鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その最終回

2015-04-23 05:22:24 | Weblog

 又右衛門の案内で島見物へと出発した崋山たちは、谷川に沿う路地のような細い坂道を磯浜へと下って行きました。

 浜辺に漁船が帰ってきたということで、浜に出て見るとその船はみな又右衛門の持ち船でした。

 船のまわりには島の女たちが群がっていて、その中には又右衛門の妻や娘も加わっていました。

 又右衛門の妻と娘は、海女の中に混じって網から魚を取り出したり、網を乾かしてそれを納屋に納めたりと、まめまめしく立ち働いています。

 網から取り出される魚はどういうものかと見てみると、鯛やさばやこちなどで、あとは見慣れない魚ばかり。

 崋山は又右衛門などから、「立網」漁について詳しく聞くとともに、またワカメや昆布の採集方法についても聞き、採集に使う「長き竹に三叉の松を結びつけた」道具をスケッチしています。

 「おまつ」という60歳ばかりの老海女に、崋山が詳しく話を聞いたのはこの時であっただろうか。

 崋山の巧みな問いかけに、「おまつ」は心をゆるして自分の半生や暮らしぶりを詳しく物語ります。

 その後、崋山たちは又右衛門の案内で灯明山(とうめやま)の頂きへと登っていきました。

 もちろん、島の各所から見えた灯明堂を間近に見るためであり、またそこからの眺望を確かめるためでした。

 おそらく八代(やつしろ)明神の長い石段を上がり、八代明神に参拝(社殿のスケッチを残しています)してから、その裏手に続く登山道を登って行ったものと思われる。

 山の中腹は全部松林であり、しかもその松の根はみんな横へと伸びて地面へ入っていない。その根の長さはおよそ「十間より十四五間」に及んでいました。

 「一間」はおよそ1.8mだから、松の根っこの長さは18mから30m近くはあったことになり、崋山はその長さに驚いています。

 崋山は昨日の「ニワの浜」や「古里(ごり)の浜」の岩の露出した海岸や、今朝、日の出を眺めた東海岸の様子などから、このように松の根が地に入らず横へと長く伸びているのは、地中がみな岩であるからだろうと推測しています。

 さて、そこから頂上へと至って、灯明堂がどうであったか、そこから見える景観はどのようなものであったのか、頂上から戻ってその日のいつ頃、どのように神島を離れたのか、といったことを知りたいのですが、この灯明山へと登って行くところで、崋山の記述は突然途切れてしまい、次は「十八日」に畠村を出立して佐久島へと向かう記述が始まります。

 しかし幸いに灯明堂を間近に描いたスケッチにより、灯明堂の構造や、灯明堂を覆う瓦屋根の建物の様子を知ることができます。

 灯明堂を覆う瓦屋根の吹き抜けの建物はかなり頑丈そうで、その屋根を支える四本の柱は何本かの柱を束ねたものであるようであり、その根元の部分もまわりを石で囲むなどかなり頑丈に据え付けられています。

 台風や強風で吹き飛ばされないような工夫であったでしょう。

 前に推測した通り、この灯明堂を覆う構造物の高さはおよそ5m近くはあり、高さ3mほどの灯明堂を厳しい風雨から守るものとして建てられたものと考えられます。

 この灯明堂は浦賀奉行所の所管であり、元禄4年(1691年)頃に設置され、明治6年(1873年)に廃止されました。

 番人2人が「弐人扶持」で番をしていたらしい。

 ここから太平洋の「日和」(ひより)を見ることもあったと思われますが、それでも大きな海難事故は発生しました。

 崋山はその大きな海難事故について詳しく記しています。

 「寛政十二年三月廿四日、鯛大ニ捕れしかバ、廿五日全島皆出て漁せしに、辰の時ばかりに西風大起り、漁人百二十一人ゆきがた知れず、七十人ばかりハ伊豆遠江へ吹つけられ命を得たり、下田、カケツカより上ル、舟数凡三十艘ナリ、此風ハ寒アケより百日目也、トウリンボウと云。」

 崋山は他の箇所でも「寒明より百日目ヲトウリンボウト云大風あり」と記しています。

 『郷土志摩 No44 神島特集号』にも、やはり寛政12年(1800)3月25日のこの海難事故について触れられており、121人の遭難者の追善供養が桂光院において執り行われたことが記されています。

 小さな神島において、成人男子の多数が遭難してしまった大事故であったわけであり、それは33年前の、島人の多くにとってまだ生々しい記憶に残る大事故であったのです。

 さらに「島の南三里ほどの沖の鯛が島」は鯛が多く集まるところである、とあって、崋山が、「立網」漁をするところは「四人乗なる船に積て三里ばかり沖にこぎ出で、よひのほどにかけおき、翌朝まだきにこぎ行て捕るとぞ」と記していることと重なっています。

 鯛を捕る漁場(「鯛が島」)が、島の南三里ほど沖合にあり、そこで鯛が大量に獲れたために、翌日島の男たちがみんな鯛漁に出掛けていったところ、「トウリンボウ」と呼ばれる強い西風が吹いて、121人が遭難死するという大海難事故が発生したのです。

 崋山が「亀島(神島のこと)、鯛、アハビ、上産也」と記しているように、鯛とアワビは、この島の主要特産物であり、重要な現金収入源であったのですが、もし天気や風を見誤れば大変な海難事故へと直結したのであり、当時少年であった又左衛門や又右衛門にとっても、近親者や知り合いに多数の犠牲者が出たたいへん痛ましい事故であったでしょう。

 

 終わり

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」

・『郷土志摩 No44 神島特集号』



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