鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島から佐久島まで-その2

2015-04-26 06:05:38 | Weblog
神島において、又右衛門に案内されて灯明山(とうめやま)に登っていく途中で、崋山の詳しいそれまでの記述がなぜ中断されてしまったのかはわからない。また翌日、畠村を出立した記述から始まって古田村から船に乗って佐久島へと向かう途中で崋山の記述は中断し、佐久島での見聞の詳しい記述はなく、それ以後吉良村に上陸して田原に帰着するまでの詳しい記述もありません。見聞をメモ書きしたものと途中でスケッチした絵があるばかりです。崋山は、この旅は、「御系譜」と「巣鴨老公」の「三河志」の「御用」を兼ねた旅であると日記の冒頭に記しています。「御系譜」とは「三宅家系譜」であり、その三宅家系譜のための調査であるということですが、これは『毛武游記』の旅や『游相日記』の旅と共通するものでした。「巣鴨老公」とは田原藩11代藩主三宅康友の世子友信のことであり、巣鴨の田原藩下屋敷に隠居する身でしたが、「老公」と言われながらも当時28歳の若さ。『三河志』をまとめたいという意志を持っていて、崋山にそのための現地取材を依頼したのでしょう。崋山としては、この旅を利用して田原藩の領地やその周辺海域などをしっかり見ておきたいという意識があったでしょう。「佐久島」訪問の後は、「岡崎より吉田、豊川、鳳来寺などへも」行こうと考えていたようですが、崋山の旅は藤川宿から東海道に入り、吉田(豊橋)経由で田原へと帰るというかたちで終わっており、旅先のメモをしっかりとまとめる(神島までのように)余裕がなく、旅は何かの理由であわただしく終えられた気配があります。「国府村大社明神」や「長徳(福)寺」がメモ書きで出てきますが、崋山は岡崎や豊川方面には足を向けてはいないようです。「送二川俊三返雪吹礼介ヲ訪」というメモ書きもあり、東海道二川宿まで鈴木春三を送り、帰りに「雪吹礼介」を訪ねたようですが、これがいつのことであったのかはわからない。そして「廿五日、六時」に田原を出立して江戸へと向かっています。旅の途中で何らかの理由で急ぐ用事が出来て田原へと急いで戻り、その後江戸へと向かうまであたふたと崋山は過ごしたようなのですが、その理由や事情は何であったのか興味のあるところであるけれども、確かめることはできません。 . . . 本文を読む