鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.4月の「高輪から日本橋」取材旅行   その3

2007-04-28 07:45:19 | Weblog
私が初めて東京を訪れたのは、昭和38年(1963年)。家族旅行で、福井から夜行で(日本海回り)上野に着き、東京タワーに登って東京の街を見下ろし、その日は四谷に泊まったことを覚えています。翌日、伊豆下田に向かい、寝姿山にロープウェイで登り、バスで石廊崎(いろうざき)に行き、下田に戻って天城峠をバスで越え(途中浄蓮の滝に寄る)湯ヶ島温泉の国民宿舎に泊まり、翌日、東海道本線と北陸本線で福井に帰ったのです。東京では、路面電車(都電)があちらこちらを走っていた(そして、おそらくそれに乗ったはずですが、それについてはまったく覚えがない)ことを思い出します。また四谷の宿舎の洗面所で、朝、顔を洗っている際に、ガラス窓越しに、高架線(中央線)を電車が走っているのを見て、「ああ東京に来たんだ」と思ったことも覚えています。東京オリンピックの前、東京の推定人口が1000万人を突破した頃でした。都電が最も活躍していたのはその頃で、「歩行者天国」になっているこの銀座中央通りにも、1系統の都電が走っていました。区間は品川駅前から上野駅前まで、10.9km。主な経由地は、泉岳寺─新橋─日本橋─銀座四丁目─須田町。品川~新橋間の開業は1903年(明治36年)の8月。これが東京の路面電車の始めでした。ということは、私は、朝から、この1系統の都電の線路にそって歩いてきたことになります。つまり「第一京浜」には、かつて都電が音をたて、乗客をいっぱいに乗せて走っていたのです。 . . . 本文を読む

2007.4月の「高輪から日本橋」取材旅行   その2

2007-04-26 21:16:38 | Weblog
 高輪大木戸跡を過ぎて、しばらく歩くと、歩道右手に「東京トヨタ本社 GS三田」というビルディングがあり、その前に目立たぬ小さなガイドパネルがあり、そこには、「由来」として次のようなことが記されていました。「植え込みを囲んでいる石は、センチュリー三田ビル建設に伴う掘削工事中に出土したもので伊豆産の火成岩。明和年間(1760年頃)、この地に細川越中守の下屋敷があり、高さ一丈二尺(約3.6m)、長さ二百二十七間(約409m)の石垣があったと記されており、おそらく護岸用の石であったと思われます」。ということは、江戸湾に面する大名屋敷(蔵屋敷や下屋敷など)は、かなり背の高い護岸用の石垣の上に建っていたと想定されます。その延々とつながる堅固な石垣に、江戸湾の波が寄せては返していたことになります。その石垣の途切れたところどころに、砂浜や網干場や雑魚場があり、そこでは江戸の漁師たちが働き、そして江戸の子どもたちが遊んでいたりしていたことでしょう。また沖合いには、無数の舟が浮かんでいたはずです。現在の風景からは想像しがたいことですが……。 . . . 本文を読む

2007.4月の「高輪から日本橋」取材旅行   その1

2007-04-22 21:29:41 | Weblog
 手元に『明治・大正・昭和をめぐる東京散歩』(成美堂出版)という本があります。  副題は2つ。  「明治に感嘆する 大正に遊ぶ 昭和を振り返る」と「東京の変貌を地図と写真と書物で、見る」。  150に満たないページ数に、「東京散歩」に関する情報が詰め込まれています。これをパラパラと紐解いただけでも、「東京」という大都市がいかに奥深いものであるかがよくわかります。はまったら、そう簡単には抜け出せない、そういう感じ。何しろ、「東京」の前に、260余年にもわたる「将軍のお膝元」「城下町江戸」の歴史を持っているわけですから。  「東京レトロ空間探訪記」の、「江戸東京博物館」・「葛飾区郷土と天文の博物館」・「台東区立下町風俗資料館」・「江戸東京たてもの園」・「昭和館」・「浦安市郷土博物館」など(取材を目的に)ゆっくり足を運んでみたい。  巻末の「博物館・資料館」に関する情報も役に立つし、訪れてみたいところがたくさんあります。これに各地の図書館を加えたら、「江戸・東京」の取材に10年はかかるかも知れない。対象を絞りつつ、ボチボチとやっていくしかありません。  「明治・大正・昭和 文学・芸能ぶらり散歩」で、四コースが紹介されていますが、とりあえず歩いてみたいのは、「漱石・鴎外・一葉・啄木」コース。本郷図書館鴎外記念室から始まって、一葉終焉の地で終わるコース。写真を眺めているだけでワクワクしてきます。  「永井荷風著『日和下駄』で歩く浅草・向島」というのも面白そうだ。  ともかく、「東京」はとてつもなく奥が深い。そういうことを思わせる一冊です。  この本を参考図書の一つとして、今月は高輪から日本橋までを歩きました。  その取材報告を、以後何回かにわたって行います。 . . . 本文を読む

中江兆民とプティジャン神父 その1

2007-04-20 22:23:50 | Weblog
 長崎新町の済美館(せいびかん)で、中江兆民(篤助)を含む日本人学生たちにフランス語を教えた公儀(幕府)御雇い外国人の名前は、ベルナール・タデ・プティジャン。フランス人でカソリックの宣教師(パリ外国宣教会所属)でした。この人物について詳しい記述があるのは、フランシスク・マルナスの『日本キリスト教復活史』(久野桂一郎訳/みすず書房)であることは、このブログの「長崎の済美館学頭・平井義十郎について その2」ですでに触れたところです。この本をもとに、以下、何回かにわたってプティジャン神父についてまとめてみたいと思います。 . . . 本文を読む

中江兆民と山本松次郎のこと その2

2007-04-13 23:27:46 | Weblog
 中江兆民(篤助)と山本松次郎が、済美館でカソリック神父プチジャンらからフランス語を学ぶ二十人ばかりの学生たちの中にいたことは確かなことですが、私が『波濤の果て 中江兆民の長崎』で描いたように、二人が親友であったかどうかは何の確証もありません。ただ接点はないわけではないのです。土佐高知の藩校文武館(後、致道館)の洋学教授で中江兆民の恩師である細川潤次郎は、安政元年(1854年)に長崎に遊学して、高島秋帆の塾で兵学や砲術(高島流)を学び、後に(明治18年)、「秋帆高島先生墓表」を上野公園内に建て(大正11年12月8日に、秋帆の墓のある文京区の大円寺に移される)、また明治16年(1883年)には「秋帆高島先生年譜」を編集し、さらに明治27年(1894年)には『高島秋帆先生伝』を著しているほど、高島秋帆に傾倒した人物なのです。この高島秋帆の高弟に、山本清太郎(晴海)という人がいたのですが、この山本清太郎の第五子として長崎紺屋町に生まれたのが松次郎なのです。細川潤次郎が、長崎で、秋帆の高弟山本清太郎を見知っていた可能性は高く、その細川と清太郎との関係で、兆民が松次郎と知り合ったということも可能性としてはありえます。細川潤次郎は、高島流砲術についての関心が深く、田原藩士(後、家老)で、高島秋帆に洋式砲術を学んで日本における洋式砲術の普及に努めた村上範致(のりむね)の碑(勝海舟題額・田原城跡の三ノ丸に建立)の撰文をあらわしており、また、やはり高島秋帆の高弟中島名左衛門の伝記(『中島名左衛門伝』中島倭文雄〔明治38.11.29発行〕)の序文を書いているほどです。 . . . 本文を読む

中江兆民と山本松次郎のこと その1

2007-04-12 21:45:23 | Weblog
長崎にあった幕府直轄の語学所「済美館」が置かれていたところは、もと長州藩の蔵屋敷があったところでした。長崎には、西南各藩の蔵屋敷がありました。蔵屋敷というのは、大名などが、年貢米や諸国の産品などを売りさばいて貨幣に替える目的のために設けたもので、長崎には、西南諸藩の蔵屋敷があり、そこには「聞役(ききやく)」という職名の者が駐在して、長崎の動きや事件などをいち早く自藩に報告することを重要な任務としていました。長崎にあった蔵屋敷は全部で20。薩摩・肥後・筑前・長州・佐賀・久留米・小倉・柳川・対馬・島原・大村・五島・富江・黒田美作・諫早・鹿島・武雄・多久・深堀・土佐の諸家でした。このうち蔵屋敷の所在地は、『長崎町人誌 第一巻 世変わり人情編』(長崎文献社)に載っており(P92)、薩摩は「現在の東京銀行」、長州は「自治会館」、土佐は「あさひ銀行」となっています。この「自治会館」があるところ(長州藩蔵屋敷跡)が、「済美館」があったところになります。この「自治会館」がどこにあるのかを調べてみると、現住所は、長崎市興善町6-24。通り隔てて西側に長崎中央消防署があり、北側に長崎社会保険事務局があります。この辺りは、幕末においては「新町」と呼ばれたところで、長州藩蔵屋敷の隣には小倉藩蔵屋敷もありました。長州藩は、元冶元年(1864年)の7月の「蛤御門(はまぐりごもん)の変」において、御所に向けて発砲したことなどを理由に幕府より「朝敵」とされ、江戸の長州藩邸は破却され(木材は江戸市中の風呂屋の燃料になりました)、大坂の蔵屋敷も打ち壊され、そしてこの長崎の蔵屋敷は幕府に没収されることとなり、慶応元年(1865年)の夏から、「済美館」という語学所として使用されることになったのです。 . . . 本文を読む