「万照山」は浄土真宗のお寺で、相川で最奥の寺であるといい、山門は佐渡奉行所の裏門と伝えられているとのこと。
この山門が佐渡奉行所の裏門であるとすれば、江戸期の佐渡奉行所の唯一の遺構ということになります。
また本堂裏には流人大岡源三郎父子の墓があるともありました。
先ほどの大工町から右手へと下っていくと「寺町ルート」があることが「新五郎町」の案内マップでわかりましたが、相川町が全国各地から集まって来た人々によって人口5万とも10万とも言われる人口密集地(江戸初期に長崎の人口は2万人)に急成長したことを考えれば、移住者によっていろいろな宗派のお寺が作られたであろうことが推測されます。
そしてこのあたりに住む「大工」(金穿り人足=鉱山労働者)には浄土真宗の人々が多くいたものと思われました。。
「万照寺」があるところは「諏訪町」と言い、地名標示には「信州諏訪の人が開発した」とありました。
もともとは信州諏訪からやって移住して来た人たちが、この地を居住地として切りひらいたものであるようです。
周辺には人家の基礎と思われる石垣の区画が残っていることから、かつてはこの界隈にも多くの人家が密集していたものと思われました。
注目されたのは「坑夫人夫供養塔」と「大工町出征戦没者慰霊碑」が立っていたこと。
「坑夫人夫供養塔」にはその側面に「明治廿九年三月十一日建立 施主宮下範吉」と刻まれており、明治29年(1896年)に建立されたものであることがわかります。
「大工町出征戦没者慰霊碑」は、黒御影石の比較的新しい立派なもので、そばに立つ「英霊碑」には5人の戦没者の名前と戦没年月日、戦没地が刻まれていました。
25歳から32歳までの5人。
昭和13年から昭和19年にかけて亡くなり、戦没地はそれぞれ「中支部」「印度」「中支部」「ソロモン島」「北海道」となっています。
アジア太平洋戦争の戦没兵士のお墓や慰霊碑は、それこそ全国津々浦々のお寺や神社、墓地に見られるものですが、相川町の「大工町」にも出征兵士がいて、遠く離れた異国の地などで亡くなった青年兵士たちがいたことがこの慰霊碑でわかりました。
「無宿人供養塔」への入口はここから少し道を戻ったところの左手にあり、そこで「京町通り」から左へと折れて奥へと続く脇道に入っていきました。
続く
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