鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

佐渡市相川「京町通り」 その18

2019-03-02 07:03:56 | Weblog

 

 

 奉行所の正面入口の門である「大御門」を入ると、復元された佐渡奉行所の建物がありました。

 門を入ってすぐにあった「国史跡佐渡奉行所跡全体案内図─佐渡金山遺跡─」の解説によると、佐渡は江戸幕府が直接管理する天領であることから慶長8年(1603年)に佐渡奉行所が建てられました。

 佐渡金銀山を管理することから、他の奉行所とは異なる内容をもっていました。

 それは住居部(奉行の御陣屋と向御陣屋)、行政部分(御役所)、直営工場(勝場〔せりば〕等)の3つの要素で構成されたものであり、この直営工場(勝場)があるというのが決定的な違いでした。

 この佐渡奉行所は、安政5年(1858年)、火災により当時の奉行所が焼失したため、その翌年(安政6年)に再建された奉行所の様子にもとづいて復元されたものであるとのこと。

 そのパネルには復元された奉行所の各建物の名前や役割などが詳細に記された「案内図」が描かれており、大変参考になりました。

 復元されている「御役所」は、行政が行われたところであり大広間や白州(しらす)があります。その西側に佐渡奉行が居住する「御陣屋」があったのですが、これは残念ながら復元されてはいません。

 この「御陣屋」の北側には「裏冠木門(かぶらきもん)」があり、それは「御花畑」に通じる裏門でした。

 通りに面する「大御門」の右側(北側)には「御門番所」と「御普請方役所」が並び、「大御門」の左側(南側)には「御物見」がありました。この「御物見」は見張りのためばかりでなく、奉行が祭見物をする場所でもありました。

 その「御物見」の左側(南側)には「広間役御長屋」がありました。

 この長屋は、奉行に次いで奉行所の中枢を占める上級役人で江戸から派遣された広間役二人が居住する長屋でした。

 この奉行所の建物群で、他の奉行所と決定的に違うのは直営工場である「勝場(せりば)」があることでした。

 奉行所の御役所や御陣屋の右側(北側)に一段下がった平地があり、その平地の奥に「寄勝場(よせせりば)」が復元されています。

 解説には次のように説明されていました。

 「金山で採掘した鉱石を粉砕、選鉱し精錬した作業場(工場)で、各所にあったものを1ヶ所に集め、横流し防止のために建てられました。現在はガイダンス(展示)施設として利用しています。」

 現在は1棟が復元されていますが、かつては平地全体に作業小屋が建ち並んでいたことがわかります。

 その「勝場」で働いていた役人や作業員が出入りする通用門が「辰巳口番所」(門)。

 また「広間役御長屋」の北側には、復元されていませんが「御金蔵」があり、その蔵は製造された金銀銅貨や小判等を江戸に運ぶまでの間収蔵しておく施設でした。

 この全体案内図でおおよその奉行所の構造や内容を把握した後、復元された奉行所内を見学しました。

                 続く



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