「旧鉱山住宅」から先に進むと、木の間から「道遊の割戸(わりど)」が見えました。
「京町通り」を相川金山方向へ歩いてきて、ここで初めて「道遊の割戸」を見ることになります。
〔中央の、真ん中が窪んだ小山が「道遊の割戸(わりど)」〕
この「道遊の割戸」は江戸時代から相川金山の象徴とも言えるものであり、明治・大正・昭和になっても、この地点からこのような風景が見えたことになります。
昭和10年代の大増産期にはこの「道遊の割戸」の手前に工場が立ち並ぶことになりました。
相川金山に通う多くの人々が、ここから「道遊の割戸」を眺めたことでしょう。
しばらく進むと「元外務大臣有田八郎家跡 大工町」と記された案内板がありました。
それによると有田八郎は外交官として活躍してから広田内閣の外務大臣となり、以来、広田・近衛・平沼・米内、四内閣の外相を務め、昭和20年7月には戦争の早期終戦を促す上奏文を執筆し、戦後は平和護憲運動で活躍したという。
この有田八郎は佐渡の真野町新町に生まれ、2歳の時に相川町大工町の民権家有田真平の養子となって有田家を継いだという。また実兄は山本悌次郎と言い、元農林大臣であったとのこと。
「民権家有田真平」とあることは、この大工町に自由民権活動家がいたということ。
さらに「米騒動の若き指導者 小川久蔵の生地 大工町」と記された案内板もありました。
それによると明治23年(1890年)に、佐渡において米が七銭から十二銭へと倍近くに高騰したことがあり、それによって「米よこせ騒動」という大騒動が発生。
その時の若いリーダーが、鉱山坑夫であった小川久蔵(22歳)であったという。
この久蔵は父とともに足尾銅山に働きに出たこともあるといい、当時の坑夫の中には佐渡相川だけでなく他の鉱山にも働きに出掛けた者がいたことがわかります。
この「米よこせ騒動」により米は八銭に下がり、多くの人々が助かりましたが、久蔵は明治26年(1893年)2月に新潟監獄所でなくなったとのこと。
25歳で死んだことになります。
鉱山の坑夫は、米穀などの食料や日常生活品を、もっぱら働いて得た賃金により購入しなければなりません。
現金収入が限られているのに日々家族が食べる米の値段が高騰することは、彼らの生活に大きな打撃を与えることになりました。
明治23年頃に、なぜ佐渡において米が不足し高騰することになったのか、その背景については説明はありませんが、大正時代に富山県で発生して全国に及んだ「米騒動」を想起しました。
「大工町」については、「大工町通り」と記された案内板がありました。
それによると相川では「大工」は「金を掘る金穿(ほ)り」のことを言い、ここ「大工町」には江戸時代初期に大工たちが住んでいたとのこと。
相川では家を建てる大工のことを「番匠」と呼んでいたともありました。
この「大工町」は江戸時代初期から、相川金銀山の「金穿り」つまり「大工」たちが居住していた町であり、明治以後も、近代化された相川金銀山(「道遊の割戸」付近の鉱山)で働く鉱山労働者やその家族が居住していた町であることが推測されました。
その鉱山労働者や鉱山技術者の中から、有田真平などの自由民権家や小川久蔵などの民衆運動指導者が生まれてきたのが、この「大工町」であったということになります。
戦後、平和護憲運動に活躍した元外務大臣有田八郎なども、そのような「大工町」の土壌から生まれてきた人物であるのかも知れません。
そこからしばらく進むと、道は狭まって車が行けるような道ではなくなり、そのどんづまりのようなところの右手に「万照寺」という浄土真宗のお寺がありました。
続く
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