鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その15

2015-02-22 06:39:35 | Weblog
『参海雑志』に描かれた常光寺をみてみると、現在ある山門は、天保4年(1833年)当時はなかったのかも知れない。スケッチでは、石段が2つあって、奥の石段の上に楼門があり、その奥に本堂の屋根が描かれています。手前の石段と奥の石段の間には平地があるようです。とするならば、手前の石段のすぐ上に現在の山門が建っていることになり、このスケッチを崋山が描いた立ち位置は、おそらく現在大ソテツが対で立っているあたり、あるいは道路から参道が延びているあたり(「東海七福神布袋尊天」と刻まれた石標が立っているあたり)であったと推定されます。また本堂の手前左手に建物が描かれていますが、これは現在はありません。これはおそらく「観音堂」であると思われる。崋山は「前林にて誠に望ミよき勝地」と記しており、現在大ソテツがあるところも、また駐車場のあるあたりも、崋山のスケッチに描かれるように当時は「林」であったのです。前にも記したように、このあたりの標高は「海抜6.4m」。楼門が立つ石段の上は、およそ10mほどはあるのではないか。するとこの常光寺が新築再建された場所は、大地震による津波被害を受けにくいところであり、海沿いの村人たちにとっては、常光寺は格好の避難場所になったのではないかと思われてきます。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その14

2015-02-19 06:01:35 | Weblog
崋山が小久保政右衛門に案内された訪れた常光寺は、かつて崋山が訪れた時には南浜にあったものが、昨年に新築移転したもので、本堂・書院・庫裏(くり)・観音堂・回廊・門・鐘楼の備わる立派なお寺になっていました。崋山は、「規模宏壮になりて南参第一の精舎なり」と記しています。宗派は曹洞宗。開基は烏山資任、開山は潔堂和尚。移転した理由は「年々浜かけ入て永く住しがたきよし」とあり、おそらく浜が年々狭まっていって(波によって海食されて)永く住めるところではなくなってきたからであったようだ。背後は山で、前は林が広がり、まことに眺めのよい土地であり、背後の山も寺領ではなかったけれども土地の農民がみんなで寄進したものであるという。檀家が相当な経費をかけて、この常光寺を新築移転し、南三河地方第一の規模壮大なお寺にしたわけですが、これはこの周辺の常光寺の檀徒たちの経済力を示しています。この経済力は何に拠っているのだろう。漁業による収益だろうか、それとも農業による収益なのだろうか。崋山が小久保政右衛門について語るところによれば、網船を多数所有していて収益をあげていたということだから、農業というよりも漁業によって得られた経済力であったかも知れない。しかし神仏を祈ることを尊いとする崋山も、手放しで村人たちがお寺を立派にしていることを礼賛しているわけではありません。崋山は次のように記しています。「凡参州ハ釈を尊ぶ風俗にて、寺院益家作に心をゆだね、我先にと新営をきそふあしき風俗なり。」 檀家が競うようにお寺を新築したりしてお金をかけるのはよくない風俗だとしています。崋山が小久保政右衛門に案内されて訪れた常光寺は、まだ新築されたばかりで、しかも大きな伽藍を備えた立派なものであり、かつて南浜にあった常光寺の姿を知っている崋山としては、大きな驚きであったのです。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その13

2015-02-15 05:41:34 | Weblog
小久保政右衛門は才覚のある者であって家業に専念し、特に漁業に精を出し、網船を多数持っているとのこと。それゆえに財産を蓄え、村の人々を救ったり神仏にもよく仕えたりと、たいそう真心の深い行為が多いために、おのずと家も栄え、本家である小久保三郎兵衛の家も再興させることができたのだと、崋山は記しています。この崋山の小久保政右衛門という村人への高い評価は、私に武州押切村の持田宗右衛門に対する崋山の高い評価を思い出させます。崋山が宗右衛門に残した手紙の一節は以下の通り。「たゝ一(ひと)ひらのまこゝろをもて家のほろひむとするをおこし、人のあやふからんとするをたすけ、まして君のため親のため、神にいのり仏にたのみ、たゝこのこころをもて画(えが)いたるやうに身をもてるなり。今其家訪(おとな)ひしに、その子もうまこもいとまめやかにつかへ、とむるハあらされとも貧ならず。家の内、春の日乃のとやかにむつみかたらひ、おのがあつかる所乃村々さへ愁を訴ふ事たになしとそ。されハ其道をふむ事は、我か及(およば)ぬかたそいと多かれと、心何となくうれしかりけり。」(句読点は鮎川が付け加える)ここでも、「一ひらのまこゝろ」や、困っている人を扶助すること、神仏に祈ることが、崋山の評価するところとして出て来ています。であるがゆえに、家の中は春の日射しのようにのどやかで和やかであるし、名主として預かる村においても訴訟が発生するようなことはないのだ、というのです。「一ひらのまごゝろ」で行動を一貫するという点においては、自分(崋山自身)も及ばぬところが多いとも崋山は言っています。堀切村において、崋山はあの武州押切村の持田宗右衛門と共通する人物と出会ったのです。おそらく鈴木喜六と崋山を歓待した小久保三郎兵衛家には、その政右衛門もやってきて、まるで「春の日」のように穏やかで和やかな雰囲気が満ちあふれていたのでしょう。崋山は『参海雑志』にわさわざその小久保三郎兵衛の住居のスケッチを描いています。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その12

2015-02-11 06:33:22 | Weblog
医福寺を出た崋山たちは、多墓山(たばか)山という山に沿って西へと向かいました。たいへん鬱蒼と茂った松山があり、これはかつて戸田氏の一族である一色一郎という者が住まったところであるという。この山の麓を辿って行ったのだが、ただ田んぼと松林が広がるだけ。和地村の枝郷に一色村、川尻村というものがある。川尻川という川が流れていて、この川尻村で海に注ぎ込んでいる。川のたもとに茶店があり、この川を境に田原藩の藩領は終わりとなり、川向こうの小塩津村からは他領である。崋山たちはこの川尻川を越えて田原藩領外へと歩を進めるのですが、その茶店からの風景だろうか、崋山は「和地川尻」というスケッチを描いています。このスケッチを見てみると、中央を右から左へと流れているのがおそらく川尻川であり、右手前から川尻川へ、また川尻川から左中央の丘陵の間を延びていくのはおそらく街道であると考えられます。川には橋は架かっていないから、旅人は浅瀬を渡って行ったものと思われる。前に記したように、現在ここには古いコンクリート橋である「かはしり橋」が架かっており、そのすぐ上に「川尻橋」、そしてその上流に「新川尻橋」が架かっています。古いコンクリート橋である「かはしり橋」の向きを考えてみると、この道筋が旧道であり、「新川尻橋」は新しく切り拓かれた国道42号に造られた新橋であると思われました。とすると、私が「和地」の交差点から右手に大きな観光農園を見て歩いて来た道(国道42号)は、『参海雑志』に記される崋山たちが歩いた道ではなく、「和地」の交差点から山(多墓山か)の南側の麓を通って、この古いコンクリートの「かはしり橋」に出てくる道筋であるということになります。崋山によるとこの山は高い山ではないが小松が生い茂っている山であり。山の麓も松林であり、崋山たちは松樹の深緑の中を歩いて行ったことがわかります。川尻川は用水として利用できるような川であるけれども、山々のために十分に利用されず、ただこの村でだけ田畑の灌漑に利用されているだけである、と崋山は書き留めています。従って、崋山の「和地川尻」に描かれている山は「多墓山」ではなくて、川向こうの「小塩津村」の北側にある山(名前はわからない)ということになります。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その11

2015-02-09 05:40:32 | Weblog
崋山が医福寺に立ち寄ることになったのは、「与三郎」という者が営む大きな酒造屋で煙草の火を借りた際、供人の田原藩士鈴木喜六が、「この村に医福寺というのがあって、そこには覚明(かくみょう)自筆の大般若経六百巻が今も残っている」と崋山に告げたからでした。「ではその寺に行って、その大般若経というものを見てみようではないか」ということになったのです。『渡辺崋山集』の頭注によれば、「覚明」というのは木曽義仲の侍史で、もと儒者の蔵人通広。出家後、西乗坊信救と号し、のち太夫坊覚明と名乗ったという。南都興福寺の僧侶で、義仲滅亡後は信濃に潜居し、親鸞の門に入ったとのこと。ということでその医福寺に訪れてみると、年老いた僧が出てきてその大般若経を全巻取り出してきて見せてくれる。いかにも古くすばらしいものであったので、崋山は立ち去りがたくなってしまい、日も暮れてきたこともあって、老僧に、「今日はここに泊まらせてはいただけないだろうか」と頼んだところ、老僧はたいそう喜び、「最近、同じ曹洞宗の法尺寺というお寺に山賊が押し入って住職を殺害し、金品を奪おうとしたのですが、村人に知られてそのまま逃走するという事件がありました。それにしても世の中には恐ろしい者がいるものでございます。私も年取いてそのような憂き目に遭うのはとてもこわいものですから、村人に守衛を頼んでみたのですが、それぞれまず自分の家のことが大事であるから承諾してくれません。お侍さまがお泊り下さればこれはいたって好都合なこと。今夜は快く眠ることができるでしょう。ぜひぜひお泊り下さい」と言う。そこでこのお寺に泊まることになり、崋山は夜が更けるまで覚明の大般若経を書き写したのです。この医福寺の住職の話に出てくる「法尺寺」というのが、私が立ち寄った立派な石段と山門のあった曹洞宗「金剛山法尺禅寺」のこと。やはり頭注によれば、山賊が法尺寺の住職を殺害する事件が起きたのは、天保4年(1833年)4月1日(陰暦)のことであり、殺された住職は良癡(りょうち)和尚であったという。崋山が和地村を訪れる半月ほど前の大事件でした。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その10

2015-02-06 05:42:09 | Weblog
赤羽根村、若見村、越戸村、和地村の枝郷である土田(どだ)と歩いてきた崋山は、越戸村と土田で「鳴子」という設備があちこちにあるのを目撃し、その情景をスケッチしています。「鳴子」(なるこ)というのは、辞書によれば、「田畑の害獣・害鳥を追い払う具」であり、「数本の竹筒を小板に並べてぶら下げたもの」。「張った縄につるしたり竿の先につけたりし、縄の端を引くなどして揺らしてならす」とあります。この越戸村と土田のあたりは土地が大変肥えていて田んぼも豊かで青々としていました。しかし背後に山が重なっていて、猪の害が多いため、目立たないように小屋を作り、一晩中、猪を追うために鳴子を引いているというのです。秋の末だけ鳴子を設けているのかと思っていたら、この地においては一年中、このように鳴子を設けているという。これは誰からの情報だろうか。崋山を案内した鈴木喜六であったかも知れないし、また土地の人に聞いたことであるのかも知れない。鈴木喜六は、この先にある堀切村に住む小久保三郎兵衛が親戚にあたり、このあたりのことをよく知っていたはずだから、この情報は同行の鈴木喜六から得た可能性が高い。崋山がこのあたりを通過したのは「四月」のことであり、その時期にも「鳴子」や「小屋」があり、しかもそれらが実は一年中備えられていることを知って、崋山は驚いたのです。『渡辺崋山集』には、その「鳴子図」は掲載されていませんが、デジタル版で見てみると、山裾や平地に設けられた「鳴子」や「小屋」がしっかりと描かれています。縄が縦横に張られて、その縄には小板がぶら下げられています。小板には竹筒が並べられているのでしょう。屋根のある吹き通しの粗末な小屋が三つ、描かれています。「夜すがら猪を追い鳴子引なり」との崋山の記述によれば、夜になるとこの小屋に村人(番人)がやってきて、一晩中、猪を追うために鳴子を引っ張っていたのでしょう(それも四季を問わず)。山が近い農村の人々の苦労に崋山は思いをはせているのです。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その9

2015-02-04 05:39:10 | Weblog
『参海雑志』の最初に描かれた風景スケッチは、どこからの景色を描いたものだろうか。『渡辺崋山集』には「赤羽根村の山景か」とあり、赤羽根村付近の風景ではないかと推測されています。私が実際に歩いてみて、これと似たような風景はあっただろうか。デジタル版で詳細にこのスケッチ画を見てみると、右端下半分には街道を歩く二人の人物が描かれています。先を行く男は右手に杖を持っています。先を行く男の背中は大きく、その後ろについていく男は小さく、子どものようにも見える。街道左脇には道筋に沿ってひょろ長い松樹のようなものが並んでいます。道は標高のやや高い所を山裾に沿って延びているようだ。街道左手にはなだらかに傾斜する畑か野原のような広がりがあり、その下には断崖状のものがあって、その断崖の崖っぷちにはやはり松樹のようなものが密集して並んでいます。道はおそらく山裾の高いところを画面右から左へと長々と延びているはずですが、その進行方向には山の頂きが二つ、三つほど平地の上に顔をのぞかせています。左端の断崖の下が海だとすると、この画面のさらに左側には、実際は太平洋の大海原が広がっていたはずです。街道がまず右手へと進み、今度はさらに左へと大きくカーブしていくところ、そしてそこからは海へと落ち込んで行くなだらかな斜面と、伊良湖崎へと続いて行く渥美半島の山並が見えたのです。そういう場所が赤羽根付近にあったかというと、実はありませんでした。ではどこにあったかというと、それは「高松」や「高松一色」バス停を過ぎ、左手に「大松屋食堂」があるあたりでした。「一色神社」の石鳥居が右手にあるあたりといってもいいでしょう。このあたりは道が右へとカーブしていくところであり、渥美半島の「大山」あたりの山稜が進行方向に見えてくるところ。画面左端中央部に描かれている平地から顔をのぞかせている山はその「大山」であると考えられます。和地村や堀切村、そして伊良湖村は、その「大山」のさらに左手に位置することになります。進行方向(前方やや左手)に渥美半島の西半分の山稜が見えてくるのはこのあたりだけであり、崋山は、一気に広がったその光景に感動し、このスケッチを描いたものと私は推測します。おそらく高松村の「冨士見茶屋」を出て、まもなくのことであったでしょう。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その8

2015-02-01 06:19:24 | Weblog
崋山は野田村の清右衛門のことを「ひが男」と記しています。「ひが」とは「正当でない」「まっとうでない」という意味であり、決して崋山は清右衛門のことを肯定的には見ていないことがわかります。その理由については明確には記されていませんが、藩を越えて幕府に「越訴」したこと(そのために清右衛門は「国刑」=斬首となる)や、勝訴はしたものの結果的には野田村の草刈り場であった日留輪山が「荒野」となってしまったことなどから、崋山は清右衛門の行動をよしとすることはできなかったものと思われます。しかし一方で村人からの訴訟を藩内において公正に裁き、不満を持たせないこと(つまり「越訴」をさせないこと)の重要性を崋山が意識していたことを暗に示すものではないかと私は考えています。というのも、崋山は『游相日記』において、厚木村や半原村、田名村などを支配していた下野烏山(からすやま)藩の「苛政」について触れているからです。烏山藩の「苛政」を崋山に話したのは、半原村の猟師であった孫兵衛であり、厚木宿の医師であった唐沢蘭斎であり、「厚木ノ侠客」であった駿河屋彦八でした。彦八もかつて「酒井村」の名主として幕府に対して訴訟に及び、「酒井村」を旗本領から天領へと変換させた実績を持つ男であり、また厚木村を支配する烏山藩の政治を批判する「きつい男」でした。崋山は領主を批判する彦八に対して「畜生ニオトル」行為だと難じながらも、烏山藩の「苛政」がそういった領民の不満を鬱積させ、批判を生みださせているのだとの認識も当然にあったはずです。「経世済民」に藩が意を十分に注がなければ、領民の不満が鬱積し、批判が上に向かうのは当然であり、それがゆえに為政者は「経世済民」につとむべきである、というのが崋山の基本的な立場であったでしょう。野田村の清右衛門は、「厚木ノ侠客」駿河屋彦八と同様、崋山においては、「きつい男」であり、そして「ひが男」であったのです。駿河屋彦八を「きつい男」としながらも、崋山は駿河屋彦八の肖像スケッチを残しています。その描かれた「侠客彦八像」は、目はくりくりと輝いて表情は人懐っこく、崋山は駿河屋彦八を「きつい男」ではあるけれども、侠気のある愛すべき男として捉えていたように、私には思えるのです。 . . . 本文を読む