鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その3

2014-03-28 05:03:24 | Weblog
瀬田村の大山街道沿いには民家がところどころにあり、その門先の道端には小さな器に盛られた茹で栗が無人で売られていました。値は一盛四文。先に買った人が置いていった銭も置いてあるけれども、往来の人々も稀であるということもあるが、その人たちに盗もうという気持ちがないばかりか、付近で遊ぶ村の子どもたちも取ろうという気持ちがさらさらない。江戸の人たちのならわしと較べてみると、まだまだ純朴さが残っているように見える、と嘉陵は記しています。おそらく街道沿いの農家の屋敷地は広く、そこには庭木など樹木が繁っていたものと思われますが、その中に栗や柿の木なども植えられていたのでしょう。季節ともなれば栗の実が実り、また柿が数珠なりになったのです。嘉陵が歩いたのは9月3日(陰暦)。庭に落ちた多数のいが栗を拾って、中身を取り出して鍋で茹で、その茹でたのを器に盛って道端に置いてあったのです。農家にとっては、ちょっとした小遣い稼ぎであったでしょう。無人で農作物が売られているということは現在もあり、箱の中に買った分だけお金を入れるようになっています。嘉陵の記述から判断すると、棚か何かに器に盛られた栗が並べられ、代金はむき出しで棚の上の皿か何かに置かれてあったようです。お金がむき出しに置かれているのに、旅人も村の子どももそれを取るものがなく、そのままに置かれていることに嘉陵は感動を覚え、わざわざ日記に記したのです。崋山がこのあたりを歩いたのはそれから17日後。同じように、このあたりの街道筋の農家の門先には、小さな器に盛られた茹で栗が並べられていたのかも知れません。 . . . 本文を読む

2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その2

2014-03-27 06:14:50 | Weblog
嘉陵は池の尻村の常光院(日蓮宗)というお寺の前を通り、世田谷三軒屋に至ります。ここには茶屋が3軒あり、「三戸ともに酒飯をあきもの」としていました。この3軒の茶屋は、「田中屋」・「信楽(石橋楼)」・「角屋」という名前でした。この三軒茶屋より西北に行けば世田谷宿新町へと至り、西南に折れて行けば「二子道」。『ホントに歩く 大山街道』によれば、三軒茶屋から二子玉川へ行くには大きく二つのルートがあり、一つは「新町・行善寺線」であり、一つは「上町・慈眼寺線」。大山街道は、もとは「上町・慈眼寺線」のルートを通っていたが、後に「新町・行善寺線」の近道ルートが開かれ、このルートが大山街道の本道になったという。嘉陵の言う「二子道」というのは、この本道となった「新町・行善寺線」のことをさしているものと思われます。その「二子道」をしばらく行くと用賀村があり、さらに進んで田んぼが一面に広がっているところより先が瀬田村でした。楢柴などが生い茂っている道を進んで行けば、ところどころに民家があり、それぞれの家の門先には、小さな器にゆでた栗を盛って売っている無人の売店がありました。嘉陵が、その一盛の値段はいかほどかと見てみると「銭四文」でした。現在の用賀三丁目の田中橋は谷沢川に架かる大山街道の橋であり、かつては両側が田んぼであったため「田中橋」と呼ばれていたという。天保の頃の、田中橋の付近や瀬田村のあたりは田んぼが一面に広がり、街道沿いの民家では秋ともなれば落栗を茹でて門先に無人で売っていたことが、嘉陵の記述からわかります。 . . . 本文を読む

2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その1

2014-03-26 05:58:49 | Weblog
先月は赤坂御門から三軒茶屋までを歩きました。目黒川に架かる大橋のところで目黒川に沿って歩き、目黒新富士の跡地である「別所坂児童遊園」を訪れたことにより、下渋谷村の羽沢の別邸に住んでいた松崎慊堂と三田村鎗ヶ崎に別邸を持っていた近藤重蔵との関係、その近藤家の邸内に築かれた「富士塚」(目黒新富士)とそれに関わる人々(富士講徒)や「岳台の変」について深入りすることになりました。赤坂から三軒茶屋までの大山街道筋の景観については、村尾嘉陵『江戸近郊道しるべ』の「瀬田村行禅寺・奥沢村九品仏 道しるべ」(天保2年9月3日)によりました。崋山が『游相日記』の旅に出立したのは天保2年9月20日のこと。嘉陵が瀬田村の行善寺を訪ねた日から17日後のことでした。この出立の日である9月20日の天気は、『慊堂日暦』によると「陰」、すなわち曇り。21日以後は26日まで「晴」が続きました。崋山の道中は、二日目以後はずっと秋晴れの天気が続いたものと思われます。今回は三軒茶屋を出発して、かつての瀬田村行善寺に立ち寄り、多摩川を二子橋で渡って、二子・溝口(みぞのくち)・梶ヶ谷を経て鷺沼(さぎぬま)まで歩き、鷺沼駅から東急田園都市線を利用して帰途に就きました。携帯したのは『ホントに歩く 大山街道』中平龍二郎(風人社)。この本のルート図がなければ、かつての大山街道に沿って歩くのはなかなか困難であることを実際に歩いてみて実感しました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

松崎慊堂(こうどう)と近藤重蔵のこと  その最終回

2014-03-25 06:08:58 | Weblog
七回目は、前々回、前回に引き続き「箱根」入湯の旅。箱根入湯がよほど気に入ったようだ。期間は天保5年(1834)3月20日~4月7日。行程は、江戸→小田原→宮下温泉→芦之湯→箱根温泉→三島→箱根→小田原→江戸というもの。八回目も「箱根」入湯の旅。期間は、天保10年8月28日~9月13日。行程は、江戸→小田原→箱根元湯→塔ノ沢→大平台→宮下温泉→湯本台→箱根→小田原→江戸。宮下温泉はよほど気に入ったようで、五回目から八回目まで、宮下温泉には必ず宿泊しており、しかも「藤屋」(藤屋勘右衛門)を定宿としています。九回目は、内房総「富津」の旅。期間は天保12年6月5日~6月22日。行程は、江戸橋→木更津→人見→小糸川→富津陣屋→備場→品川→江戸。内房総における江戸防衛のための陣屋見学が主眼であったと思われる。かつてこの富津(ふっつ)陣屋の近くには「白川侯」すなわち白河藩主松平定信がこの地を領した時に設けた「竹ヶ岡陣屋」がありました。江戸橋から木更津までは、いわゆる「木更津船」を利用しています。十回目は、文政10年(1827年)の時と同じく、下総「佐倉」への旅。期間は天保13年(1842年)5月23日~6月7日。行程は、千住→中川→市川→八幡→船橋→大和田→白井→佐倉→印旛沼→佐倉→検見川→船橋→行徳→小網町というもの。帰途においては、かの「行徳船」を利用しています。そしてこれが最後の慊堂の旅となる。慊堂は肥後国益城郡木倉(きのくら)村生まれ。そこから江戸に出てくる長途の旅があったし、また『定信と庭園』によれば、文政元年(1818年)の夏に広瀬蒙斎を訪ねて白河城下に至り、鏡沼村庄屋常松仲遷(菊畦)や須賀川北町庄屋吉田長美らと「南湖」に遊び、舟を浮かべて涼をとりながら酒を酌み交わしています。白河よりさらに北の彼が赴いたことのない地域、特に蝦夷地など「北辺」のことについては、慊堂は近藤重蔵から詳しく聞いたのではないか。 . . . 本文を読む

松崎慊堂(こうどう)と近藤重蔵のこと  その3

2014-03-23 06:49:24 | Weblog
『慊堂日暦』に出て来る最初の長期の旅は、「南豆湯野」の旅。つまり南伊豆の湯ケ野温泉への旅。期間は文政7年(1824年)6月21日~8月9日。行程は、江戸→金川(神奈川)→浦賀→伊豆南端→松崎→湯ケ野→下田→松崎→沼津→箱根→戸塚→江戸、というもの。船を利用して伊豆半島を海から回っています。次が遠州「掛川」(掛川藩太田家の城下町)への旅。期間は文政9年(1826年)9月6日~10月6日。行程は、江戸→小田原→箱根→掛川→原→箱根→大磯→江戸。三つ目が下総「佐倉」(佐倉藩堀田家の城下町)への旅。期間は文政10年(1827年)10月27日~11月8日。行程は、小網町→行徳→船橋→大和田→白井→佐倉→印旛沼→佐倉→千葉→江戸。小網町からは、崋山の「四州真景」の旅と同じく行徳船を利用しています。四つ目が「上方」(大坂・京都・奈良)の旅行。期間は文政12年(1829年)3月9日~10月25日で大変長く、半ば公務旅行とも言うべきもの。行程は、江戸→掛川→伏見→大坂→奈良→飛鳥→奈良→大坂→京都→木曽福島→下諏訪→甲府→高尾山→八王子→府中→江戸というもので、帰りは中山道(木曽路)と甲州街道を利用しています。5つ目が「箱根温泉」の旅。期間は天保2年(1831年)5月9日~5月22日。行程は、江戸→小田原→宮下温泉→木賀温泉→三島→沼津→原→沼津→箱根→小田原→江戸。6つ目が、「箱根・修善寺・湯河原」の旅で、やはり温泉巡り。期間は天保4年(1833年)6月2日~6月19日。行程は、江戸→宮下温泉→堂島温泉→修善寺温泉→熱海温泉→湯河原温泉→小田原→江戸というものでした。 . . . 本文を読む

松崎慊堂(こうどう)と近藤重蔵のこと  その2

2014-03-21 05:43:50 | Weblog
松崎慊堂(こうどう)は意外と旅好きな人である。「意外と」というのは儒学者というのは学問に励んでいて旅に出掛ける暇などないだろうという私なりの思い込みがあるからであって、実はそうでない人もいたのだということを『慊堂日暦』を読んで知ったことは収穫でした。驚いたのは慊堂は、富士山の頂上に登ったこともあるということ。江戸時代において富士山に登る人の多くは信仰関係者であり、富士講の人々や修験道関係の人々が中心でした。そうでない人々にとっては、富士山は遙拝の対象であっても「物見遊山」的に登る山ではありませんでした。慊堂は富士講の講員ではもちろんありません。修験道とも関わりはない。彼は昌平黌に学んだ朱子学者であり、佐藤一斎とともに「林門」(大学頭である林家)の双璧と称されるほどの優秀な儒学者でした。慊堂は遠州掛川藩に招かれて侍読(じどく・君主に侍して学問を講義する人)となりました。掛川藩の侍読となったということは掛川藩士になったということであり、江戸においては西城前(今の皇居前広場西部)の大名小路の一画にある掛川藩上屋敷の長屋に居住していました。しかし文化12年(1815年)、45歳の時に慊堂は隠居して、渋谷村の羽沢という地の別邸に住まうようになり、そこで若い塾生を教えたり、いくつかの大名家に講義に出掛けたりして過ごすようになりました。その別邸が「羽沢山房」とか「石経山房」と呼ばれたのです。では、慊堂はいつ富士山に登ったのか。それがわかるのが文政9年(1826年)「七月六日」の記事。この日、慊堂は稲川玄度が死んだことを知って稲川宅を訪れますが、すでにお棺は荼毘(だび)所へと向かってしまっていました。富士登山が出てくるのは、その日の「稲川玄度卒(しゅつ)す」という文章の中。それによると登った年は「丙子の年」。それは文化13年(1816年)のことであり、その年慊堂は46歳。隠居した年の翌年ということになる。出発したのは7月4日(陰暦)。同行者は稲村玄度。7月7日に登山を開始し、雨を石室に避けること二昼夜、ついに頂上に達して「天下を小なり」となして玄度と一緒に酒を飲み、富士山で別れたのが7月9日のことでした。慊堂は富士山を見れば、その登頂のことと、同行した稲村玄度のことを思いだしたに違いない。その富士登山以外にも慊堂はいろいろなところを旅しています。 . . . 本文を読む

松崎慊堂(こうどう)と近藤重蔵のこと  その1

2014-03-19 05:16:48 | Weblog
松崎慊堂(こうどう・1771~1844)という儒学者を知ったのは崋山との関わりからであり、東洋文庫(平凡社)に『慊堂日暦1~6』があって、それを読んで見たいと思って、ある時、古本屋でその1と3があるのを見つけて購入したのはずいぶん前のことになります。しかしずっとそのままになっていたのが、崋山にふたたび深入りするようになって、全巻をそろえたいと思い立ち、それをネットの古本屋を利用して購入したのは今年の1月のことでした。松崎慊堂については、杉浦明平氏が『化政・天保の文人』(NHKブックス/日本放送出版協会)で「文人」の一人として取り上げており、それによっても慊堂の豊かな交際範囲や人となりのあらましを知ることができました。2月の取材旅行で目黒川沿いを歩き、「目黒新富士」跡地を訪れたことで、慊堂と近藤重蔵(1771~1829)および近藤家との関わりについて興味・関心を持つようになり、あらためて『化政・天保の文人』を読み直し、また全巻揃った『慊堂日暦』に目を通すことになりました。慊堂と重蔵(近藤家)の関係は、果たしてどのようなものであったのか、その2書を中心にまとめてみます。 . . . 本文を読む

2014.2月取材旅行「永田町~目黒川~三軒茶屋」 その最終回

2014-03-18 06:07:32 | Weblog
『復元 江戸情報地図』の「駒ヶ原御用屋敷」の解説によると、この「御用屋敷」とは「鷹狩」の目黒方面を管轄する「鳥見役所」の所在地のこと。『めぐろの文化財 増補改訂版』(目黒区教育委員会)によると、八代将軍吉宗の時、「目黒筋」の駒場原の16万坪が将軍家の鷹狩の場として接収され、そこには、鷹狩のための御用屋敷・御薬園・御膳所などが設けられ、鳥見役・綱差役などの役人が置かれたという。御膳所とは、鷹狩の時の御膳(食事)を提供する家であり、上目黒村の名主加藤家、中目黒村の鏑木家がそうであったとのこと。鷹狩が行われる場所は「御鷹場」「御拳場(おこぶしば)」「御留場(おとめば)」などと言い、周辺の村々は鷹場の御場拵、鶉(うずら)改め、ケラ取り(虫取り)などの仕事があったという。「種蒔き権兵衛」という名前が出てきますが、これは近くにある「寿福寺」についての解説によると、目黒俗謡「ゴンベが種蒔きゃカラスがほじくる……ズンベラズンベラ」で知られた駒場の農民権兵衛のことであり、この権兵衛は将軍遊猟の際に獲物を用意する「綱差役」であったとのこと。寛延2年(1749年)に亡くなっており、そのお墓が寿福寺にあるとのこと。新富士の近くにあった茶屋坂は、富士山の眺めが大変よいところで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂であり、その坂上にあった茶屋(爺々が茶屋〔しじがちゃや〕)には、将軍が鷹狩にやって来た際に(「目黒筋御成」)立ち寄るのが慣例であったことなどを考え併せると、目黒村一帯は幕府の「御鷹場」であったことがわかります。広重の「目黒元富士」や「目黒新富士」、「目黒爺々が茶屋」などに描かれる台地(淀橋台地)下の田園や樹林地帯は、幕府(将軍家)の「御鷹場」でもあったことになります。 . . . 本文を読む

2014.2月取材旅行「永田町~目黒川~三軒茶屋」 その16

2014-03-17 06:03:59 | Weblog
村尾嘉陵(源右衛門)の『江戸近郊道しるべ』に戻ります。三田用水に架かる小橋を渡ってまもなく大坂を下った嘉陵は、民家が建ち並ぶ中目黒村へと入ります。街道の右側に松や杉が生い茂る木立があり、その木立を上へと延びていく石段があったので、それを上ってみると、30段上がったところに中段があり、そこからまた27段上がったところに拝殿と本社がありました。たいへん粗末で参拝する人が少ない様子もかえって尊い感じがした、と嘉陵は記しています。中段に石鳥居があって、額には「氷川社」とある。やや小高いところにある社であるけれども、麓近くの民家があるところの向こうには木立があって眺望を妨げています。石段の下には石標があり、「古萱刈庄目黒村」と刻まれていました。この社の西隣にあって、山道を隔てて垣根が結い回されているところは御用屋敷。行き果てたところに川があって柴橋が渡されていますが、ここが村境。川の流れを堰き止めて水車を設けた家が、左手に見えました。その柴橋を渡ればそこは池の尻村。常光院という日蓮宗のお寺があり、今日は説法があるというので人々が多く参集していました。そこからしばらく歩いて、嘉陵は三軒茶屋に至っています。嘉陵は私と同じように街道右手にあった氷川社に立ち寄り、私とは異なって大山街道からすぐに長い石段を上っています。大山街道がその後拡張されたことによって石段も改修され、その傾斜は急になりましたが、嘉陵が立ち寄った時の石段はもう少しゆるやかであったでしょう。社前からの眺望は、集落の向こうに木立があってあまり効かなかったようです。高台にあるからかつては眺望が効いたのでは、と私は思いましたが、嘉陵の時も見晴らしが効かなかったことがわかります。氷川社の西隣にある御用屋敷とは、『復元江戸情報地図』を見ると「駒ヶ原御用屋敷」とあり、その解説には以下のように記されていました。「鷹狩は八代将軍吉宗から再開する。これはその目黒方面を管轄した鳥見役所の所在地で、一六万坪の原野叢林を利用し、調練遊楽を兼ねて催した。住民は獲物が不足しないよう、あらかじめ捕らえて飼養しなければならなかった。種蒔き権兵衛はその準備をする役で、放鷹を見計らいアワビ貝に伏せたウズラや傷つけたキジを放す仕組みになっていた。」左手に水車がある家があったという「柴橋」とは、目黒川に架かる「大橋」であったでしょう。 . . . 本文を読む

2014.2月取材旅行「永田町~目黒川~三軒茶屋」 その15

2014-03-16 06:51:42 | Weblog
近藤重蔵が描かせたという『鎗崎富士山眺望之図』は、東京大学史料編纂所が所蔵しているものだという。誰が描いたのかは、『富士山文化』の該当の部分を読む限りではわかりません。かなり「真景図」的に描かれており、新富士の斜面に生えている一本松(これは広重の「目黒新富士」にも描かれています)や、新富士の背後の平坦な台地、また新富士の前を流れている三田用水から落下している滝、台地下に広がる田んぼや畦道などが丁寧に描かれています。しかし、右手遠方に富士山が描かれているのですが、実際にこのような構図は成り立つのだろうか。南西方向に富士山が見えるはずだから、このような構図であれば新富士の下の田んぼには目黒川が左右に流れていなければならないはずなのに、目黒川は描かれていません。またこのような構図が成り立つためには、新富士と元富士との間に、かなり台地へと食い込んだ谷戸(やと)があって、そこにかなり広い田んぼがなくてはならないのですが、『復元 江戸情報地図』を見てみても、淀橋台地辺縁部を流れる三田用水は台地の内側へと食い込んではおらず、このような構図は成り立たないことがわかります。「真景図」的でありながら、実際の眺めではないことになります。ということは、これを描かせた近藤重蔵の意図としては、新富士と実際の富士山を一つの画面に入れて、並列させることにあったと言えるでしょう。重蔵は、新富士の位置する場所を示すとともに、その新富士から田園越しに美しい富士山を遠望することができることを強調したかったのです。 . . . 本文を読む

2014.2月取材旅行「永田町~目黒川~三軒茶屋」 その14

2014-03-14 06:07:12 | Weblog
「富士塚と胎内洞穴─目黒新富士遺跡をめぐって─」(平野榮次)によれば、富蔵の言い分は以下のようでした。半之助が積年の恩を忘れるような態度に出たため、近藤家は門を閉鎖する計画に出たが、半之助は、富士山(富士塚)への参詣順路が変わるため商売(手打ち蕎麦屋)に影響すると考えて、地境の争論を持ち出した。文政8年(1825年)の5月23日(陰暦)、重蔵が地境確認のため本邸からこの山(富士塚)にやって来ることを聞いた半之助は、24~25名ほどの徒党を集めて威力妨害をしようとした。このようなことから翌年5月の刃傷沙汰が発生した、というもの(『槍丘実録』)。「江戸富士の庭園的考察─目黒富士の銘々について」(平山勝蔵)によれば、目黒新富士の工事は2回にわたって行われているという。第1回は、文政2年(1819年)の4月頃に着工し6月に完成を見たもの。第2回は、文政9年(1826年)の早春より始まったもので、別所坂上に表門を設け、別所坂下に木戸門を設けるとともに、表門を入った右手のところに家を建て増しして庭を設けたのだという。工事の監督は全て富蔵がやったものであるようです。富士塚は近藤家の別邸の敷地内にあるから、表門と木戸門を設けたということは自由に富士塚へ行けなくなったということであり、また蕎麦屋がある半之助の敷地と近藤家の敷地との間に大木を植え並べて垣根としたということは、半之助の蕎麦屋の座敷から富士塚が見えないようにしたということ。門を閉鎖するということは、富士塚に自由に登れないということであり、地境に垣根を作るということは富士塚が見えなくなるということ。この2つの近藤家の行為は、富士塚を造るために立ち働いた富士講の人々にとっては迷惑千万のことであり、また参詣者や見物人相手に蕎麦屋を始めた半之助にとっては致命的なことであったでしょう。重蔵の地境確認に威力妨害をしようとしたのは文政8年(1825年)5月23日であり、「嶽台の変」が発生したのは翌文政9年(1826年)の5月18日のことでした。いずれも6月1日の「山開き」の直前のことであり、富士講においては「山開き」ともなるとたくさんの江戸市中の人々(老若男女)が近くの富士塚に登り、参詣や遙拝(ようはい:実物の富士山を眺め拝むこと)をすることになっていたのですが、富蔵は、そのような富士講の人々の「新富士」登山を阻止しようとしたのです。 . . . 本文を読む

2014.2月取材旅行「永田町~目黒川~三軒茶屋」 その13

2014-03-13 06:08:41 | Weblog
半之助が垣根の撤去を強く催促したところ、近藤は、「こちらには人手がないから、その方で勝手次第に取り払うように」と答えたので、半之助は承知し、「では明日取り払うことにしたい」と断った上で、日雇い人足を頼んでおよそ半分ほども垣根の大木を取り払っていったところ、「重蔵」(実は富蔵:以下富蔵と訂正)が家来を引き連れて駆けてきて、「我が屋敷の垣根を理不尽に取り払うのは不届き千万である」として、後ろから抜き打ちに日雇いと半之助を斬り殺し、さらに自宅の押入れへと逃げ込んだ半之助の息子を追いかけて、押入れの外から突き殺そうとしたので、「半九郎妻」(実は半之助の息子の妻)が子どもを背負いながら止めようとしたため振り返って子どもと一緒に斬り殺し、それから押入れに逃げ込んだ息子も突き殺してしまう。ということは都合5人を殺害したことになる。ここでは、日雇い・半之助・その息子・息子の妻・その子どもと合わせて5人が殺されたことになっているが、近藤と親しかった松崎慊堂の『慊堂日暦』によると、殺されたのは半之助(歳59)、その妻(58)、子林太郎(29)、その妻(29)、忠兵衛(25)の5人。この「忠兵衛」というのが日雇い人足だろうか。斬り殺した後、富蔵は、「私の抱屋敷において百姓の身分にもかかわらず理不尽に垣根の大木を掘り起こしたので手討ちにした」と届けを出したという。このことについては、近藤重蔵が百姓半之助に対して積年の思いがあったため、富安九八郎という者へ「どうしたらよいものか」と相談したところ、「それは簡単なことである。慮外者なりとして残らず斬り殺した上で、届けをすれば済んでしまうことだ」と手に取るように教えたことにより、この凶行に及んだのだという。この事件については、その年10月6日(陰暦)に判決が下されました。富蔵(24)は遠島(八丈島)、重蔵はお預け(分部左京亮)、近藤家の家来高井庄五郎(33)は江戸十里四方追放、同奥住伊三郎(45)は急度叱り、重蔵の菩提寺である一向宗駒込の西善寺の僧了雄(41)は脱衣追放、百姓半之助の召使金次郎(21)は手鎖、半之助の日雇文蔵(53)は急度叱り、また重蔵の三男吉蔵(5)と同四男熊蔵(3)は、改易となり、15歳になるまで親類預け。以上が評定所より申し渡された内容。この事件については富蔵も、流罪後に『槍丘実録』として近藤家側から記しているという。 . . . 本文を読む

2014.2月取材旅行「永田町~目黒川~三軒茶屋」 その12

2014-03-12 06:32:43 | Weblog
目黒新富士が完成したのは文政2年(1819年)の6月(陰暦)。この山頂からは富士山や大山はもちろんのこと品川沖の見晴らしも絶景であったことから、見物人は引きも切らず、それのため半之助は手打ち蕎麦の店を始めたのですが、その蕎麦屋も大評判となり店は大繁盛。富士参詣の人々もたくさん集まり、蕎麦屋も繁盛したので、半之助もそして中目黒の「山正広講」(富士講)の人々も大喜びであったのです。近藤重蔵もそのことを良いことだと思い、毎日知り合いを招いてその新富士を見物させ、あとは半之助の蕎麦屋で蕎麦や酒を振る舞って客人をもてなしたのですが、代金は一銭も払わない。それが毎日のことであるから半之助も愛想をつかし、これではいくら商いをしても近藤の客によって無賃で飲食されては稼ぎにならないと思うようになり、近藤に出会ってもろくろく挨拶もしないようになりました。このことに対し近藤は大いに立腹。自分が新富士を築造したことにより半之助の商いが繁盛するようになったにも関わらず、自分を疎略にするような態度は許せない。目に物を見せてやろう、と半之助の蕎麦屋の座敷の前に大木を植え並べて新富士が見えないようにしたところ、蕎麦屋には客が来ないようになってしまったため、半之助はこれを心外であると思うようになりました。もともと自分の屋敷地を近藤へ分け与え、我ら富士講の労力によって新富士をこしらえたのに、土地をとられ新富士もとられ、そして敷地の境界に大木が植えられて垣根となし、参詣も出来ないようにされたのは余りに残念であると思い、支配御代官の中村八太夫に訴えることにしました。しかし相手は旗本であるためすぐには埒(らち)があかず、その訴訟は一ヶ年ほどもかかることになりました。そのため近藤の方でも工夫をめぐらし、垣根の大木を取り払うということにして、人を介して半之助に訴訟を取り下げさせることにしたのだが、その後、近藤の方ではいっこうにその垣根を取り払おうという動きがない。そこで半之助は、近藤に垣根の撤去を強く催促することになりました。 . . . 本文を読む

2014.2月取材旅行「永田町~目黒川~三軒茶屋」 その11

2014-03-10 06:03:30 | Weblog
『藤岡屋日記』の事件に関する記述はきわめて詳しい。どのようにそれに関する情報を集めたのかと思うほど。しかも須藤由蔵は、外神田の御成道(おなりみち)で露天の古本屋を営む一介の町人に過ぎない。彼の記述は、新富士を造るきっかけから始まります。下渋谷村に半九郎(実は「半之助」・以下「半之助」に訂正:鮎川)という百姓がいて、その者は山正広講という富士講の信者であったが、ある時講中の者が大勢半之助の家に集まって話をした時に、ここは地理的にもいいし、見晴らしの名所でもあるから、ここに富士塚を造ったならば参詣する人も多くなり、ひいては講中も多くなるに違いないと、みんなが勧めたので、半之助も確かにその通りだと思ったものの、百姓身分では新富士造立の申請はなかなか困難であり、旗本から申請すればすぐに許可が下りるだろうと考えた。幸いに近藤重蔵と親しい者がいたので、その者を通して近藤に頼み込んでみたところ、近藤はすくに承知し、半之助の土地の一部を自分の抱屋敷(かかえやしき=別邸)としたいが、それに伴って敷地内の残土を一ヶ所に集めたいと支配筋へ届け出たところ、すぐに許可がおりたのだという。これが新富士が造られるに至った経緯。 「地理的にいい」とは、江戸市中から麻布を経て目黒へ抜ける最短距離の道である祐天寺道がそばを走っていることや、また台地上(「淀橋台地」)のへりに位置するということであったと思われます。台地を下る別所坂はその祐天寺道の一部でした。須藤由蔵は、富士講の枝講の一つである山正広講におけるそのような話し合いの内容をかなり詳しく把握しています。「幸に近藤重蔵へ心易く出入の者」がいてその者から近藤に頼んだというが、それは一体誰であったのか。『郷土目黒』(目黒区郷土研究会)の第十二集に収録されている「江戸富士の庭園的考察-目黒富士の銘々について-」(平山勝蔵)によれば、「工事を斡旋したのは富士山北口の御師中雁丸由太夫」であったとのこと。この御師は重蔵の信任が厚く、山開きに際しては祭主を務めた人でもあるという。可能性としては、この富士吉田の御師(おし)であるとも考えられる。百姓身分の者が申請してもなかなか事は進まないだろうから、豪腕で有名な御旗本、近藤重蔵に頼めばすぐに許可が下りるだろうと考えたのです。おそらく半之助が考えたというより、中目黒村の山正広講が考えたものと思われます。 . . . 本文を読む

2014.2月取材旅行「永田町~目黒川~三軒茶屋」 その10

2014-03-09 06:17:44 | Weblog
初めて訪れてから5年後の目黒新富士はどうなっていたか。文政8年(1825年)の7月15日(陰暦)、目黒不動や祐天寺に詣でた帰途、嘉陵は目黒富士に立ち寄りました。その麓には家が出来ていて、蕎麦(そば)が売られていました。つまり見物客を当て込んだ蕎麦屋ができていたのです。嘉陵は、蕎麦屋の垣根を結っている男に声を掛けました。「近頃、近藤重蔵が上方から帰ってきて、ここにしばらく住んでいていばりちらしているという噂を耳にしたが、最近はどうなのか」。するとその男は、「時々ここにも来るけれども、今はとても貧乏である。しかしいばりちらすことは昔と変わらない。とてもうるさくて困る」と答えました。重蔵が建てた標柱を見ると、その頂きに据え付けてあった鶴の金属像は落ちて無くなってしまっていました。千年生きるという鶴にかけた願いにも関わらず、重蔵はわずか数年で上方から戻ってきて、その鶴の像も無くなってしまっている。今となっては子供じみたたわむれであったといおうか、それともばかげた試みであったといおうかと記す嘉陵は重蔵に対してきわめて冷ややかです。5年前には、富士塚の傍らに立てられていた標柱には一羽の鶴の金属像が据え付けられ、それには「近藤正斎先達白日昇天之所」と刻まれていたのですが、その鶴は無くなり、麓には大勢やってくる見物客相手に蕎麦を売る家が出来ていました。そしてその家には垣根が結われているところでしたが、垣根を結う男も、重蔵に対していい感じは持っていない。この翌年である文政9年(1826年)5月18日(陰暦)、重蔵の長子富蔵が、新富士の傍らで蕎麦屋を営んでいた半之助一家を斬り殺すという事件が発生します。それへと至る近藤家と半之助(塚越半之助)一家、両者の間の険悪になってしまった雰囲気が、嘉陵の文章からもほの見えています。この鎗ヶ崎の殺傷事件について詳しく記すのは、外神田御成道(おなりみち)で露天の古本屋を営んでいた須藤由蔵という者が記した『藤岡屋日記』。私はそれを『江戸巷談 藤岡屋ばなし』鈴木棠蔵(三一書房)という本で知りました。前に見た杉浦明平さんの『化政・天保の文人』のこの事件についての記述は、この『藤岡屋日記』に全面的に拠っているようです。しかし実際に現場で事件を起こしたのは重蔵の長子富蔵であるのは確かであり、重蔵自身が半之助一家を殺したというのは間違いだと思われます。 . . . 本文を読む