鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.7月取材旅行「桐生」 その4

2012-07-31 05:12:29 | Weblog
崋山は岩本家を拠点にどこを歩いたのだろう。私がまず関心を持つのは、崋山が歩いた道筋の景観はどのようなものであったかということ。言葉を変えれば、崋山は歩いた道筋でどういう景観を眺め、何を感じたのかということ。日付を追って彼が訪ねた先を見ていきたい。諏訪山能満寺観音院(10月14日)、見和神社・光明寺・織石山・雷電山(15日)、小倉山・堤村・高津戸・要害山・大間々神明宮・はね滝・道了権現・天王宿(16日)、葉鹿村・足利(21日)、足利学校(22日)、五十部村(23日)、桐生川・下菱村(26日)、紗綾市・天満宮(27日)、赤岩橋・藪塚・尾島村・前小屋村・高島村(29日)。そして11月6日には岩本家を出立し、中山道深谷宿へと向かっています(いよいよ三ヶ尻村の調査を行うため)。私も、今後、それらの崋山が歩いた道筋を、過去の景観を探りながら歩いてみたい。 . . . 本文を読む

2012.7月取材旅行「桐生」 その3

2012-07-29 06:22:37 | Weblog
『毛武と渡邉崋山に関する新研究』眞尾源一郎(非売品)によれば、桐生新町の岩本家は、「近江屋ズシ」に面して表門があったという。「ズシ」とは小路」のことで、「近江屋ズシ」とは「近江屋小路」といった意味となる。では「近江屋」とはどこかというと、北隣の「矢野家」のことであり、この矢野家は、現在においても存続しています。『桐生本町一、二丁目まち歩きマップ』の⑯に「有鄰館」があり、⑰に「矢野本店店舗及び店蔵」(いずれも市指定重要文化財)がありますが、解説によれば、二代目矢野久左衛門が寛保2年(1742年)、現在地に店舗を構えて以来、桐生の商業に大きく寄与してきた土蔵などの建物群であるという。現存する土蔵やレンガ蔵は、しかしながら江戸時代のものではなくて、明治から大正期にかけて建築されたもの。そのマップに「酒屋小路」とある通りが、おそらくかつての「近江屋ズシ」であり、この「小路」に面して岩本家の表門があったことになります。岩本家の「近江屋ズシ」を隔てた北隣の「矢野家」は、屋号が「近江屋」であったのです。 . . . 本文を読む

2012.7月取材旅行「桐生」 その2

2012-07-28 05:24:26 | Weblog
崋山の到着は「亥刻」過ぎ(午後10時過ぎ)であったにも関わらず、真夜中、崋山の到着を知って駆け付けてきた女性がいる。岩本家と同じく桐生新町に住む、津久井承沢(しょうたく)という医者の妻で、すでに承沢は文化8年(1811年)に亡くなっているから、この女性は未亡人ということになる。この女性は、崋山と同じく田原藩士であり目付役兼勝手吟味役であった斎藤式右衛門の妹「のぶ」。真夜中に岩本家に訪れるほどだから、岩本家、とくに崋山の妹茂登(もと)とは、同じく田原藩の出身ということもあってか、よほど昵懇の間柄であったと思われる。崋山は次のように記しています。「我いたりしをよろこび、此夜走りいたり、四方山のものがたりに時移りて鶏鳴におよぶ」。この日、崋山は鴻巣宿から桐生まで、およそ17時間ほどの旅をしています。前日は江戸から鴻巣宿までの中山道をひたすら歩いています。疲れは相当にあったはずですが、駆け付けた「のぶ」という女性から問われるままに(その場にはおそらく妹茂登も加わっていたものと思われる)、田原藩邸内の同僚やその家族たちのこと、また江戸の近況などについていろいろ語り続けているうちに、「鶏鳴」時を迎えてしまったのです。 . . . 本文を読む

2012.7月取材旅行「桐生」 その1

2012-07-27 05:28:52 | Weblog
渡辺崋山が桐生新町の岩本家に到着したのは、天保2年(1831年)10月12日(旧暦)の亥刻過ぎ(午後10時過ぎ)のこと。岩本家では崋山のためにお風呂を用意しており、早速崋山は勧められるまま熱い湯船に浸かって旅の疲れを癒しています。その後、遅い夕食。崋山は、「酒、吸いものふたつ、鯛のやきもの、すゞり蓋、鉢肴等、くさぐさのもの、いだしもてなす」と記しています。「鯛の焼きもの」に注意したい。太田を通過した時、崋山はこのあたりの魚は常州(常陸国)から来ており、「冬は鯛、ひらめ、あはび、たこ」と記しています。この桐生あたりでも、海魚である鯛は、太田と同様、常州から来ていたのだろうか。崋山はこの桐生新町の岩本家に20日以上滞在し、ここを拠点に桐生内外を歩いています。「毛武游記」の圧巻の部分であるわけですが、今回の取材旅行では、桐生市立図書館の開館時刻に合わせて、それまで、桐生市内をざっと歩いてみることにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

富士市立博物館 展示会「講 ~人と人をつなぐもの~」 その最終回

2012-07-25 04:19:31 | Weblog
全国各地にあった「講」という組織(人と人のつながり)は、明治・大正・昭和初期と続いていったものの、特に戦前・戦後にかけて急速にその力を失っていったように思われます。あの隆盛を極めた「富士講」や「大山講」も然り。宮田登さんの『山と里の信仰史』(吉川弘文館)によれば、「講」の名称は、中世以来の民間社会に広範囲にみられるものであり、仏教寺院の講会に発して、講経に際して集会する仲間を意味したとのこと。「講」という組織は中世以来、民間社会に広範囲にみられたものであったのが、日中戦争・太平洋戦争(アジア太平洋戦争)に突入していく昭和初期において、急速にその力を弱め、そのほとんどが消滅していったということは、どういう事情によるのか。私にとっては大変興味のあるところです。地域のあり方や人と人とのつながりのあり方、人々の価値観などが大きくこの時期に変容していったらしいことを伺わせるのですが、そのあたりのことはまだ十分に把握しきれてはいません。前掲書の記述で興味深かったのは、たとえば「念仏講」において、「念仏を唱える前に茶菓子などを食べながら、ムラの出来事について、かなりの時間をかけて話し合」われたという記述や、「ムラの話題が講をかりてつねに論議された。ムラ内における講の一つの機能」は、幾つかの講に所属してそれらの講に参加することにより「お互いに立場をかえて話をしたり、聞いたりするうちに、今年のムラ寄合の決定事項もしだいに固まっていき、いざ寄合になると、すでに納得し合っておりスムーズに定められた」といった記述でした。講の行事の前後に、茶菓子などを食べながらどういう内容の雑談が行われたかは、記録がないのでわかりませんが、さまざまな情報が行き交い、さまざまな相談事が交わされ、先輩や先人の知恵が継承されていったに違いない。一人がいくつかの講に所属しているのはごく普通のことであり、「お互いに立場をかえて話したり、聞いたり」することによって、自分なりの価値観を形成したり意思決定をしていく場にもなったことでしょう。遠隔地の寺社などへ「代参講」の旅をすることによって、泊を重ねて長い道中を歩くことで、他地域や他地域の人々と接触し見聞を広めていったことも、人生において大きな意味をもったことと思われます。 . . . 本文を読む

富士市立博物館 展示会「講 ~人と人をつなぐもの~」 その6

2012-07-23 04:11:15 | Weblog
徳富蘇峰は、明治13年(1880年)の夏、上京の途次、大宮(富士宮)から富士登山をしています。大宮から登ったということは、おそらく村山口登山道を利用して登頂したと思われる。下山は須走口登山道を利用し、須走→足柄峠を経て、小田原より東海道へと入って東京に向かっています。それから33年後の大正2年(1913年)の夏、蘇峰は高根村増田(現御殿場市)の青龍寺に一ヶ月ほど滞在しているのですが、ある日(8月3日)の早朝、古沢の浅間神社に立ち寄った際、その北側を走っている街道を見て、33年前に17歳の自分がここを通ったことを思い出しました。そして竹之下(足柄峠のふもと)まで、その足柄道を歩いています。翌8月4日、蘇峰は青龍寺の住職と御殿場鉄道馬車を利用して山中湖まで赴き、帰途、須走停車場から鉄道馬車に乗ろうとしたところ、馬車に乗るのは東京で割引電車に乗るよりも難しいと思わず感想をもらすほどの、「道者」による大混雑を経験しています。この「道者」とは、須走口へ下山してきた白装束姿の「富士講」の人々であることは言うまでもない。須走口へ下山した「富士講」の集団は、かつてのように歩いて足柄峠を越えるよりも、鉄道馬車で東海道線の御殿場駅へと向かい、そこから東海道線に乗って東京方面へ向かうルートを選ぶようになっていたのです。かつて(明治13年〔1880年〕の夏)は「富士講」の人々で賑わっていた足柄道が、東海道線や御殿場馬車鉄道の開通により閑散としたものになってしまっている現実を、大正2年(1913年)夏の蘇峰は目の当りにしていました。 . . . 本文を読む

富士市立博物館 展示会「講 ~人と人をつなぐもの~」 その5

2012-07-18 05:11:46 | Weblog
須走(すばしり)から小田原までの、足柄峠を越える「足柄道」は、吉田口から富士登山を果たした「富士講」の人々が、「須走口」に下山し、そこから大山、そして江戸およびその周辺(つまり居住地)へと向かう道でした。江戸およびその周辺の「富士講」の人々の代参ルートは、甲州街道→高尾山→甲州街道→大月宿→冨士道→吉田口→吉田口登山道→富士山頂→須走口下山道→須走口→足柄道→(道了尊)→大山→大山道というのが最も一般的なものでした。したがって、須走口→足柄道→大山道は、富士登山を終えた「富士講」の人々で、一年のある時期に集中的に賑わったのであり、その道筋の宿場もその時期に集中的に賑わい、稼ぎの大半をその時期に得たのです。ところが明治になって東海道線が通るようになって御殿場駅などができたりすると、その「富士講」の人々の戻りのルートや登山のルートは大きく変化し、それまでの「足柄道」の賑わいは一変してしまったのです。その変化の目撃者の一人は徳富蘇峰(猪一郎)でした。 . . . 本文を読む

富士市立博物館 展示会「講 ~人と人をつなぐもの~」 その4

2012-07-17 04:46:25 | Weblog
「講」はどのように分類できるのだろう。大きく分ければ、①民間信仰的な「講」②職人たちの生業的な「講」③金融のための「講」④有名な寺社などへの参詣のための「講」の四つに分けられるのではないか。①としは、氏神講・水神講・山神講・道祖神講・庚申講・念仏講・子安講・地蔵講・観音講など。②としては、太子講・馬持講・ふいご講など。③としては頼母子講・無尽講など。④としては、伊勢講・大山講・富士講・出羽三山講・御嶽講・成田講・榛名講・秋葉講などを挙げることができる。④の講の場合、参詣先は住んでいるところから遠く離れているから、「代参講」である場合が多い。宮田登さんの『山と里の信仰史』(吉川弘文館)によれば、「代参講」は、「一般に近世中期以降簇生したものといわれ」、「中でも豊富なのは山岳代参講であった」という。遠くへの参詣の旅にはお金が掛かる。そのお金を毎年積み立てて、何年に一回か(場合によっては一生に一度)は、泊を重ねて集団での長期参詣旅行をする。それは「代参講」として、自分ばかりか他のメンバー(家族や講員たち)の御利益をも兼ねるものであったのです。参詣の目的地ばかりでなく、そこに至るまでの道筋における経験や見聞は、「代参講」の人々にとって大きな魅力であったはずであり、参詣地が遠方であればあるほど旅日記(寺社参詣日記)が数多く残されたのは、自分のためというよりも後に続く人々(子どもや講員たち)のためであったものと思われます。そこには、泊まった宿場の名前や日にち、その「定宿」(泊まる旅籠が決まっている場合が多い)の名前、「御師」の宿坊(これも大抵決まっていた)での様子、登山のルートやその様子、各所で使った費用の内訳などが細かく記されています。各地の街道には、かつてそのような「代参講」の人々が集団で歩く姿がたくさん見られたのであり、各宿場の繁栄も実はそのような「代参講」の人々によって支えられていたのではないかと痛感させられたのは、かつて須走(すばしり)から小田原まで「足柄道」を歩いた時でした。 . . . 本文を読む

富士市立博物館 展示会「講 ~人と人をつなぐもの~」 その3

2012-07-15 05:18:59 | Weblog
「大山講」の次に関心を持った講は「富士講」でした。これは幕末に富士登山をしたオールコック一行の関係から当時の登山ルートを調べていった時に、幕府がオールコック一行に設定したルートが、東海道から「村山口」を経て富士山頂へと至る「村山口登山道」であり、当時、多くの庶民が登山するルートであった、甲州道を利用して(大月宿から「富士道」へ入る)「吉田口」より登るルート(「吉田口登山道」)を意識的に設定しなかったことを知ったことにありました。外国人一行と「富士講」の集団との接触による混乱やそれによって生ずるであろう面倒を避けようとしたわけですが、それ以外にも、当時の為政者(武士)側の、「富士講」などの庶民の信仰上の活動やつながりに対する警戒の念や差別感を感じ取ることができました。大都市江戸およびその周辺の「富士講」の人々による富士登山は、きわめて活発であり、時期ともなると甲州道や富士道(大月~吉田口)、吉田口、吉田口登山道などは白装束の人々でごったがえしたのです。関東地方の「大山」へと至る道筋がすべて「大山道」であったように、関東地方の富士山へと至る道筋はすべて「富士道」だったのです。なぜ「富士講」による富士登山が行われたのか、なぜ「富士講」は爆発的に各地に増えていったのか、なぜ「富士講」は幕末の為政者に警戒されたのか、なぜ「富士講」は戦中戦後、急速に消滅していったのか(「富士講」だけでなく多くの「講」がそうであったのですが)、等々疑問はどんどんふくらんでいきました。 . . . 本文を読む

富士市立博物館 展示会「講~人と人とを結ぶもの~」について その2

2012-07-13 05:56:44 | Weblog
私の「講」というものへの関心は、いつから生まれたのかと考えると、まずは「大山道」の存在があったと思う。神奈川県の厚木の北部に住む私にとって「大山」は身近な存在であり、ちょっと南へ行けばどこからでも「大山」が目に入ります。かつて相模川中流域のやや東側に勤務先があった時は、相模川の堤防上の遊歩道から、早朝の「大山」を常に遠望したものだし、国道246号線を通って帰宅する時は、相模川に架かる橋上を走る車のフロントウィンドウから真正面に、夕刻の「大山」の姿を眺めたものです。各所からの「大山」の四季折々の写真もどれだけ撮影したかわからない。相模川流域を縦横に走る街道や相模湾沿いに走る街道(東海道)を歩いてみると、あちこちに「大山道」があり、それらはすべて「大山」へと至る道であること、すなわちかつては「大山講」の人々が各所から「大山」へと向かう道であることを知りました。多くが国道246号線と重なる「大山街道」だけが、かつての「大山道」ではなく、たしかにそれは幹線的な街道(大都市江戸から大山へ向かう道)でしたが、実は「大山道」は網の目のように広がっていました。つまり「大山講」はかつて、関東地方を中心に各地に数多く存在し、「代参」の集団がその時期になると各地から続々と「大山」を目指したのです。自宅近辺や相模川流域の道をいくつか歩いてみただけでも、そのことを実感することが多かったのが、「大山講」をはじめとする「講」というものへの関心の芽生えにつながったように思われます。 . . . 本文を読む

富士市立博物館 展示会「講~人と人とを結ぶもの~」について その1

2012-07-10 04:27:53 | Weblog
富士市立博物館で、テーマ展「講~人と人とを結ぶもの」が行われていることを知り、6月のある日、その展示会に行ってきました。このテーマ展は7月1日(日)にすでに終了していますが、かつて全国各地に存在していた「講」というものに関心を抱いてきた私にとっては、興味深いものでした。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

2012.6月取材旅行「熊谷~太田~桐生」 その最終回

2012-07-08 05:08:11 | Weblog
甥の喜太郎は12歳。その母で崋山の妹茂登(もと)は37歳。その夫岩本茂兵衛(岩本家3代目)は生年不詳ながらおよそ40歳。そして崋山はと言えば、当時39歳。芳賀登さんの『士魂の人 渡辺崋山探訪』によれば、崋山の『喜太郎絵本』は、妹茂登が長男喜太郎を連れて江戸に里帰り(麹町半蔵門外の三宅藩邸)した時の、江戸市井の風俗等を描いたもので、文政7年(1824年)頃に描かれたものではないかとのこと。そうであれば、文政7年当時、崋山は32歳、妹茂登は30歳、甥喜太郎は5歳ということになる。『喜太郎絵本』には、凧揚げをする喜太郎と崋山の弟五郎(9歳?)が描かれ、また二人が町火消を見ている姿が描かれています。崋山は、甥の喜太郎と弟五郎を連れて、半蔵門外の藩邸の近くを歩いたものと思われる。興味が惹かれるのは、麹町岩城桝屋の帳場や岩城桝屋の桝が描かれていること。芳賀さんの解説によれば、麹町の岩城桝屋は田原藩の御用をつとめており、ここに出入りしていたことがあった妹茂登が、同じくここに出入りしていた桐生の岩本茂兵衛に嫁入りしたということであり、崋山は甥の喜太郎を、その父母に縁の深い岩城桝屋に連れて行ったこともあったはずであり、もちろん岩城桝屋をはじめとした様々な商家が立ち並ぶ麹町の町屋を喜太郎や五郎とともに歩いたこともあったはず。町火消の纏(まとい)持ちも描かれていますが、それには「も」組と「や」組を表す纏が描かれており、麹町近辺の町火消の纏持ちが描かれているものと推定されます。長崎経由で江戸に見世物として連れて来られた「ひとこぶ駱駝」と「インド象」が描かれているのも面白い。喜太郎が江戸にやってきた時、「ひとこぶ駱駝」や「インド象」の見世物が江戸で行われていたかどうかはわかりませんが、この絵本が描かれた年代を推定する材料の一つになると思われます。 . . . 本文を読む

2012.6月取材旅行「熊谷~太田~桐生」 その10

2012-07-06 05:49:42 | Weblog
丸山宿の「うどん屋」で休憩した崋山は、駕籠に甥の喜太郎を乗せて、先発させる。渡良瀬川を「松原の渡し」で越え、境野などを経て桐生の町に入ったのは「戌の半(なかば)過る頃」(午後9時過ぎ)。まもなく街の中ほどまで喜太郎とその母、つまり崋山の妹茂登(もと)が迎え出て、崋山一行をねんごろにもてなしてくれました。崋山は次のように記しています。「その妻は我妹にて侍れば、よろこびかぎりなし。」妹茂登の一行に対する行き届いた配慮に崋山が満足を覚えているとともに、またそのような妹に対する崋山のあふれるような愛情が感じられる文章です。桐生新町の岩本家に到着したのは、「亥刻」を過ぎた頃、すなわち午後10時過ぎのことでした。 . . . 本文を読む

2012.6月取材旅行「熊谷~太田~桐生」 その9

2012-07-05 04:52:12 | Weblog
丸山宿からも崋山は徒歩で桐生に向かいます。ルートは次の通り。松原の渡し(渡良瀬川)→三ツ堀→境野→小屋原→常木→桐生。岩本茂兵衛の家は桐生新町二丁目にありました。桐生でもらった「桐生本町一、二丁目まち歩きマップによれば、現在の本町一丁目~六丁目、横山町は、江戸時代には初め荒戸新町、後に桐生新町といわれていたという。そのマップで「U」とされているところが岩本家の所在地であり、解説には、この茂兵衛は岩本家三代目であり、「3回の渡辺崋山の来桐の世話をする。桐生新町二丁目で絹買商を営む。絹買商人として江戸の田原藩下屋敷に出入りした。渡辺崋山の財政支援者の一人。妻茂登は崋山の妹であった」とあります。これによれば崋山は桐生に3回訪れていることになります。その位置は、本町通りを桐生天満宮へ向かって進み、プロムナード3番街駐車場を過ぎて、「酒屋小路」へと右折して少し行った右手ということになります。その「酒屋小路」へと右折する左角には、「矢野本店店舗及び店蔵」(市指定重要文化財)がありますが、それは明治から大正期に建築されたものだとのこと。今回の取材旅行では、時間の関係ですぐにJR両毛線の桐生駅へと向かい、桐生本町へと足を踏み入れることはありませんでした。 . . . 本文を読む

2012.6月取材旅行「熊谷~太田~桐生」 その8

2012-07-03 05:39:10 | Weblog
太田宿を出て、崋山は「新田金山」のそばを通ります。高くはない山であるけれども全山松が生い茂り、日が暮れてきたということもあって、あたりはたいへんさびしい。風もいや増しに吹いてくる。崋山は鴻巣宿から乗り続けてきた駕籠を下り、一人、桐生への道を歩いていきます。駕籠かきたちも従僕の弥助も、そした高木梧庵も、跡を追って来ているのだろうが姿かたちも見えない。「金山」と山続きの「丸山」というところに至ると、その山の麓にうどんを売る家があり、そこに岩本氏の紋を付けた提灯が、庇(ひさし)の下に高く掲げてあって、崋山たちを待ち受けているようす。そのうどん屋に到着すると、そこには甥の喜太郎(崋山の妹茂登の長男)、岩本家に出入りしている左官の助次郎、かつて岩本家の小者をしていて今は店を持っている喜八の3人が待ち受けていました。3人は、崋山らがなかなかやって来ないものだから、そろそろ帰ろうか帰るまいか躊躇していたところなのだが、そこに崋山が姿を現したものだから、大いに喜び、所持してきた酒と弁当を開き、崋山の旅の労を慰めました。やがて高木梧庵も従僕の弥助も到着し、彼らも加えて、酒をやり弁当を食べたのは言うまでもない。甥の喜太郎は文政3年(1820年)生まれだから、この時数えで12歳。崋山はこの喜太郎に、崋山が江戸市井風俗画として描いた絵本を描き与えています(「喜太郎絵本」として知られる)。芳賀登さんは、画の画題などから判断して、妹茂登が喜太郎を連れて里帰りした(江戸に帰ってきた)時の様子を描いたものであるとして、この絵本の制作年代を文政7年(1824年)頃だとしています。そうであるとすると、崋山は甥の喜太郎をよく見知っていたし、また喜太郎も叔父である崋山をよく見知っていたことになります。また茂登と喜太郎は、この天保2年(1831年)以前に、桐生~江戸間を(何度か?)往復していたということになります。 . . . 本文を読む