鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その7

2015-04-20 05:51:35 | Weblog

 桂林院の境内や、また八代(やつしろ)神社の参道石段からは、神島の集落と漁港、その向こうに広がる伊勢湾がよく見えます。

 崋山は、神島には茅葺屋根の家は一軒もなく、みんな瓦屋根である、と記しているから、集落を見下ろした時に見える人家の屋根はみんな瓦屋根であったはずです。

 現在も赤い瓦屋根や黒い瓦屋根の家が多く見受けられ、漁港の手前に鉄筋コンクリートの四角い建物がちらほらと見えるばかり。

 古い人家の場合、壁は板壁で、多くは2階建て。崋山来訪時にも2階建てであったかどうかはわかりませんが、おそらく1階建ての瓦屋根であったでしょう。

 桂光院は集落の西側の高台にあり、八代神社は集落の東側の高台にあります。

 ということは、集落の真ん中を下り落ちる谷川を隔てて桂光院と八代神社はあることになりますが、崋山たちが泊まる予定であった長流寺はどこにあったのだろう。

 桂光院のほかにかつて神島にあった長流寺、そして海蔵寺(いずれも曹洞宗)の二寺はすでに廃寺となっており、その跡をとどめていません。

 その長流寺や海蔵寺の所在地を知るのに参考になったのは、「鳥羽市神島の近世文書」北村優季(『青山史学第31号』)で、それによると八代神社(明神)のすぐ下に長流寺があり、その左手(東側)に海蔵寺があったらしい。

 八代神社の参道石段が始まる高台のあたりに、長流寺や海蔵寺があったことになります。

 現在そのあたりに墓地はないから、長流寺や海蔵寺が廃寺になった時に墓地は移転したのかも知れず、その移転先としては同じ曹洞宗の桂光院の墓地やその近くであった可能性が考えられます。

 崋山が記す「薬師堂」は、その長流寺の境内にあり、観音堂というものもありましたが、それは桂光院の境内にありました。

 崋山たちが神島で泊まった又左衛門家は、桂光院とその長流寺の間の谷あいの奥(上)にあり、谷川に沿って坂道を上がったところにありました。左に折れれば長流寺やその向こうの海蔵寺があり、また八代明神の参道石段(その長い石段を上がれば八代明神の社殿に至る)がありました。右折すれば桂光院に至りました。

 崋山は次のように記しています。

 「十七日 晴 目さむ。窓の外に雪蹻(せっきょう=雪駄)の音す。いと珍らかなれバ戸引あけて見れバ、嶌人ども海のさまを見に出しなり。この雪蹻を用るハかきの殻多かる地なれバなりとぞ。磯に出るものハあしなかをはきて走る。」

 これを読むと、島の人々は雪駄(せった)を履いていたことがわかります。なぜなら通りには牡蠣(かき)の殻がたくさん散らばっていたから。水はけをよくするために牡蠣殻を撒いて通りに敷いていたということもあるかも知れない。

 だから普段は雪駄を履いていたことになります。

 崋山が窓の外に聞いたその雪駄の音とは、島人が海の様子を見に外に出て歩く音であったわけですが、又左衛門の家は、集落の中を流れる谷川に沿って上へと延びる坂道の奥にあり、桂光院からの眺めのように、伊勢湾一帯を見晴るかすことができる高台にあったはずです。

 さらに上の灯明(とうめ)山の頂きにある灯明台へと、太平洋全体を眺める場合にも、又左衛門の家の前を島人が通って灯明台へと向かったものと思われる。

 崋山は、天保4年(1833年)4月17日の早朝、窓の下にその島人の雪駄の音を聞いて、目を覚ましたのです。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・「鳥羽市神島の近世文書」北村優季(『青山史学第31号』かっ



最新の画像もっと見る

コメントを投稿