鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その1

2013-04-30 05:20:01 | Weblog
前回は阿左美(あざみ)岩宿から新田(にった)木崎(きざき)までを歩きました。といっても崋山が歩いた道筋をその通りに歩いたわけではなく、実際よりも西側を利根川に向かって南下していったわけで、崋山が立ち寄らなかった新田市野井(いちのい)の生品(いくしな)神社などに立ち寄りました。県道に桐生新田木崎線(県道332号線)というのがありますが、藪塚からはこの現在の桐生新田木崎線に重なる道を崋山は南下していったのではないかと思われました。木崎で日光例幣使街道に出た崋山は、おそらく反町薬師を右手に見て南下し、尾島を経由して利根川の「前小屋の渡し」に出て、そこから渡し船で前小屋に至ったものと推測されますが、今月の取材旅行は新田木崎から尾島を経由して、前小屋に至る道筋を歩いてみました。世良田(せらだ)の歴史公園にも興味をひかれたので世良田へも足を向け、もちろん渡し船はないので、利根川を新上武大橋で渡って前小屋へと向かいました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

2013.3月取材旅行「阿左美岩宿~新田(にった)村田~新田木崎」 その最終回

2013-04-25 05:17:35 | Weblog
前にも触れた記憶がありますが、崋山が中山道鴻巣宿から乗った駕籠かきの話はなかなか興味深い。どういう話であったかというと、それは大要、以下のようなものでした。上野国に新田(にった)というところがあって、そこに新田万次郎という新田義貞の末裔にあたる人が領地を持っている。家来も多数いるが、その中には由緒のはっきりした人たちもいるのだが、献金をして官職を買って家来となり、誇らしげに世間を渡っている者もいる。その中に馬の売買をする者がいて、これを土地の人々は「伯楽(はくらく)」と呼んでいる。その伯楽たちは、秋の半ばともなると陸奥(みちのく)の仙台へ赴いて馬を購入するということで、「新田どの御用」という札を立てて街道を往来する。伯楽たちの慣わしとしては、馬を引き連れての往来は街道を利用する人たちの妨げになるので、夜のみの通行になるのだが、この伯楽は自慢げに「新田どの御用」の札を立てて日中も街道を往来していた。ある時仙台の町を通行していた時、百姓風の男が背後より呼びかけてきて、「その曳いている馬は新田どの御用ということだが、どこの人のことか」と聞いて来た。そこでその伯楽は、「上野国山田郡新田の新田義貞の御末裔新田万次郎殿のことだ」と答えたところ、その百姓風の男は大いに驚き、「私達も実は新田義貞公の家来が逃れて移り住んだ村の者であり、仙台より北西の山の奥に住んでいる。ぜひ来訪してほしい」ということであったので、その村へ行ってみると、そこは大きな屋敷がいくつも並ぶ集落でありみな豊かな生活をしていた。伯楽は、その村の百姓たちに万次郎殿へ必ず会わせるという約束をして、戻ってから万次郎にその話を伝え、その約束を実行に移したところ、今年の夏、初めてのお目見えということで、およそ七人の者が来訪し、三十両を万次郎に献金して帰って行ったという。以上の話には興味深い点がいくつかあるのですが、新田万次郎の家来である「伯楽」たちが、馬を購入するためにわざわざ上州山田郡新田の地から陸奥仙台の馬市にまで出掛けているというのが、特に私にとって興味深いところでした。 . . . 本文を読む

2013.3月取材旅行「阿左美岩宿~新田(にった)村田~新田木崎」 その8

2013-04-24 05:30:44 | Weblog
崋山が利根川に向かって南下している一帯は、かつて新田荘があったところであり、そこを本拠に活躍した関東武士が新田氏であり、その中でも特に有名なのが鎌倉幕府討伐の挙兵をした新田義貞であったことは、今まで見てきた案内板等で知ることができました。新田市野井(にったいちのい)の生品(いくしな)神社は、その新田義貞が幕府討伐の旗挙げをしたところでした。崋山が新田義貞を全く知らなかったはずはなく、新田義貞について土地の人やあるいは道案内の義兵衛などからいろいろ聞いているものと思われますが、そのことについての記載は日記にはありません。しかし10月12日の日記に、鴻巣から桐生に向かう途中、駕籠かきから聞いた話として、「左中将義貞」や「上毛国山田郡新田」のこと、また「左中将義貞」の「御末裔」である「新田万次郎」(岩松満次郎)のことが出て来ます。この「左中将義貞」とはもちろん「新田義貞」のこと。また太田では「新田金山」を見て、「此(この)山むかし新田義貞城ありし処とて、山ハ高からざれども、名ハいと高う聞(きこ)ゆ」とも記しています。崋山は上州の「山田郡新田」の地が、かつて新田義貞の本拠地であったことを十分に知っていたのです。 . . . 本文を読む

2013.3月取材旅行「阿左美岩宿~新田(にった)村田~新田木崎」 その7

2013-04-23 05:40:28 | Weblog
村田村は大村であったので、下村田・中村田・上村田と上中下に分かれていたと崋山はいう。このような上中下の分け方はよくあることで、たとえば私の住んでいる近辺でも、荻野(おぎの)というところがあって、それは上荻野・中荻野・下荻野と三つに分かれています。多くはかつては「街村」であって、街道に沿ってその両側に家が並んでいる村。商店や旅籠、茶屋などが軒を並べています。この村田村には酒造家が12あったと崋山は記しています。田んぼや人家の間を進んで行くと、雑木林の間から噴煙を上げている浅間山が見え隠れする。浅間山の噴煙が伏している時は風で、立ち上っている時は凪(なぎ)。浅間山の噴煙の状態を見れば「風晴の兆(きざし)たがふ事なし」。その日、崋山が見た浅間山の噴煙は伏しており、「けふハ風なり」と崋山は記しています。この浅間山は利根川を「前小屋の渡し」で越える時も、日光・足尾・赤城の山々とともに、広い川面の上に手にとるばかりに見え、崋山はその風景にいたく感動しています。 . . . 本文を読む

2013.3月取材旅行「阿左美岩宿~新田(にった)村田~新田木崎」 その6

2013-04-22 05:11:24 | Weblog
崋山が阿左美(あざみ)から藪塚・山の神へと向かう途中、抜けた森は「生品の森」(いくしなのもり)でしたが、それは藪塚にある「生品明神」の杜であって、新田義貞が鎌倉幕府討伐の旗挙げをした新田市野井(にったいちのい)の生品神社の杜ではありませんでした。道々、「ここは新田宿(しんでんじゅく)」、「足中村」、「阿左美」、「生品の森」、「あれは広沢山」、「吉沢山」などと、崋山の問い掛けに教えてくれた者は、妹茂登(もと)が付けてくれた道案内人の「義兵衛」ではなかったか。「生品の森」について、「この森は生品明神といふ神のおはしませバ、かくハいふ。此(この)もり木草きりとれば必(かならず)病を得るとて、たれ手をつくるものなし。秋ハ茸(たけ)出る。往来の人もしあやまりてとり喰ふ事あれバあしとて、此村より札をたてゝ人にしめすとぞ」と崋山に教えてくれたのも義兵衛であったのかも知れない。義兵衛が崋山らを案内してくれたのは「下村田」というところまで。この義兵衛について崋山は、この「下村田」において、「下駄作る家にこしかけてたのしむ」と描写しています。このような記述があるのが崋山の日記の面白いところで、街道筋の下駄屋の軒下で、義兵衛が濡れ縁に座って、並べられているいろいろな下駄の中から買いたい下駄を選んでいるといった情景が浮かんできます。義兵衛は誰のために下駄を買おうとしているのだろうか。崋山はその義兵衛に「百文とらせ」、桐生へ帰しています。 . . . 本文を読む

2013.3月取材旅行「阿左美岩宿~新田(にった)村田~新田木崎」 その5

2013-04-21 06:15:21 | Weblog
足利本坂町の「蔦屋」2階で崋山と岡田東塢(とうう)は意気投合し、崋山がひそかに藩主三宅氏の家譜の調査を行おうとしていることを打ち明け、東塢に、深谷か三ヶ尻のあたりで協力してくれる人を得たいのだがと協力を依頼したところ、東塢は必ずそういう人を探してあげようと確約してくれました。10月27日に、その東塢から前小屋で開かれる書画会への誘いの手紙が届いたのは、「深谷、三尻の近辺なれバ、まして手がゝりも出来めれバ」との配慮からでもありました。その東塢の配慮に崋山は喜び、29日に前小屋へと出立したわけですが、その東塢と崋山の足利での出会いを企(たくら)んだのは、崋山が桐生で知り合った佐羽蘭渓と奥山昌庵の二人でした。崋山が前小屋の旅に昌庵を誘っている(しかし事情があって昌庵は行けなかったが)ことから考えると、東塢と特に親しかったのは昌庵の方であったかも知れない。とすれば、まず昌庵との出会いがあって、足利の五十部(よべ)村代官の岡田東塢との出会いが生まれたのであり、そしてその出会いがあったからこそ、崋山のその後の三ヶ尻調査も円滑に進むことになったと言うことができるのです。そこには、地方とはいえその地におけるひとかどの人物であった昌庵や東塢たちをたちまち引き付けるほどの、崋山の人柄や魅力も大きく作用していたことは言うまでもありません。 . . . 本文を読む

2013.3月取材旅行「阿左美岩宿~新田(にった)村田~新田木崎」 その4

2013-04-19 05:27:42 | Weblog
この奥山家を立ち去りがたくなっている相撲取りとは、10月17日の日記に出てくる「角力壱人」の「角力」と同一人物であるでしょう。この日、崋山が奥山家で見掛けた「角力」が、この奥山家に居ついた経緯は、このようであったのです。つまり2年ほど前に江戸から相撲取りたちが巡業で桐生にやって来た時に、この相撲取りは病気となり、それをあわれんだ奥山昌庵が自宅に住まわせて薬を施したり湯治に行かせたりして、ようやく治ってきたことから、昌庵が衣服や路銀を与えて江戸へ帰らせることになった、というもの。奥山家に病気療養で滞在した期間は2年間ほどに及んだことになる。他に奥山家に寄食していたものは、女芸者一人、おとしばなしを業とする者一人、講談師一人、外へ出て賃仕事をしている者や料理茶屋で下働きをしているもの多数。崋山は昌庵の妾(めかけ)二人、そして娘二人、さらに医者としての弟子二人、男の使用人一人を目にしています。妾の一人は江戸深川の豊倉という家の芸妓で名前は「さん」。もう一人も芸者。娘の一人は乞食が捨てた子を育てたもので、もう一人の娘は先妻との間に生まれた実子。奥山家には昌庵も含め20人前後が住んでいたことになり、「其家(そのいえ)流寓(りゅうぐう)の客男女をかぎらずあつまりて寄食す」と崋山が驚いたのも無理はない。そのために患者が多数あって収入は莫大であったけれども出費も大変多く、「これがために家甚貧」といった有様でした。 . . . 本文を読む

2013.3月取材旅行「阿左美岩宿~新田(にった)村田~新田木崎」 その3

2013-04-18 05:44:58 | Weblog
10月28日の夜、前小屋への「書画会」の旅に奥山昌庵を誘おうと奥山宅を訪ねてみると、その屋敷には多くの人々が集まっており、三味線や琴を弾いているものもいれば、崋山の顔見知りの女芸者がいたりして、いつもとは異なる様子。聞いてみると、昌庵の娘に琴を教えている盲目の女性の親が、病気のために危ないという知らせが里よりあったけれども、貧しいものだから実家へ帰る路銀がないということを昌庵が聞いて、この夜、若い者たちを集めて、別れの琴の演奏を聴く代金という名目で、それぞれにお金を持ち寄らせて路銀を集めようという催しであったのです。相撲取りについても、崋山はこういう話を聞いています。2年ほど前に桐生に相撲の巡業がやって来たことがあったが、その時その相撲取りは病気になって命が危うくなったばかりか、その日の食費にも事欠くような状態になったため、それを憐れんだ昌庵が、自分の家に住まわて薬を与えたり湯治にも行かせたりなどしました。その効があって、その相撲取りがようやく元気になったため、相撲をやらせるために江戸に戻らせることになったわけですが、その別れに際し、昌庵は衣服から路銀にいたるまで用意するとともに、守り刀まで購入してその相撲取りに贈りました。その相撲取りはその昌庵の厚意に「たゞなきになきてわかれをおしミ」、出立しようとしてはそれをとりやめることを、今日三回も繰り返したという。「侠を好(このみ)、人をあはれむ」「一郷第一の侠医」たる昌庵の姿と、その世話になった人々との深いつながりを、この夜、崋山はあらためて知ることになったのです。 . . . 本文を読む

2013.3月取材旅行「阿左美岩宿~新田(にった)村田~新田木崎」 その2

2013-04-16 05:49:53 | Weblog
崋山が桐生新町から利根川の南にある前小屋へと出立したのは天保2年(1831年)の10月29日(旧暦)でしたが、その前日(28日)の夜、崋山は奥山昌庵宅を訪ねています。奥山昌庵というのは桐生新町の医者で、遠くからも患者が評判を聞いてやってくるという桐生新町きっての名医。任侠を好み、慈悲深いので、その家には流れ流れてやってきた男女が多数寄食しているというありさま。江戸の芸者もいれば相撲取りもいる。講談師もいれば、外で賃仕事などをさせている者たちもいる。この昌庵のことが初めて出て来るのは10月17日の日記。崋山は「誠に一郷第一の侠医といふべし」と記し、崋山がもっとも好みとするような人物であったようだ。10月20日から23日までの4日間、足利への旅において崋山と同行した一人はこの奥山昌庵であり(もう一人の桐生人は佐羽蘭渓)、崋山は彼らと楽しく充実した旅を経験しています。10月28日の夜に崋山が昌庵宅を訪ねたのは、前小屋で開かれる「書画会」へ参加するための小旅行に昌庵を誘おうと思ったから。旅の楽しい連れ合いとして、崋山にとっては恰好の人物だったのでしょう。事情があって昌庵は前小屋への旅に同行することはできませんでしたが、10月30日の夜、崋山が前小屋への旅を終えて桐生の岩本家に戻ってくると、すぐにその旅の話を聞きにやってきたのは奥山昌庵でした。 . . . 本文を読む

2013.3月取材旅行「阿左美岩宿~新田(にった)村田~新田木崎」 その1

2013-04-15 05:47:53 | Weblog
2月は、途中道に迷いつつ、桐生市内から阿左美(あざみ)まで歩き、JR両毛線の岩宿駅から桐生へと戻って帰途に就きました。3月は、その道筋をそのまま延長し、阿左美岩宿を始発点として、藪塚本町→新田市町→新田市野井町→生品神社→新田村田町→反町薬師→新田木崎町→貴先神社→東武伊勢崎線木崎駅まで歩いてみました。このコースはしかし崋山が歩いた道筋と全く同じというわけではありません。崋山一行は、もう少し左手に見える山(広沢山・吉沢山)に寄ったところを歩いたものと思われます。現在の太田市市野井町にある「生品神社」に立ち寄った形跡がないからです(彼が抜けた「生品の森」とは、藪塚町の東武桐生線沿いにある生品神社の森であったと思われる)。しかし私は市野井町の「生品神社」や反町の「反町薬師」に立ち寄ってみて、このあたりが新田義貞と深い関係があることを知って強い感動を覚えました。というのも、私が生まれたところ(福井市内)の近くに「新田塚」があって、そこは新田義貞が戦死したところであったからであり、歴史的人物である新田義貞の「生と死」がつながったような気がしたからです。崋山は案内人である義兵衛の導くままに下村田まで行き、そこで義兵衛と別れて、途中太田と木崎の間を越えて、新田郡尾島村およびその尾島村の前小屋(ここで書画会が行われる)へと向かいました。時間の関係で私は東武伊勢崎線の木崎駅から太田経由で帰途に就きましたが、崋山はさらに尾島から利根川を渡し舟で渡ってその南岸へと向かったのです。以下、その木崎までの取材報告です。 . . . 本文を読む

2013.2月取材旅行「桐生~阿左美(あざみ)岩宿」 その最終回

2013-04-07 06:14:19 | Weblog
『近世の地域と在村文化─技術と商品と風雅の交流─』杉仁(吉川弘文館)という本があります。私はそれを前橋の群馬県立図書館で見つけたのですが、私の関心と重なっているところが多く、とても興味深く目を通しました。それによると、江戸時代の文化文政期から幕末にかけて、「在方商人」を中心とする「在村文化」が地方においていっそう普及したという。「在方商人」とは、「農村の商品生産を担う農民身分の新興商人」のこと。もっとも広がったのは俳諧であり、俳諧を中心とした「風雅の交流は、生業・流通・情報の交流とかさなりながら、都市文化とは異なる農村特有の仕方で展開」した、と杉さんは指摘しています。特に上州は養蚕業の盛んな地域であって、「信州、奥州双方の蚕種道から往来する蚕種商俳人連の行商先」であり、「蚕種商俳人の行商と風雅の交流」が盛んに行われた地域であるとも杉さんは指摘しています。共通したことは、上野憲示さんも「吉澤家十一代当主吉澤松堂と高久靄、渡辺崋山」で指摘しています。「地方の小都市においても、交通の発達や出版業の隆盛とも相まって、(江戸と)同様なサロン的ネットワークが築かれていた。…(地方の)豪商や豪農たちは、産業・交通の発展、都市の繁栄をバックに、巨万の富を築き、中央の流行にも思いのほか目ざとくあった。河岸や街道筋の宿場は、文化の窓口として機能し、常に新鮮な便りに満ちていた。」江戸時代後半、特に文化文政時代以後、そのような「在村文化」の活況が見られた地域の一つが「江戸地廻り経済圏」であり、崋山はいくつかの旅先およびその途中において、その活況を目撃していた人であったのです。 . . . 本文を読む

2013.2月取材旅行「桐生~阿左美(あざみ)岩宿」 その9

2013-04-05 05:47:45 | Weblog
上野憲示さんの「吉澤家十一代当主吉澤松堂と高久靄、渡辺崋山」という論文の中に、次のような一節があります。(「蛮社の獄」という)「崋山の非常事態に際しての救援者に注目してみると、その多くが旅を介して知己となっていた地方の識者たちであった。その中に吉澤松堂の姿もあった。」葛生の吉澤松堂が、足利の近藤樵香や桐生の佐羽秋香とともに、崋山逮捕直後の牢見舞いや、在所田原へ護送と決まったその前日の見舞い、護送の五日後、家族が江戸を出立する際に餞別を贈るといったふうに大いに心を配ったというのです。葛生の吉澤松堂(兵左衛門)がパトロンとして支えた画家は、下野国那須郡杉渡戸(現在の栃木県那須塩原市黒磯)出身の高久靄(たかくあいがい・1796~1843)であり、この靄は渡辺崋山(1793~1841)と同じく谷文晁(ぶんちょう・1763~1840)に学んでいてその高弟の一人でした。つまり崋山と同門であったのですが、この靄は崋山が「蛮社の獄」で投獄された時、その救出に尽力した一人でした。靄はパトロンである葛生の吉澤家にたびたび立ち寄っており、同門である崋山が描いた「風竹図」を吉澤家で見ている可能性も高い。「崋山や靄ら文人墨客と地方数寄者との相互のきづなは、決して、旅先の、その折だけの一回性のものにとどまるものではなかったのである」という最後の一節が心に響きました。 . . . 本文を読む

2013.2月取材旅行「桐生~阿左美(あざみ)岩宿」 その8

2013-04-04 06:15:43 | Weblog
亀田光三さんの「渡良瀬川沿岸の一用水と織物用水車の発達について─赤岩用水と地場産業用水車─」という論文(『亀田光三論文集』)によれば、桐生において最も水車数の多い用水は、「赤岩堰用水」(赤岩用水)であったという。では本町通りあるいはそれに平行して流れていた用水は何であったかというと「大堰(おおせき)用水」という用水であり、それは桐生川の流れを引いたものでした。崋山は本町通りに沿って、またそれに平行して流れていたその「大堰用水」に設けられていた水車(八丁式撚糸機の動力)を目にしています。亀田さんによれば、「赤岩用水」ではすでに江戸時代の安永頃には水車を糸繰りに利用していたということですが、それは天明3年(1783年)の岩瀬吉兵衛による「水力八丁車」の発明以前のこと。「水力八丁車」が発明された後、その糸繰り用の水車に代わって、「水力八丁車」の動力用としての水車が普及していったであろうことは容易に推測のつくことです。渡良瀬川の流れを引いた「赤岩用水」は新宿の通りに沿って流れていたわけだから、太田を経由して渡良瀬川を「松原の渡し」で越え、境野村を通って桐生新町へと入って行った崋山は、新宿村の「赤岩用水」やそれに設けられていた数多くの水車の横を通っていたはずですが、その時刻は天保2年(1831年)10月12日(旧暦)の夜10時頃であったから、「赤岩用水」に水車が並ぶ風景をはっきりとは目にしていなかったかも知れない。しかし彼は桐生新町界隈において、また近郊の小俣村や下菱村などにおいて「水力八丁車」の動力としての水車をしっかりと目撃し、そのことを記録に残しています。桐生川や渡良瀬川から引いた数多くの用水に設けられた水車群は、桐生および桐生界隈の景観を形づくる不可欠の要素であったのであり、崋山が記した次の一節は、特に印象に残ります。「いとものしずかなる中に水車と機声とうちまじり、わがこゝろ甚(はなはだ)たのしむ」(10月15日の日記より)。 . . . 本文を読む

2013.2月取材旅行「桐生~阿左美(あざみ)岩宿」 その7

2013-04-03 05:52:46 | Weblog
『わが愛する郷土 桐生百景』(服部修)によると、「赤岩渡し」は堤村から渡良瀬川を肥えて相生村新田(しんでん)に上がる渡しであって、ここから天王宿(てんのうしゅく)を経て大間々、大胡、前橋方面へのルートが延びていました。また新宿(しんしゅく)は「水車と機屋の町」であり、ここには用水が流れ、「どこの露路からもハタ音が聞こえ繁盛」した町でした。この新宿を流れる用水とは「赤岩用水」であり、この用水はすでに宝永年間(18世紀初頭)には開かれていたとのこと。この赤岩用水には、最盛期においては291基の水車があったという。この水車とは多くは「水力八丁車」という撚糸用機械(岩瀬吉兵衛が発明)の動力としての水車であり、幸田露伴も、旅の途中、新宿の町中を流れる用水に水車が装置してある家がきわめて多かったことを記録に留めています(『酔興記』明治22年)。この赤岩用水はかつての赤岩橋近くに堰(せき)を設けて渡良瀬川の流れを引いた用水であり、ここに装置してある水車は「上げ下げ水車」(下掛式で別名「押し車」)であり、水輪の下部に流水を受けて回転を得るものでした。水輪の直径は1丈(約3m)、幅は1尺5寸(約45cm)から3尺(約1m)ほどとかなり大きなものであり、それが用水にずらりと並び、ゴトゴトと音を立てていたのです(『桐生史苑』第十五号「新宿と水車」須東忠三)。露伴は明治22年(1889年)1月2日に佐野を出立して足利を経由して桐生に至り、本町五丁目の金木屋に宿泊。翌3日は赤岩橋を渡って大間々に至り、地蔵峠を越えて室沢というところで宿泊しています。まず目指したのは赤城山でした(『桐生彩時記』桐生タイムズ社)。露伴が新宿の赤岩用水に並ぶ水車を見たのは、明治22年(1889年)1月2日の夕刻、桐生に至る手前の通りにおいてであったことでしょう。 . . . 本文を読む

2013.2月取材旅行「桐生~阿左美(あざみ)岩宿」 その6

2013-04-02 05:34:17 | Weblog
現在のJR両毛線の渡良瀬川に架かる鉄橋付近に架けられていたと思われるかつての「赤岩橋」は、桐生から大間々方面へ行く場合のメインルートにあった橋で、崋山によると天保2年(1831年)当時においては、冬場を中心に架けられており、それ以外の時期は渡し舟であったようです。崋山は「赤岩橋」から見える渡良瀬川について次のように記しています。「この川は石が多く水は涸れているいるが、澱んでいるところはとても深い。川の流れは澄んでいて、泳いでいる魚を数えることができるほどだ。石に流れがぶつかって飛沫をあげ、その音は雷を遠くに聞くようである。北側には赤岩山が川にせりだすようにしてそびえたっており、その後ろには吾妻山がその長い山稜を見せていて、ここからの景観は筆にも言葉にも尽くしがたい。」現在の赤岩橋からは赤城山を眺めることができますが、かつての赤岩橋からは、赤岩山とその背後の吾妻山の山稜を眺めることができたようだ。その赤岩山の崖下を流れるのが渡良瀬川。急な流れが岩肌にぶつかって白い飛沫をあげ、澱んでいるところは神秘的な濃緑色となっている。流れは澄み切っていて、魚の泳いでいるのが見えるほど。崋山は10月16日に要害山を下って大間々に向かう途中、渡良瀬川を「高津戸の渡し」で越えています。ここで崋山は「はね瀧」における鮎漁について触れていますが、崋山が「赤岩橋」から渡良瀬川の清流に見た魚とは、時期的にみてもしかしたら「落ち鮎」であったのかも知れません。 . . . 本文を読む