この墓は基台の上に比較的新しい墓石が乗り、その上に角が欠けてやや苔むした墓石が乗り、その上に石の割れたかけらが乗っています。
一番上のかけらには「行年 〇〇才」と刻まれているからこれが墓石であることは間違いありません。
角が欠けてやや苔むした墓石には、戒名と没年月あるいは没年月日、そして俗名がずらりと横一列に刻まれています。
その下の比較的新しい墓石は、よく見ると上の墓石を新たにしたものでした。
これによって苔むした墓石の文字をはっきりと確認することができました。
戒名はすべて「浄〇〇信士」となっています。
「信士(しんじ)」は成人の死者であることを示し、「浄」は浄土を願うもの。
俗名は、右から、清、藤八、市右ヱ門、小三郎、金兵衛、富、茂七、与助、伊右ヱ門、佐兵衛、与の11名。
没年は安永7年(1778年)が3人、安永8年(1779年)が7人、安永9年(1780年)が1人。
つまり全員が安永年間に死んでいます。
没年齢は分かりません。
その苔むした墓石の右側面には「戸」と刻まれており、この墓石もおそらく江戸から佐渡に送られてきた水替人足(無宿人)のお墓だと判断されます。
無宿人の水替人足が江戸から送られてきたのは安永7年が最初であったから、この墓石に名前が刻まれている無宿人は、その時に送られてきた者たちの中で、送られてきたその年に死んだ者、その翌年、翌々年に死んだ者たちであったと推測されます。
誰がこのお墓を建てたのかは分からない。
この墓石の右隣にも無宿水替人足の墓と思われるものが数基ありました。
推測ですが、安永7年に送られてきた無宿水替人足の墓も、その右隣の数基の墓も、もともとここにあったものではなく、他の地に散在していたものをここに移したものではないかと思われました。
おそらくここにまとめて一緒に供養することにしたのです。
後で調べてみると、この無宿水替人足の墓や供養塔が並んでいる広場は、かつて日蓮宗妙法山覚性寺というお寺があった跡地であるとのこと。
嘉永6年(1853年)に坑内災害で死んだ無宿人28名の戒名を付けたのは、おそらくこの覚性寺の当時の住職であり、また散在していた他の無宿人たちの墓石をここに集めたのもこの覚性寺の何代目かの住職であったと考えられますが、確かなことはわかりません。
続く
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