「松前福山城下圖」で何よりも注目されたのは、「あさみ商店」のおばちゃんが言われたように岸壁の上にずらりと並ぶ白壁の蔵でした。
蔵の側壁は海側を向き、それぞれに小さな四角い窓が付いています。蔵の屋根は瓦葺きで白漆喰の壁とともに防火の工夫が厳重にされています。
縦横する通りの両側にも蔵が並び、その蔵に挟まれるようにところどころ木造の商家らしき二階建ての建物があります。商家の屋根の多くは板葺きで石が置いてあるようです。
防火の工夫が厳重な蔵に較べれば商家はそれほど厳重な造りではないけれども、商家のほとんどは二階建て。
その蔵や商家は、城下東側の正行寺や法華寺の下(南側)から沖之口役所までびっしりと平地を埋め尽くしています。
沖之口役所の南側も、現在の状況とは異なって、その南側には通りを隔ててやはり商家や蔵が密集しています。
沖之口役所は四方が屋根付きの白塀によって囲まれており、南側中央に門があって、役所の建物はカタカナのロの字状に建っていて、真ん中に両側(東西)から張り出した建物があるようです。
この絵図を見ると、「奉行所」は大松前川のやや上流、松前城の東側に川に沿って(大松前川の東側)にあり、沖之口役所と奉行所は別々にやや離れていたところにあったことがわかります。
大松前川と法華寺がある台地の間には平屋の人家が密集し奥へと続いています。
また松前城の西側を流れる小松前川の西側にも、人家がその川の上流まで密集していたことがわかります。
この絵図には、小松前川の西側から弁天島にかけての家並みは描かれていませんが、やはり浜に沿って蔵や商家や人家が密集して建ち並んでいたはずです。
通りや唐津内川に沿っても商家や人家が建ち並んでいたでしょう。
一般の人家の多くは板葺きで石を置いたものであり、財力のある商家や人家の中には瓦葺きの屋根もあったものと思われます。
倉庫である白壁の土蔵はほとんど瓦葺きであったに違いない。
家が焼けても蔵の中の物が無事であれば商売はすぐに再興できるからです。
蔵が商売の生命線ということです。
さてこの絵図で大松前川の河口の沖合はどう描かれているか。
沖合には計11艘の弁財船(「北前船」)が碇泊しています。
左端手前に3艘。
真ん中下のやや左手に3艘。そのうち手前の1艘は帆を4分の1ほどに下ろしています。
真ん中下やや右手に2艘。
そして右端に3艘。
海面からまるでジャングルジムのような複雑な組み立ての木枠が突き出ていて、これが弁財船を海上に固定しているように見える。
これはどういう構造物なのだろう。
ここで想起されたのは、今でも松前の海岸に突き出している平たい岩礁で、この木枠の構造物はその岩礁に造られたものではないかということ。
あの平たい岩礁が、弁財船を海上に固定させるのに何らかの役割を果たしていたように思われます。
沖に固定された弁財船と海際の間を、積荷を運ぶ荷船が往来しており、海際の波止場の石段の前には6艘ほどの荷船が舳(へさき)を陸側に向けて密集しています。
波止場には荷揚げされた荷物が積み重ねられ、その一部は大八車で人足二人により蔵に運ばれようとしています。
石段を上がった波止場の右手には人足とともに大八車が5台ほど置かれています。
松前城の様子はどうか。
松前城には二重太鼓櫓と二つの二重櫓、計3つの二重櫓と三層の天守閣があり、天守閣の西側には本丸御殿があって東西に長い屋敷が前後四棟ほども並んでいます。
その城郭の背後には高徳山光善寺、華遊山龍雲院、大洞山法憧寺、松前山法源寺、海渡山阿吽寺が並び、松前城の東側の台地には妙光山法華寺と護念山正行寺が並ぶ。
幕末の松前城下の中心部の様子(弁天島から松前城までの浜辺の人家は描かれていないから全貌ではない)が、省略したところはあるもののかなり克明に描かれている一級の資料といえます。
この絵図を、私はこの「あさみ商店」で初めて目にし、以後他では見掛けませんでした。
圧倒的に多く紹介されているのは『松前屏風』であり、それは江戸時代中頃に描かれたものであるから、あれから幕末の松前を推測するのは無理があるというもの。
木津幸吉と田本研蔵が写した古写真も大変参考になるけれども、波止場近くや通り両側に密集して建ち並ぶ白壁の土蔵は写されておらず、城下南側の沖合の上空から鳥瞰的に城下の様子を描いたこの絵図こそ、幕末の松前城下中心部の様子を描いた絵図であると思われました。
残念なのは海に突き出た波止場(福山波止場)がこの絵図には描かれていないこと。
現在の「道の駅 北前船松前」の東側から海に向かって延びる突堤(福山波止場)はこの絵図の画面よりもやや左手(西側)にあり、幕末においてそれがどのようなものであったか、これからは知ることができません。
続く