鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その6

2015-04-19 06:30:13 | Weblog

 「古里の浜」と弁天岬(「相崎」)が見える地点までは、「ニワの浜」から歩いて5分ほど。

 「ニワの浜」より広い浜辺には巨大や岩がいくつかむき出しになっています。

 崋山の「相崎」のスケッチは、岩礁の形や浜に描かれた人間の姿から言って、「古里の浜」から弁天岬の先端である「ナゴラコノハナ」を描いたものと思われます。

 左端に岬の向こう側の海や岩場が描かれているから、「弁天山」の向こうの、海に向かって延びている岩礁帯をかなり手前に引き寄せる形で描いたものと、最終的に推定したい。

 「相崎、弁天山、ナゴラコノハナ」は、「古里の浜」あたりから弁天岬全体を描いたものであるでしょう。

 「神島漁港」の案内標示に従って山道へと入って行くと、「鏡石」と記された小さな看板があって、その上に白っほい岩が露出していました。

 もとは鏡のように表面がつややかであったということですが、目の前にあるそれは雨水等の浸食を受けて普通の岩のようにデコボコになっています。

 「神島中学校」のコンクリート製の古い校門を右手に見て、「神島漁港→」の案内標示に従って道を進み、やがて「NTT神島電話交換所」の高い鉄塔の脇を通って、神島漁港と伊良湖岬が見える高台に出たのが10:16。

 集落へ坂道を下り、途中で右折して、現在島唯一のお寺である桂光院へと上がって行く道の途中に墓地があり、「小久保」姓の多いその墓地のお墓を見ていくと、「又左衛御屋の墓」とその近くの「伝説 おたつ上臈の墓」というのを見つけました。

 この「又左衛御屋の墓」の「又左衛」というのは「又左衛門」のことではないか。

 「御屋」というのはよくわからないが、「親方」とでもいうような意味合いだろうか。

 周囲のお墓が「小久保」姓であることを考えると、「又左衛御屋」の姓は「小久保」であるに違いない。

 崋山が神島で一泊することになった「又左衛門」家は、「旧家」で「島長」であり、そして「網船の主にて元〆といふもの」でもありました。代々「又左衛門」を名乗ったのでしょう。

 崋山によれば、「三四郎、又左衛門」の「二家」に対して、「島人」が「この二家を尊む事、実に君臣の如し」でした。

 集落についての崋山の記述は次の通り。

 「一足を置(おく)べき平地なけれバ、谷のあわひより磯辺かけて人家所せうたてならべ、凡百軒もあるべし、常(つねに)風の憂あれバ皆瓦屋根にして、ひとつも草をもてせるなし。又左衛門ハ奥のかたに家居ありて、予が到りしにおどろきたる体(てい)なり。」

 「谷のあわひ」というのは、谷川が下り落ちている島の北側斜面の谷間のこと。

 現在、その谷川の途中には「洗濯場」の跡が残っています。

 この谷川が、神島の集落の人々にとって飲み水であり生活水であって、いわば「生命線」であっただろうといったことについて、前に触れたことがあります。

 その「谷のあわひ」から「磯辺」にかけて、人家が所狭く密集しており、その数はおよそ「百軒」ほど。

 「鳥羽市神島の近世文書」北村優季(『青山史学第31号』)によれば、「村内立(縦)七十間余(約176m)横(幅)弐十五間余(約27m)」の集落であり、「家数115軒」、「人口509人」とあるから、崋山の記す「凡百軒」はほぼ正しい。

 人口も当時は500人前後であったでしょう。

 縦に長く横に狭い集落であるのは、谷間から磯浜にかけて、灯明(とうめ)山の斜面にへばりつくように密集していたからです。

  「島長」の「又左衛門」の家は、その集落の「奥の方」、つまり「谷あひ」の上の方にあったことになります。

 おそらく海女たちに案内してもらった崋山一行は、磯浜から谷川沿いの細い路地を上がっていき、一番上にある小久保又左衛門家の門前に至ったのです。

 「又左衛御屋の墓」(まだ造って新しいお墓)のある墓地を過ぎていくと、奥にあったのが桂光院であり、そこからは眼下に神島の集落と漁港、そして漁港の防潮堤の向こうに伊勢湾を見渡すことができました。

 かつてはこの神島に、桂光院・海蔵院・長流寺という曹洞宗の3つのお寺がありましたが、長流寺・海蔵寺とも廃寺になり、現在残っているのはこの桂光院のみになっています。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」

・『郷土志摩 No44 神島特集号』

・「鳥羽神島の近世文書」北村優季(『青山史学第31号』)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿