石井さんは次のように述べる。「救護チームの一員として半年間、石巻圏のさまざまな避難所や救護所を回り、さまざまな被災者に接してあらためて感じたことは、やはり人は、仕事をして、お金を稼ぎ、それによって生活することで初めて人としての“誇り”が生まれるということだった。津波は人々の命や財産だけでなく、その誇りさえも奪ったのである。」「被災した人々がそれらの悲しみを乗り越え、自立への道を歩めるようになるためには“誇り”が必要だ。政府や自治体には、なんとしても雇用を生みだしてほしいと切に願っている。」この石井さんの言葉は重い。私たちの支援は被災者の人たちの“自立”と“誇り”を生みだすものでなければならない。被災者の「働く場」(雇用)をいかに生み出すか。壊滅的な津波による打撃を受けた、石巻を含む東北地方の太平洋沿岸部において、それがいかにして可能となるか。多くの被災者の人たちの“自立”と“誇り”が取り戻されるまでは、軽々しく「復興」「復旧」などと言うべきではないのだと、石井さんの著書を読んであらためて私は思いました。 . . . 本文を読む
◆災害発生時に動く各部門の責任者を、可能な限り実名で入れること。その担当者に当事者意識を持ってもらうと同時に、迅速に対応できるよう平時から準備しておくことを促すのが狙いだ。◆災害現場の第一線に立つ実務担当者は、お互いが顔がわかり、密接に連携できる関係でなければ、災害発生時に何の意味もなさない。◆業界に限らないさまざまな職種の人たちと交流することが重要である。◆平時から、考え得る最悪の事態を想定して、それに対する準備やマニュアル化、そして訓練をしておくことはもちろん重要だが、それらはすべてリアルでなければ意味がない。◆「HELP」の声が聞こえない、見えないのは、そのこと自体が「HELP」のサインと捉えるべき。◆非常時では、調査結果の精度よりも、いち早くそれを把握して救護活動に生かすスピードこそが重要だ。◆食うや食わずの避難生活を余儀なくされている被災者を前に、それはだれだれの仕事だと、自らの活動を自己限定するほどナンセンスなことはない。◆医療に従事する者の至上命令は、「救える命を全力で救う」ことに尽きる。◆災害救護の現場に必要なのは、次々に現れる問題に対し、「べき論」(「こうあるべき」「誰がやるべき」)を唱えることではなく、「どうするか」「どうしたらできるのか」と救護者一人ひとりが知恵を絞り、みなで協力して実現可能な解決策を生みだすことである。◆救護チームの活動は、地元の医療関係者の理解が得られないと成り立たない。◆チーム全体としての活動方針やコンセプトは、つねに明示しておくよう心掛けること。◆行政を動かすには「具体例」をあげて「低姿勢」で対応すること。◆災害対応のキーワード五つ。①事前の準備②逃げない心③客観的視点④コネクション⑤コンセンサス◆災害救護活動で最も重要なのは、救護チームを支えるロジスティック(後方支援)である。※ほかに印象に残った言葉。◆誰かがやらなければならないのなら、自分たちで知恵を絞ってやるまでである。◆災害救護の現場に、「数が揃ってから配る」というお役所的発想は不要である。 . . . 本文を読む
本書の執筆動機を、石井さんは次のようにまとめています。「本書を執筆したのは、この震災における経験や、そこから浮き彫りになった問題点を、僕たちだけのものに留めず広く共有して、みなで次の災害に備えたい─との思いからだ。」未曾有の大震災の経験や、そこから得た教訓や問題点は、みんなで共有すべきであり、それが次の災害に備え、多くの人命を助けることにつながるのだ、という医療者としての熱い思いと強い責任感から、この本が著されたことになります。医療関係者ではない私たちにとっても、その未曾有の経験や体験、そこから得られた貴重な教訓や課題となった問題点は、とても参考になるものです。特に石井さんが強調しておきたいことは、本書において太字で示されており、私たちが心しておくべきことであると思いました。それらについては、次回に、私なりにまとめて列挙してみたいと思います。 . . . 本文を読む
私が取材旅行でたまたま立ち寄った津波被災地や利用したルートで、本書において被災状況が触れられているところを列挙してみたい。◆「湊地区では、石巻市立湊中学校をはじめ避難所の大半は、1階部分が浸水し、床や階段が津波で運ばれてきたヘドロや粉塵で汚れ、また上水道が被災したため水道から水が出ず、手さえ満足に洗えない状態だった。」私は湊小学校の前を通りかかり、車を停めて敷地内を歩いてみましたが、湊中学校と同様な状態であったのでしょう。◆「石巻医療圏内でも避難所の衛生状況がとくに劣悪で、医療ニーズが高かったエリア6(鹿妻・渡波地区)とエリア7(旧北上川東地区)に4ヵ所の拠点救護所を設けた」湊地区や渡波地区などは、石巻医療圏内でも特に避難所の衛生状況が劣悪であった地域であったのです。◆「大量のハエに悩まされていた湊小学校や渡波小学校などの避難所で、県薬剤師会による害虫駆除作戦を展開してくれた。」私が湊地区の湊小学校に立ち寄ったのは震災後1年半以上の後であったから、瓦礫も撤去され衛生状況も回復しているようでしたが、震災後数ヵ月は厳しい衛生状態であったことがわかります。◆「震災直後、全国から集まった救護チームの悩みはガソリン不足だつた。三陸自動車道は緊急車両しか通行できず、被災地への燃料供給が極端に少なくなっていたためだ。」私は仙台から東松島・石巻方面へ向かう際に三陸自動車道を利用しましたが、震災直後は緊急車両しか通行できなくなっていたことが、この記述からわかります。◆「市中心部から東南に位置する旧北上川以東の湊、鹿妻、渡波地区や、中心部から西南に位置し、大街道(国道398号線)より南の地域は、復旧から取り残されていた。」大街道以南に入る「門脇小学校」の津波被災直後の写真が掲載されていますが(P191)、広い校庭は津波によって運ばれてきた瓦礫で覆われています。当然のことながら私が見た情景とはまるで異なります。◆「(イオンによる無料医療支援バスは)市立万石浦中学校、市立渡波小学校、松並ヤンマー、市立湊小学校の4定点救護所を含む…ルートを設定した。」私が車で走った道筋は、そのルートの一部であったのです。 . . . 本文を読む
石巻医療圏では、ほとんどの医療機関が津波による水没や停電で機能停止に陥り、高次救急医療に対応可能な施設は、2006年5月に湊小学校近くの沿岸部から三陸自動車道路からのアクセスがよい内陸部に移転していた石巻赤十字病院だけであり、石巻医療圏22万人すべての命を石巻赤十字病院が背負うことになりました。もし内陸部に移転していなければ、石巻医療圏の犠牲者数はもっと増えていた可能性がある。しかし意外なことに震災発生当日の3月11日に搬送された急患数はわずか99名でした。ところが翌12日になると一転して救急患者が石巻赤十字病院に殺到し、13日の救急患者数は1251人を数えたという。この日、石巻赤十字病院には63機ものヘリが飛来しました。石巻赤十字病院のマニュアルでは、阪神・淡路大震災の経験から、地震による建物の倒壊で下敷きになったり、押し潰されたりした患者が多数運ばれてくることを想定していましたが、実際に運ばれてきたのは、海水に浸かったまま一昼夜を過ごして体温が極度に低下した人たちや、寒さで肺炎を起こした人たちなど、マニュアルで想定していなかった患者ばかりであって、石井正さんを初めとする石巻赤十字病院の関係者たちは、今回の災害が「津波」であることを実感するに至りました。その後も多数の救急患者が搬送されてくる状態は続き、地震発生から1週間で来院した被災患者数は3938人に達したという。また震災発生直後の12日未明には八戸赤十字病院の救護班が最初の支援部隊として到着。その1時間後には長岡赤十字病院の救護チームが2台の救急車で到着。そして午前5時半には足利赤十字病院の救護チームが到着。震災発生翌日に全国から駆け付けた救護チームは17チームを数えたと石井正さんは記しています。長岡や足利などかなり遠方の地域から、震災発生翌日には救護チームが石巻赤十字病院に到着しているという事実を知り、石巻~足利の遠さを実感したばかりであった私は、正直言って驚くとともに感動しました。 . . . 本文を読む
『石巻災害医療の全記録』のP18に「東日本大震災でとくに被害が大きかった市町村」(2011年12月10日まで)という図があり、それによると石巻市の死亡者数は3181、行方不明者数は651となっています。石井正さんが「災害医療コーディネーター」として担当したのはその石巻市を含む「石巻医療圏」であり、それには女川町と東松島市も含まれていました。その圏内で合計すると、死者数は4803、行方不明者数は1087、合わせると5890もの数となり、どれだけ被害が甚大であったかがわかります。死者数が1千名を超えるのは、陸前高田市が1554、東松島市が1047で、その次が気仙沼市で1029となっています。同書P39には「図2-1」として「内陸部に移転していた石巻赤十字病院」という地図が掲載されており、津波で浸水した地域がグレーの部分で示されています。もっとも、この中の日和山(ひよりやま)の高台にある住宅地は津波の被害はうけていません。これによると石巻市立病院は日和山から海岸部を見下ろしたあの一帯にあって津波被害を受けており、また私が車を停めて立ち入った「湊小」の近くにかつてあった「旧石巻赤十字病院」のあたりも津波の被害を受けています。津波は石巻市役所にも押し寄せているから、私が日和山の登り口近くで車を停めた紫明神社のあたりも、おそらく津波の被害を受けていたということになります。P191の「図7-1」によれば、日和山から見えた海岸部一帯は「大街道以南」と呼ばれた地域であったことがわかります。この「大街道」とは国道398号線すなわち「女川街道」のことであり、この「大街道以南」と「旧北上川以東」が特に津波被害の深刻なエリアであったのです。 . . . 本文を読む
『石巻災害医療の全記録』の著者である石井正さんは、石巻赤十字病院に勤務する外科医で現在50歳。2011年2月に宮城県知事から「災害医療コーディネーター」を委嘱されますが、その1ヶ月後にあの東日本大震災が発生しました。この東日本大震災において宮城県石巻は東日本最大の被災地となり、「災害医療コーディネーター」である石井さんは、22万人の命がかかる「石巻医療圏」の医療活動を調整する立場に立たされるとともに、行政やほかの医療機関も被災してその機能を著しく失ったために、その分をカバーする活動をも展開していくことになりました。本書は、日本の災害医療がいまだかって経験したことのないような状況に直面し悪戦苦闘していった著者が、その7ヶ月間にわたる「災害医療コーディネーター」としての活動を赤裸々に記録したものであり、医療面からの東日本大震災発生直後の実態と、その後の医療・救助活動の実態を、現場で対応した「災害医療コーディネーター」としての目から記録したものとしてたいへん貴重なものであるとともに、私が訪れ、目の当りにしたあの石巻の海岸部において、震災後どのような深刻な状況が展開していったかを具体的に知ることができる一書でもありました。ほんのわずかな地域でしかありませんが被災地を私自身の目で見てきたことにより、本書におけるさまざまな描写や記述は、きわめて生々しいものとして私に迫ってきました。 . . . 本文を読む
宮城県太平洋沿岸の津波被災地を見て回った後、帰宅してから目を通した震災関係の本は、『東北発の震災論』山下祐介(ちくま新書)、『石巻災害医療の全記録』石井正(BLUE BACKS/講談社)、『瓦礫を活かす「森の防波堤」が命を守る』宮脇昭(学研新書)、『小さな建築』隈研吾(岩波新書)など。その中でも生々しい津波被災現場の医療面からの記録が石井正さんの『石巻災害医療の全記録』でした。これは分厚い対策マニュアルでは対応できないような未曾有な災害に見舞われた時、また刻々と変わる状況に応じて迅速に行動していく時に、リーダーにはどういう資質なり判断力なり力量なりといったものが求められるか、という深刻な現場からのさまざまな体験にもとづいた提言でもあり、たいへん参考になるものでした。宮脇昭さんの『瓦礫を活かす「森の防波堤」が命を守る』は、海岸線から広大な平地にずっと更地が広がっているような津波被災地の光景を目の当りにした時、この平地(更地)における復興はどのようにしたら可能なのか、といったことを考え込んだ私にとって、目が開かれる(目からうろこが落ちる)ような提言でした。「震災瓦礫」に対する考え方、その捉え方にもとづく「震災瓦礫」の有効利用の仕方、その「震災瓦礫」で造った防波堤に「本物の森」を育てることによって、巨大津波による被害の減災を図ろうというものであり、これこそ更地が広がる津波被災地において、自然環境や景観に配慮し、長期にわたって住民の安全と安心を保証する、最もふさわしい「防波堤」のあり方ではないかと思われました。この4書については、また機会を見て、このブログにおいてその内容を紹介し、また感想を述べていきたいと考えています。 . . . 本文を読む
『震災と鉄道』で、ほかに印象に残ったところをいくつか列挙します。
・震災によって電柱や架線が倒れてしまえば、すぐに路線を復旧させて電車を走らせることができません。…架線が要らないので、災害時はむしろディーゼルの方が、融通が利くのです。・非電化区間を走るディーゼルカーのほうが低コストで、しかも電柱も架線も発電所も必要としないという点で、すぐれた技術なのかもしれないのです。・震災で反省すべき点に挙げられている東北の過疎化と東京一極集中は、新幹線の相次ぐ延伸によっても進められてきたことを忘れてはなりません。・相模原の大深度地下に新駅(リニア鉄道の)をつくる資金だけで、三陸鉄道ばかりかJR東日本の被災したローカル線すべてが復旧できるわけです。・リニアの恩恵を最も受けるのは、山梨でも長野でも岐阜でもなく、東京や名古屋の人たちです。原さんがこの本で指摘したかったことは、「はじめに」にある数行の文章に要約されています。それは以下の通り。「鉄道は速度や営業係数のような数値に還元される交通手段ではないこと、被災した鉄道を復旧させることは、道路を復旧させるのとは根本的に違う要素があること、それは高校生や高齢者な津波で自動車を流された人々の『足』となるばかりか、震災によって失われた公共的空間を回復させるという意味があることを示したい」 鉄道の存在は、「公共的空間」を維持していく上において重要な意味を持つものであり、速度や営業係数など、効率性や合理化を追求していけば、その「公共的空間」はどんどん破壊されていってしまうのだ、と原さんは強い危機意識のもとに主張されているのです。 . . . 本文を読む
そもそも三陸鉄道のルーツは、1896年(明治29年)に起こった明治三陸大津波にまでさかのぼることができるという。その復興のため同年7月に三陸鉄道創立申請書が、時の逓信大臣白根専一に提出されたが、それが「三陸鉄道」という名前が歴史上に現れた最初であるとのこと。しかし実際には、岩手県沿岸部を走る三陸鉄道が開業されたのは1984年(昭和59年)のことでした。第三セクターになっても赤字経営が続く路線でしたが、大震災の5日後には応急措置による一部復旧に漕ぎつけることができました。それが可能だったのは、経営者の、鉄道はその地域の「公共の福祉」を担っているという強烈な使命感と、そして何よりも三陸鉄道に対する深い愛情があったからだ、と原さんは指摘する。三陸鉄道の場合、目指すは3年後の全線復旧であるのですが、ではなぜJR東日本の場合はそれができないのか。原さんは、それはJR東日本の経済的効率や採算性を最重要視する企業体質にあるのではないかと指摘しています。その点では東京電力と似ているところがある、と原さんは記しています。一つの例として原さんが挙げるのは、震災後、JR東日本がまず何よりも東北新幹線の復旧・全通を急いだこと。東北新幹線は、東北本線など在来線と違って被災地への救援物資を運ぶことができないにも関わらず、JR東日本はそれを百も承知で、不通になった多くの在来線よりも新幹線の復旧を優先させた、と原さんは言う。切迫した状況の被災地に対する全面的支援よりも、経済界や観光業界の声、そして何よりも自社の利益を最優先したと思われても仕方がないことだと、原さん同様私もそう思います。しかし、一方津波被災地の鉄道状況を実際に我が目で見てみると、これはなかなか早期の復旧は難しいのではないか、と思ったのも事実。なぜなら沿岸部においては地面に線路が敷設されているのではなくて、高架線である場合が多いからです。鉄筋コンクリートの橋脚に支えられた高架鉄道が、巨大津波によってずたずたに寸断されてしまっているのです。地面に土盛りがされて直接線路が敷設されているのとは違い、高架線であるがゆえに復旧が困難になっている(らしい)という状況を、私は、JR気仙沼線の沿岸部において各所で目にしたのです。 . . . 本文を読む
原さんは、JR東日本は、なぜすぐに復旧できないのかという問いに対して、JR東日本は、復旧に対する公的支援を要望する一方で、これから沿岸の町がどういう形で復興していくのかを見ながら対応していくという姿勢をとっているからだ、と記しています。高台移転にするか現地復旧にするのかを巡って、沿線住民の間にもさまざまな意見があり、また国は国で、地方自治体は地方自治体で将来的な都市計画や土地利用の計画があるから、それぞれによる合意形成には長い時間がかかる可能性がある。その間、JR東日本は復旧しない原因を地域住民や地方自治体、あるいは国に押し付けて自らは何の責任も問われないという奇妙な構図ができてしまう、と原さんは言う。「三陸鉄道に比べて、JR東日本には被災地のニーズ、乗客一人ひとりの顔が見えていません。それどころか、『信じられないほど鈍感だ』といっていいかもしれません」とまで原さんは述べています。原さんは、まずはたとえ応急的な措置であっても、元のルートで早期に線路を復旧することを原則とすべきだとし、JR東日本は「何年何月までにどこまでやる」といった復旧に向けての明確な工程表を示して、それに向けての工事に早急に着手すべきであると主張する。そうしなければ単に地域から「駅や車両や線路がなくなる」ということにとどまらず、「公共的空間そのものが破壊され」てしまうという深刻な事態が生ずるのだと、原さんは強い懸念のもとに鋭く指摘しているのです。 . . . 本文を読む
『震災と鉄道』に載せられている、宮脇俊三さんが記した気仙沼線全通の日の志津川駅前の様子は以下の通り。
「サッカーでもやれそうな広い駅前広場はびっしりと人間で埋まっていて、思わず口を開けて見下ろしたところ五千人以下ではない。一万人ぐらいかも知れない。志津川は人口一万七千だからまさに町を挙げてである。特設の舞台も設けられている。花火が打ち上がり、風船が何百と放たれ、少なくとも百羽以上の鳩が飛びたった。上空にはヘリコプターが三機も旋回している。これはもはや出征兵士の見送りではない。」
(『時刻表2万キロ』、角川文庫、1984年)
宮脇さんは、国鉄が気仙沼線を赤字路線になると予想していたことを報じていますが、しかし実際は黒字であったかどうかはわかりませんが「気仙沼線は多くの地元住民が利用するようになり、志津川駅に停まる列車は開通当初上下5本だったのが、2011年3月には下り10本、上り9本と、ほぼ倍増」していました。気仙沼線の開通によって、志津川は気仙沼や仙台とつながったからです(快速で仙台まで1時間20分)。原さんは次のように指摘する。「鉄道の不通によって最も不利益を被るのは、車の運転ができない高校生や高齢者のような交通弱者です。不通が長引けば長引くほど、こうした人びとがその沿線で生活するのは難しくなり、結局は車を運転できる人びとしか残らなくなるのです」と。 . . . 本文を読む
ドナルド・キーンさんの『渡辺崋山』と、大久保純一さんの『広重と浮世絵風景画』の携行した2冊は、取材旅行中にざっと目を通すことができました。津波被災地を見て回って、気になってきた1冊は、旅行前に読んだ震災関係の本の中で原武史さんの『震災と鉄道』(朝日新書/朝日新聞出版)でした。昨年夏の取材旅行ではJR常磐線の津波被害による惨状を目の当たりにし(山元駅周辺)、また今回の取材旅行ではJR気仙沼線の惨状を目の当たりにしました。巨大津波の襲来により、線路や鉄橋はもとより駅舎やホームまでもがずたずたに寸断され破壊されてしまい、現在においてもほぼその時の状態のままであるという惨状です。明治学院大学教授の原武史さんの専門は政治思想史ですが、鉄道関係にも詳しく、政治思想や政治史の観点から、東日本大震災で生じた状況を踏まえて「震災と鉄道」について論じたのがこの新書版の本。原さんは震災後の4月26日に東京を出発して岩手県の被災地に向かい、翌27日盛岡からバスで宮古へと向かいました。三陸鉄道は震災直後の3月16日から部分的に運転を再開し、宮古~田老~小本間も3月29日に列車が走るようになっていました。さらに3月31日まで三陸鉄道は運賃を無料にしていました。そして北リアス線と南リアス線の全線復旧を3年後の2014年4月にすることを株主総会で決めたのだという。ではなぜJR東日本の場合、被災した路線の多くを三陸鉄道のように早期に復旧できないのか、と原さんは疑問を呈するのです。原さんは震災後の志津川にも出掛け、そしてJR志津川駅前広場の跡に立っています。そこで原さんが想起したのは、紀行作家の宮脇俊三が気仙沼線の全通の日(昭和52年)に記した、志津川駅前広場に集まった1万人ほどの町民の熱狂ぶりの様子でした。しかし震災後訪れた原さんの目の前にあったのは、「津波で激しく損傷した建物の残骸や、まだ片付けられていないガレキに囲まれ、人っ子ひとりいない駅前広場の跡」であったのです。 . . . 本文を読む
町田市立国際版画美術館の企画展「北斎と広重 きそいあう江戸の風景」で見たように、北斎も広重も、実際に行ったことがない日本各地の名所風景を多数描いています。つまり種本を利用して、各地の名所風景を描いているわけですが、広重の場合は種本としてもっとも使用頻度の高かったのは、淵上旭江(ふちがみきょっこう)の『山水奇観』であると大久保さんは指摘しています。淵上旭江は備前国児島郡の富農の家に生まれたが、幼少より絵画を好み、若い時に家を出て諸国の奇観を23年にもわたって写生して歩き、その旅の成果を上梓したものが『山水奇観』でした。彼は山陰道・山陽道・南海道・西海道・五畿内・東海道・東山道・北陸道とほぼ全国を歩き、各地の奇観を写し取りました。広重はその旭江の写生図のリアリティに信を置き、早い時期から名所絵の種本として同書を利用したという。しかし広重は、種本に用いた『山水奇観』の図様をそのまま流用するのではなく、景観内の諸モティーフの位置関係を壊すことなく、たくみに視点の移動を行い、その新たな視点をもとにして現実ならばそうであろうという地形の配置を合理的に割り出してリアリティを高めており、その高度な図様操作において広重ほどの技量を持つ浮世絵師は他には見られない、と大久保さんは記しています。広重の名所絵の特色を、その豊かな情趣性の面からのみ説くのではなく、当時の最高水準にあった彼の空間構築力の面から改めて見直す必要性がある、という大久保さんの指摘はまさに正鵠を射たものであると私は思いました。 . . . 本文を読む
『広重と浮世絵風景画』の最終章(第7章)は「『日本名山図会』と浮世絵の風景表現」。『日本名山図会』は谷文晁の作品として知られ、文化9年(1812年)に『日本名山図会』と改題された出版されたもの(初版は文化元年〔1804年〕)。絵はすべてが文晃の写生にもとづくものではなく、文晃の弟子である谷元旦(げんたん)や文晃と交流があった画僧白雲らの写生画にもとづくものも含まれています。版を重ねた同書は、その高い描写の質から、浮世絵師たちの風景描写にも利用された可能性が高いと大久保さんは指摘する。大久保さんが挙げる浮世絵師としては、2代広重・歌川国芳(武者絵の背景として)・月岡芳年など。また広重についても『日本名山図会』に見られる「謹直な描線主体の写生的な山の描写法」の影響を受けていることを、大久保さんは指摘しています。広重の浮世絵風景画は、同時代の江戸後期の絵画のいろいろな影響のもとで生み出されていることを、さまざまな観点から大久保さんは浮き彫りにされたのですが、一方でその時代の他の文化領域や社会のあり様とどういう関係を持つものなのか、といった点についてはまだまだ考察の余地があることも指摘されています。私としては、彼が風景を見つめ描いていくことで見えてきたところの幕末日本の社会の姿(文化・伝統・風俗・信仰世界・流通・外圧による変化等)はどういうものであったのか、それを江戸地廻り経済圏の発展と関連させる形で考察していきたいと考えています。 . . . 本文を読む