鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その4

2015-04-04 06:01:33 | Weblog
崋山は文章としては記していないが、宮山山頂の伊良湖明神に詣で、彦次郎家を出立して伊良湖の浜に向かう途中、芭蕉塚に立ち寄っています。それがわかるのが芭蕉塚と円通院を描いたスケッチ。画面右側の大石の上に芭蕉の句碑が立っています。画面左側の道(これが旧街道〔田原街道〕か)を隔てた向こうにあるのが円通院。円通院は現在は伊良湖小学校の近くにありますが、これは明治38年(1905年)の「伊良湖試砲場用地拡大に伴う集落移転」の際、伊良湖明神とともに移転されたものであるでしょう。円通院の奥に描かれるのが「古山ノハナ(鼻)」であるとすると、円通寺は伊良湖の浜辺の近くにあったものと思われる。大石の上に立つ芭蕉句碑のあたりからは、伊良湖岬の西端の「古山ノハナ」や、その先に浮かぶ神島、さらにその先の伊勢志摩の陸地、さらに三河湾の島々や知多半島、伊勢湾などが見えたはずです。この句碑が建てられたのは寛政5年(1793年)のこと。刻まれている芭蕉の句は、『笈の小文』中の、芭蕉が伊良湖岬で詠んだ「鷹ひとつ見つけてうれし伊良胡崎」。同行していたのは当時保美に隠棲していた芭蕉の愛弟子杜国(坪井庄兵衛)と越人(越智十蔵)。俳諧を嗜んでいた崋山は、もちろん芭蕉の『笈の小文』に目を通したことがあり、芭蕉が伊良湖岬に来たことも、また伊良湖岬で詠んだ俳句も知っていたものと思われる。また杜国が罪を得て保美に隠棲しており、芭蕉がその杜国を訪ねて渥美半島にやってきたことも知っていたはずです。崋山はここで芭蕉や杜国らが眺めたのと同じ風景を眺め、あらためて深い感慨にふけったものと思われる(崋山がこのあたりにやって来たのはこれが初めてではなく、三度目)。崋山は文政8年(1825年)、33歳の時に「四州真景」の旅に出掛けていますが、この時も崋山は芭蕉の『鹿島紀行』を意識して旅行しています。崋山は神島を訪ねた後、畠村から川を下って古田から船で佐久島へ渡っています。この畠村(現田原市福江町畠)の近くには潮音寺というお寺があり、そこには杜国のお墓があります。この畠村は罪を得た杜国が所払いとなってしばらく移り住んだことがある土地でもあり、崋山が潮音寺を訪ねた可能性は高いと思われますが確証はありません。ただし畠村にあった美濃大垣新田藩の陣屋の姿は、崋山はしっかりとスケッチに残しています。 . . . 本文を読む