側の通訳官を介して行なわれていたことでしょう。2人の間には、いったいどのような会話(3人以外にはどういう内容の会話がなされているか理解出来るものは誰もいない)がなされたか、大いに興味のあるところです。 . . . 本文を読む

2008.4月「沼津宿~吉原宿」取材旅行 その7

2008-04-21 06:00:39 | Weblog
プチャーチンならびに士官、およびロシア兵たちおよそ200名余の先発隊が駿州宮島村を出立したのは安政元年(1854年)12月6日。この先発隊には、数名の幕府役人と200名余の沼津藩士が警護のために付き添っていました。彼らは原宿で休憩をとり、沼津城下を通過。その日は江ノ浦に泊まり、翌日、西浦海岸→真城(さなぎ)峠を経て、戸田に入りました。プチャーチンらが江ノ浦を出立したその日の朝、船将レソフスキーら、宮島村にいた残りのロシア兵200数十名が、やはり幕府役人・下田奉行附同心・200名ほどの小田原藩士の警護のもとに、宮島村を出立。おそらく先発隊と同じく、原宿で休憩をとり、沼津城下を通過して江ノ浦に一泊。翌日の12月8日、真城峠を越えて戸田に入りました。12月2日にディアナ号が宮島村の沖合いで沈没しますが、その翌日、まずプチャーチンらロシア人20名ほどが、幕府役人や沼津藩兵の警護のもと、原宿を西に向かって通過し、その4日後の12月6日、今度は大勢のロシア兵が沼津藩士の警護のもと原宿を東に向かって通過。その翌日、またまた大勢のロシア兵が小田原藩士の警護のもと原宿を東に向かって通過していきました。それぞれ400名以上の行列で、これだけ多数の異国人が東海道を通過したことはかつてなかったこと。その行列を見る沿道の人々にとってはたいへんな見物(みもの)であったことでしょう。沿道の人々は、ディアナ号が宮島村の沖合いで沈んだことも、目の前を通過する異国人がロシア人であることも、ここから沼津城下を通過して、対岸に見える伊豆半島の大瀬崎の向こうにある戸田村へ向かうこともおそらく知っていたに違いない。ディアナ号が宮島沖に沈没した12月2日から12月7日までの6日間、この原宿を貫通する東海道には、幕府役人・沼津藩兵・小田原藩兵・ロシア士官・ロシア兵が多数行き交い、騒然とした雰囲気が満ち満ちていました。 . . . 本文を読む

2008.4月「沼津宿~吉原宿」取材旅行 その6

2008-04-19 06:40:06 | Weblog
幕末に、江戸から下田に御用を命ぜられた幕臣の一人に、加藤啓之進という者がいる。彼は御先手組同心。同役の山口成一郎とともに、安政元年(1854年)の11月29日(旧暦・以下同じ)に江戸を出立、まず品川宿に泊まります。そして藤沢→小田原と泊まりを重ねて、12月3日に小田原宿を出立。「海岸通り横みち」に入り、根府川の関→岩村→真名鶴(真鶴)→福浦→吉浜→門川→稲村→伊豆山を経て、熱海の渡辺彦左衛門方に宿を取ります。その夜、今井本陣の今井半太夫(熱海村の名主で、格式の高い湯治宿も経営している)が、加藤と山口のもとにご機嫌伺いにやってきて、次のような情報を加藤らに提供します。 . . . 本文を読む

2008.4月「沼津宿~吉原宿」取材旅行 その5

2008-04-18 06:41:02 | Weblog
千本浜公園という駿河湾の北部にある長大な松原があるあたりは、実は、幕末の日本における日露交渉の舞台の一つとなった地域でもあります。大きく見てみると、幕末日露交渉の主な舞台となったところは、①蝦夷地②長崎③大坂湾④下田⑤駿河湾北部⑥戸田(へだ)⑦対馬(つしま)の六つだと思われますが、伊豆半島およびその付け根部分(駿河湾北部)にそのうち三つが集中しています。富士川を西へ越えた東海道筋に、「三四軒屋(さんしけんや)緑道(りょくどう)公園」というのがあり、そこには沖合いの水深24mの海底から引き揚げられた巨大な錨(いかり)〔高さ4.2m〕が展示されているそうですが、それは、日本との通商開始と国境確定を目的としてやってきたロシア使節プチャーチン一行を乗せたディアナ号のもの。このディアナ号は、安政の大地震による大津波のため下田港において損傷し、その修理のために戸田に向かったものの、西南西の強い風のために戸田に入港することが出来ず、駿州富士郡宮島村三四軒屋浜の沖合いおよそ183mのところに投錨。ところが、その後、波浪のために座礁してしまいます。そこで戸田への日本の漁船による曳航が始められましたが、風浪のため危険であると判断され、曳航するための元綱が切断されたことにより、ディアナ号はもとの投錨地付近に流され、結局沈没してしまうことになる。それは安政元年(1854年)の12月2日(旧暦)のことでした。このディアナ号の曳航や、ディアナ号の乗組員をはじめとするロシア兵の救助活動に活躍したのが、宮島村をはじめとした駿河湾北部の海岸沿いの村々でした。我入道(がにゅうどう)・桃郷・静浦(しずうら)・江ノ浦(えのうら)・三津(みと)などといった村々。今、歩いている原宿の人々も、実はそのロシア兵たちと無関係ではありません。またディアナ号の乗組員たちは、宮島村から東海道を東進し、原宿→沼津城下を通過して、江ノ浦から真城(さなぎ)峠を越えて、戸田に向かっています。彼らを警護していたのは沼津藩兵。つまり沼津藩兵によって警護されたロシア兵たちがこの東海道を歩き、沼津城下を通過していることになる。その一団は、多い場合は200余名。沿道の人々にとっては、たいへんな見物(みもの)であったに違いない。 . . . 本文を読む

2008.4月「沼津宿~吉原宿」取材旅行 その4

2008-04-17 06:35:55 | Weblog
沼津という町は、中世初期に狩野川河口の川湊として成立したのだという。箱根路の隆盛に伴い車返宿が発展し、戦国時代になって車返宿と沼津郷が融合して、交通商業都市沼津が形成されたとのこと。三枚橋城は、北条早雲あるいは武田勝頼の家臣が築造したと言われ、後に水野氏の居城として再築され、幕末に及びました。狩野川の河口部から田子の浦にかけて延びる長大な松原は、現在、千本浜公園になっていますが、もともと風光明媚であったところが、戦国時代には荒廃していて、周辺の人々は潮風害で苦しんでいたという。それを見た増譽(長円)という僧侶が、念仏を唱えながら一本一本松苗を植え続け、植林に成功したのだという。「千本松原」と言われますが、享保年間には6000本近くの松の木があったらしい。大正15年(1926年)、静岡県がこの地を開発しようとしますが、若山牧水らの働きでこの松原は守られ、また昭和39年(1964年)にもコンビナートの建設が計画されたものの、市民の運動によりこの松原は守られたと言いますから、よくぞ残った松原だということになります。この千本浜公園は、「全国松原100景」の一つになっており、旧東海道を沼津から吉原まで歩くと、つねに左手に松の木の繁りが目に入ります。松原の海沿いも歩いてみたかったのですが、今回は断念。また機会があったらぜひ歩いて見たい。サイクリングもいいかも知れない。 . . . 本文を読む

2008.4月「沼津宿~吉原宿」取材旅行 その3

2008-04-16 06:23:35 | Weblog
湧水で有名な柿田川は狩野川に流れ込む。つまり柿田川は狩野川の支流の一つということになります。しかしこの柿田川は全長およそ1200mに過ぎない。その名も清水町の、国道1号線の直下からこつぜんと湧き出します。ここが柿田川の源流。川幅は30~50m。昭和61年(1986年)の4月に、川の保護・保全のために「柿田川公園」として開園しました。「露研」の旅では、三島駅より2台のタクシーに分乗し、「泉の館」の駐車場に到着。湧水を使用したコーヒーを味わった後、国道1号線の横を通って、柿田川公園に入りました。遊歩道を歩いてまず第一展望台より「わき間(ま)」を見ました。ここが富士山周辺に降った雨や雪が、三島溶岩流の間を地下水となって流下して湧き出てくるところ。大小数十ヶ所の「わき間」から湧き出る水量は、1日約100万トンと推定され、湧き水としては東洋一だという。桜の花の下を第二展望台へ。ここの湧き水は、かつて紡績会社が井戸として利用していたという。井戸を思わせる筒状の囲いがあり、その筒の下の砂地からこんこんと湧き水が噴き出ています。水の色は鮮やかなエメラルド色。そこに数尾魚が泳いでいます。観光客は、みな展望台から前のめりになってのぞきこみ、その水の色や砂地を噴き上げる「わき間」に感嘆しています。そこからさらに遊歩道を歩いて、湧水広場を経由し、柿田川の川べりへ。木造の遊歩道より、柿田川中流の清冽な流れを見晴るかすことが出来ました。「八つ橋」より「泉の館」の駐車場に戻り、そこからタクシーで沼津港に向かったのですが、タクシーの運転手さんの話によると、柿田川も、三島市街を流れる源兵衛川も、子どもの時には中に入って川遊びをしたり魚を釣ったり出来たという。かつての方がずっとよかったとのこと。川は自然のままが一番よい。観光地化されて、自然の川のよさを失ってしまった、と言われました。たしかに柿田川は公園化され、遊歩道も整備されているものの、湧水広場を除いては川の流れと触れ合う場所はない。私個人としては源兵衛川の方が、川のそばや川の中の遊歩道を歩けて面白かったのですが、その源兵衛川も、そのタクシーの運転手さんに言わせれば、遊歩道が整備されて悪くなった(自然のままの川ではなくなった)ということになります。清流の「保全・保護」、なかなか難しい問題だと思いました。 . . . 本文を読む

2008.4月「沼津宿~吉原宿」取材旅行 その2

2008-04-15 06:12:56 | Weblog
「露研」では、3月29日(土)に小田急線町田駅から「あさぎり号」に乗り、御殿場線経由で沼津まで直行しました。途中、右手に雪をかぶった富士山がきれいに見えました。沼津から東海道線で三島に行き、三島の駅前で昼食。「うな丼」を食べたのですが、「あさぎり号」の車中、再会した仲間たちとビールやスコッチウィスキーを酌み交わしたので少々酔っ払い、残念ながら味を覚えていず、店の名前は紹介しません。三島駅に戻り、北口からホテルの送迎バスに乗り、伊豆長岡温泉の「ホテルサンバレー伊豆長岡」まで。酔いと1年間の疲れからか、私を含め6人とも車中で熟睡。「ホテルサンバレー伊豆長岡」のお風呂(「満天の湯 夢殿」)については、2006年8月23日の取材旅行で利用したことがあり、ぜひ、「露研」でも利用してみたいと思っていました。と言っても泊まるのは初めて。部屋に入ってからさっそくお風呂に入りましたが、天井は高く、湯船は広く、泉温は熱くもなくぬるくもなく、まったくの適温で、やはりいいお風呂でした。このホテルには、片岡球子さんの斬新な富士の絵を始めとして、上村松園・鏑木清方の日本画など、数多くの絵や写真がロビーや廊下などいたるところに展示されていて、まるで美術館のよう。湯上りの浴衣姿でゆっくりと鑑賞できるというのはなかなか有り難い。頼んだバイキングの夕食・朝食とも満足いくものでした。翌日は、送迎バスで三島駅に戻り、三島駅からタクシーで柿田川湧水公園へ行き、柿田川べりの散策路を歩いて、それからふたたびタクシーで沼津港の食堂街へ向かったのです。前に三島駅前の観光案内所に立ち寄った際、もらったパンフレットの中に、「開いてさがそう!食べつくそう!沼津港の歩き方」というパンフレットがあり、それを見て、沼津港で昼食を摂ろうと計画を立てたのですが、タクシーの運転手さんが言っていた通り、日曜後のお昼ということもあって、たいへんな賑わい。どの店にも行列が出来ていました。私たちは「やま平」という小さな魚料理の店に入って、海鮮丼などを食べました。沼津駅へは、沼津港内湾を左手に見るバス停(ここから土肥などへ行く船に乗ることが出来る)から、ワンコインバス(100円バス)に乗りましたが、その港から見えたのが、沼津港大型展望水門「びゅうお」でした。 . . . 本文を読む

2008.4月「沼津宿~吉原宿」取材旅行 その1

2008-04-14 06:15:47 | Weblog
19日(土)に予定が入ったため、急遽、一週間早めて恒例の取材旅行を行なうことに。新聞では天気もそれほど悪くなさそう。今回は久しぶりに、出発地点近くまで愛車キューブを利用することにしました。前月は、沼津城下の「川廓(かわぐるわ)通り」まで歩いたところで、中央公園で行なわれていたアコースティックギターとボーカルのコンサートを、休憩かたがた鑑賞したため、その先を歩くことを断念したので、今回は、「川廓通り」の途中から沼津城下を通って、吉原宿まで歩いてみることにしました。自宅を出発したのは、未明の4:30。厚木ICより東名に入って沼津ICで下り、途中コンビニで朝食を購入して千本浜公園の駐車場に着いたのが6:27。早朝ドライブということもあって、2時間かからずに目的地に着きました。堤防の上の散策路に出ると、すでに早朝の海を眺めている人や、早朝ウォーキングやジョギングをしている人たちがいる。私は、階段に座って、海を見晴るかしながら、コンビニで買ったおむすびをほうばる。空はあいにくの曇天。一部、雲の薄いところが明るくなっているけれども、西の空を見ても晴れてくるようには思われない。おむすびをほうばっていると、どこからかハトが飛んできて周囲に鳴きながら集まってくる。その数50羽ほど。こんな数のハトに囲まれたことはない。私のおむすびのおこぼれに与かるのが目的らしい。肩や腕に止まらないのがつつましやかで可愛いく思う。前にあるところで無遠慮に肩や腕に止まるのがいたので。口の中のご飯粒を飛ばすと、それをハトたちがついばむ。しばらくすると、私のまわりに群がっていたハトたちがいっせいに少し離れたところに飛び移って、海の方を斜めに向いて、階段に並んだので、どうしたのかと疑問に思っていると、私の右斜め後ろに猫がしのびよって、ハトたちをうかがっているのを発見。ハトたちはその猫を警戒していたのです。猫は階段にへばりつくようにして匍匐(ほふく)前進。飛び去ればいいのに、ハトたちは逃げずに、警戒しながら並んでいる。それを見ながら朝食を食べ終え、車に戻ってリュックを背中に掛け、水門「びゅうお」の方角に向かって堤防の上を歩き出しました。 . . . 本文を読む