鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「函館 その3」

2008-08-31 07:44:08 | Weblog
ペリー艦隊のうち3隻が、豆州下田より箱館に来航したのは嘉永7年(1854年)の4月15日(和暦)のこと。マセドニアン、サザンプトン、ヴァンダリアの3隻でした。この来航に、役所の櫓の鐘が打ち鳴らされ、また七面山や御殿山の櫓の鐘も打ち鳴らされ、それから町中の盤木が次々と打ち出されるなど、箱館の町は騒然とした雰囲気に包まれました。そしてその6日後の4月21日、ペリー提督の乗るポーハタンとミシシッピーが箱館に来航しました。この2隻は外輪型蒸気船であり、箱館の人々にとっては見たこともない船であり、空に高く突き立てられた煙突からは黒い煙が噴き出ていました。艦隊から箱館を見晴るかすと、海岸線に沿った道には、ずらりと杭や柵が打ち込まれており、町の背後の山には裸の山肌が目立ち、また山の上には白い雪が残っていました。箱館の町の家々の屋根には丸い石が置かれていました。町には人影がなく、艦隊に向かって小舟が近寄ってくるということもありませんでした。ぺリー提督が通訳のポートマンらを伴って箱館に上陸したのは4月24日(西暦では5月20日)。その前日の23日、松前藩家老の松前勘解由(かげゆ)は、ミシシッピー号に赴いてペリーと会見していますが、この日、改めて上陸してきたペリーと焼ノ口会所で会見。交渉を開始しました。この日以後、艦隊の乗組員たちは次々と箱館の町に上陸し、買い物をしています。どういうものを購入しているかというと、たとえば、塗り物・蒔絵(まきえ)の重箱・墨・瀬戸物・絵本・佐渡箪笥(たんす)・煙草入れ・子供太鼓・子供用日傘・さつまいも・梨・栗・鶏・津軽鉢飴といった類(たぐい)。当時、箱館の商家では、そういった類の物が売られていたということになる。5月3日には、マセドニアン号上で、ペリー艦隊の「エチオピア吟遊詩人団」による「ミンストル・ショー」が行われ、招待された多数の松前藩士がそのショーを楽しんでいます。この「ミンストル・ショー」というのは、白人が黒人に扮してアメリカ南部の歌や踊りを演じたもので、フォスターの「主人は冷たい土の中に」などの歌を中心に歌ったようです。ペリー艦隊が箱館を出港して下田へ向かったのは5月8日。これまでお役所の命令で蔵や家々の奥に隠れていた女や子供たちは、艦隊の出港を聞くと、奥から表に出て来て安堵の思いを味わいました。艦隊の箱館湾滞在は24日間に及んだのです。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「函館 その2」

2008-08-30 06:15:15 | Weblog
飛行機というものは、「旅情」というものからはほど遠い。私がかつて寝台列車で北海道に向かい、真夜中、青函トンネルに入るのを「今か、今か」と待ち受けていたようなあの気分はありません。たった1時間半近くのフライトで、函館空港に降り立ってしまう。「はるばる来たんだな」と実感したのは、函館市内へ向かうバスを「湯の川温泉」で降り、いきなり、潮の香りを含んだ、肌寒さを感じるヒヤッとした大気に触れた時でした。大気は水分を余り含まずカラッとしている。「ここは本土(北海道の人からいえば「内地」)とは違う!」ということを、大気の感触から実感しました。さて、宮城県塩釜の萩の浜からの船旅で、函館港にやってきた兆民にとって、初めての北海道の地への上陸は、どういう印象なり感慨をともなうものであったのか。兆民が、「粗服に兵児帯(へこおび)姿」で、上野から一番列車で仙台へ向かったのは7月21日のこと。雨の仙台駅に到着したのは午後6時過ぎのことでした。翌22日、用事を済ませた兆民は午前11時に旅館を出て、仙台駅から汽車で塩釜に向かいました。海老屋という旅館に入った兆民は、昼食後、舟を雇って松島を見物し瑞巌寺を参詣しています。翌日23日、塩釜神社に参詣した兆民は、菖蒲田浜というところで海水浴をし、再び同じ旅館(海老屋)に宿泊。そして翌24日、塩釜から萩の浜行きの小蒸気に乗り、萩の浜から函館行きの「相模丸」(日本郵船会社)に乗船。「相模丸」は午後4時過ぎに出航し、その翌日25日の夕刻に函館港に入港しました。東京を出立してから函館に到着するのに、4泊5日(船中1泊を含む)もかかっているのです。飛行機で1時間半という早さとは、比べ物にならない。「旅情」や「感慨」という点では、格段の差があると思わざるをえない。ましてや、鉄道や蒸気船以前の人々にとっては、北海道(あるいは「蝦夷地」)は、最果ての土地であり、帆船を利用したとしても、「北の大地」に上陸した時の感慨は、現代のわれわれのそれとは格段に異なるものであったでしょう。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「函館 その1」

2008-08-29 05:50:05 | Weblog
8月22日(金)から26日(火)まで、夏季休暇5日間を利用して、恒例の夏の取材旅行に行ってきました。行き先は北海道西海岸。まず函館から始まって、札幌経由で小樽まで。小樽から札幌・留萌経由で増毛(ましけ)まで行き、そこから北海道の西海岸(日本海側)を北上し、稚内を過ぎて宗谷岬に至るコースです。小樽から稚内に至る道筋は、オロロン鳥にちなんで「日本海オロロンライン」ともいうようです。なぜ、このコースであるかと言えば、明治24年(1891年)7月25日、初めて北海道(函館)に上陸した中江兆民が、翌日、「北門新報社」のある小樽に向かい、小樽に到着してしばらくの後、北門新報社の社員宮崎伝とともに小樽から宗谷海峡まで旅したところであるからです。小樽港で増毛(ましけ)行きの汽船に乗ったのは9月2日。増毛で初めて馬に乗り、馬に揺られて海岸沿いを宗谷岬に向けて出発したのは翌3日。稚内から宗谷岬に向かい、その岬の突端から兆民一行が樺太島を見たのはおそらく9月10日のことでした。片道だけで9日間もの旅でした。そのコースを私もいつか歩いてみたい(といっても全部はとうぜんながら歩けない)と思っていました。十分に事前の準備をした後、22日早朝自宅を出発。東京国際空港(羽田空港)をJAL1161便で離陸したのは7:25でした。以下、その報告を……。 . . . 本文を読む

フェリーチェ・ベアトと五雲亭貞秀 その3

2008-08-22 04:54:35 | Weblog
次に、五雲亭貞秀について。横田洋一さんの「横浜浮世絵と空とぶ絵師五雲亭貞秀」によると、貞秀は、文化4年(1807年)、下総国布佐に生まれました。本名は橋本兼次郎。どういうわけか江戸に出て来て、住んでいたところは、最初は亀戸(かめいど)天神のあたりであったという。歌川国貞(三代豊国)門に入り、玉蘭斎・五雲亭貞秀などの号を用いました。文政9年(1826年)に最初の作品を描いているということですから、10代の後半には絵師としての生活を出発させているようです。そして間もなく、世間から認められ、将来を嘱望される絵師の一人となりました。それからは実に多くの版本類の挿絵を制作しています。これには驚きました。彼は、弘化3年(1846年)のアメリカ使節ビッドルの浦賀来航に関心を持っています。彼は、外国の動きに敏感に反応し、好奇心を持っていったようです。ジャーナリスティックな感覚ないし才能の持ち主でもあったようです。さて、この貞秀は、富士山に登っていました。しかも1回だけでなく数回に渡って。浮世絵師で富士山に実際に登ったものは、それほどいないように思われますが、この貞秀は、その数少ない絵師の一人であったのです。実は、そのことが、彼が精密な鳥瞰図を描くようになった大きなきっかけであったようだ、ということを、この横田洋一さんの論文から知りました。以下、そのところについて少し詳しく…。 . . . 本文を読む

フェリーチェ・ベアトと五雲亭貞秀 その2

2008-08-21 06:35:26 | Weblog
まずベアトについて。アンベールの『幕末日本図会』には、ベアトの写真を原稿とする版画が挿絵として掲載されているということ。これは知りませんでした。慶応3年(1867年)、ベアトは、オランダ総領事ポルスブルックに同行して富士登山をしているということ。そしてその時、東海道原宿で、随行している幕府役人らの写真を撮ったりもしています。彼は、富士山の写真をいろいろな地点から撮影していますが、それらの写真の多くはこの時に撮ったものと思われます。もしかしたら、小田原や箱根の写真も、この時に撮ったのかも知れない。というのも、当時は外国人の遊歩区域の規定があって、その範囲を越えて旅行する自由は、一般の外国人にはなかったからです。ベアトも、英国艦隊の従軍カメラマンや、領事や大使の旅行に加わらなければ、遊歩区域外に出ることは出来なかったはずなのです。もちろん、進んでいく予定の道筋からベアトだけ遠く外れることも、出来なかったと思われます。ベアトはまた、娼妓・街頭の歯医者・按摩・六部(ろくぶ)・飛脚・車力(しゃりき)・強力(ごうりき)・別当(べっとう)・スヤスヤと眠っている赤ん坊を背負った若い母親・化粧する女(赤ん坊を背負った若い女と同一人物!)・風呂帰りの若い女の写真なと、当時の庶民の姿を鮮やかに写し撮っています。声や息遣いまで聞こえてきそうになまなましい。「よくぞ、写し撮ってくれたものだ!」と、感謝の念を覚えるほど。これらのベアトの写真は、ほとんど幕末期に撮影されたものであり、明治になってからの作品は数枚ほどしかない、と斎藤さんは記しています。 . . . 本文を読む

フェリーチェ・ベアトと五雲亭貞秀 その1

2008-08-20 06:29:33 | Weblog
先日、横浜そごう美術館で開催されている「横浜浮世絵にみる横浜開港と文明開化」展に行ってきました。開店と同時に入り、美術館の中の横浜浮世絵をゆっくりと観賞しました。展示されている横浜浮世絵の総数は80点。長崎歴史文化博物館(2005年の開館とのこと)・神奈川県立歴史博物館・横浜開港資料館の所蔵の横浜浮世絵から、抜粋したもの。『江戸名所図会』(巻六)の「横浜弁財天社」から始まって、初代広重の「神奈川台石崎楼上十五景一望之図」(安政元年初夏)、歌川芳員(よしかず)、歌川貞秀、歌川国芳、二代広重、歌川芳虎、三代広重などの作品が並べられていました。そのほとんどは、『横浜浮世絵と近代日本─異国“横濱”を旅する─』(神奈川県立歴史博物館)や『絵とき横浜ものがたり』宮野力哉(東京堂出版)に掲載されているもので、その実物を実際に目の当たりにした、という展覧会でした。いろいろ興味深い発見があったのですが、それはさておいて、見終わった後、ミュージアムショップでカタログを買おうと思ったのの、カタログといっしょに並べられている本の中から、『F・ベアト写真集2─外国人カメラマンが撮った幕末日本』横浜開港資料館編(明石書店)と、『横浜浮世絵と空とぶ絵師五雲亭貞秀』(神奈川県立歴史博物館)を見つけ、急遽、予算の関係でカタログは買わずに、その2冊を購入することにしました。帰宅してから、その2冊に目を通し、思い切って購入して正解であったことを知りました。 . . . 本文を読む

村山古道について その1

2008-08-09 05:10:45 | Weblog
先日の取材旅行で、「中宮馬返し」と言われた「中宮八幡堂」まで、村山古道(村山口登山道を含む)を歩きました。吉原宿から村山までの道は大宮街道を歩いておらず、また村山から中宮八幡道までは、正確にそのルートを辿ったというわけではありませんが、これで、東海道の日本橋から、神奈川・藤沢・小田原・箱根・三島・沼津・吉原を経て、村山口から富士山一合目付近までを歩き通した(と言っても細切れに)ことになります。中宮八幡堂から村山道(登山道)を富士山の頂上まで歩けば、ほぼオールコック一行が富士登山をしたコースを歩いたことになる。オールコック一行は神奈川宿のイギリス領事館(浄瀧寺〔じょうりゅうじ〕)を騎馬で出立。馬(西洋馬)に乗って東海道を西進し、おそらくそのまま中宮八幡堂まで馬に乗ってやってきたのですが、ここでようやく馬から下りて歩き始めます。私は、一部重なっていないところもありますが、ほぼそのルートを歩いてきたことになります。東海道を歩いてきて、いろんなことに興味・関心が広がりましたが、根底には、幕末・維新期の旅人は、東海道をどういう風景を見ながら歩いたか、とくに富士登山を目指すオールコック一行が、どういう風景を見ながら街道を進んだか、ということが絶えず念頭にありました。その際の基本的な文献になったのは、オールコックが書いた『大君の都(中)』。オールコックは、富士登山以外にも、いろいろなところを歩いて(多くは騎馬)いますが、絵心があるということもあって、非常に観察力があり、情景が髣髴(ほうふつ)と浮かんでくるところが多々あります(たとえば小田原宿に入る場面など)。しかし一方、ほとんど何の記録もなしに進んでしまう場合もある(たとえば吉原から村山までの道)。実際歩いてみて、そのあたりの情景を想像してみることが可能になりました。その想像(ないし再現)に大きな力となったのは、フェリーチェ・ベアトの写真集でした(『F.ベアト幕末日本写真集』)。ベアトが写した東海道の風景は、オールコックが見たそれよりも数年後のものですが、それほど大きくは変わっていないはず。小田原宿の写真なども、『大君の都』の記述と重ねて眺めてみると、一層面白くなってきます。いよいよ中宮八幡堂から頂上までを目指すことになりますが、それは今度は来年の夏のことになるでしょう。 . . . 本文を読む

2008.8月「村山浅間神社~中宮八幡堂」取材旅行 その5

2008-08-08 06:54:02 | Weblog
嘉永5年(1852年)、宮津藩主松平伯耆守(ほうきのかみ・本荘宗秀〔むねひで〕)が、参勤交代の折、吉原宿から富士山に登ったという話の出典を確かめてみました。この出典をインターネットを利用して調べることが出来たのです。これがインターネットのすごいところ。事典などではまずわからなかったに違いない。やはりインターネットは、調査の際、場合によっては駆使する必要があると思いました。 . . . 本文を読む

2008.8月「村山浅間神社~中宮八幡堂」取材旅行 その4

2008-08-07 07:25:15 | Weblog
畠堀操八さんの『富士山・村山古道を歩く』は文字通りの労作ですが、その文章の記述の中で印象に残った一つは、嘉永5年(1852年)に、丹後宮津藩の松平伯耆守(ほうきのかみ)が、参勤交代の折、夜遅くに吉原宿から抜け出して村山の坊で仮眠し、翌日、山頂で昼食を摂った、という記述(P29)。嘉永5年というと、ペリー艦隊が浦賀沖に来航する前年。富士登山(富士詣で)などというのは、オールコックが富士登山の旅行を提案した時、幕閣がその反対の理由としたように、「下賎」の者たちが行うものであって、身分の高い武士がやるものではない、とされていました。ましてやれっきとした大名(藩主)が富士登山をするなどとは、考えられもしない時代でした。それも参勤交代の最中に……。この記述がどういう出典にもとづくものであるかは、わかりませんでしたが、オールコックが外国人として初登頂する1860年の7年前に、富士山に登った大名がいたのです。これは驚きでした。なぜ、登ろうとしたのか。案内はとうぜんいたと思われますが、どう手配したのか。「お忍び」とは言え、数人の付き人(家来)はいたはず。何人くらいが付き添ったのか。どういう経路をたどったのか。村山口より登ったのは確かでしょう。では、その村山まで吉原宿からどういうルートをたどったのか。吉原宿から中宮八幡堂までは、おそらく騎馬で進んだに違いない。夜遅く吉原宿(本陣)を出発したということは、真夜中の道を、夜行したのでしょう。村山の坊で仮眠したということは、興法寺のどこかに泊まったということ。そして、早朝に村山を出発して(すなわち村山口登山道にとりついて)、その日の昼頃には富士山の頂きに立ったというのです。畠堀さんが記すように「信じられないスピード」です。この「丹後宮津藩の松平伯耆守」とはいったい誰か。ネットのフリー百科事典『ウィキペディア』で調べてみると、該当するのは、松平宗秀(むねひで・1809~1873)。丹後国宮津藩の第6代藩主で、弘化3年(1846年)に奏者番となり(再役)、安政5年(1858年)に寺社奉行を兼任。大坂城代、京都所司代を経て、元治元年(1864年)に老中となっている人物(慶応2年〔1866年〕老中免職、隠居)。亡くなったのは明治6年(1873年)。ということは、宗秀が富士登山をしたのは、43歳の時ということになる。なぜ彼は、富士山に登ったのか? . . . 本文を読む

2008.8月「村山浅間神社~中宮八幡堂」取材旅行 その3

2008-08-06 05:39:17 | Weblog
『大君の都』で、オールコックは、「森林の迷路」に入って、台風が吹き荒れた痕跡を目撃し、そして道を塞いでいる一本の倒木を乗り越えた後、いきなり「八幡堂」に着いてしまいます。この「八幡堂」が、今回の目的地である「中宮八幡堂」。標高は『富士山 村山古道を歩く』(畠堀操八)によれば1280m。富士山の標高のおよそ三分の一の高さのところにあったお堂。ここまで道に迷わなければ、村山の登山口から4時間ほどで来れたと思われます。オールコック一行には、先導役として3人の山伏が付いていたから、道に迷うべくもない。しかも彼らは、馬に乗って登山道を登っているのです。その馬は、彼らが神奈川宿から乗って来た西洋馬なのか。それとも村山で乗り換えた馬(日本馬)だったのか。『大君の都』の記述を読む限りでは、彼らは西洋馬で登っているようだ。「馬は、低い坂道をのぼる最後の舞台で活躍させるべく、すみやかに馬具をつけられた。」オールコックが記すように、この登山道は、数日吹き荒れた台風のために相当に荒れていたようです。オールコックは、道を塞いでいた倒木は「一本」だとしていますが、私が実際に歩いてみても、道を塞ぐ倒木は数十本はありました。それらを跨(また)いだり、潜(くぐ)ったり、根元を迂回したりと、難渋を極めました。しばらく前に台風が通過したというわけでもないのに……。しかも倒木は、緑濃い苔が覆って乗れば折れてしまうような古木もあれば、まだ倒れて新しいものもある。もし道を塞いでいた倒木が、ほんとうに「一本」であったとしたら、考えられることは、台風が吹き去った後、村山の人々がオールコック一行の利用に備えて、総出(?)で倒木を片付けたということです。興法寺(現、村山浅間神社)は、彼ら一行のために、五右衛門風呂(?)を用意し、樽(たる)の上に板を張った長椅子を用意し、そして公使のための単独の部屋、馬屋の設備まで整えていました。「僧院はわれわれ一行のためにひじょうな出迎え準備をして」いたのです。であるならば、台風のために荒れた登山道を、事前に、大急ぎで整備していたことは十分にありうることだと思います。その整備のために、多くの村人が駆り出されたのではないか、と私は推測するのですが、そのことを示すような史料は何も残っていないようです。 . . . 本文を読む

2008.8月「村山浅間神社~中宮八幡堂」取材旅行 その2

2008-08-05 06:09:59 | Weblog
いつものように『大君の都』で、どのように記述されているか、見ていくことにします。オールコックはその日早くに目を覚ましたようです。天気が気になって、彼はそれを問い合わせます。すると天気は上々、登山は可能であるといううれしい返事。夜明けとともに一行の全員はすぐに起こされ、出発の準備に取り掛かります。馬には馬具が付けられ、3名の勇ましそうな山伏(やまぶし)が案内のために呼ばれました。山伏たちは、例の装束をしていたことでしょう。さらに数名の強力(ごうりき)が、オールコック一行が持ってきた荷物を運ぶためにやってきました。荷物の中身は、旅行用の毛氈(もうせん)・コーヒー・米・ビスケットなどでした。強力たちは、背中にその荷物を背負いました。オールコック一行はオールコック含めイギリス人6名。さらに護衛や付添の武士、それらの従者、多くの人足たち、馬を曳く別当(べっとう)たち、合わせて100名ほどの大集団でした。その全員が富士山に登ったのかどうかは定かではありません。とりわけ武士たちが登ったかどうか。彼らは二本差しであったから、それを帯びたままで登るのは困難であったでしょう。もし誰かが登っていたとしたら、おそらく従者がその刀を背負って付いていっただろうと思われます。それぞれが銘々出発の準備をして、いざ出発。その大集団の出発のようすを、村山の人々は老若男女、多くが家から出て見物していたに違いない。登山口からいよいよ登山道へ入る。はじめは穀物が波打つ田畑(当時、田んぼはこの辺りにあっただろうか?)や一面に草が高く生い茂った草地の間を進み、やがて「森林の迷路」に入り込みました。森林はふもとをぐるりと取り囲み、山腹まで高く這い上がって、そびえたつ高峰の両肩をまるでライオンのもじゃもじゃのたてがみのように覆っています。この場所は、今回歩いてみて大体の見当がつきました。杉林の上に富士山の上半分が見えたところです。右端には宝永山の出っ張りが見えたところ。その森林は、現在のように植林された杉林ではなく、カシ・マツ・ブナなどの大木が密集する樹林帯でしたが、数日間吹き荒れた台風のために、短くバラバラに裂かれたり、根こそぎ倒れたりしており、一行は、馬から下りて、その倒木を乗り越えたり、大きな幹をよじ登ったりしながら、登山道を進んでいかざるを得ませんでした。 . . . 本文を読む

2008.8月「村山浅間神社~中宮八幡堂」取材旅行 その1

2008-08-04 06:01:14 | Weblog
数日間の天気予報を確認し、金曜日の休みをとった上で、2泊3日の取材旅行に出かけました。目指すは、富士宮市の村山にある浅間神社(村山浅間神社)。そこから村山口登山道を登って、中宮八幡堂まで行って戻って来るのが、今回の取材旅行の一番の目的。村山浅間神社の標高はおよそ500m。中宮八幡堂の標高はおよそ1300m。標高差およそ800m。そこまでの登山道をゆっくりと登り、13:00頃には引き返し、遅くとも17:00までには出発点へ戻って来る(暗くならないうちに下界へ戻る)というのが、おおまかな予定でした。富士宮登山口の新六合目の登山小屋まで、村山登山口からは、山歩きに慣れた人であってもおよそ10時間。私の場合は、道々で取材をしたり写真を撮ったりするので、およそ1.5倍はかかる。ということでざっと15時間。早朝5:00に出発したとしても20:00(午後8:00)到着。途中、水場も山小屋もいっさいない。ということは、一気に新六合目まで登るのはまったく無理であり無謀なこと。まず1回目は、富士山一合目に沿った線のやや上、中宮八幡堂まで、と設定しました。「先達(せんだつ)」となる本は、畠堀操八さんの『富士山 村山古道を歩く』(風濤社)。前に、吉原本町から村山浅間神社まで歩いた際、神社前の山本商店に入った時、店番のおばあちゃんの頭の上の棚に並べられていた本です。その時は持ち合わせのお金が無かったために、帰宅してからインターネットで調べ、購入したのです。この本で、村山口登山道を一人で登る決心がつきました。この登山道は、かつて、江戸方面や上方(かみがた)方面から富士登山を志してやってきた人たちが、大宮(現富士宮市)の浅間神社を参詣した後、「道者道(どうじゃみち)」を通って村山に向かい、村山の興法寺(こうぼうじ・現、村山浅間神社)で禊(みそぎ)を終えた後、富士山を目指したという、かなり長い歴史と伝統をもつ登山道(信仰の道)。東海道から大宮に入り(大宮街道や村山道を利用して)、村山興法寺を富士登山の起点としました。あのイギリス公使ラザフォード・オールコック一行(外国人で初めて富士登頂を果たした人々)も、江戸(高輪の東禅寺─大使館)→神奈川(浄瀧寺〔じょうりゅうじ〕─領事館)→箱根→三島→吉原→大宮→村山経由で(つまり東海道→大宮街道→村山口登山道を利用して)、富士山の頂きを目指したのです。 . . . 本文を読む