鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

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2009.4月取材旅行「春日~菊坂~本郷三丁目」 その最終回

2009-04-30 06:31:50 | Weblog
明治12、3年頃の東京大学の構内の様子が、馬場孤蝶の『明治の東京』に次のように描かれています。「明治十二、三年ごろは大学の構内には、医科即ち当時は医学部といっていたのがあったばかりで、この旧加賀邸の赤門寄りの方は、茫々たる薄原(すすきはら)で、その草の間に、昔の井戸の跡なのであろうが、黒く塗った木を框(わく)にして、危険除けの目印にしてあるのが幾つとなく見えるのが、ひどく寂しく感ぜられた。門をはいって右手寄りには、椿の一杯生えた円形の小山があって、冬になると、よく鳩がかしわの腹を木(こ)の間(ま)から見せた。…その時分には、その草原には狐が大分いた。…大学構内には池寄りの方に雑木や藪などのある小さい小山があった。上り路(みち)が迂回してついているので、栄螺山(さざえやま)と呼ばれていた。その頂(いただき)からは、小石川の砲兵工廠の裏手あたりは勿論のこと、神田、日本橋へかけての下町が、随分遠くまで見渡せるのであったが、その時分には、下町の方面でも東神田から、浜町辺(はまちょうへん)へかけては、樹木のあるところが余ほど多かった。家の屋根と、そういう樹木が錯綜しているところが実に心持のいい眺めであった。」 大学の赤門前を走る「本郷通り」にしても、今と随分違います。孤蝶は次のように言っています。「大学の赤門前などは、まるで田舎であった。確に兼安までは江戸のうちで、それから先きはどうしても宿場といわなければならなかった。縄暖簾の居酒屋あり、車大工の店あり、小宿屋ありという風で、その前をば、汚さを極めた幌かけの危うげな車体をば痩せ馬に輓かせたいわゆる円太郎馬車がガラッ駈けを追って通るのだから、今の大抵の田舎町よりもなお田舎びているくらいであった。」 この乗合馬車(円太郎馬車)は、筋違(すじかい)から神田明神前→本郷通り→追分→白山前などを経て板橋へ通っていました。御者(ぎょしゃ)のほかに別当(馬丁)がついていて、その別当が喇叭(ラッパ)を吹いて、通行人に注意を与えていたのだという。孤蝶は、馬が暴れ出して、加賀邸前、四丁目辺りの薪屋(まきや)の外の高く積んだ薪へ突き当たって、薪(たきぎ)の山が崩れたのを目撃したことがありました。この「本郷通り」が実はかつての中山道。明治10年代においても、まだまだ旧街道筋の面影を残していたということがよくわかります。 . . . 本文を読む
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2009.4月取材旅行「春日~菊坂~本郷三丁目」 その10

2009-04-29 06:08:37 | Weblog
石川啄木と妻節子との間の長男真一が生まれたのは、明治43年(1910年)の10月4日午前2時のこと。生まれたところは「喜之床」の2階ではなく、「大学病院産婦人科分室」でした(「大学病院」とは「東京大学」の「大学病院」のことでしょうか)。「至極の安産」で、大きな男の赤ん坊でした。「君の希望通り男でさうして丈夫だ、名前は真一とつけた、…考へたけれど格好な名がなかつたから、社の編輯長の名を無断で盗んだのだ、肥満した、さうして気持のいい位男らしい人だから、おれの子供もさうなつてくれると可(よ)い」(宮崎郁雨宛書簡)とあるように、啄木は、長男の名前を当時朝日新聞社の編集長であった佐藤真一(北江)から取っています。啄木は、佐藤北江(ほっこう)のことを「気持のいい位男らしい人」だとしています。ちなみに啄木と節子の間の長女の名前は「京子」で、これは親友「金田一京助」の「京」を取っています。啄木は、2人の子どもの名前を、強く恩義を感じていた2人の人物から取っているのです。ところが誕生を喜んだのも束の間、丈夫であるべきはずの真一が、「生くること僅か二十四日にして同月二十七日夜十二時過ぐる数分にして」亡くなってしまう。死んだ場所は、「喜之床」の2階。その日、啄木は夜勤に当たっており、上野広小路で最終電車を下り、そこから夜道を歩いて帰ってきたところが、真一がまさに絶命したばかりでした。「夜おそく つとめ先よりかへり来て 今死にしてふ児を抱けるかな」(『一握の砂』) 長男真一の葬儀が行われたのは29日、場所は浅草永住町の了源寺。荼毘(だび)に付されたところは町屋の火葬場。会葬者の中には与謝野寛(鉄幹)がおり、「煙草」という題でその日のことを感動的な詩に残しています。鉄幹が人力車で「喜之床」に駆けつけた時には、すでに葬列(4台の人力車)が「喜之床」前の通りから動こうとしていました。その1台に、啄木は「赤い更紗の布呂敷に包んだ赤ん坊の小(ちさ)い柩(ひつぎ)を抱」いて乗り、そして道中「オリエント」という煙草を吸いました。鉄幹は、前を行く啄木が乗った人力車から「渦を巻いて青い煙がほおっと」出るのを目撃し、「ああ殊勝な事をする、啄木は車の上で香(かう)を焚いてゐるんだ」と思い、自分も「衣嚢」(かくし)から「カメリヤ」という安煙草を抜いて火を点けています。弓町から浅草永住町に向かう車中のことでした。 . . . 本文を読む
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2009.4月取材旅行「春日~菊坂~本郷三丁目」 その9

2009-04-28 06:29:01 | Weblog
石川啄木が、家族を函館の宮崎郁雨の許に残して、背水の陣をしいて函館の港から三河丸に乗り込んだのは明治41年(1908年)の4月24日の夜でした。「犬コロの如く丸くなつて」三河丸の三等室に眠った啄木は、翌日横浜港に上陸し、念願の東京に向かいます。啄木は、東京で「小生の運命を極度まで試験」し、小説を書くという「新しき文学的生活」によって身を立てようと決心しています(4/14付小笠原健吉宛書簡)。4月29日、本郷菊坂町の赤心館にいる金田一京助を訪ねた啄木は、金田一に「今度は小説だ、小説だ」と語っています。5月2日、与謝野鉄幹(寛)に連れられて、啄木は団子坂上(本郷区駒込千駄木21番地)の森鴎外宅(観潮楼)を初めて訪問し、森鴎外に初めて会いました。おそらく根津権現の裏門から北に向かう狭い道を通って団子坂方面へ向かい、その坂上に出る手前で、左手にある鴎外宅の表門を潜ったのでしょう。崖に沿う狭い通りから邸内に入り、駒寄せを越えると石畳になり(一部現存)、表門の中にはイチョウの大木が聳(そび)え、そのイチョウの大木の根元には一本の茶の木が生えていました。前栽の八つ手の植え込みの中には春日灯籠が立っている。玄関に向かい右側の柱の内部に小さい釣鐘と丁子型の撞木(しゅもく)が吊るされていましたが、呼び鈴が付けてあるので、これを鳴らす来客はいないようだ。来客がいて呼び鈴を鳴らすと、女中部屋の階段の下にあるベルが鳴るようになっていました。玄関に入る戸、「賓和閣」と書かれた額が掛かっています。螺旋状の急な階段を上がって二階に案内されますが、そこは12畳の一間。床の間の両側には、幅三尺ずつの壁に六号の大きさの油絵の風景画が対に掛けてあり、立ててある屏風の裾からは、座敷の壁際に高く積み重ねられた、紐で束ねてある洋書がのぞいています。北の窓からは、厩(うまや)の屋根を隔てて、団子坂通りの町屋や「満足稲荷」のイチョウが高く聳えているのを望むことができました。床の間には、「雷」の一字を石摺にした大幅などが掛かり、中国の古い陶器と思われる六角の花瓶が置いてありました。そして上野の森からは、鐘の音が聞こえてくる。これが鴎外の観潮楼の部屋であり、ここで観潮楼歌会がしばしば開かれていたのです。啄木が金田一の下宿する本郷区菊坂町82番地の「赤心館」二階六畳に同宿することになったのは、その2日後のことでした。 . . . 本文を読む
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2009.4月取材旅行「春日~菊坂~本郷三丁目」 その8

2009-04-27 06:04:41 | Weblog
馬場孤蝶の『明治の東京』は、「市井の事」を書いてみたい、とあるように、明治11年頃からの東京の市井(しせい)のこと、とりわけ市井の芸能のことが詳しく触れられている点でも貴重なものです。「市井の芸能」とは、とくに寄席(よせ)で演じられた芸能のことで、具体的には、落語や手づま(手品)、常盤津語(ときわづがたり)、新内語(しんないがたり)、義太夫、女義太夫、講釈(講談)など。特に落語と義太夫(女義太夫も含めて)について詳しい。また当時の文学者についてのちょっとしたエピソード類も面白い。斉藤緑雨、与謝野夫婦(鉄幹・晶子)、森鴎外、夏目漱石などが登場する。樋口一葉についても触れられています。「東京の女」という項があって、そこで孤蝶は次のように言う。「東京の女は、話し相手にするのには、善く理解力が発達していて、心持がよい。」そして次に「故一葉女史など」として、そのような「心持ちがよい」「東京の女」の具体例として孤蝶はいの一番に樋口一葉を想起しています。以下、次の通り。「故一葉女史など、その父君の代から、東京におられたのであるから女史は、まず純粋の東京人で、殊に父君の身分がら、生粋の江戸人たちの出入が繁く、そういう中で人となったのであるから、なかなか世間知識が広かった上に実に話上手で、逢って如何にも心持の好い人であった。」いわば「東京の女」の代表として、孤蝶は一葉を挙げているのです。「実に話上手で、逢って如何にも心持の好ひ人であった」という一葉に対する評は、露伴のそれとはかなり隔たりがある。どちらが本来の一葉像に近いかと言えば、やはり頻繁に一葉と会って話をしたことのある孤蝶の方でしょう。「話上手」は、一般に「聞き上手」でもある。一葉は、自分の身の回りの人々の世間話や身の上話を聞く際に、きわめて「聞き上手」の人ではなかったか、と私は思っています。とくに自分に類するような境遇の持ち主の話には、身につまされるような思いで話に聞き入ったのではないかと思われます。 . . . 本文を読む
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2009.4月取材旅行「春日~菊坂~本郷三丁目」 その7

2009-04-26 07:06:04 | Weblog
馬場孤蝶に『明治の東京』という本があります。といっても、孤蝶自身が『明治の東京』と銘打って出した本ではなくて、中央公論社が、孤蝶の没後2年目の昭和17年(1942年)5月に、孤蝶の東京に関する随筆16編を収めて刊行したもの。編者名はわからないが、孤蝶の遺志にもとづく出版のようであったらしい。孤蝶が土佐の高知から父母とともに東京に出てきたのは明治11年(1878年)で11歳の時。したがって彼の東京に関する記憶は、この明治11年から始まります。彼が、関東大震災の復興事業で出来た環状道路(明治通り)を自動車で回った時の印象記「環状線を廻る」を執筆したのは昭和7年(1932年)の秋で、彼が63歳の時。この時点での東京の回想となると、明治11年から昭和7年まで54年間の東京の変遷の回想ということになる。「東京に関する随筆」の執筆の動機というのは、「昔の寄席」に端的にまとめられています。「近来江戸研究とか、江戸趣味などということがいわれだして、幕政の時分の事などは、書物になっているものが多いけれども、明治十年ぐらいから二十四、五年ぐらいまでの市井の雑事は、江戸研究のなかには当然含まれていないのだから、存外文書になっていないように思う。…割合に近い時代の事であっても、もう二十年も経てば、大分古い事として取り扱われるようになろうと思われるので、そういう時代になった際の参考にもと、吾々の青年時の市井の事を時々書いてみようと思っている。」 この動機の背景には、「この二十年この方だけの変化でも、実に非常なもの」であったとの認識と深い感慨がありました。彼は東京や地方都市について次のように記しています。「昔の東京の如きは、市のなかに山があり、森あり、畑があり、田さえあったくらいである。多くの地方市も東京ほどの程度ではないにしても、何処(どこ)も余程そういう風なところがあって、町と村との境界をどの辺で附けていいか分らぬというような趣きはあったろうと思われる。」彼は寄席が好きなこともあって、若い時分から東京の各地を歩いているし、また「一体ブラブラ歩くことが好き」で、東京の自然の中を「自由にさ迷うこと」でリフレッシュするような人でもありました。したがって東京の各所を実によく歩いています。この『明治の東京』には、孤蝶が歩いた東京各地の道筋の、かつての様子が、いたるところに散りばめられているのです。 . . . 本文を読む
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2009.4月取材旅行「春日~菊坂~本郷三丁目」 その6

2009-04-25 08:12:26 | Weblog
一葉と親しかった人物の一人に、馬場孤蝶(1869~1940)という人がいる。本名は勝弥(かつや)。土佐の人。翻訳家・随筆家で慶応大学教授も勤めています。孤蝶は、明治27年(1894年)の3月、平田禿木(とくぼく)とともに下谷竜泉寺町の一葉宅を訪問、そこで初めて一葉と対面。転居した丸山福山町の家にも通っています。一葉没後の明治36年(1903年)春には、森田草平宅(一葉終焉の家)において、草平や生田長江らと「一葉会」を催すほか、明治45年(1912年)には、博文館発行の『一葉全集』の編者となり、また一葉の手紙を初めて世に紹介した人でもある。明治27年3月15日付の孤蝶からの一葉宛書簡も残されています。この馬場孤蝶は、明治の自由民権運動家馬場辰猪(たつい)の弟であり、明治11年(1878年)に父母とともに国元を離れて東京に上京。明治22年(1889年)に明治学院に編入していますが、その同級に島崎藤村がいました。この島崎藤村や戸川秋骨と交友した関係から『文学界』同人になっています。孤蝶は一葉宛の手紙に自ら述べていますが、「友達中にての評判」の「大声」の持ち主であり、「高調子」なしゃべり方の人であったらしい。孤蝶と兄辰猪の年は19も離れていました。馬場辰猪が留学先のイギリスから帰国してきたのは明治8年(1875年)1月のこと。その年2月に高知に到着し、両親や弟妹たちと7年ぶりの再会を果たします。孤蝶の兄辰猪の記憶は、したがってこの再会の時から始まっています。「その時は、辰猪は、家ぢゅうでの尊敬の中心であつた。僕などは、『兄さんが久しぶりで帰って来たのだからおとなしくしろ』とさんざん云ひ聞かされたものであつた。随(したが)って、何と無く遠慮されて、傍(そば)へなど此方から出掛けることは無かつたやうに思ふ」と、孤蝶は回想しています。この孤蝶の兄馬場辰猪は、実は中江兆民の親友でもありました。パリからロンドンにやってきた兆民を、ロンドン見物ということで各所に案内したのはこの辰猪でした。この兆民と親しかった辰猪の弟が、一葉と親しく、また一葉を顕彰した人物の一人であったというのは、私にとって興味ある「発見」でした。 . . . 本文を読む
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2009.4月取材旅行「春日~菊坂~本郷三丁目」 その5

2009-04-24 20:26:52 | Weblog
樋口一葉というと、その写真から、目鼻立ちがくっきりとした理知的で美しい女性、という印象が私にはあるのですが、実際に一葉に会ったことのある人々の印象記を読むと、必ずしもそうではなさそうです。幸田露伴は、明治29年(1896年)7月2日の午後2時頃に丸山福山町に住む一葉を、森鴎外の弟三木竹二とともに訪ね、一度だけですが一葉に会っています。用件は、当時鴎外が主宰していた文学雑誌『めざまし草』に合作小説を掲載したいので、その合作の一員になってほしいというもの。昭和7年(1932年)12月の座談において、露伴は次のようにその時の一葉の印象について語っています。「その時分のそのくらいの年の女としては少し野暮の方でしてね、勿論初対面だけでしたからでもありましょうが、思うこともまあ十のものなら七つは呑んでしまって口へ出せないという調子の人に見えました。態度などでもそうはきはきしている人じゃない。もすもずした方でしてね。まあ腹の中では人一倍に物を思っても、それだけのことは口へは出さないような調子の人でしてな。…現れたところは陰性の人で、勿論不器量というのじゃないけれども、そんなに奇麗な女というのじゃありません。」(「露伴翁座談」)また『文学界』の星野天知は一葉のことを「猪首の女」と言い、戸川秋骨や平田禿木は一葉を「ジェンエア」と綽名したという。『ジェンエア』はシャロット・ブロンテの作品で、聡明ではあるけれども美しくはない女性である、ということらしい。塩田良平さんは、一葉が半井桃水(なからいとうすい)に自己の心情を打ち明けられなかったのには、一つには一葉に「容貌コンプレックス」があったから、とも指摘しています。一葉は、この年11月23日に肺結核で亡くなるから、死の四カ月前に露伴と会っていることになる。この露伴と会った翌月の8月初旬には、一葉は「山龍堂病院」で絶望を宣告されているのです。妹邦子と右京山に虫の音を聴きに行った時、また母多喜とともに右京山に九段の祭りの花火を観に行った時などの日常の一葉は、また桃水に恋焦がれた時の一葉は、はたしてどういう雰囲気の女性であったのでしょうか。 . . . 本文を読む
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2009.4月取材旅行「春日~菊坂~本郷三丁目」 その4

2009-04-23 05:40:10 | Weblog
樋口一葉の『大つごもり』という短編に、主人公である「お峰」という娘が、奉公先の山村家が芝居見物に一家中で出掛ける時に、お暇を願って、かねて病気で寝たきりである伯父の家に見舞いに行く場面があります。この伯父の名前は安兵衛で、病気になる前は小石川初音町の表通りに八百屋を出していて、田町から菊坂あたりにかけて「茄子大根の御用」をつとめていました。神田に買い出して茄子や大根を仕入れ、それを注文があれば田町や菊坂あたりの人々に届けたり、あるいは売り歩いたりしていたようですが、昨年9月の末にいきなり病に臥し、表店(おもてだな)を閉めざるをえなくなり、同じ町内の酒屋と芋屋の奥深く、歩けば溝板(どぶいた)がガタガタ鳴るような家賃月五十銭の裏長屋に、安兵衛とその女房、そして八歳になる息子三之助の三人が住んでいます。六畳一間には、箪笥(たんす)長持(ながもち)もなく、長火鉢も米櫃(こめびつ)もない。安兵衛が寝付いた時、一家は高利貸から十円(天引きの利子のため実際は八円半)を借りていますが、この高利貸があるところが田町。この借金の返済として2両(二円)が入用で、その工面をお峰が依頼されることからこの小説の「事件」が起きることになるのですが、それはさておき、この小説では、白金(しろがね)の台町に百軒もの貸長屋を所有する、お峰の奉公先山村家の生活ぶりと、小石川初音町の裏長屋に住む安兵衛一家の生活ぶりがきわめて対照的に描かれています。8歳の三之助は、午後3時に学校が退(ひ)けると、草鞋を履いて、表の塩物屋の若者と一緒に蜆(しじみ)を担いで足の及ぶ限りを売り歩いています。日銭は十銭前後。一方山村家の方は立派な土蔵を持ち、芝居見物には綾羅(きら)を飾って一家中で芝居見物に出掛けるような暮らしぶり。一葉一家と言えば、父則義が亡くなってからは、安兵衛一家に類するような生活を余儀なくさせられます。本郷菊坂や下谷竜泉寺町に住んでいた時も、また晩年に丸山福山町に住んでいた時も、一葉一家が、そして一葉が住んでいた裏長屋の多くの人々の生活が、安兵衛一家ほどではなくともそれに類したものであったに違いない。一葉は、常日頃、そのような人々と生活をともにし、またそのような人々の生活の現実というものを目の当たりにしていたのです。 . . . 本文を読む
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2009.4月取材旅行「春日~菊坂~本郷三丁目」 その3

2009-04-22 05:37:47 | Weblog
樋口一葉(1872~1896)は、戸籍名は奈津。歌名および普通には夏子を用いたという。まわりからは「夏ちゃん」とか「なっちゃん」と呼ばれたらしい。明治5年(1872年)の3月25日に、父則義、母多喜(たき)の次女として、東京府第二大区小一区内幸(うちさいわい)町一丁目一番屋敷東京府構内長屋に生まれている。父親(幼名大吉)も母親(幼名あやめ)も、甲斐国山梨郡中萩原村の代々農民の出身で、2人一緒に村を出奔して、江戸に出て、大吉は旗本に仕えて樋口為之助を名乗り、さらに八丁堀同心に出世したのだという。一葉が生まれた当時、父為之助(後に則義)は新政府の下級役人(東京府小属)として、東京府に勤めていました。長男である泉太郎が明治20年(1887年)に病死したことと事業の失敗による心労のため父則義が明治22年(1889年)7月に亡くなると、一家の負担はすべて戸主である一葉にかかってくることになり、その生活を支える手立ての一つとして一葉は小説創作を思い立つに至ります。一葉は明治29年(1896年)11月23日に24歳の若さで亡くなりますが、その短い人生において15回も転居をしているのだという。1番目が生地である内幸町。「桜木の宿」として一葉が懐かしく回想した家は4番目で本郷6丁目(旧)。本郷菊坂の家が13番目と14番目。15番目の下谷区竜泉寺町が15番目で、終焉の地である丸山福山町の家が最後の16番目。妹の邦子と右京山へ虫の音を聴きに行ったり、母多喜と九段の祭りの花火を右京山で観たりしたのは、本郷菊坂の時代だということになる。一葉在世当時は、まだ路面電車はなく(品川~新橋間の開業は明治36年〔1903年〕)、東京馬車鉄道は走っていたものの(明治15年〔1882年〕に新橋~日本橋間を走る)、もっぱら移動の手段は徒歩ないし人力車。一葉にとって「道」は主に生活としての道であったのですが、この16回もの転居を考えると、一葉はよほど東京の街を歩いたに違いない(現在の港区・台東区・千代田区・文京区にまたがる地域)。 . . . 本文を読む
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2009.4月取材旅行「春日~菊坂~本郷三丁目」 その2

2009-04-21 06:24:54 | Weblog
今回、なぜ菊坂周辺かといえば、前に東京メトロ千代田線の千駄木駅から団子坂、根津神社を経て上野公園まで歩いた取材旅行の続きを残していたからです。このコースのネタ本は、前にも紹介したことがありますが、成美堂出版の『明治・大正・昭和をめぐる東京散歩』。副題は「東京の変貌を地図と写真と書物で、見る」。この本のP36からP45にかけて「明治・大正・昭和 文学・芸能ぶらり散歩」というのがあって、その最初に、「漱石・鴎外・一葉・啄木 本郷」というページがあるのですが、そこで紹介されている散歩コースを、今回は逆にたどろうとしたわけです。なぜ逆にしたのかといえば、早朝、まだ人が繰り出していない時間帯に、一葉や啄木らが生活した町の雰囲気を味わいたかったから。この前の続きのコースをたどったなら、菊坂周辺を歩くのはお昼頃の、人や車で賑わう時間帯になってしまう。そう判断したからです。それにしても、この菊坂周辺には、歴史上(文学史を始めとして)名高い人たちが何と多く生活し、また足を踏み入れていることか。それは前掲書のP37の地図を見ても思ったことですが、実際歩いてみて痛感したことです。今回立ち寄った「文京ふるさと歴史館」のパンフレットに掲載されている地図を見ると、P37の地図以上にそのことがよくわかります。坪内逍遥の旧居や正岡子規の下宿していた「常盤会」はここにあったのか。宮沢賢治が間借りしていた下宿はここにあったのか。大正・昭和の多くの文士が宿泊した「菊富士ホテル」はこういうところにあったのか……等々、P37の地図には載っていなかったところも、今回歩いてみて知ることが出来ました。しかもそれぞれが、たった500mないし1km四方ほどの空間に入ってしまうほどの、歩いてすぐのところに存在しているのです。こんな空間は、日本全国見渡してみてもまずないのではないでしょうか。 . . . 本文を読む
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2009.4月取材旅行「春日~菊坂~本郷三丁目」 その1

2009-04-20 05:42:47 | Weblog
東京は坂の多い街である、というのは前に団子坂や根津神社周辺を歩いた時にも感じたことですが、今回、菊坂(きくさか)周辺を歩いた時にも、痛感したことです。今回歩いたところだけでも、菊坂を始めとして、新坂(しんさか)、炭団(たどん)坂、本妙寺坂、真砂(まさご)坂、見送り坂、見返り坂などがありました。この土地の起伏というものは、地図を見てもわからないことで、実際に歩いてみなければ実感できないこと。樋口一葉や石川啄木、また夏目漱石や森鴎外などが歩いた道は、また彼らが眺めたであろう景色は、たしかに往時とは大きく変わっているものの、実際に坂の多い通りや路地を歩いてみることにより、実感をともなったかたちで確かめていくことができるのだ、と思いました。三四郎池を見るために、東京大学の構内へ初めて本格的に入りましたが、そこで行われていた企画展にたまたまぶつかり、思わぬ取材上の「出会い」もありました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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2009年・「露研」の旅─「焼津、そして由比」 最終回

2009-04-06 06:24:05 | Weblog
陽がカンカン照ると 焼津というこの古い漁師町は、 中間色の、言うに言えない 特有な面白味を見せる。 まるでトカゲのように、 町はくすんだ色調を帯びて、 それが臨む荒い灰色の海岸と 同じ色になり、小さな入江に 沿って湾曲しているのである。 …………(中略) それに焼津の生活が、 確かに何世紀も前の生活なのである。 この土地の人たちも、古い日本の人々で、 子供たち─善良な子供たち─のように 開けっ放しで、優しくて、正直すぎる位で、 先の世のことなどつゆ知らず、 古いしきたりや古い神々を、 忠実に守っているのである。    小泉八雲著「焼津にて」より(村松眞一訳) 『小泉八雲─焼津─』(焼津小泉八雲記念館)から引用 . . . 本文を読む
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2009年・「露研」の旅─「焼津、そして由比」 その6

2009-04-05 06:25:10 | Weblog
前日、焼津駅前の観光案内所のおじさんから教えてもらった「小泉八雲記念館」へのルートを歩き出しました。駅前の右手から延びる広い通りはおそらく新しく造られた道で、この通りの周辺にはもともとは田んぼが広がっていたように思われます。焼津の町の発展とともにどんどん宅地化していったのでしょう。昔からあった古い道(旧道)は、その通りより一本海側に入った、新しい通りに平行する道で、これは実は「鎌倉道」であり、そうとうに古くからあった道。この「鎌倉道」もかつては田んぼの中を走っており、小泉八雲が好んで散歩した道であって、この道に沿って焼津神社(北側)や教念寺(北側)、熊野神社(北側)や海蔵寺(南側)などがあって、八雲はそれらの寺社にしばしば足を踏み入れています。焼津駅前左手から海側へ延びる通りは、焼津港(旧港)へと続きます。駅前右手の通りを少し進むと「小石川」という川にぶつかりますが、この小石川の河口部に造られたのが焼津港(旧港)。もちろん現在見られるような近代的な港湾は、八雲が焼津を訪れていた明治30年代にはまだ出来ていませんでした。現在、海岸には高潮・津波除けの堤防が延びていて、その内側、堤防に沿って「オーシャンロード」が走っていますが、その通りより一本内側に入った通りが「浜通り」で、現在「八雲通り」と呼ばれている道。この通りの新川橋(黒石川に架かる)の付近、通り北側の家並みの中に小さな2階建ての魚屋があり、その主人が山口乙吉でした。新川橋付近、海側にあった割烹(かっぽう)旅館が「秋月楼」で、明治30年(1897年)8月4日、焼津駅に下り立った八雲一家を含む一行は、おそらく駅から歩いて黒石川に架かる新川橋を渡り、海(駿河湾)の見える「秋月楼」に入りました。この「秋月楼」は現在は残っていません。 . . . 本文を読む
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2009年・「露研」の旅─「焼津、そして由比」 その5

2009-04-03 05:53:00 | Weblog
初めて家族とともに焼津駅に下り立った小泉八雲は、いったんは浜辺近くの旅館に宿泊しますが、あまりあたたかいもてなしを受けなかったようで、かつての松江中学時代の同僚で、当時は浜松中学に勤めていた田村豊久の下宿の内儀、寺尾のおせいさんの世話で山口乙吉の家を紹介され、その2階に滞在することになりました。この乙吉との出会いが、八雲が焼津を愛した大きなきっかけの一つでした。山口乙吉の家は、城之腰御休町にあって、天野という人が家主の借家でした。借家である乙吉方の2階を八雲一家は、ひと夏を過ごすために借りることになったというわけです。焼津港の近く(西側)、黒石川に架かる新川橋付近になる。その家は明治村に移築され現存しています。明治村には何回か訪れたことがありますから、私もその家に足を踏み入れたことがあるはずですが、まったく記憶に残っていません。今度行った時は、ぜひしっかりと確かめたい。写真を見ると、明治村の乙吉の家は瓦葺きになっていますが、小泉一雄(八雲とセツの間の長男)の記憶によると、板葺き屋根で、その屋根の上には人間の頭大の重石がゴロゴロと置き並べられていたようです。1階には、入口から背戸まで一間幅の土間が抜けており、その土間には地鶏が2羽いて、いつも土間の上をうろついていたという。その乙吉の家の2階に、八雲は、明治30年(初めての滞在)、32年、33年、34年(この年の暮れに中江兆民が死んでいます)、35年、37年の夏を、それぞれ一ヶ月ほど滞在し、焼津の町を歩き回り、焼津の人々との交流を深めたのです。 . . . 本文を読む
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2009年・「露研」の旅─「焼津、そして由比」 その4

2009-04-02 05:41:02 | Weblog
「焼津小泉八雲記念館」で購入した『小泉八雲─焼津─』(300円)のP8に、八雲自身が描いた焼津海岸の絵が載っています。この絵の左側の街が焼津で、海岸には石積み堤防があり、その上に人々が歩いています。浜には1隻の漁船が浮かんでいる。右奥の崖になった岬みたいなところは大崩海岸。その絶壁の下には当目の小さな浜があり、ここへも八雲は足を運んでいます。真ん中やや右上に描かれている山の中腹あたりに、現在は「ホテルアンビア松風閣」や「焼津グランドホテル」などが建っていることになります。この絵と同じような構図の絵が、P10の「八雲から妻セツあての手紙」に、簡単なイラストとして描かれています。これにはコニーデ型の富士山もちゃんと描かれています。大崩海岸の上あたりになる。これらの絵の右手(描かれていない部分)には、実は伊豆半島が大海原の向こうに左右に延びていて、その伊豆半島の存在が、かえって海の広がりを感じさせ、左手に見える富士山とともに雄大な景色を生み出しているのです。先月の取材旅行では、稲村ガ崎から西方向に見える富士山や、その左手(南側)に延びる箱根や伊豆の連山を眺めましたが、今度は逆に、箱根・伊豆連山を東方向に見て、その右手(北側)に富士山を望んだことになります。対照的な地点から、富士山や伊豆連山を眺めたことになります。八雲は明治31年(1898年)の夏、鵠沼(くげぬま)海岸(片瀬・江の島の西側の海岸)へ家族で海水浴に出掛けていますが、やはり遠浅の砂浜のためか、舞阪の海岸と同様に、それほど気に入ることはなかったようです。水泳が得意であった八雲にとって、丸石がゴロゴロしていて10mほども沖合いに出れば体が沈み込むような焼津海岸こそ、海水浴には最適な場所であったようだ。明治32年(1899年)に、海岸に巨大な石積み堤防の建設が始まっても、その海岸や焼津の人々の魅力は、八雲においては変わるものではありませんでした。 . . . 本文を読む
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