鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

小見川と黒部川 その1

2011-10-31 05:43:41 | Weblog
香取市内に小見川(おみがわ)というのがあって、JR成田線にも小見川駅というのがあります。かつては小見川町でしたが、市町村合併で香取市小見川になりました。といっても「小見川」という川があるわけではなく、小見川を流れているのは「黒部川(くろべがわ)」。延方(のぶかた)から息栖(いきす)神社を経て利根川大橋まで歩いた時、日帰りは無理だろうと事前に考え、さてどこに泊まろうかと考えた際、結局小見川で泊まることに決めました。その理由は、この小見川も利根川水系の水運の要衝として栄えていた歴史があることを知ったから。利根川へと流れ込む黒部川の下流域に栄えた「水郷の文化町」であり、やはり利根川に注ぎ込む小野川沿いに発展した佐原と共通した地理的環境にあって、「祇園祭り」や「水郷おみがわ花火大会」などの催しが長らく行われているという。また江戸歌舞伎の名優であった初代松本幸四郎の墓があり、順天堂大学の創始者佐藤尚中(たかなか)の生誕したところでもあるとのこと。ということで、小見川のビジネスホテルに予約をとり、利根川大橋を渡ったその日の夕刻、JR成田線の下総橘駅に向かい、そこから小見川駅まで戻ることにしました。以下、その小見川取材の報告です。 . . . 本文を読む
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2011.10月取材旅行「延方~息栖神社~利根川大橋」 その最終回

2011-10-28 05:19:53 | Weblog
定期通航船や渡し船がほとんどといっていいほど無くなってしまった現在の利根川には、かつての河岸というものは存在せず、水害対策のための高い堤防の建設により、かつての河岸の名残を示すものもほとんど見受けられなくなっています。そればかりか、かつての物資や文化流入の窓口として各地域において重要な存在であった河岸の跡を示す「案内板」のようなものも、ごく一部を除いてほとんど設置されていません。まるで過去の歴史が意識的に抹殺されているような印象さえ抱いてしまいます。確かに戦後になって河川交通から陸上交通(鉄道や車)へと運送手段が大きく転換し、水害対策もあって、大きな河川は建設省や国土交通省が管理するようになり、河川は地域の人々の生活にとって、かつてのように身近で密接なものではなくなってしまったのですが、それにしても、その河川や河岸が果たしてきたきわめて重要な歴史的役割が、そこを訪れる人々にわかりやすい形で示される工夫がなされているかというと、大いに疑問を呈さざるをえない。その地域に住む人々にとっても、どんどん河川や河岸の歴史の記憶が失われているのが実情ではないか。文献(本や研究論文)や資料としては触れられていても、ごくごく日常的に、わかりやすい形では示されていないのです。江戸も東京も、そしてその周辺地域も、河川や河岸によって長らくその経済や文化、人々の生活が支えられてきたのだという歴史的事実、その「歴史の記憶」というものが、「治水」「防災」「干拓」というものを表看板にして、意識的に抹殺されてしまったのではないかと思われるほどです。そして、そのような事態は、おそらく利根川だけにとどまらない全国的なものだと思われます。 . . . 本文を読む
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2011.10月取材旅行「延方~息栖神社~利根川大橋」 その8

2011-10-27 05:27:08 | Weblog
『四州真景図』第三巻の図四は「鹿島」で、図五が「砂山」、そして図六が「砂山 砂山吹上る図」。「鹿島」には、鹿島神宮へと続く鹿島丘陵が描かれていますが、その手前の川(鰐川)には大きな帆を上げた船が航行しています。これが「利根川高瀬船」。崋山は第二巻「河嵜明神」でも、利根川を航行する「利根川高瀬船」を正確に描いています。そして「鹿島」で中洲の手前を息栖・常陸利根川方面へと向かっているのが、「東国三社巡り」の遊覧客を乗せている「さっぱ船」。崋山一行は3人ですが、この船の乗客は4人(竿さす船頭が1人)だから、崋山は自分の「さっぱ船」から、同じ方向を進んでいく別の「さっぱ船」を見掛けて、鹿島丘陵の眺めとともに描いたものと思われる。「図六」の「砂山 砂吹上る図」には、右端の川面に帆柱を立てた船と帆柱を寝かせた船2隻が描かれていますが、これはどうも川岸からやや離れたところに碇泊しているようだ。砂が強風で砂山を吹き上がっている光景を描いたものですが、その強風のためにあえて船は帆を下ろして碇泊しているのでしょうか。この2隻の船も「利根川高瀬船」であるように思われます。かつて常陸利根川と利根川が合流する地点の左側には、このような大きな砂丘が広がっており、その向こう側にはすぐに太平洋の大海原が広がっていることを実感させたのです。 . . . 本文を読む
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2011.10月取材旅行「延方~息栖神社~利根川大橋」 その7

2011-10-25 03:49:11 | Weblog
『茨城の史跡は語る』(茨城新聞社)に「柳川新田と掘り下げ田」という項がある。それによると波崎町域には、近世の砂丘新田開発として有名な三新田があり、それは太田新田・須田新田・柳川新田の三つでした。三新田の中で最も遅く開発されたのは柳川新田であり、それは天保15年(1844年)以降のことであったようだ。それ以前は、このあたりは「日川砂漠」と言われた広大な未開発地であり、その未開発地は、すでに開発されていた太田新田や須田新田に近接していました。三新田は、鹿島郡南部に広がっていた広大な砂丘地帯を開発して水田としたもので、周囲の松林は風砂の被害を防止するために植えられたものであり、以前は薪炭源も兼ねていたという。「掘り下げ田」というのは、地表から1mほど深く掘り下げられた水田のことであり、それは砂地のため用水の漏失を防ぐための工夫でした。この「掘り下げ田」が広がる柳川新田などの景観を大きく変えたのは、昭和30年代後半から始まった臨海工業地帯の造成。「掘り下げ田」や、その掘り下げた土砂によって造られた「盛り上げ畑」の多くは埋め立てられ、企業用地や道路網、住宅地などに変化したという。文政8年(1825年)の夏、常陸利根川と利根川とが合流するあたりに差し掛かった崋山は、左手に「砂山」が広がる光景を見、またその「砂山」が風のために砂をまきあげている光景を見て、それをスケッチしています。まだ新田が開発される前の光景で、風砂防止用の松林も広がっていない頃でした。彼が見た「砂山」は、「日川砂漠」と言われていた広大な未開発地であったと思われる。つまり広大な砂丘地帯であったわけで、彼はその砂丘の頂き付近が強風のために砂嵐のようになっている光景を、船上から手早くスケッチしたのです。この付近一帯にも、幕末から現代にかけての景観の大きな変貌があったことになります。 . . . 本文を読む
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2011.10月取材旅行「延方~息栖神社~利根川大橋」 その6

2011-10-24 06:05:56 | Weblog
現在の霞ヶ浦、北浦、および利根川下流とその周辺湖沼からなる連続した内水面を、近世の地誌では、「香取流海」「香取海」「信太流海」「榎浦流海」「佐我流海」「印旛浦」「浪逆浦」などと記しているものの、いずれもこの水域を総称するものではないという。中世におけるこの水域の想像図を見てみると、神崎神社のある神崎津も、香取神宮に続く津宮(つのみや)も、鹿島神宮に続く大船津も、そして息栖神社のある息栖津も、一つの大きな広がりをもつ内水面に接しており、それぞれが船で容易に行き来できるようになっていたことがわかります。近世における想像図を見てみると、印旛沼から石出(現在、利根川大橋があるあたり)までが、流水による土砂の堆積等で水面が失われており、現在の利根川の流れが形成され、津宮(つのみや)と大船津、息栖津とは、形成された大きな中洲によって隔てられています。幕末の崋山一行は、津宮から潮来・鹿島地方へ行くのに、津宮→利根川→横利根川→常陸利根川→潮来→前川→浪逆浦→鹿島というルートをたどっていますが、これは大きな中洲が中世から近世までに形成されていたからです。流水の土砂の堆積による中洲の形成は、その後も引き続き行われていきますが、それを利用した大々的な干拓(新田開発)が戦後まで行われたところが、「浪逆浦(なさかうら)」と呼ばれる水域(潮来と延方を結ぶ線の南側で、現在の外浪逆浦の北側や西側)であったのです。 . . . 本文を読む
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2011.10月取材旅行「延方~息栖神社~利根川大橋」 その5

2011-10-23 06:03:42 | Weblog
前川に沿って歩いた時に、川幅が急に広まってどんづまりのようになったところに水門があり、そのどんづまりの北側から用水路を小さな橋で渡って、土手沿いに歩いて、右手に震災の瓦礫置き場を見て、「東関東自動車道」に続くバイパスに出ましたが、あの前川の南側および東側一帯は、江戸時代の中頃からすでに干拓が進められていった地域であるようです。『茨城県立歴史館報10』の植田敏雄さんの論文(「水戸藩領潮来地方の新田開発」)によれば、潮来の二重谷(にじゅうや)、大洲、徳島は、江戸時代に、干拓による大規模な新田開発が行われたところでした。これらの地域は、前川の南側および東側一帯であり、「流水の運ぶ土砂の堆積により」「新洲」が常に形成されていた地域でした。中でも徳島は、東部は鰐川、南部は浪逆浦(なさかうら)に臨んでおり、防水堤もなかったために、新洲が形成されており、延宝元年(1673年)から本格的な開発が、水戸藩の保護・援助のもとに始められたという。「徳島新田集落」は延方村に付属し、文化12年(1815年)以降も新田開発を進めて、開発高を増加させていったとのこと。「天保郷帳」によれば1509石余の生産があったらしい。流水の運ぶ土砂の堆積による「新洲の形成という地域の特異性」が、大規模な干拓(新田開発)と開発高の増加につながり、水戸藩としてもかなりの保護・援助をこの潮来地域に対して行ったことがわかります。その開発された広大な新田を、崋山は「さっぱ舟」上から眺めていたわけですが、「潮来八人頭」の一人である宮本茶村(尚一郎)から、崋山は、この「浪逆浦」の新田開発の歴史について詳しく聞いてはいなかっただろうか。 . . . 本文を読む
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2011.10月取材旅行「延方~息栖神社~利根川大橋」 その4

2011-10-21 05:45:49 | Weblog
「鰐川」右岸沿いに点在する「舟溜(ふなだまり)」は、何を意味するかといえば、かつて延方(のぶかた)村や潮来村を流れていた「前川」や水田を縦横に流れていた水路(これを「エンマ」という)に繋留されていた漁船(さっぱ舟など)が、干拓により「浪逆浦」と隔てられ、また干拓によって「エンマ」も埋め立てられてしまったため、「鰐川」の閘門(こうもん)近くに、かねてから「浪逆浦」で漁業を行っていた人々のために、漁船の繋留や安全管理のための施設として新たに造られたものということができるでしょう。しかし、私が見た限りでは、その「舟溜」が現在でも活発に漁船の船溜りとして利用されているといった雰囲気はなく、「鰐川」や「外浪逆浦」における漁業は衰退しているように思われました。「舟溜」でも賑わっていたのはレジャーボートやレジャー用釣り船の「舟溜」であり、それはかつての地元漁師が利用する「舟溜」とは、異なる雰囲気を持っていました。釣りをしている年輩の男性にお聞きしたところ、釣っている魚は鮒や鯉、ヘラブナであるといい、かつてはたくさん獲れたが、今はあまり獲れなくなったということでした。「鰐川」や「外浪逆浦」では、猛スピードで走っていくモーター付きのレジャーボートや釣り船(モーターエンジン付き)は目立ちましたが、川や湖と、地元の人々との生活的密着性はかなり薄まっているように思われました。しかしそのような状況は、「鰐川」や「外浪逆浦」だけでなく、私が今まで歩いてきた利根川水系全般において見られるところでした。 . . . 本文を読む
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2011.10月取材旅行「延方~息栖神社~利根川大橋」 その3

2011-10-20 05:29:01 | Weblog
神宮橋が架かっている潮来市側(西詰)を「洲崎」と言いますが、それは、このあたりが「洲」の先であったことを示しているように思われます。前回歩いた前川は、途中でぐんと広くなったところでどん詰まりのようになり、水門によって今までの流れと隔てられ、私は干拓地の土手のようなものを右手に見ながら歩いて、水戸・鹿嶋方面へと延びるバイパスにぶつかったのですが、前川はもしかしたら、かつてはあのどんづまりのようなところで、「北浦」に続く「浪逆浦(なさかうら)」に合流していたのかも知れない。そこから東側一帯はもう「浪逆浦」の湖面であったのですが、そこは戦後になって干拓が大々的に進められて、その景観を大きく変貌させたのではなかったか。現在、地図を見ると「外浪逆浦」というのがありますが、かつてはその北側も広大な湖が広がっていたはずであり、「浪逆浦」は、「北浦」から「洲崎」を経て常陸利根川とつながっていく大きな湖の一部であったということになります。崋山一行の乗った「さっぱ船」は、前川からその「浪逆浦」へと出て、やがて常陸利根川を進み、利根川本流へと戻ったのです。 . . . 本文を読む
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2011.10月取材旅行「延方~息栖神社~利根川大橋」 その2

2011-10-19 06:23:48 | Weblog
『四州真景図』の第三巻の図三に香取神宮寺を描いた崋山は、図四で「鹿島」を描き、図五で「砂山」、図六で「砂山 砂吹上る図」を描いています。「鹿島」の絵は、船(さっぱ船)から遠望した鹿島神宮のある丘陵を描いたもの。丘陵手前に川があり、中程には中洲のようなものがあって、そして手前に崋山一行が乗る船が進む川がある。この川は現在の鰐川(わにかわ)を含むものですが、当時は干拓はそれほど進んでおらず、現在の鰐川よりもずっと幅広く、ほとんど「北浦」の延長ではなかったか。「前川」から北浦へと出た崋山の船は、鹿島神宮へ行くならば左へと曲がるべきものを、浪逆浦(なさかうら)から常陸利根川を経由して、銚子を目指して利根川本流へと出るべく、右へと進路を向けたのではないか、と私は思い始めています。その船からは左手遠方に「砂山」が見えてきて、それに興を覚えた崋山は絵筆を走らせたわけですが、その「砂山」とは、『渡辺崋山集』の解説によれば、「下総国香取郡石出村から見た対岸の太田新田か」とあり、この「石出」というのは現在のJR成田線の「下総橘駅」付近になる。ということは、常陸利根川から利根川本流に出てまもなく左手に見えてきた景色ということになるわけですが、崋山は、「鹿島」から利根川本流に出るまでの途中左岸にあった「東国三社」の一つである「息栖(いきす)神社」について、一言も触れず、またそれを描いてもいません。 . . . 本文を読む
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2011.10月取材旅行「延方~息栖神社~利根川大橋」 その1

2011-10-18 05:08:20 | Weblog
崋山は「四州真景」の旅において、鹿島神宮や息栖神社を本当に詣でたのか、という疑問はやはり消えません。崋山は「鹿島根本寺」について記述していますが、その記述の内容は、津宮(つのみや)で訪ねた久保木清淵(太郎右衛門)から聞いたことではなかったか。崋山は久保木清淵から、潮来に住む宮本尚一郎のことを聞き、延方の「講談所」のことを聞き、その「講談所」を開くにあたって功のあった郡奉行小宮山次郎右衛門(楓軒)のことを聞き、その小宮山が進めた勧農事業について聞くとともに、鹿島根本寺のことについても聞いた可能性がある。彼が鹿島根本寺に関心を持ったのは、そこを松尾芭蕉が訪れているからであり、そしてまたそこに雪村とか徽宗などの作と伝えられる寺宝があると聞いたから(久保木清淵より)であるようだ。しかし、潮来で宮本茶村(尚一郎)という自分と同年齢の興味深い男と出会った崋山は、その宮本からさまざまな情報を聞き出すことに集中し、潮来で思わず長居をしてしまったのではないか。文政8年(1825年)7月3日(旧暦)、やや遅く潮来を船で出立した崋山一行は、前川から浪逆浦(なさかうら)に出たものの、鹿島神宮や根本寺、また息栖神社に立ち寄ることは断念し、そのまま浪逆浦から常陸利根川を通過して、利根川本流に出て、利根川河口の銚子の街へと急いだのではないか。そういう想定を抱きながら、JR鹿島線の延方駅からJR成田線の下総橘駅までの間を歩いてみました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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2011.西湖いやしの里根場~鍵掛峠~鬼ヶ岳 その最終回

2011-10-17 05:36:19 | Weblog
『大橋富夫写真集 日本の民家 屋根の記憶』の、安藤邦廣さんの「民家の屋根に“くらしのかたち”を読み解く」という論文によると、「甲造」(かぶとづくり=兜造)は「静岡県北部から山梨県南西部の富士川流域を中心に、武蔵・相模の山間部から東北地方にわたる養蚕の盛んな地域に分布」しました。建物の屋根棟の棟端(むなば)側を削ぎ落としたものを「妻甲」、屋根棟と並行する側を削ぎ落としたものを「平甲」といい、「妻甲」で妻破風に二重開口を持つものを「二重妻甲(ふたえつまかぶと)」というようです。西湖の根場地区にかつてあり、そして現在、「いやしの里根場」として復元されている茅葺き民家は、その形状から言って「二重妻甲」という形式になる。妻側の「二重」の開口部は、養蚕のために必要な通風と、人が屋根裏で蚕(かいこ)の世話をするための採光の必要性から生まれたものであり、おそらく横浜開港による養蚕の隆盛に伴って、明治以降、「さらに生産量を増大させるために、屋根裏空間の拡大が図られた」ことによって、誕生したものであるようです。富士五湖周辺に多かった「二重甲造」は、「富士系二重甲造」(「富士系合掌造」)ともいい、この形式は奥多摩の檜原村でも見られるものですが、地元の方の話によれば、その檜原村でも数馬(かずま)と、そこから少し下がった人里(へんぼり)までの地域にしか見られなかったという。 . . . 本文を読む
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2011.西湖いやしの里根場~鍵掛峠~鬼ヶ岳 その6

2011-10-16 06:45:51 | Weblog
「旧広瀬家住宅」のかつての所有者であった広瀬保さんによれば、川の源流の方は「悪沢(わるさわ)」という名前が付いている通り、周囲の水を集めてしまい、明治40年(1907年)、同43年(1910年)、昭和34年(1959年)に台風による水害があり、周辺でも数十人が亡くなっているという。広瀬家のある上萩原は扇状地の上の斜面上にあり、畑はかつては桑畑(養蚕のため)やタバコ畑であり、現在は果樹園になっています。扇状地の斜面上にあるため、人家は石垣の上に造られた平地の上に建っています。根場と同様に、台風による水害を受けて多数の人々が亡くなっていることがわかります。明治40年(1907年)の水害というと、山本周五郎の故郷である北都留郡初狩村(現大月市)のことを思い出す。8月22日から26日にかけての記録的豪雨により、山梨県下各地で大水害が発生。初狩村もこの豪雨による山津波(土石流)で壊滅的打撃を受け、周五郎(清水三十六〔さとむ〕)の一家は大月駅前に住んでいたため難を逃れたものの、祖父伊三郎、祖母さく、叔父粂次郎、叔母せきの四人を失っています。広瀬保さんは「現在は沢の奥まで大きな堤防が入ったので、災害は起こらなくなった」と語っていますが、これは根場で見られたような「砂防堰堤」のことをさしているのでしょう。 . . . 本文を読む
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2011.西湖いやしの里根場~鍵掛峠~鬼ヶ岳 その5

2011-10-14 05:17:44 | Weblog
御坂峠を越えた甲州盆地側の民家の形式は、かつてどういうものだったのだろう。前に御坂峠を河口湖に向かって越えた時に通過した藤野木(とおのき)については、ここを明治15年(1882年)7月15日にヘンリー・ギルマール一行が通過した際、同行した日本人写真師臼井秀三郎が写した古写真があります。それを見ると、すべての民家は茅葺きで切り妻造り。妻の部分には換気・採光のための窓が設けられていて、おそらく屋根裏(小屋裏)では養蚕が行われていたと思われますが、根場で見られたような「かぶと造り」ではありません。棟の部分は「芝棟」となっています。このあたりの日川沿いの御坂道は、台風の豪雨による土石流などで、相当に道筋が変化していることについては実際にここを歩いて確認したところ。特に明治40年(1907年)8月下旬の台風の豪雨による被害は激しかったようで、土地の古老の話からも、その被害のことが伝承されていて、今でもその記憶が人々の心に刻まれていることを知りました。『山梨県の気象百年』には、それについて次のような記述がありました。「この大水害は50万県民挙げて死地に陥った大厄である。大小河川ことごとく氾濫し、山腹の崩壊おびただしく、田畑、人畜、家屋の被害著しく、まったく有史以来の大被害となった。このなか最も凄惨を極めたのは、日川、重川及び御手洗川流域であって、日川村、一宮村一帯は見渡す限り巨石累々たる河原と化したのである。」台風による数日にわたる集中豪雨によって、巨大な土石流があちこちに発生したのでしょう。その土石流とともに上流からおびだだしい数の「巨石」が転がってきたのです。 . . . 本文を読む
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2011.西湖いやしの里根場~鍵掛峠~鬼ヶ岳 その4

2011-10-13 05:25:13 | Weblog
山梨の民家というと、私がまず思い出すのは川崎の「日本民家園」にある「旧広瀬家住宅」です。この民家は昭和44年(1969年)に、現在の山梨県甲州市塩山上萩原より移築されたもの。樋口一葉の両親が中萩原村の出身であることから、この「旧広瀬家住宅」がどういうところに立地しているのか、もとあった場所に訪れたことがあります。「日本民家園」に復元された「旧広瀬家住宅」は切り妻造りの平屋であって、初期の形式に復元されたものですが、移築前は茅葺き屋根の真ん中が「突き上げ二階」となっていました。これはやはり養蚕のための採光・通風の必要上から設けられたもので、養蚕の隆盛により後になって改築されたもの。「養蚕をするために屋根をあげ、2階3階を増築した」ものでした。この中萩原村あたりではかつて、冬場に、南アルプスから吹く空っ風があり、これを「シバマクリ」と呼んだといいますが、これは棟に植えられていた「岩芝」がめくれ上がるほどの強風であったということ。同じ山梨県の養蚕地帯であっても、民家の形式が富士山麓地帯とは異なっていたこと、しかし棟はかつては共通して「芝棟」であったことがわかります。東京都の山奥の檜原(ひのはら)村には「かぶと造り」の民家がわずかながら残っていますが、これは江戸時代後期に甲州から入ってきた形式であるという。檜原あたりも甲州の生活文化の影響が強かったということでしょうか。 . . . 本文を読む
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2011.西湖いやしの里根場~鍵掛峠~鬼ヶ岳 その3

2011-10-12 05:59:39 | Weblog
「かぶと造り」(兜造り)とは、日本の民家の屋根形式の一つであり、茅葺き寄棟(よせむね)の屋根の妻の部分を切り下げて、開口部を設けたもの。開口部には障子を入れて、採光や換気ができるようになっています。屋根裏は階層化しており、屋根裏部分は一般的に養蚕に用いられました。山梨県東部を中心に見られる「かぶと造り」を、正式には「富士系合掌造り」とも言うらしい。坂本高雄さんの『山梨の草葺民家』によると、足和田村根場の茅葺き民家は、「本来は岩松をのせた合掌の棟」であったという。「岩松」とは「イワヒバ」のこと。「岩松」は、「日照りが続くと葉をまるめて、雨が降ると葉を開くために、屋根に緑を添えることや塊土の流土を防ぐ効果が加わる」といい、その「岩松」などをのせた棟を「芝棟」と総称するようです。「岩松」以外に、「イチハツ」「アヤメ」「ユリ」「ギボシ」などをのせ(植え)ました。坂本さんによると、「芝棟は棟の造りのうちで最も原始的であるけれど、ほかの屋根棟に比べると四季の変化に富んでいて、その色彩の変化がとても美しい」という。棟に「イチハツ」が植えられた茅葺き民家が、東海道や甲州街道の沿道やその周辺地域にかつてはどこでも見られたものであるらしいことは、かつてこのブログでも触れたことがありますが、幕末・明治に日本を訪れた外国人にとって、屋根上(棟)に緑があり、時期ともなればそこに美しい花が咲く日本の茅葺き民家は、大変に魅力的なものでした。根場の「かぶと造り」(棟は「芝棟」ではない)は、「かぶと造り」が一般的にそうであるように、江戸後期以降の養蚕の隆盛によって成立したものと思われます。田んぼはほとんどないから、薪炭の生産と養蚕が、長い間この集落に住む人々のなりわいの中心であったと思われます。 . . . 本文を読む
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