当時、門脇先生は、奈良女子大学の助教授をされていました。
1973年の春、大学受験に失敗した私は、親に無理を言って京都の予備校に通うことになりました。通うと言っても、福井から通うことはもちろん出来ない。家を離れ、京都に下宿して予備校に通うのです。地元の福井には、当時予備校はなく、「大学に受かるためには予備校に通いたい。福井には予備校がない。だから、予備校のある京都に行かせてほしい」というのが私の親に対する要求でした。
家を離れたいという気持ちも強く、大学受験のためということなので親も反対できず、幸いに仕送りもしてもらえる(けして経済的に余裕があったわけではないのですが…)。
体(てい)のいい「家出」でした。
福井を出る前に、一度京都へ出かけ、予備校を探しました。いくつか見て回って見つけたのは、左京区の下賀茂神社の杜に隣接してある小さな予備校でした。名前は「研学キャンパス」。まだ出来てから新しい、地元である京都の人たちにも知られていないような予備校でした。そこを、私がどうして知ったのかは、まったく記憶にはありません。
ともかく「研学キャンパス」という予備校を知って、京都の駅前から遠く離れたその「研学キャンパス」に向かいました。
通りから、下賀茂神社に通ずる糺(ただす)の森へと入る小道の左側(北側)にその予備校はありました。
若い女性の受付のいる、その窓口でパンフレットをもらって、そのパンフレットを開いて読んだ時に、日本史の講師として「門脇禎二」という名前が目に留まりました。
受験参考書(日本史)の著者として、私は「門脇禎二」という名前を知っていました。
肩書きは、奈良女子大学助教授。
「大学の先生が、しかも、受験参考書まで著されている先生が、この予備校で教えられているんだ」
私にとっては大変魅力的で、即座に、その小さな予備校に通うことに決めたのです。
福井を出て、京都の左京区のとある賄(まかな)い付きの下宿に落ち着きました。Nさんという普通の民家の2階の間借りでした。私を含めて3人が下宿。1人は佐賀県から来たという受験生(予備校生)のH君でした。
そこから私は「研学キャンパス」に通い始めたのです。
門脇先生は、小太りのきわめて精力的な先生でした。きちんと背広を着ていたと思いますが、女子大で教えているということから想像される(?)ような洗練された雰囲気の持ち主ではありませんでしたが、授業はとても情熱的で、私はその授業を受けることが楽しみでした。
教科書は、先生が著された受験参考書。出版社がどこだったか覚えていませんが、上半分に概略がなされ、下半分に細かい記述がされているという、ちょっと変わった参考書であったことを覚えています。
特に最初の方の日本古代史は、先生の御専門であることもあって、力が入っていました。
研究者として多忙なこともあってか、半分近くは、教え子と思われる20代後半か30代前半かと思われる若い男の先生が、確か2人ほどいて、門脇先生の代わりに教えられました。
講義の内容は、もうずいぶん前のことですからまったくと言っていいほど覚えていませんが、話される言葉つきや熱の入った時の体の動かし方から、先生の歴史の研究に対する情熱や愛情を感じ取ることが出来ました。
一番思い出に残っているのは、予備校の夏の企画で、「飛鳥見学ツアー(遠足)」があったこと。ガイドをしてくれるのは、なんと門脇先生ご自身でした。私は、もちろん、胸をときめかせそのツアーに参加しました。
ツアー(遠足)は、観光バス2台で出発。
門脇先生は、途中で、バスに乗り換え乗り換え、マイクを握って、バスガイドのように「飛鳥」のことについて参加者に詳しく説明してくれました。
飛鳥地方を歩いたはずですが、どうしたわけかそのことについては、石舞台で説明を受けたこと以外全く記憶にないのです。
日帰りのツアーでした。
さて、今どき、所属する予備校生対象に、予備校の先生が遠足に連れて行ってくれ、しかもじかに説明をしてくれるという予備校はあるのでしょうか。
私は、そのことだけでも、あの「研学キャンパス」という小さな予備校に入ってよかった、と思えるのです。
ある時、意を決して、授業の後に門脇先生を呼び止めて、授業に関する質問をしたことがありました。大学の先生に質問するということなど初めてのことで、とても緊張したことをよく覚えていますが、さて何を質問したのかは、これも全く記憶に残っていないのです。
質問出来た、ということだけで私は満足でした。
歴史というものについては、私は、中学校あたりから興味・関心を持っていましたが、期待していた高校の日本史の授業は、期待外れのものでした。
ある先生は、細かい手書きのプリント(ガリ切り)を何十枚も配り、そのプリントの空欄を覚えれば受験は大丈夫だ、と言いました。ある先生は、板書の内容はすべて頭に入っているらしく、ノートや教科書をまったく見ることなしに、黒板全面にビッシリと板書していきました。毎年、それを繰り返しているのでしょう。
歴史を知ることの、歴史を考えることの、歴史を調べることの面白さは、私には伝わってきませんでした。
期待外れの授業を受けた私にとって、予備校における門脇先生の授業は、先生の研究に取り組む情熱、研究対象に対する愛情が伝わってくるものでした。
「歴史を考えることは面白いものなんだ」
それを私に初めて教えてくれたのが、門脇先生だったのです。
1年間の予備校生活の後、晴れて大学に合格し、私は東京に行くことになり、京都を離れました。
門脇先生に最後に会ったのは、いつのことであったのか、これも記憶はありません。
しかし、その後、門脇先生が奈良女子大学の教授となり、京都府立大学の教授となり、またその学長になられたことは知っていました。日本古代史に関する優れた研究書を精力的に著されていることも知っていました。
大学において、私は日本近代史を専攻としたので、門脇先生の御著書を読んだことはほとんどありません。ただ、教員になってから、NHKブックスの『飛鳥 その古代史と風土』は興味を持って、予備校生時代を懐かしみながら読んだ記憶があり、2階の書庫を今日探してみたところ、古びたその本を見つけ出し、今、私の手元に置いてあります。
1973年の夏だったか、私とH君(佐賀から来ていた人)は、大屋さんのNさんとうまくいかず、転居。私は、下鴨貴船町のKさんという未亡人(と言っても70前後のおばあちゃん)が営む賄い付きの下宿に入りました(京都の古い町屋でした)。私は1階の通りに面した一室に住み(通り隔てた斜め前が銭湯)、狭い急な階段を上がった2階には、3人の予備校生が住んでいました。
朝食と夕食は、1階のKさんの部屋で、食卓を囲んで食べました。
その下宿から少し北へ歩いたところに京都府立大学があり、時々、そこの学食に昼食を食べに行くことがありましたが、あの大学に、後に門脇先生は勤務することになったのです。そして学長を務められもしたのです。
たくさんの、大学の教え子や予備校で教えた生徒がおられたわけで、私はその1人に過ぎないのですが、私にとって、門脇先生は、歴史を考えることの楽しさを身をもって教えてくれた初めての先生で、その後、私が歴史に関係する仕事で生業(なりわい)を立てていったことを考えれば、私の恩師の1人と言うべき方でした。
それにしても、当時奈良女子大学助教授であった門脇先生は、どういう事情・因縁があって、あの下賀茂神社近くの小さな予備校で、日本史の講師をされていたのでしょうか。
今から考えてみても、不思議なことです。
謹んで、ご冥福を祈ります。
1973年の春、大学受験に失敗した私は、親に無理を言って京都の予備校に通うことになりました。通うと言っても、福井から通うことはもちろん出来ない。家を離れ、京都に下宿して予備校に通うのです。地元の福井には、当時予備校はなく、「大学に受かるためには予備校に通いたい。福井には予備校がない。だから、予備校のある京都に行かせてほしい」というのが私の親に対する要求でした。
家を離れたいという気持ちも強く、大学受験のためということなので親も反対できず、幸いに仕送りもしてもらえる(けして経済的に余裕があったわけではないのですが…)。
体(てい)のいい「家出」でした。
福井を出る前に、一度京都へ出かけ、予備校を探しました。いくつか見て回って見つけたのは、左京区の下賀茂神社の杜に隣接してある小さな予備校でした。名前は「研学キャンパス」。まだ出来てから新しい、地元である京都の人たちにも知られていないような予備校でした。そこを、私がどうして知ったのかは、まったく記憶にはありません。
ともかく「研学キャンパス」という予備校を知って、京都の駅前から遠く離れたその「研学キャンパス」に向かいました。
通りから、下賀茂神社に通ずる糺(ただす)の森へと入る小道の左側(北側)にその予備校はありました。
若い女性の受付のいる、その窓口でパンフレットをもらって、そのパンフレットを開いて読んだ時に、日本史の講師として「門脇禎二」という名前が目に留まりました。
受験参考書(日本史)の著者として、私は「門脇禎二」という名前を知っていました。
肩書きは、奈良女子大学助教授。
「大学の先生が、しかも、受験参考書まで著されている先生が、この予備校で教えられているんだ」
私にとっては大変魅力的で、即座に、その小さな予備校に通うことに決めたのです。
福井を出て、京都の左京区のとある賄(まかな)い付きの下宿に落ち着きました。Nさんという普通の民家の2階の間借りでした。私を含めて3人が下宿。1人は佐賀県から来たという受験生(予備校生)のH君でした。
そこから私は「研学キャンパス」に通い始めたのです。
門脇先生は、小太りのきわめて精力的な先生でした。きちんと背広を着ていたと思いますが、女子大で教えているということから想像される(?)ような洗練された雰囲気の持ち主ではありませんでしたが、授業はとても情熱的で、私はその授業を受けることが楽しみでした。
教科書は、先生が著された受験参考書。出版社がどこだったか覚えていませんが、上半分に概略がなされ、下半分に細かい記述がされているという、ちょっと変わった参考書であったことを覚えています。
特に最初の方の日本古代史は、先生の御専門であることもあって、力が入っていました。
研究者として多忙なこともあってか、半分近くは、教え子と思われる20代後半か30代前半かと思われる若い男の先生が、確か2人ほどいて、門脇先生の代わりに教えられました。
講義の内容は、もうずいぶん前のことですからまったくと言っていいほど覚えていませんが、話される言葉つきや熱の入った時の体の動かし方から、先生の歴史の研究に対する情熱や愛情を感じ取ることが出来ました。
一番思い出に残っているのは、予備校の夏の企画で、「飛鳥見学ツアー(遠足)」があったこと。ガイドをしてくれるのは、なんと門脇先生ご自身でした。私は、もちろん、胸をときめかせそのツアーに参加しました。
ツアー(遠足)は、観光バス2台で出発。
門脇先生は、途中で、バスに乗り換え乗り換え、マイクを握って、バスガイドのように「飛鳥」のことについて参加者に詳しく説明してくれました。
飛鳥地方を歩いたはずですが、どうしたわけかそのことについては、石舞台で説明を受けたこと以外全く記憶にないのです。
日帰りのツアーでした。
さて、今どき、所属する予備校生対象に、予備校の先生が遠足に連れて行ってくれ、しかもじかに説明をしてくれるという予備校はあるのでしょうか。
私は、そのことだけでも、あの「研学キャンパス」という小さな予備校に入ってよかった、と思えるのです。
ある時、意を決して、授業の後に門脇先生を呼び止めて、授業に関する質問をしたことがありました。大学の先生に質問するということなど初めてのことで、とても緊張したことをよく覚えていますが、さて何を質問したのかは、これも全く記憶に残っていないのです。
質問出来た、ということだけで私は満足でした。
歴史というものについては、私は、中学校あたりから興味・関心を持っていましたが、期待していた高校の日本史の授業は、期待外れのものでした。
ある先生は、細かい手書きのプリント(ガリ切り)を何十枚も配り、そのプリントの空欄を覚えれば受験は大丈夫だ、と言いました。ある先生は、板書の内容はすべて頭に入っているらしく、ノートや教科書をまったく見ることなしに、黒板全面にビッシリと板書していきました。毎年、それを繰り返しているのでしょう。
歴史を知ることの、歴史を考えることの、歴史を調べることの面白さは、私には伝わってきませんでした。
期待外れの授業を受けた私にとって、予備校における門脇先生の授業は、先生の研究に取り組む情熱、研究対象に対する愛情が伝わってくるものでした。
「歴史を考えることは面白いものなんだ」
それを私に初めて教えてくれたのが、門脇先生だったのです。
1年間の予備校生活の後、晴れて大学に合格し、私は東京に行くことになり、京都を離れました。
門脇先生に最後に会ったのは、いつのことであったのか、これも記憶はありません。
しかし、その後、門脇先生が奈良女子大学の教授となり、京都府立大学の教授となり、またその学長になられたことは知っていました。日本古代史に関する優れた研究書を精力的に著されていることも知っていました。
大学において、私は日本近代史を専攻としたので、門脇先生の御著書を読んだことはほとんどありません。ただ、教員になってから、NHKブックスの『飛鳥 その古代史と風土』は興味を持って、予備校生時代を懐かしみながら読んだ記憶があり、2階の書庫を今日探してみたところ、古びたその本を見つけ出し、今、私の手元に置いてあります。
1973年の夏だったか、私とH君(佐賀から来ていた人)は、大屋さんのNさんとうまくいかず、転居。私は、下鴨貴船町のKさんという未亡人(と言っても70前後のおばあちゃん)が営む賄い付きの下宿に入りました(京都の古い町屋でした)。私は1階の通りに面した一室に住み(通り隔てた斜め前が銭湯)、狭い急な階段を上がった2階には、3人の予備校生が住んでいました。
朝食と夕食は、1階のKさんの部屋で、食卓を囲んで食べました。
その下宿から少し北へ歩いたところに京都府立大学があり、時々、そこの学食に昼食を食べに行くことがありましたが、あの大学に、後に門脇先生は勤務することになったのです。そして学長を務められもしたのです。
たくさんの、大学の教え子や予備校で教えた生徒がおられたわけで、私はその1人に過ぎないのですが、私にとって、門脇先生は、歴史を考えることの楽しさを身をもって教えてくれた初めての先生で、その後、私が歴史に関係する仕事で生業(なりわい)を立てていったことを考えれば、私の恩師の1人と言うべき方でした。
それにしても、当時奈良女子大学助教授であった門脇先生は、どういう事情・因縁があって、あの下賀茂神社近くの小さな予備校で、日本史の講師をされていたのでしょうか。
今から考えてみても、不思議なことです。
謹んで、ご冥福を祈ります。
私が研学キャンパスに通ったのは1973年4月から3月までの1年間であったと思います。
米谷さまが勤めていらした頃とはかなり前のことになります。
研学キャンパスの1年間でもっとも思い出に残っていることは門脇先生のことと、予備校の教室で受験勉強をしていた時に、いきなり隣の下賀茂神社の杜に雷が落ちて稲光が教室一杯に走り、直後に大木が割れるような轟音が響いたことでした。
京都は盆地のせいか雷の音がすさまじく、菅原道真の天神様のことを雷の音が響くたびに思ったもの。
今となっては遠い昔の懐かしい思い出です。
鮎川
飛鳥へも行きました。あのときはバス二台だったのですか? 同じバスに乗っていたかもしれないですね。
門脇先生以外にも非常にユニークな先生方が多かったように思います。
下鴨神社、糺の森。絶好の環境でしたね。
1973年4月から翌年3月まで、懐かしい京都の浪人時代です。もう44年も前のことになりました。
その1年間の後半、私は下賀茂貴船町の浪人生を対象とした賄付きの下宿にお世話になっていました。京都の町屋で、滋賀県出身のK・Tさんという70代のおばあちゃんがその下宿を営んでいました。
下賀茂神社の糺の森に接した研学キャンパスまでは歩いて20分ほどだったでしょうか。
下宿には1階に私(南向きの通り側)、2階に3人の浪人生がいました。4人で朝食や夕食をおばあちゃんを囲んで食べていた記憶があります。
研学キャンパスを選んだのは門脇先生の名前を見たからで、門脇先生の風貌や飛鳥の石舞台に観光バスで出掛けたことなどよく覚えています。
眞鍋さんとは、確かに一緒にバスに乗っていたかも知れませんね。
門脇先生は、私の恩師の一人として今でも講義を受けたことをありがたく思っています。
思い出してみると、その思い出はほとんど色あせてなく、もう44年も経ったことが不思議に思えるほどです。
若い時の思い出はそういうものなのでしょうか。
今後とも、よろしくお願いします。
鮎川俊介
ご返事が遅れ、大変失礼しました。
かつて私が京都で通った予備校研学キャンパスについて、詳しくご教示いただきありがとうございました。
林さんのお父上が、門脇先生が研学キャンパスに移られた頃の校長先生であったとのこと。どこかでお目にかかっているかも知れません。
関西文理学院から分離した形で儀我正三郎が研学キャンパスを創業し、それにともない門脇先生も関西文理学院から移られたということを初めて知りました。関西文理学院は当時、「関文理」(かんぶり)と言われ、高い進学実績を上げる京都の予備校として知られていて、私が下宿した下賀茂貴船町の町屋のK・Tさん宅にも、「関文理」に通っている予備校生の友人がいました。そこからゆえあって分かれて設立されたのが研学キャンパスであったとは知りませんでした。
京都下賀茂神社の糺の森(ただすのもり)がほんそばにあり、環境的にも抜群であったと思っています。
有数の進学予備校であった「関文理」が、今では「風評」被害によりなくなってしまっており、研学キャンパスは現在も残っているとのこと。
久しく京都を訪れていませんが、京都に行ったら高野川や下賀茂神社の周辺、また下賀茂貴船町の界隈をゆっくり歩いてみようと思いました。
ありがとうございました。
鮎川俊介
林様のおっしゃることを裏付けるように、研キャンでは共産党の評判は無茶苦茶悪かったですね。
関文理から「かさはり祭り」のビラを配りに来ると、門を入ったところにゴミ箱入れが置かれてました。
研学キャンパスの跡地、駐車場になっているとのこと。あれから半世紀近く、糺の森の一郭であっても、景観はどんどん変わっていった、ということですね。