鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.2月の「東海道川崎宿」取材旅行 その3

2007-02-28 22:21:35 | Weblog
 京急線六郷土手駅から同八丁畷(はっちょうなわて)駅まで戻り、そこで南武支線に乗り換え、同尻手(しって)駅まで。尻手駅から武蔵中原駅まで行き、そこから徒歩で等々力(とどろき)公園へ。富士通の工場や病院の間の道を通り、団地を抜けたりして、等々力公園内の川崎市市民ミュージアムに着いたのが13:30過ぎ。これからの昼食や観覧時間を考えると、武蔵小杉駅近くにある川崎市平和館に寄るのはちと厳しい。ということで、川崎市平和館に行くのはまた別の機会にして、市民ミュージアムをゆっくり見て回ることにしました。 . . . 本文を読む

映画『郡上一揆』(神山征二郎監督)について

2007-02-25 14:48:13 | Weblog
 昨年の春頃から、一週間に一度、土曜日か日曜日に、映画鑑賞をしています。といっても映画館に行くのではなく、職場からの帰り道に、本屋の2階にあるレンタル・ビデオ(DVD)の店で、名作といわれている作品を借りて、妻と一緒に鑑賞するのです。きっかけは、昨年春に、HDD・DVD・ビデオ一体型レコーダーを買ったこと。まず黒沢明監督の全作品(店に置いてあるもの全て)、それから小津安二郎監督の全作品(同じく店に置いてあるもの)、次に黒木和雄監督と山田洋次監督の比較的最近の作品、クリント・イーストウッドの作品などを観て来ました。始めて10ヶ月になりますから、ざっと50本近くの作品を観ている勘定になります。先週の土曜日(2月18日)には、神山征二郎監督の『郡上一揆』を観ました。神山さんの作品は初めてだったのですが、時代考証が行き届き、真っ正直で堅実な、てらいのない演出がされた作品で、私は「傑作」だと思いました。今まで、このブログでは映画を直接取り上げたことはなかったのですが、今回は、その『郡上一揆』を取り上げてみたいと思います。 . . . 本文を読む

2007.2月の「東海道川崎宿」取材旅行 その2

2007-02-23 22:29:43 | Weblog
 川崎宿総鎮守の稲毛神社(河崎山王社)に寄ってから東海道に戻り、宗三寺・田中本陣跡を見て、多摩川(六郷川)を渡りました。京急六郷土手駅で京急線に乗り、八丁畷(はっちょうなわて)駅まで戻って南武支線で尻手(しって)駅まで。尻手駅から南武線で武蔵中原駅まで行き、等々力(とどろき)公園内の川崎市市民ミュージアムを訪れました。 . . . 本文を読む

2007.2月の「東海道川崎宿」取材旅行 その1

2007-02-18 10:45:34 | Weblog
数日前までの天気予報では雨マークが付いていた土曜日だったので、予定していた取材旅行をあきらめていたのですが、前日の金曜日の予報では、雨マークが取れていたため、取材旅行を決行することにしました。行き先は川崎。東海道・川崎宿があったところ。先月の取材旅行では、鶴見川橋の手前まで歩いたので、今回は鶴見川橋を渡って、多摩川(六郷川)まで歩くことにしました。午前中には歩き終わる予定なので、その後は、川崎市中原区等々力(とどろき)にある「川崎市市民ミュージアム」と、同じく中原区木月(きづき)住吉町にある「川崎市平和館」を訪れることにしました。その報告を数回に分けてまとめます。 . . . 本文を読む

中江兆民の蘭学教師・萩原三圭について その1

2007-02-16 05:34:34 | Weblog
 中江兆民(篤助・篤介)がまだ高知城下で過ごしていた時に、藩校文武館で洋学(英語と蘭学)を教えてくれた恩師として、細川潤次郎がいたことは、すでに触れたことがあります(2006.9.1)。細川が、アメリカから帰って来た漂流民万次郎(中浜万次郎)といかに親しい交際があったか、については、「幕末土佐の英学とジョン・万次郎 その2」(2006.9.9)で触れました。それらのことから、若き兆民は、細川潤次郎を通して、万次郎が見聞したアメリカ事情(政治制度も含めて)についての知識を深めたのではないかと推測しました。中江兆民が高知にいた時に洋学を学んだ師として、細川潤次郎のほかにもう一人、萩原三圭という人物を挙げることが出来ます。萩原三圭から兆民が学んだのは蘭学です。幸徳秋水は、『兆民先生』において、兆民の蘭学の師として細川潤次郎より先にこの萩原三圭の名を挙げています。この萩原三圭については、どういう人物であったのか、当初全くわからなかったのですが、10年ほど前に、神田の古本屋街を歩いていた時に、ある古書店の本棚の下段隅っこに、『萩原三圭の留学』富村太郎(郷学社)という本を見つけて欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した思い出があります。定価3000円の本が1800円で売られていました。即、購入したのは言うまでもありません。それをもとにして、萩原三圭についてまとめてみたいと思います。 . . . 本文を読む

海援隊文司・長岡謙吉について その5

2007-02-11 05:35:34 | Weblog
長岡謙吉の薩摩藩に対する関心は、藩命で薩摩藩の城下鹿児島を視察した河田小龍によって引き起こされたように思われます。では、河田小龍が長岡謙吉に披瀝(ひれき)した薩摩藩における見聞とは、いったいどのようなものであったのか。それを今回は探ってみようと思います。その小龍の薩摩についての話は、長岡謙吉ばかりでなく、坂本龍馬や近藤長次郎らを触発させたものとして、重要な意味を持っているように思われます。 . . . 本文を読む

海援隊文司・長岡謙吉について その4

2007-02-10 09:32:59 | Weblog
 脱藩の罪で、山田町の牢に入れられた長岡謙吉(今井純正)は、長岡郡鹿児(かご)村において謹慎生活を送りますが、文久2年(1862年)の冬から文久3年(1863年)の早々の頃、母や妻を高知に残して、ふたたび脱藩します。何が、長岡謙吉を二度目の脱藩に駆り立てたのでしょうか。その理由の一端を探ってみたいと思います。 . . . 本文を読む

海援隊文司・長岡謙吉について その3

2007-02-03 21:53:13 | Weblog
 前回、長岡謙吉について触れたのは、昨年の12月17日の「海援隊文司・長岡謙吉について その2」でした。「次回は、高知城下追放となった今井純正が、二度目の脱藩をし、やがて長崎で龍馬と出会うところまでを、山田一郎さんの『海援隊遺文─坂本龍馬と長岡謙吉─』をもとにまとめて見たいと思います」と書いてから、ずっと「神奈川宿」や「渡辺崋山」のこと、また「生麦事件」のことなどに話が及んでいたので、かなり間があいてしまいました。前回、『龍馬、原点消ゆ』(前田秀徳・三五館)に触れ、高知に話が戻って来たので、これから再び長岡謙吉(今井純正)について、しばらく述べたいと思います。 . . . 本文を読む