鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その1

2015-04-13 06:09:42 | Weblog

 先ほどの「『潮騒』の舞台」の案内パネルには、「八代神社」は、「伊勢湾を航行する船乗りたちに古くから崇敬されている海の神様『綿津見命(わだつみのみこと)』が祀られて」いるとありました。

 「洗濯場」は、「神島に水道が通るようになった昭和54年以前、島にとって水はとても貴重なもので、海女や島の女性たちは天秤棒を担ぎ、ここを流れる表流水を利用して洗濯をしていました」とありました。

 表通りに出ると、「捍海塘碑」があり、また建物の壁に「ここの地面は 海抜約5m 鳥羽市」と記された、田原市が設置しているのと似た標示が貼られていました。

 また「津波避難場所」として「神島保育所グランド→ 八代神社社務所前広場→」と記された黄色い標示もあり、津波対策がここでもなされていることを知りました。

 「神島灯台→ 近畿自然歩道」と記された案内標示に従って、密集する家と家との間の狭い路地を入って行くと、まもなくレトロな時計塔が張り出ていて、現在は使われていない六角形の井戸(煉瓦積)が左手にある四つ角に差し掛かりました。

 右側の下に小川が流れており、一部川の流れが注ぎ込む岩の窪地になっています。これが「洗濯場」。

 この上から流れ落ちてくる小川の水が、この神島集落の生命線であったでしょう。

 狭い通りはこの小川に沿って上へと続いており、その通りの両側に人家が密集しています。

 その坂道を上がって行くと、「近畿自然歩道」マップが現れ、現在地が赤文字で示されています。

 「←八代神社」の案内標示と「ここの地面は 海抜 約21m 鳥羽市」の例の標示。

 それに従って道を左折すると、「八代神社」の石製常夜燈があり、そこから上へと長い石段が延びていました。

 案内板によると、明治40年(1907年)に境内社山神社、神明社ほか十一社を合祀して八代神社となったとのこと。

 国の重要文化財になっている「鉄獅噛文金銅像嵌鍬形」や「画文帯神獣鏡」などが保存されており、数々の祭祀儀礼が行われていたことを物語っている、とも記されていました。

 毎年元旦未明に、奇祭ゲーター祭りが行われることでも有名であるとのこと。

 灯明山(とおめやま)の急な斜面に造られたまっすぐ上へと延びる石段を登って、八代神社へと向かいました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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