鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その最終回

2011-08-29 06:03:32 | Weblog
『小山町史(第九巻民俗篇)』によると、文政13年(1830年)、須走村には東表冨士浅間神社の御師として17名がいたという。この御師たちは自分たちの家を富士講中の宿にあてており、昭和初期においても、富士講の宿は以下のように10軒を数えたという。富士本屋・扇屋・武蔵屋・大甲学・小申学・半山館・大米谷・甲州屋・穂積館・高村屋。この須走村の御師の経営する宿の繁栄は、おそらく富士講が爆発的に広がって「富士山道中」が盛んになった寛政年間から文化年間になってからのことと思われますが、特に明治中期に東海道本線が開通し、さらに御殿場馬車鉄道が新橋(にいはし)~須走間まで明治32年(1899年)に開通すると、それを利用する富士講徒たちや一般の登山客で賑わったものと思われます。明治末から大正の頃と推測されますが、宿は7~8月の2ヶ月で1年分を稼いだといい、ある宿では、16の客間計210畳の畳の上に最高350人を泊めたこともあったとのこと。登山客の昼食のために女中たちはほとんど徹夜で1000個以上のお握りを作ったといったことも記されています。手伝いの男衆や女衆(女中)を夏の時期だけ近辺の村々から雇い入れましたが、それは周辺の村々の貴重な収入源になっていました。しかしその須走の宿が賑わいを見せたのも、戦勝祈願を兼ねての参拝があった太平洋戦争の半ば頃までのことであったらしい。 . . . 本文を読む

富士講の富士登山道を歩く その12

2011-08-28 06:09:40 | Weblog
「富士山御師」は、甲州平から御坂(みさか)峠を越え、河口湖を隔てて富士山が真正面に見える河口湖北岸山峡の富士山遥拝地が、その「揺籃の地」であり、その遥拝地の一つに「浅間社」が創建され、その神職中の祈禱師として発生。そして吉田村や須走村、須山村にも広がっていったようであることを伊藤堅吉さんの著書で確認しました。「富士山御師」の宿坊がある村は、江戸時代初期、川口村・吉田村・須走村・須山村であったことになりますが、須山村のある須山口登山道の方は、宝永の富士山の大爆発によりそのルートが失われ、江戸時代中期以降は、「富士山御師」の宿坊のある村として賑わったのは、川口村・吉田村・須走村の三つであったと考えられます。そのうち江戸時代後期の「富士講」の隆盛により、その登山ルートの起点として、また下山ルートの終点として繁栄したのは、吉田村と須走村でした。「富士講」にとって、富士信仰の祖とされる長谷川角行は、富士山の人穴で自己流の厳しい修行をした行者(ぎょうじゃ)であり、仏教とも神道とも儒教とも関係はありませんでした。その角行の富士信仰の系譜から出てきた食行身禄も、富士信仰の行者であって、その修行によって得た世界を「御身抜」や「三十一日之御伝」として残したものの、仏教や神道とはあまり関係がない。身禄以後の富士講の隆盛により、吉田の御師の世界は変質を迫られることになります。北口浅間社の神職中の祈禱師でありながら、角行や身禄の教えを説くことが必要になり、さらに山開きとともに大量にやって来る富士講徒たちの宿泊や登山の世話もしなくてはならなくなったからです。江戸後期からの吉田宿や須走宿(御師や御師の宿坊など)の繁栄は、富士講の隆盛とともにあったことになります。 . . . 本文を読む

富士講の富士登山道を歩く その11

2011-08-27 06:02:56 | Weblog
『富士山御師』(伊藤堅吉)によれば、富士山御師の「揺籃の地」は、現在の「山梨県河口湖畔北岸の山峡」であったという。ここは「富士遥拝の霊地」であり、御坂(みさか)峠を越えてこの山里に入った者が真正面にそびえる富士山を遥拝した場所であり、そこに創建されたのが浅間社であるとされています。また富士山の手前に広がる河口湖は「ミソギ」の場所であったに違いない、ともされています。「御師」は、その「河口の浅間神社神職中の祈禱師として発生」し、やがて「御師」は、吉田村・須走村・須山村にも居住するようになったらしい。つまり「富士山御師」は、まず河口(川口村)に発生して、その後、吉田村・須走村・須山村にも発生するようになったということのようだ。『川口村の口碑・史料』(本庄静衛)によれば、川口村には慶長10年(1605年)頃に「十二坊」と称される12軒の御師がいたといい、幕末の文化7年(1810年)には128人の御師がいたとのこと。しかし、幕末になって「富士講」が爆発的に拡大していくと、その繁栄は吉田村に奪われ、川口の御師たちもその宿坊も急速に衰退していったという。では吉田村の御師を中心とした町場はいつ頃成立したのかといえば、元亀3年(1572年)に古吉田から現在の上吉田に「雪代(ゆきしろ)」対策のために移転しているから、それ以前には成立していることになる。室町時代の末に記された『勝山記』の天文23年(1554年)の条に吉田は「千軒ノ在所」とあり、それ以前からすでに大きな町場が形成されていたことがわかります。しかし吉田村の御師を中心とする町場が大きく変貌していくのは、やはり富士講の隆盛以後であったと思われる。その富士講による吉田村の隆盛とは対照的に、古くからの御師の宿坊が存在していた川口村は、幕末以後、急速に衰退していくことになりました。 . . . 本文を読む

富士講の富士登山道を歩く その10

2011-08-21 07:27:19 | Weblog
宮田登さんの『山と里の信仰史』によれば、「講」は、仏教寺院の講会に発し、講経に際して集会する仲間を意味しており、「講」の名称は中世以来の民間社会に広範囲に見られたものだという。「講」は大別すると、「ムラ内部から発生した講」と、「外部から伝播・導入された講」があり、「代参講」は、一般に近世中期以降簇生(そうせい)したといわれ、中でも豊富なのは「山岳代参講」であったと、宮田さんは指摘されています。三峯講・御嶽講・戸隠講・秋葉講・出羽三山講・富士講・大山講などがそれにあたります。江戸幕府は「新義異宗の禁」を徹底し、すみずみまで檀家制度を行き渡らせましたが、「実際には多様な呪者としての宗教家たちがムラに流れこんで」おり、宮田さんはそれらの宗教家たちを「徘徊する宗教者」とも表現しています。各山岳信仰の元締である「御師」は、毎年、時期になると護符を配布して回って信仰圏を拡大していきましたが、その「配札圏」は「御師」たちの生活基盤でもありました。特に関東地方において活発に活動し、その「配札圏」を拡大していったのは、大山信仰の元締である大山の御師たちであり、また富士山信仰の元締である富士山の御師たちでした。しかし、この「御師」たちとつながる「大山講」や「富士講」といった「代参講」の場合、地域住民(農民や町人など)の積極的な宗教活動が優先し、「在俗信者の側にイニシアチブをにぎられてい」たという点において、檀家制度で守られた既成仏教における信徒のつながりとは大きく異なる特色を持っていました。 . . . 本文を読む

富士講の富士登山道を歩く その9

2011-08-19 06:24:59 | Weblog
富士吉田市歴史民俗博物館の分館に「外川家」という吉田口御師の屋敷があります。この「外川家住宅学術調査報告書」として「富士吉田口御師の住まいと暮らし」(富士吉田市教育委員会)というのがあり、それを見ると、御師外川家の檀那場がどのあたりであったかがわかります。「檀那場」(「檀那所」とも)とは、御師の檀家(「旦家」とも)のある、いわば各御師の勢力範囲であり、各檀那場の富士講徒たちはその御師の宿坊を定宿としました。上吉田は、富士山へ登拝する道者が宿泊する御師の宿坊が建ち並ぶ宿場として成立した村であったのです。「外川家」はその御師の家であり、屋号を「しほや」ないし「塩屋」といいました。この「外川家」の檀那場は、上総国の市原・夷隅・長柄・望陀・周准の各郡、下総国の千葉郡、古河領や関宿領、葛飾郡、下野国の都賀郡、相模国の津久井県などに及びました。上総国の江戸湾地域には、村の月次講行事としての「浅間講」が従来から行われており、そこへ寛政年間頃に江戸富士講の一派である「山包講」が入ってきて、富士講が広まったといったことが記されています。外川家に上総や下総からやってくる講社は、ハマグリや海苔、アサリの佃煮などを土産として持ってきたものだという。また串に刺した貝の干物を送ってくることもあったらしい。現在の千葉県一帯であっても、それぞれの御師がそれぞれの檀那場を持っていてそれは複雑に入り組んでおり、刑部伊予(小猿屋)は安房国、田辺(大国屋)は市原、小佐野(浅間坊)は市原・木更津・君津・長生郡・夷隅郡、小佐野(堀端屋)は長生郡・夷隅郡などといった具合。江戸富士講は、寛政年間頃にまず江戸湾岸の漁師たちに伝わり、受け入れられていったわけですが、その下地として従来からの富士山信仰=浅間講が存在していたらしいことがわかってきました。 . . . 本文を読む

富士講の富士登山道を歩く その8

2011-08-18 10:18:33 | Weblog
富士講とそれ以外の講との決定的な違いは、元講から派生する枝講の増殖にあるということについては、先に触れたことがあります。食行身禄の富士山における入定が契機となって、身禄の教えが江戸の人々に伝えられ、江戸において富士講が成立し「八百八講」と言われるほどに隆盛を見ることになりますが、その江戸の富士講は、ほぼ寛政年間頃に江戸の周辺へ拡大発展していきました(沖本博「江戸富士講の房総への進出」〔『富士浅間信仰』平野榮次編所収〕)。この江戸の富士講の江戸周辺への拡大発展は、江戸川・利根川水運や江戸湾海運(漁業を含む)、また陸運との関連性、つまり「江戸地廻り経済圏」との関係性がいと、私は考えています。富士講から派生する「不二道」の小谷三志は、鳩ヶ谷の丸鳩講の大先達でしたが、彼の日記を見てみると、その行動半径の広さに驚かされます。日記には、浅草・深川・取手・関宿・境・野田・宝珠花・成田などの地名がしばしば出てきますが、この移動の手段は利根川や江戸川の水運であったでしょう。歴史小説作家の永井路子さんの出身は古河であり、その先祖は「不二道」と関係があったことを永井さん自らが明らかにしていますが、これも利根川水系における「江戸地廻り経済圏」の発展と、富士講の拡大発展が深い関連性があることを示唆するものと思われます。 . . . 本文を読む

富士講の富士登山道を歩く その7

2011-08-17 06:29:43 | Weblog
甲州街道を経て上吉田に至り、御師の宿坊に泊まって富士山頂に登り、須走へと下山して足柄峠を越えて大山経由で戻る、という富士講の人々のもっとも一般的なコースには、いくつかのポイントがありました。まず最初のポイントは高尾山(薬王院山坊)に参詣すること。富士講は必ず高尾山に登り、尾根伝いに小仏峠へ出るコースを辿りました。富士講の人々にとって高尾山は「富士山の前立ち」という意味合いがあったのです。2つ目のポイントは小仏峠。この峠の上には「身禄茶屋」があって、店内には身禄像などを祀っていました。尾根伝いにここへやってきた富士講の人々は、ここの「身禄茶屋」に必ず立ち寄りました。3つ目のポイントは、大月宿から上吉田に向かう途中の小沼宿で休憩すること。ここにも「身禄茶屋」があって、そこには身禄の旅姿の像が置かれていました。4つ目のポイントは七合五勺の烏帽子岩の元祖室。ここの石室には烏帽子岩近くで入定した身禄の遺骨が納められたとされ、富士講徒は必ずこの元祖室を参詣しました。五つ目のポイントは、吉田拝所で内院(噴火口)に向かって拝みを上げ、初穂(お賽銭)を投ずること。六つ目のポイントは、帰途、大山に詣でること。大山は「富士山の後立ち」であり、富士山を参詣したら「片参りはいけない」とされました。したがって、高尾山・小仏峠・甲州街道・ふじ道・上吉田・吉田口登山道・須走口登山道・足柄峠・矢倉沢往還(大山街道)は、富士山が「山開き」ともなると、おびただしい数の富士講徒たちで賑わったのです。甲州街道・ふじ道・足柄道・矢倉沢往還などの各宿の繁栄は、この富士講徒たちの「富士山道中」と深く関係していました。 . . . 本文を読む

富士講の富士登山道を歩く その6

2011-08-16 11:02:50 | Weblog
平塚や小田原など、相模国南部や西部の富士講の人たちの登山ルートは、足柄峠→須走→東表口浅間神社→富士山頂→須走→足柄峠を利用するものでした。つまり須走口登山道を利用して富士山頂を目指したわけですが、これは甲州街道回りでは遠距離になるからでしょう。明治に入って、明治22年(1889年)に東海道本線が新橋~神戸間の全線開通となると、御殿場駅からの富士講登山者が増大し、また明治32年(1899年)に馬車鉄道が御殿場の新橋(にいはし)から須走間が全通すると、須走口登山道は賑わいのピークを迎えました。従来の吉田口登山道から富士山頂に登って須走口登山道を下山する人たち(これが圧倒的多数)と、鉄道でやってきて須走口登山道を利用する人たちとが交錯したからです。しかしその須走や須走口の賑わいは、明治36年(1903年)の中央線の開通によって、大きな打撃を受けることになりました。富士講の富士登山は、従来の甲州街道の利用から中央線を利用するものになったからです。行程を全て歩いた時代から鉄道を利用する時代となったことにより、「三十三度大願成就」や「五十五度大願成就」は格段に達成可能なものとなったのではないか。その「大願成就」の記念碑が大正・昭和に建てられたものが多いことは、鉄道利用が可能になったことに由来するのではないかと私は考えています。しかし須走の富士講の宿(御師の宿坊)が賑わったのは、戦勝祈願を兼ねての参拝もあったアジア・太平洋戦争の中頃まででした。昭和20年(1945年)の夏には、宿坊の一つである「大申学」においては一人の参拝客もなかったという。岩科小一郎さんの『富士講の歴史』によれば、「富士山道中」(富士講の人々の富士登山)は「江戸時代文化文政の頃を頂点として第二次大戦前まで栄えて」いましたが、戦後、急速にその姿を消していきました。地域の庶民の生活の中にあった、「富士講」など「講」を中心とする信仰・相互扶助・親睦のネットワーク(コミュニティー)は、戦中・戦後において、地域からどんどんその姿を消していったということです。 . . . 本文を読む

富士講の富士登山道を歩く その5

2011-08-15 06:58:42 | Weblog
「代参講」というのは、全講員が旅費を掛け金して、それで代参者の旅費を賄う仕組み。岩科小一郎さんによると、たとえば5年満期の「5年の講」の場合、講員100人として、毎年20人ずつが登山をして5年で全員の登山が終わる仕組みでした。「20年の講」となると、ほぼ「一生に一度の講」であり、登山は一度きりの機会でした。一生に「三十三度の登山」ともなると、講員を毎年富士山へと連れて行く「大先達」や「先達」でないとなかなか無理なことでした。ちなみに「食行身禄」こと伊藤伊兵衛は、富士山に45回登ったらしい。といっても、富士講の「先達」として登ったのではなく「富士の行者」として登ったのです(身禄以前には「富士講」という名称はない)。では、人々はどういうルートをたどって富士山に登ったのか。岩科さんの『富士講の歴史』に紹介されている事例をまず挙げてみます。①天保9年(1838年)の上総国奈良輪の鳥飼弥三郎の場合。自宅→江戸の行徳河岸→甲州街道→高尾山→小仏峠→上吉田→富士山頂→下山。②明治22年(1889年)の神奈川県都筑郡柿生村の早野講の場合。早野村→八王子→高尾山→小仏峠→上吉田→富士山頂→須走口→足柄峠→蓑毛(大山)→厚木→早野村。③明治26年(1893年)の早野講の場合はもっと詳しい路程がわかります。この年の下山ルートは例年の須走口へと出るものではなく、上吉田に戻っています。『小谷三志日記』にみる小谷三志の場合はどうか。①寛政11年(1799年)。鳩ヶ谷→神田→甲州街道→府中→津久井道→甲州街道→上吉田→富士山頂→須走口→木賀温泉→道了尊→大山→保土ヶ谷→江戸→鳩ヶ谷。②文化5年(1808年)は、鳩ヶ谷→江戸→甲州街道→上吉田→富士山頂→須走→蓑毛→田村→神奈川宿→江戸→鳩ヶ谷。『儀三郎日記』にみる黒川儀三郎の明治5年(1872年)の場合は、あきる野→甲州街道→上吉田→富士山頂→須走口→足柄峠→道了尊→大山→八王子→あきる野(※儀三郎は不二道と接触をしていますが、講員であったかどうかはわからない)。一般的に富士講の人々は、出立→甲州街道→高尾山→小仏峠→大月宿→上吉田(御師宿坊)→富士山頂→須走口→足柄峠→大山→帰宅というコースを辿っています。つまり吉田口登山道→山頂→須走口下山道というコースは、富士講の人々が富士山を歩いたもっとも基本的なルートであったということになるのです。 . . . 本文を読む

富士講の富士登山道を歩く その4

2011-08-12 03:29:14 | Weblog
「講」というのは、同じ目的を持った地域の人々の集まり(仲間)のこと。信仰を共有することが多く、基本的には同じ信仰を核にした親睦・互助団体といってよい。一つの家で、いくつもの「講」に入っているということは、戦後しばらくまではごく普通のことでした。しかし「講」は組織だった宗教団体ではなく、それぞれの家はある宗派のお寺の檀家であり、また地域のある神社の氏子でもありました。「講」にはさまざまなものがありました。「念仏講」「地蔵講」「稲荷講」「弁天講」「大山講」「地神講」「不動講」「伊勢講」「成田講」「御岳講」「富士講」等々。その中でも江戸(東京)を中心に広範囲に広がっていたのは、「大山講」と「富士講」だと思われる。たとえば「大山講」は、関東・東海・甲信越・東北南部などの広い範囲に及び、大山のある相模国内には、各地から大山へ向かう道すなわち「大山道」が網の目のように四方八方に通じていました。関東地方の道も、「大山講」の人々にとってはすべて大山に通ずる道といってよいほどでした。「大山講」の成立は「富士講」よりも早く、元禄以前には結成されていたという。「富士講」も江戸(東京)を中心に関東一円に広がり、特に江戸においては「江戸八百八講」といわれるほどに「富士講」が浸透していきました。江戸の身禄富士塚第一号は「高田富士」でしたが、富士山を模した「冨士塚」は江戸(東京)を含む関東地方に集中し、関東全域には総数300は軽くあり、1000に達するという説もあるとのこと(『ご近所富士山の「謎」』有坂蓉子による)。澤登寛聡さんによれば、「富士講以外の講と富士講との決定的な違い」は「枝講の増殖」にあるという。「枝講」は「元講」から枝分かれしたもので、さらに「枝講」から「別講」ができていくという形で、どんどん「講」が増殖していきました。同じく澤登さんによれば、天保13年(1842年)には「江戸と江戸近郊に108の元講を中心とする富士講の連合体が結成されていた」という。幕末における「富士講」の勢いがわかるというものです。「富士講」の人々の修行の基本はもちろん富士登山。6月1日(旧暦)に富士山が「山開き」になると、「代参講」の人々は列を作って富士山を目指し、また老若・女・子供たちはいそいそと近くの富士塚を巡ったのです(「七富士巡り」)。 . . . 本文を読む

富士講の富士登山道を歩く その3

2011-08-11 05:55:02 | Weblog
岩科小一郎さんの『富士講の歴史』によれば、身禄の時代においても、富士の行者である身禄への信仰はあっても、誰でも富士山に登ることはなかったといい、また身禄以前には「何々講」という名称はなかったとみてよい、とも記されています。では、「富士講」という名称が公文書に初めて現れるのはいつかというと、寛政7年(1795年)の町触れであるとのこと。ということは、それ以前に「富士講」の「講」としての動きが目立ち始めているということになります。同書によると、富士講史最初の大事件である直訴事件が起きたのは寛政元年(1789年)の8月のこと。幕府御庭番の永井徳左衛門という富士講信徒(行名照行開山)が、身禄の教えを将軍の上聞に達しようと、江戸城桔梗門外において、妻に老中松平定信への訴(かごそ)を決行させたというもの。一般庶民ばかりか、武士の間にも、身禄の教えが浸透していることがわかります。身禄が富士山で入定したのは享保16年(1731年)のことだから、50年以上が経過しています。高田藤四郎という植木屋の棟梁が、「身禄同行」という講を興し、身禄の33回忌に富士塚の築造を発願。その富士塚すなわち「高田富士」を完成させたのが安永8年(1779年)のこと。これが江戸における身禄富士塚の第一号であるという。ということは、身禄の33回忌頃までには、富士塚を完成させていくほどの組織力や経済力を持った身禄の教えを奉ずる集団が、江戸に登場してきているということになります。「富士講の最高の聖典」といわれるのは『三十一日之御伝』というもので、これは身禄が富士山8合目烏帽子岩の厨子に入ってから入定するまでに語った言葉を、田辺十郎右衛門が書き留めたもの。この田辺十郎右衛門という人は、富士山8合目の大行合(吉田口登山道と須走口登山道が合流するところ)で水を売る商いをしており、身禄の思想に共鳴して入定まで身禄のそばにいた人物でした。その身禄の教えが江戸の人々に伝えられ、それが急速に人々の間に広まっていき、各地域において同じ身禄の教えを信ずる集団が生まれ、それが「何々講」という各地に富士塚を造りだすほどの組織力を持つ「講仲間」(宗教団体ではない)を生み出していったものと思われます。 . . . 本文を読む

富士講の富士登山道を歩く その2

2011-08-10 06:29:45 | Weblog
岩科小一郎さんの『富士講の歴史』によれば、「角行を頂点とする村上派六代の教祖は存在したが、それは富士信仰の行者がいたというだけで、講までには発展していない。身禄の時代でも、富士の行者の身禄への信仰であって、誰でもが富士に登ろうとはしなかった」という。この文中の「角行」(かくぎょう)とは、富士講のルーツともいうべき人物で、長谷川(藤原)角行(1541~1646)のこと。この角行が富士山麓に現れたのは永禄3年(1560年)のことで、富士西麓の人穴に入って修行に努めたという。人穴に入ってから12年後の元亀3年(1572年)に、その人穴から出て6月3日に吉田口より富士山に登山。そして正保3年(1646年)の6月3日、人穴で亡くなったという。なんと行年106歳であったとのこと。「村上派六代」とは、角行の直系で六代目が村上光清(こうせい・1682~1759)。北口本宮冨士浅間神社の境内の建造物群の大修復を享保年間に行って、現在見るような境内の景観を作り出したのは、この村上光清やその同行(どうぎょう)の人々。そして「身禄」とは、「食行身禄(じきぎょうみろく)」こと伊藤伊兵衛(1671~1731)のこと。この伊藤伊兵衛は17歳の時に江戸において富士行者月行(げつぎょう)に弟子入り。享保年間の政治の腐敗を痛憤した身禄は、世直しを祈念して富士山における入定(にゅうじょう・断食による信仰的自殺)を決意し、享保16年(1731年)の6月13日に上吉田の宿坊を出立。8合目の烏帽子岩のところで三尺四面の組み立て式の厨子の中に入り断食を決行し、およそ1か月後の7月の中旬過ぎに入定を遂げました。 . . . 本文を読む

富士講の富士登山道を歩く その1

2011-08-09 06:55:35 | Weblog
かつての富士山の登山道で、現在歩いて登ることができるコースは4つあります。一つは「村山口登山道」、二つ目は「御殿場口登山道」、三つ目は「須走口登山道」、そして四つ目が「吉田口登山道」。このうち「村山口登山道」は、東海道を歩いた時に興味を持ったオールコックの富士登山の関係からそのコースを歩いてみようと思い立ち、『富士山 村山古道を歩く』の著者畠堀操八さんの案内で2008年10月に旧6合目まで歩いて登ることができました。「御殿場口登山道」については、ウォーキングを継続してきてある程度筋力と持久力がついてきたことを確認した上で、それを実地に確かめるべく、2007年8月に5合目から歩いて登り、初めて富士山頂に立ちました。期せずして宝永爆発から300年目であることを知り、下山途中に宝永山と噴火口に立ち寄ったことを覚えています。「須走口登山道」は、須走浅間神社の左側裏手から始まりますが、ここを7合目の「大陽館」のところまで歩いて登ったのは昨年(2010年)の8月でした。この時は、竹久夢二と岸たまき両名の富士登山と富士講の人々の下山道のことが頭にありました。最後の「吉田口登山道」については、江戸時代後期以来、毎年おびただしい数の富士講の人々が、吉田口の御師(おし)の宿を出発して登頂を目指したルートとして、是非いつか歩いて登ってみたい道でした。今年の8月初め、ようやくそのルートを歩いて登り、「御殿場口」から登頂した時には出来なかった「お鉢巡り」をし、多くの富士講の人々の下山ルートであった「須走口」へと続く道を5合目まで下ることができました。途中、吉田口登山道7合目の山小屋へ一泊し、9合目のやや上辺りで「御来光」を拝むことも出来ました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

1000回を振り返って その最終回

2011-08-03 04:57:01 | Weblog
「取材旅行」の楽しみは、「出会い」という言葉に尽きます。「出会い」の対象は多岐にわたりますが、二点に絞られます。第一は「人」との出会い。第二は「もの」との出会い。「人」は、生きている人もいれば死んでいる人もいます。取材旅行先の路上などで出会う人は、もちろん生きている人。まったく思いがけない出会いが生じて、貴重な話を伺うことが多々あります。これは取材旅行の醍醐味というもので、この人とお会いして話が聞けたことで、もう今日の取材旅行はこれで終わりにしてもいい、と思うことも。取材先で過去に生きた人(つまり死んだ人)と出会うこともある。歴史的に有名な人であったり無名の人たちもいます。案内パネルなどで、「ああ、かつてこの人がここに暮らしていたことがあるんだ」という感動から、その人物についてあらためていろいろなことを知っていくこともありました。「もの」との出会いの「もの」とは多岐にわたります。民家や商店や神社仏閣などの建造物、石仏や石塔やお墓などの石造物、年輪を重ねた古木や圧倒的な生命力を感じさせる巨木、道端に咲く可憐な花々、山や川や海、集落、それらをひっくるめた景観、案内板や案内マップ、図書館や博物館、関連書籍や論文…等々。そして取材旅行を重ねていく中で、私の心の中で次第にクローズアップされてきたのは「景観」の問題でした。日々の、人々の生活のたゆまない営みの繰り返しによってつくり上げられてきた(つまり歴史の蓄積の上に成り立っている)「景観」を、いろいろな取材旅行先で歩いて実地に眺め、その土地の過去の「景観」に思いを巡らし、また古写真や絵画などで、その土地の過去の「景観」を確かめていく中で、「景観」の歴史的変遷や、また人々にとっての「景観」の重要性というものを、認識していくことになりました。 . . . 本文を読む