鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

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徳冨蘇峰の乗った御殿場馬車鉄道

2010-02-25 06:55:02 | Weblog
徳冨蘇峰が、「足柄道」の衰退をもたらしたとした東海道線御殿場駅の開業は、明治22年(1889年)の2月1日のこと。この日の未明、御殿場では大火事が発生しておよそ1000軒が焼失。開業式はそのような大火事による混乱の中で行われました。しかし開業とともに御殿場駅前は、富士登山客を中心に賑わい、旅館や商店が次々と軒を並べていきました。御殿場駅ができたところは「新橋」というところで村の東側の外れ。この御殿場駅から、汽車でやってきた富士登山客などを馬車鉄道で須走方面へ運ぼうという計画が起こったのは、御殿場駅開業から7年後の明治29年(1896年)のこと。発起人は、御厨町の勝又勝美・芹沢信太郎・池谷茂三郎、高根村の瀬戸捻次郎・林庄平・滝口寿雄、須走村の梶禎など。この年8月に発起人たちは内務省に馬車鉄道の建設計画を申請。明治31年(1898年)3月には御殿場馬車鉄道株式会社の創立総会を開催し、その3月から馬車鉄道の建設工事が始められました。馬車鉄道のコースの大部分は新設。川や沢、湧水地などがコースに沿ってあることが重視されました。なぜなら馬車を引っ張る馬の飲料水の確保が大切であったから。東の外れの新橋から御殿場の中心地までの区間が開業したのが同年11月。須走村まで開通したのが翌明治32年(1899年)の1月。さらに籠坂峠まで全通したのは明治34年(1901年)の12月でした。新橋から須走まではおよそ12km。レールはイギリスから輸入したもので、その幅はおよそ3尺(90cm)。客車の幅は5尺(150cm)で長さは7尺(210cm)。通路を挟んで向かい合って座り、12人ぐらいが乗れたという。別に貨車もあり、これは無蓋でおよそ1トン積み。馭者(ぎょしゃ)が「テトウ、テトウ」とラッパを鳴らしたものだから、「テト馬車」とも呼ばれました。新橋~須走間の片道料金が17銭。上りはおよそ2時間、下りは1時間弱で走りました。『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 御殿場』のP76には、この「テト馬車」が3両写っています。右側の2両には、屋根に明り取りの出っ張りがあるのがわかります。この御殿場馬車鉄道は、明治38年(1905年)に解散し、一時、「野中馬車鉄道」になりますが、明治42年(1909年)に御殿場馬車鉄道(株)として再発足。蘇峰が乗ったのはこの再発足した御殿場馬車鉄道の馬車でした。 . . . 本文を読む
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徳冨蘇峰の歩いた富士山東麓

2010-02-24 07:08:21 | Weblog
大御神(おおみか)村における宝永の富士山大爆発による積砂は五尺五寸(およそ1m70cmほど)。その積砂の量は、須走村、柴怒田(しばんた)村に次ぐものでした。この大御神や須走など(当時は北郷村)を大正2年(1913年)の夏に歩いた人物がいる。その名は徳冨蘇峰(そほう)。徳冨蘇峰は、この年8月初頭に東海道線御殿場駅に下車。おりしも御殿場駅は、「富士登山道者」によってたいへんな雑沓となっていました。途中まで馬車に乗り、それより徒歩。蘇峰が向かったのは駿東郡高根村増田にある臨済宗妙心寺派の青龍寺。蘇峰はこの青龍寺に1ヶ月ばかり滞在し、土地の人の案内で周辺各地を歩いています。8月3日には竹之下へ、途中「だらだらの下り坂路」をたどって散歩に出掛け、翌4日には御殿場駅から鉄道馬車に乗って籠坂峠に至り、そこからまた鉄道馬車に乗って山中駅まで行き、その日のうちに御殿場駅に戻っています。8日には乙女峠の麓にあった「亜米利加村」を見学。15日には北郷村を歩いています。この北郷村というのは、明治22年(1889年)、旧北筋組合13ヶ村が一体となって立村したもので、かつての大御神村も大胡田(おおこだ)村などもこの北郷村に含まれました。蘇峰は一色の八幡社、村役場、用沢の八幡社、大御神池(阿多野池)、布引の滝、棚頭の八幡社、葛滝などを見物した後、酒匂川の上流の崖を上って富士紡績の貯水池や富士紡績の工場を見下ろし、北郷村の大部分を一周して午後2時前に青龍寺に帰着しています。27日には上小林の地蔵院に足を向けています。彼が東海道線で東京へ向かったのは31日。蘇峰が死んでから、彼の分骨埋葬地として4ヶ所が選ばれましたが、その一つは富士山東麓のこの青龍寺でした。ちなみにあと三つは、東京の多摩墓地、京都の同志社、そして彼の故郷である熊本の水俣でした。蘇峰が青龍寺に滞在し、周辺を散歩した時の日記には、宝永4年(1707年)の富士山噴火や堆積した火山灰(降り砂)に関する記述が出て来て、御殿場駅から乗った鉄道馬車に関する記述とともに興味をひかれるところです。 . . . 本文を読む
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2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その最終回

2010-02-21 07:05:48 | Weblog
関本は小田原と甲府を結ぶ「足柄道」の重要な宿場の一つであり、旅籠や問屋、商店などが街道沿いに軒を並べていました。この関本からは、井細田(いさいだ)を経由して東海道に入り、江の島や鎌倉、江戸方面へ向かうことができ、また「矢倉沢往還」(大山街道)を利用して、大山や、厚木・江戸方面へと向かうことができました。この関本には曹洞宗の古刹(こさつ)大雄山最乗寺があって周辺地域の人々の信仰を集め、また富士講の人々が「足柄道」を利用したから、とくに夏ともなればそれらの信仰者が宿泊するところとしても賑わいました。たとえばこの関本にも「富士屋」という旅籠がありましたが、ここは富士講の人々の定宿(じょうやど)の一つであり、5、60人ほどは宿泊することができたといいます。江戸の富士講の人たちは、江戸→富士山→足柄峠→大山→江の島→江戸というコースをたどることが多かったので(富士山・大山・江の島は、セットで参詣される場合が多かった)、そのことを考えると、足柄峠をこれから越えて富士山に向かう人々よりも、富士登山を終えてこれから大山や江の島を参詣し、そして江戸へと帰っていく人の方が多かったかも知れません。樋口一葉の両親となる樋口大吉と古屋あやめの二人は、ここから大山方面へは向かわずに、江の島・鎌倉に向かうべく東海道方面へと南下していきました。この東海道へと向かう道筋には、狩川(かりかわ)や酒匂川沿いに田んぼの広がりが見られましたが、これがいわゆる足柄平野。この足柄平野もあの宝永4年(1707年)の富士山大爆発による「砂降り」で深刻な被害をこうむりました。『あしがらの道 矢倉沢往還と足柄古道』によれば、この街道沿いの「和田河原」という村の石高(村高)は噴火前の元禄期においておよそ690石。それが「砂降り」による深刻な被害(二次災害も含めて)を受けてから、おおむねもとの額の年貢米を納めることができるようになったのは、およそ90年後の寛政年間のことだという。復旧するのにおよそ100年という年月を必要としたのです。先ほどの関本宿において「砂降り」の深さはおよそ40cmほど。千津島(せんづしま)では60cm。秦野で40~50cm。藤沢でも20~30cmに達しました。降り砂は雨で谷や川に流れ込み、川底を上昇させて大雨による堤防の決壊をもたらし、村や田畑が大きな被害を受けることになったのです。 . . . 本文を読む
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2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その10

2010-02-20 07:46:16 | Weblog
樋口一葉(奈津)の両親となる樋口大吉と古屋あやめの二人が、足柄峠を越えたのは安政4年(1857年)の4月7日。矢倉沢に下って、そこにあった旅籠「ふじや」に宿泊しています。翌日は「小田原伊細田二而中飯」を摂り、東海道に出て酒匂川を越え、大磯宿の「初屋」に宿泊。「小田原伊細田」というのは実は「井細田(いさいだ)」で、東海道に出る手前の村。矢倉沢は、足柄峠から下りてきて初めての集落である地蔵堂から関所のある矢倉沢にかけての地域。旅籠は地蔵堂にもあったし、また関所の関本側(東側)にも軒を連ねていました。足柄道は矢倉沢を下り、関本から大きく二つに分岐。一方は和田河原→竹松→宮ノ台→吉田島→松田→秦野→伊勢原→厚木→江戸と続く矢倉沢往還。一方は井細田を経て東海道へ出る道。関本は物資の継立や、最乗寺参詣あるしは富士講の人々で賑わい、下宿・中宿・上宿と三つの宿で構成され、問屋や旅籠や商家が建ち並ぶところでした。大吉とあやめは、矢倉沢の「ふじや」を早朝に出立すると、この関本で右折して東海道へと向かい、井細田で昼食を摂って東海道に入り、すぐに酒匂川を渡りました。さて、では二人が宿泊した矢倉沢の「ふじや」という旅籠はどこにあったのか。資料を調べてみると、まず矢倉沢関所の表関所の関本側(東側)に、立花屋・常陸屋・富士屋・江戸屋という4軒の旅籠があったことがわかります。これは『市史の散歩道 「広報みなみあしがら」より』の「矢倉沢と地蔵堂周辺」(P115)に出てきます。さらに地蔵堂にも旅籠「富士屋」というのがあったことがそのP241に記してあり、しかもなんとそれが「現在のうるし亭」であるとされています。「うるし亭」は私がその古民家の風情に惹かれて入って「くずきり」を食べた茶店です。あの家が江戸時代においては「富士屋」という旅籠であったというのです。さらに『あしがらの道 矢倉沢往還と足柄古道』本多英雄(かなしん出版)を紐解いてみると、そのP158に地蔵堂周辺の略地図が載せられていて、現在の「うるし亭」があるところが「富士屋(ふじ屋)」となっていました。つまり地蔵堂と矢倉沢本村の両方に「富士屋」という旅籠があったことになります(実は関本にも富士屋という富士講社の定宿があったという)。そのどちらであったかは確定できませんが、私には地蔵堂の「ふじ屋」(現「うるし亭」)がそれらしく思われてきました。 . . . 本文を読む
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2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その10

2010-02-19 06:55:59 | Weblog
永原慶二さんの『富士山宝永大爆発』という本は、「砂降り」による未曾有の災害によって被災地の人々がどういう被害を受け、藩や幕府など行政側がそれにどう対応し、また住民はどのように復旧事業を進めていったか、といったことが目配りよく丁寧にまとめられた歴史書です。その記述の中には未曾有の災害をきっかけとして生じた実に豊富な人間ドラマが秘められており、こういう災害がなかったならば残されなかったであろう多くの史料が紹介されています。「あとがき」にもあるように、永原さんの先祖の初代の人は小田原藩の侍の次男坊。侍の養子口がなかったためか元禄時代の頃に現在の小山町に住みつき、以来そこに子孫が住み続けて来ました。小山町は永原さんが生まれたところではありませんが、先祖が住み続けていたところということで縁が深く、「子供のときから、あのズルズルと足が埋もれてゆくような噴火砂の大地の不思議を、あざやかに覚えている」と永原さんは記しています。小山町には永原さんが書庫や仕事場に利用していた家もあるという。しかし永原さんは2004年(平成16年)に皮膚ガンのために亡くなっています(享年82歳)。『永原慶二の歴史学』永原慶二追悼文集刊行会編(吉川弘文館)によれば、永原さんの先祖の家(父の生家)があったのは駿東郡大胡田(おおごた)村。「砂降り」当時は、旗本稲葉紀伊守正辰(まさとき)の知行地で、三国山南斜面の「砂降り」の最深砂地帯の村の一つでした。初代の先祖が住みついてすぐに富士山大爆発が発生し、初代の先祖もその深刻な被害に巻き込まれることになったのです。追悼文を寄せている金原左門さんによれば、永原さんの祖父も父も大胡田を含む北郷村の村長を務めていたらしい。そういう縁もあって、永原さんは『小山町史』や『小田原市史』の編纂事業に中心的に関わり、その過程で、「自分をふくむミクロの地域史と江戸時代のマクロの歴史とをもっとも強くつなげる環となっている」「大爆発」に特に関心をもち、歴史研究者として自然にこの「大爆発」による歴史ドラマの研究に踏み込んでいくことになりました。その研究成果をまとめあげたのがこの『富士山宝永大爆発』。発行されたのは2002年1月。その2年半後に永原さんは亡くなるわけですから、永原さんの最晩年の一冊といっていい(79歳の時のもの)。冷静な筆致の奥に、若々しい情熱と愛情を感じさせる一冊です。 . . . 本文を読む
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2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その9

2010-02-17 06:44:53 | Weblog
裾野市史資料叢書に『勝又半次郎絵日記』というのがあり、たまたま手にとって興味深かったのは、その絵日記に馬がたくさん描かれていること。馬はあら代をかくために使われ、田んぼを鋤く時に使われる。つまり農耕場としての利用。そのほかに荷馬(運搬用)としての利用があり、どういうものを運んでいるかと見てみると、茅(かや)・薪(まき)・鯉・草(秣〔まぐさ=馬の飼料、か〕)・炭・杉葉・かき灰・焼木・柴・桑・小麦・紙など実にさまざま。農耕用そして運搬用として、今で言えば耕運機やトラックのように農家としての生活に大切なものであったから、しばしば「馬つくろい」という言葉が出てくるように半次郎一家は飼い馬を大事にあつかっています。飼い馬が年をとったりすれば馬を新しく取り替えるということもおこなっています。街道筋の農家に見られるような「駄賃稼ぎ」はしていませんが、半次郎の絵日記を見てみると当時の農家において馬がいかに大事な役割を果たしていたかがよくわかります。勝又半次郎は、天保10年(1830年)頃に、駿河国駿東郡御宿(みしゅく)村に生まれています。今で言えば裾野市の御宿。東名の「裾野IC」の付近。屋号は「紙屋」で、農作業の傍ら紙漉き職人を雇って製紙業も行っており、生産された紙は「茶紙」としての需要があり、半次郎もその妻であるぬいもその紙の行商を行ってもいました。御宿村のあたりは宝永4年(1707年)の「砂降り」の影響も少なく、稲作や畑作が順調に行われていましたが、おそらく「砂降り」以前の御厨地方の農家においても、農耕用・運搬用として馬が盛んに利用されていたものと思われます。相模と甲州を結ぶ「足柄道」や沼津と甲州を結ぶ「甲州街道」といった重要幹線沿いの村々においては、飼い馬を使って「駄賃稼ぎ」をする人々も数多くいたことでしょう。「降砂」のために山や草原などの「秣場(まぐさば」が埋まってしまったということは、馬を飼う人々にとっては大変な打撃でした。今でいえば耕運機やトラックの燃料がなくなってしまったに等しい。何よりも人間が田畑を失い、食べるものを失って飢餓状態に陥ろうとしている時に、馬を飼い続けることは困難でした。多くの飼い馬が安い値で売り払われたり、場合によっては是非なく殺されたこともあったかも知れません。 . . . 本文を読む
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2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その8

2010-02-16 07:04:25 | Weblog
御厨(みくりや)地方と足柄地方を中心とする「砂降り」の被害地は多くが小田原藩領(支藩の領地も含む)でしたが、噴火当初における小田原藩の対応はにぶく、被害を受けた村々からの訴願があってやっと藩が対応に動き出したのは12月に入ってからのことでした。江戸の藩役人柳田九左衛門を現地に派遣したのは富士山の噴火が止まった12月10日以降のこと。この柳田九左衛門の検分コースがどのようなものであったかはよくわかりませんが、おそらく足柄峠を越えて御厨地方に入ったものと思われる。しかし現地の惨状のあまりのひどさにうろたえた柳田は、百姓たちに「自力で復興につとめよ」と言い放ってしまったらしい。藩は何もできない、と言ったに等しい。百姓たちはその柳田の言動に憤激し、柳田は百姓たちの信頼を一挙に失ってしまいます。「村方不案内」の柳田に対する村人の反感は相当のものであったようで、百姓たちの代表が江戸に強訴(ごうそ)しようとした時、それを途中でとどめようとした藩主名代が、「今後、柳田九左衛門にはこの問題にかかわらせない」との藩主の意向を伝えるほどでした。時の小田原藩主は、幕府老中でもあった大久保忠増(ただます)。忠増を中心とする藩首脳部は厳しい藩状況の打開策を模索。出した結論は、深刻な被災を蒙った自藩地を上知(じょうち)によって幕領に切り替え、公儀の力に頼って被災地の復興を進めようというものでした。この上知案はすぐに幕府の認めるところとなり、宝永5年(1708年─大噴火の翌年)の閏1月3日には藩に通達されることに。それを受けて、関東代官頭(関東郡代)の伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)が、新たに幕領となった旧小田原藩領等の「砂除川浚(すなよけかわさらい)奉行」に任命されたのは、その4日後の閏1月7日のことでした。忠順は2月中旬に江戸を出立して、東海道と足柄道の分岐点である酒匂(さかわ)の名主宅に到着。酒匂川沿いに実地検分をしますが、その彼が自身で足柄峠を越え、初めて御厨地方を巡検するのは宝永6年(1709年)の5月から6月にかけてのことでした。酒匂→酒匂川上流一帯→酒匂→関本→矢倉沢→足柄峠→竹之下(6月20日)→下小林→上古城→須走→御殿場→三島→箱根峠→小田原→酒匂(6月26日)といったコースであったようです。足柄峠の上から御厨地方(富士山東麓一帯)を望見したのは6月20日のことと推定されます。 . . . 本文を読む
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2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その7

2010-02-15 07:13:17 | Weblog
永原慶二さんによれば、富士山大爆発を幕府に知らせる第一報は、東海道吉原宿の問屋年寄からの注進でした。それが宿継(しゅくつぎ=特急便)で吉原宿を出たのは11月23日、つまり大爆発が発生した当日の正午前。この報告は翌24日には江戸の道中奉行に届けられ、幕閣に提出されました。当時の将軍は5代綱吉。その注進を受けて幕府検分使が江戸を出発し、宿継の馬を飛ばして小田原に到着したのが翌25日の夜のこと。そしておそらくその翌日の26日、幕府検分使は「焼けた山から四里ほどのところまで接近」するのですが、石などが降っていてそれ以上は進めませんでした。検分使が小田原からどういう検分のルートをたどったかははっきりしないようですが、永原さんは、もっとも可能性が高いのは足柄峠を越えて駿河側に向かう道筋であったろうとされています。私もそれがもっとも可能性が高いと考えます。小田原から関本→矢倉沢→足柄峠→竹之下、そしてせいぜい古沢あたりまでと推定します。まだ火山岩などが降っていたし、道(足柄道)は深く黒く積もった降砂のために、山道はともかくも平地に出るとどこを走っているのかがわからない。空は依然として暗く、降砂で覆われてしまった道なき道をさらに進もうとしたかも知れませんが、足は深砂にめりこみ空からは黒い砂が降り続きあまりの難儀さに途中で断念して引き返します。「四、五里の間家は焼失、あるいは潰れ、人は一人も姿なく、畜類のことのほか難儀の体」というのは、竹之下あたりの百姓から聞いた情報であるかも知れない。足柄峠の上からはどういう光景が広がっていただろうか。26日ということであれば、まだ噴火口には赤い炎が噴き上がっていたと思われる。火山岩が落下していて先へ進めなかったということであれば、石や砂(テフラ)はまだ大量に降り続けており、上空も平地も黒一色に覆われていたことでしょう。テフラの本流は須走村の上空から右手の三国山(地元の人は「北山」と呼ぶ)の斜面に向かって太く流れている。「不断の黒一色」、つまりテフラのために空も大地も黒一色の世界。それが足柄峠から西側を見渡した光景であったでしょう。雪が降り積もると白一色になりますが、足柄峠から見下ろした富士山東麓一帯は黒一色(空も)の世界であったのです。雪で白一色(銀世界)というのは美しい景色ですが、「不断の黒一色」とはなんとすさまじい光景であったことでしょう。 . . . 本文を読む
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2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その6

2010-02-14 07:12:02 | Weblog
富士山宝永大爆発の「砂降り」によって深刻な被害を受けたのは人や田畑ばかりではなく家で飼われていた家畜、特に馬が大変な影響を受けることになりました。永原慶二さんの『富士山宝永大爆発』からそれに関する部分をピックアップしてみます。おそらく11月26日に足柄峠を越えて竹之下かその少し先まで足を踏み入れたと思われる幕府検分使は、「人は一人も姿なく、畜類もことのほか難儀の体(てい)」と報告しています。「畜類」の中心は馬であったでしょう。馬は「駄賃稼ぎ」としても重要で「馬を失うことが特に御厨地方の住民にとってどれほど致命的なことかは分かり切っていた」ものの、「山野も砂に深く埋まってしまったために秣(まぐさ)が確保できず馬を飼いつづけることができ」ず、道も降砂で埋まってしまったために物資流通が滞(とどこお)り「駄賃稼ぎ」も不可能となってしまうと、馬を売って金銭にかえる以外に道はない。この足柄街道沿いの村々の「駄賃稼ぎ」については次のような記述があります。「竹之下─古沢─須走の道筋は、相駿甲を結ぶ東海道の旧道と鎌倉街道、須走─御殿場─神山(こうやま・御殿場市)は、甲州郡内地方から沼津に至って東海道と連なる幹線道路であった。その道路は人馬荷物の往来も多く、地元の村々は馬を飼養して駄賃稼ぎを行い、農業生産力の低さを補填(ほてん)するというのが、江戸時代を通じての暮しの姿であった」。馬で運ばれた物資にはどういうものがあったかといえば、駿河側から甲斐の郡内地方に向けては米・塩・塩合物(しおあいもの─塩漬・塩干物)など、甲斐の郡内から駿河側に向けては雑穀や材木などが運ばれました。須走や古沢、竹之下などは「馬継場」でもあり、「駄賃稼ぎ(馬背運送業)」のための重要な「中継地」であったのです。御厨北筋の深砂七ヶ村の噴火5年後の状況を見てみると、人口は噴火前と較べて44.7%に減り、馬にいたってはなんと11.1%と90%近くも減ってしまっています。大半は売り払われたり死んでしまったのです。状況は足柄峠を越えた足柄平野でも同様で、酒匂川上流新川筋大被害六ヶ村の一つ竹松村の場合、噴火後13年間のうちに餓死した者は184人、病死した者は25人とありますが、飼っていた馬はどうかというと噴火前は58匹いたものがなんとゼロとなってしまっています。農耕用、駄賃稼ぎのための馬の数は極端に減少してしまったのです。 . . . 本文を読む
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2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その5

2010-02-13 07:24:38 | Weblog
富士山大爆発による降砂の被害としてはどういうものがあったか。まず灼熱の火山弾が降って来たことによる人家の炎上(茅葺きの屋根)とおびただしい量の降砂によって人家が潰(つぶれ)れたこと。このことによって村ぐるみ全滅してしまったのは街道沿いの須走村。そして降砂が田畑や道路・水路・山野などをすべて埋めてしまったことによる村の生産・生活基盤の破壊。これは降砂が深く積もったところ全域に及びました。噴火時にはすでに年貢納入が終わっており、また作付けされたばかりの麦が全滅してしまったために人々の飢餓が進行したこと。さらに大量に積もった降砂や田畑などから除けた砂が雨で河川に流れ込み、川床を底上げしたことによって豪雨時に堤防決壊が引き起こされ、その大洪水による田畑への大きな被害をもたらしたこと。それが特に顕著であったのは酒匂川の流れる足柄平野一帯。永原慶二さんによれば、降岩・降砂による直接の死者の数は確認されていないようですが、降砂による田畑の埋没によって発生した飢餓や流亡、二次災害である大洪水などによって死んだ人々の数は莫大なものであり、多くの村がその人口を激減させていったという。この深刻な被害から、村々が復興していくのにはどれぐらいの年月が必要だったか。永原さんは「復興事業の実相は曲折にみちており、複雑な要因のからみ合いによって容易に進行しなかったのが現実」であるという。大御神(おおみか)村の場合、幕末まで深砂との格闘は続いていたようであり、また中日向(なかひなた)村の場合40年近くかかって本田畠の6、7割は復旧させたものの野畠や山畠(百姓の生活は実はそこにかかっていた)は全く手付かずの状態であったという。天明3年(1783年)11月には御厨(みくりや)地方の28ヶ村がついに一揆に立ち上がっていますが、この直接的原因には冷害による不作や小田原藩の増税政策がありましたが、背景には降砂による地力の低下があったと思われる。足柄平野において、蓑笠之助(みのかさのすけ)の文命堤復旧工事などによりようやく復興への道が開けてきたのは延享4年(1747年)のこと。ということは、それなりの復興が実現するのには、地域によって差があるもののほぼ100年以上の年月がかかっていると考えてよさそうです。御厨地方の吉久保村の水神社境内に伊奈忠順を祀る伊奈神社が建てられたのは慶応3年(1867年)のことでした。 . . . 本文を読む
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2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その4

2010-02-12 06:34:21 | Weblog
永原慶二さんの『富士山宝永大爆発』により、須走から足柄山の麓の竹之下まで、足柄街道沿いの村々の積砂の深さを確認してみます。「猛烈な灼熱の火山弾」はまず須走村を直撃しますが、ここでは積砂は3mの深さに及びました。「甲州街道」と足柄街道の分岐点であった水土野(みどの)では1.5mほど。上古城(かみふるしろ)村は1.08mほど。途中の上小林村でも1m以上降り積もったであろうと推定されます。須走村から竹之下村まで3mから1mまでの積砂があったことになり、足柄街道の道筋は、その道も含めて田んぼも畑も黒く覆われ、積砂で覆われた茅葺きの農家が集まる集落がその黒い広がりの中に点在していたことになります。足柄街道を下っていくと左手に見える山稜は、甲駿相三国の国境となる三国山・明神峠・世附(よづく)峠の尾根(土地の人々は「北山」と呼ぶ)。この尾根筋南面の山付きの村々は、まだこのあたりを歩いてはいませんが、大御神(おおみか)・中日向(なかひなた)・上野・上野新田・湯船・柳島などの集落で、このあたりの積砂は須走に次いでもっとも深いものでした。そのあたりの積砂はおよそ1.5~2.0m。2mといえば軒先に達する高さであり、「砂の吹溜りになった場所であれば、完全に埋没するか平屋の屋根の上部だけがやっとのぞいているといった」状態。ちなみに3mの積砂があった須走村では、村の総家数の半分にあたる37軒が灼熱の火山弾のために焼失し、焼け残った39軒も積砂のために潰れて埋もれてしまいました。馬継場(うまつぎば)として栄えた「ぐみ沢」はどうであったかというと50cm余。足柄峠を越えて相模地方に入っても、たとえば足柄平野においての積砂は30~50cmに及びました。この降砂は江戸にも及び、新井白石は11月23日(爆発当日)の午後、白い灰が降ってきて草木が白くなり、また空がにわかに暗くなった光景を目撃しています。この白い灰はまもなく黒く変わっていくのですが、このように富士山の東側において広く降砂が起こったのは、偏西風によってテフラが東へ飛んでいったからでした。したがって籠坂峠を越えた郡内地方や東海道筋の吉原宿や沼津宿などにおいては、地震はあっても降砂は全くありませんでした。砂の堆積が20cmを超えれば水田も畑地も使いものにならず、したがって「砂降り」による深刻な被害が及んだ範囲は極めて広大なものであったのです。 . . . 本文を読む
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2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その3

2010-02-11 08:41:08 | Weblog
宝永4年(1707年)の11月(旧暦)、須山村(現裾野市内)の土屋伊太夫が「富士山噴火事情書」というものをまとめました。それによれば、10月3日の昼八ツ時分(午後2時頃)に大地震があってから地震が頻発するようになり、11月になっても依然それは続き、22日には昼の午前10時頃より午後6時頃までに大地震が10回ほど発生。その日の夜に入っても地震は無数に発生しました。そして翌23日のこと。午前9時過ぎ頃に大地震が起こり、また10時頃にも大地震が発生してより、富士山が激しく鳴動して山全体が崩れるかと思っていたところ、すさまじいほどの黒雲が発生して空全体を覆い、同時におびただしい「火石」が降り落ちてきました。いわゆる「砂降り」(富士山宝永大爆発─当時の人々は「砂降り」と言った)が始まったのです。その「火石」の大きさはあるものは茶釜ほどの大きさがあり、それが「車軸」のごとく空から降ってきたのです。その「火石」の中には地面にぶつかると割れ散って中から火が出るものがあり、茅(かや)などが積んであるところにそれが落ちればあっという間に茅は燃えてしまうほどでした。おびただしい「砂降り」は夜になってもやまず、24日の明け方までに二尺五寸(およそ75cm)ほども積もり、軒下には五尺余り(およそ1m50cmほど)も積もりました。この「砂降り」はその後も続き、ようやく28日の明け方になって終息。その翌日の29日の未明には頻発した雷や地震もついに終息して、その日は空一面に青空が広がりました。この「砂降り」が発生した23日以後、人々が財宝や家財を捨て置いたまま妻子をともなってあちこちへ避難していくありさまは、まことに言語で語り尽くせるものではなく哀れなことであった、と土屋伊太夫は筆を終えています。永原慶二さんの『富士山宝永大爆発』によれば、富士山が大爆発した地点は山頂から東南斜面を海抜2700mほどまで下った部分。火口は長径1300m、短経1000m、深さ1000mほどに達しました。爆発によって吹き飛ばされた岩や砂を「テフラ」と専門家は呼ぶようですが、そのテフラは最初は白色であったものがまもなく黒色となって、昼というのに富士山東側山ろくの村々は闇夜のよう暗くなってしまいました。私が歩いた須走から足柄峠にかけての足柄街道沿いの村々も、その大爆発による深刻な被害を受けた村々であったのです。 . . . 本文を読む
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2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その2

2010-02-10 06:45:10 | Weblog
『定本 静岡県の街道』若村淳之監修(郷土出版社)によれば、足柄街道は、籠坂峠─須走─水土野─上小林─古沢─竹之下─足柄峠というルートであり、足柄街道は須走で分かれるのではなく水土野(みどの)で分岐することを知りました。現在は、須走から足柄峠方面へ向かう道がありますが、幕末の時点では水土野から斜め左方向への道に入って足柄峠に向かうのが一般的なルートであったようです。ということは、須走を通過した古屋あやめと樋口大吉の二人は、須走のあの古道の面影が残っている鎌倉街道の一部を歩いたことになります(須走の交番前から左へと入っていく古道)。足柄峠は駿河国と相模国の境であり、古代から近代にいたるまで交通の要地でした。しかし明治22年(1889年)、東海道線が走るようになると(現在の御殿場線のルート)、この足柄峠を利用する人々は激減し、足柄街道は長く続いた重要交通幹線としての役割を終えていきました。私が12月に歩いたのはぐみ沢まででしたが、これは須走─ぐみ沢─御殿場─沼津へと続くルートであり、ぐみ沢は、甲州方面への道が分岐する重要な宿場でした。当時の物資の運搬はもっぱら馬を利用したものであって、ぐみ沢は、神山・須走と並んで馬継場(うまつぎば)として栄えたようです。現在御殿場から須走を経由して河口湖に至るバス路線は、このぐみ沢を通過しています。地元の人たちは、この道を「甲州街道」と呼ぶ。甲州方面をめざして沼津方面からやって来た人馬は、このぐみ沢で須走へ向かい、籠坂峠を越え、さらに御坂峠を越えていったのです。この道は、乙女峠へと通ずる道でもあり、箱根から仙石原を経由して乙女峠を越えた人々が甲州方面へ向かう道でもありました。フェリーチェ・ベアト(イタリア系イギリス人写真家)やブスケ(明治のお雇い外国人の一人でフランス人法学者)、ヘンリー・ギルマール(イギリス人冒険家)一行がたどったルートはこの道を利用するものでした。しかしながら樋口一葉の両親である樋口大吉と古屋あやめがたどった道はこのぐみ沢を経由するものではなく、水土野から上小林→古沢→竹之下を経由して足柄峠を越えて行くものであったのです。この足柄街道は、上小林にあった「きやり地蔵」の境内の石塔群からもわかる通り、江戸や東京方面からの富士講信者が利用した道の一つでもあり、夏ともなれば白装束の一団が頻繁に往来する道でもあったのです。 . . . 本文を読む
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2010.1月取材旅行「水土野~足柄峠~関本」その1

2010-02-08 07:18:47 | Weblog
やがて樋口一葉(奈津)の両親となる樋口大吉と古屋あやめの二人が、甲斐国山梨郡中萩原村を江戸に向かって出立したのは、安政4年(1857年)の4月6日(旧暦)のことでした。1日目は藤野木(とうのき)泊。翌日御坂峠を越えて郡内山中村の「鳴海屋」に泊。3日目は籠坂峠を越えて須走より竹の下に出て、「足柄峠」を越えて矢倉沢の「ふじや」に泊。4日目は小田原の井細田(いさいだ)でお昼を摂り、東海道に出て酒匂川を渡り、その日は大磯宿の「初屋」に宿泊。5日目は馬入川(相模川)を渡って藤沢宿の「江戸屋」で昼食。それから江の島に参詣してから鎌倉に向かい、鶴岡八幡宮の前の「角屋」に宿泊。翌日は東海道の戸塚宿に出て川崎の「萬屋」泊。川崎大師に参ってお台場を実見して品川宿の「釜屋」で休憩。日本橋より馬喰町二丁目の「丹波屋」に入ったのは4月12日のことでした。昨年12月までの取材旅行で、私は、中萩原重郎原の樋口家の跡地から御殿場のぐみ沢というところまで歩きましたが、このぐみ沢を通過するルートは乙女峠を経て箱根へ向かうルートであり、大吉とあやめが歩いたルートは足柄峠を越えて行くものであって、どうも水土野(みどの)から「甲州街道」と分かれ、上小林・古沢を経て竹之下に至るコースが二人の歩いた道であることを知りました。このルートは「足柄みち」と呼ばれるかなり古くからの古道であり、相模と甲州を結ぶ最短ルートとして東海道線(現御殿場線)が開通するまで物資流通の道、また参詣の道としてたいへん賑わっていた道でした。この道は足柄峠を越えて矢倉沢に下り、そこからさらに下って関本において矢倉沢往還(大山街道)へとつながり、また小田原に出て東海道とつながりました。したがって1月の取材旅行は、この二人の足跡をたどって、水土野(みどの)にいったん戻って「甲州街道」と分かれ、上小林→古沢→竹之下を経由して足柄峠を越え、矢倉沢に下りてから小田原の井細田(いさいだ)に向かって歩けるところまで歩くことにしました。車のところに戻る関係で、伊豆箱根鉄道の大雄山駅から電車に乗ることになりましたが、「矢倉沢往還(大山街道)」の「矢倉沢」という集落を初めて訪れ、また足柄峠を初めて歩いて越えたことにより、千数百年の歴史をもつ「足柄古道」の風情のいくぶんかを味わうことになりました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 最終回

2010-02-06 06:09:20 | Weblog
今回の取材旅行で痛感したことは、四国の山間(やまあい)や谷間(たにあい)の深さというものでした。ポータブル・ナビ付き四駆の軽自動車で出掛けたのは正解でした。普通のレンタカーでは、あのような山間(やまあい)の狭い道や落石のある未舗装の林道を走ることはできなかったでしょう。山間の道はたとえ国道であっても一車線のところが多く、土地の人々が利用する車は軽自動車のバンや軽トラが中心。土地の人は細い道でも慣れており、かなりのスピードで車を走らせます。慣れない私は最初はそれにとまどいましたが、しばらくして、その車をやりすごしてその車の後を走ればよいことに気が付きました。そのようにして町営バスの後を走ったこともありますが、そのバスも一車線の曲がりくねった谷間の道をかなりのスピードで走っていきました。深い谷間であっても、一車線の川沿いのカーブの連続を走っていくと、やがて行く手に集落が現れ、その奥にはもうないだろうと思っていると再び集落が現れ、さらにその奥にも人家がありました。今回の取材旅行で川沿いの道を遡ったのは海部川、下ったのは奈半利川や安田川でしたが、その上流部分の山越えは、たとえ車であっても難儀なものでしたから、徒歩であればなおさらであったでしょう。その険しい道なき山道(シバコ山の)を兆民は浴衣に兵児帯・草鞋(わらじ)履き・破れた麦藁(むぎわら)帽子で越えていったのです。江藤新平は、野根山街道やそれに沿った山道(奈半利→甲浦)を逃走ルートとしてたどりましたが、「自分が母の腹を出てから、このときほどの苦痛を味わったことはなかった」と語ったという。それは野根山の山中で断崖絶壁のために進退きわまり、竹笠で雨除けしながら立ったままで夜明けを迎えたという体験でした。兆民も山崎保太郎とともに、一歩過てば渓谷にまっさかさまという山道を這いずりながら上り下りして魚梁瀬(やなせ)に着きました。山崎保太郎の父唯次は、小用があり一日ほど遅れてやはり山越えで魚梁瀬に帰着しました。この唯次は、兆民が魚梁瀬を出立する時にも、田野浦に小用があるということで兆民とともに安田まで同行しています。この夏、土佐の山間部の最奥に住む山崎唯次は、大阪に行き、徳島から浅川の山奥の鉱山を見学し、要用があって奥浦に滞在。さらに田野へも用事のため出掛けるなど、山奥の住人であるにも関わらず活発に活動しているのが注意を引きます。 . . . 本文を読む
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