鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.3月取材旅行「徳富蘇峰が歩いた富士山東麓北郷村」 その3

2010-03-31 07:29:10 | Weblog
中江兆民が開いた「仏蘭西学舎」(後の「仏学塾)は、開塾時(明治7年〔1874年〕)は東京の第三大区三小区麹町中六番町四五番地の自宅でしたが、その後、麹町上六番町三四番地、麹町三番町二九番地と次々移転。そして明治10年(1877年)2月には麹町区五番町二番地に移転。明治15年(1882年)1月にはそこで新築をするなど仏学塾は順調に発展し、その年9月になると自宅を別に求め、兆民は赤坂区青山南町三丁目三五番地に住むようになっています。しかし仏学塾は、ほぼ明治16年(1883年)をピークに衰退に向かい、兆民が「保安条例」で東京を追放された明治20年(1887年)の翌年、明治21年中には消滅してしまったようだ。青山南町三丁目の兆民の自宅は、生涯貧乏だったのでは、という私たちの思い込みとは反してかなり大きな屋敷であったようで、蘇峰はその自伝(『蘇峰自伝』)で、「君(兆民のこと─鮎川)は当時青山墓地の傍(そば)に大なる長屋門のある家に住し、一方には番町に仏学塾などを開きて、門戸を張つてゐた」と記しています。蘇峰が、青山墓地のそばにあったというその兆民の屋敷を、友人とともに訪問したのは明治15年(1882年)の夏。仏学塾も兆民の生活状況も、もっともピークにあった時期であったと思われる。明治15年当時、兆民は35歳(満年齢)。蘇峰の先ほどの文章は次のように続いています。「この人は顔に痘痕(あばた)があり、雀班(そばかす)があり、痩ぎすの小柄にて、何等(なんら)風采の人を動かすものはなかつたが、その額は案外に広く、その眼は小さかつたが、キラリと光つて居り、その唇は薄かつたが、寧(むし)ろ鋭敏なる才気を示して、軽薄を示さなかつた。」そしてこうも記している。「それは兎も角も、予は爾来中江氏の死に抵(いた)る迄、親友と云ふ能はずんば、尠(すくな)くともそれに幾(ちか)き者の一人であつた。」この文章を蘇峰が記したのは昭和10年(1935年)9月21日。この蘇峰の文章に滲み出ているのは蘇峰の兆民に対する敬愛の念。蘇峰が初めて東京で兆民に出会ったのは、明治13年(1880年)の出京の時と思われる。とするなら、富士山に登頂し、足柄道を踏んで東京に向かう17歳の猪一郎の脳裡には、東京で対面し議論をするべき相手の一人として、中江兆民の名前があったのではないか、と私には推測されてくるのです。 . . . 本文を読む

2010.3月取材旅行「徳富蘇峰が歩いた富士山東麓北郷村」 その2

2010-03-30 05:00:27 | Weblog
明治13年(1880年)8月、富士山を登頂して、須走から足柄道経由で東海道にふたたび出て東京に向かった17歳の徳冨蘇峰(猪一郎)は、東京で中江兆民(篤助)に会う。翌明治14年(1881年)、郷里熊本に戻った蘇峰は、熊本の民権政社「相愛社」に加わり、その機関誌『東肥新報』の編集を担当。翌15年(1882年)3月には自宅に地方青年を集めて「大江義塾」を開いて、地方青年たちへの教育・啓蒙を開始します。『中江兆民評伝』によると、熊本にあった猪一郎(蘇峰)は、『東洋自由新聞』を第一号から購読しており、蘇峰およびその塾生たちが、『東洋自由新聞』を閲覧していたことは疑いないであろう」という。『東洋自由新聞』が創刊されたのは、明治14年(1881年)3月18日。同年4月30日には廃刊していますが、猪一郎が兆民の自由民権論に強い関心を抱いていたらしいことが、このことから推測される。猪一郎は、仏学塾で発行された『政理叢談』からも大きな刺激を受けていました。この『政理叢談』は、明治15年(1882年)2月20日から翌16年の12月17日まで刊行された雑誌。陸羯南(くがかつなん)は『近時政論考』で、「中江氏等のおもに崇奉せしはルーソーの『民約論』なるが如く、『政理叢談』はほとんどルーソー主義と革命主義とを以てその骨髄となしたるが如し」と評していますが、この『政理叢談』の圧巻は兆民訳の『民約訳解』であり、これが猪一郎やその塾生たちなど、全国の地方青年たちに大きな思想的刺激を与えたことはまず間違いがありません。松永昌三さんは、「兆民は、このルソーの著作を翻訳することを最大の課題として漢文修業を行なったとみなしても、あながち失当たではあるまい」としていますが、そう考えると、17歳の猪一郎が東京に出た時、三島中洲の二松学舎や岡松甕谷の紹成書院で漢学を学んでいた兆民(猪一郎は紹成書院で兆民と一緒だったといわれる)は、ルソーの『社会契約論』を漢文訳するために漢文修業に励んでいたことになり、初めて出会った兆民と猪一郎が話を交わしていたとすれば、その漢文修業の動機についても語られた可能性がある。猪一郎は、青年時代に、兆民を通してルソーの民約論に強い関心を持ち、また兆民の論説にも強い関心を持ち、それらから思想的影響ないし刺激を受けていたことが、以上のことからも推察できるのです。 . . . 本文を読む

2010.3月取材旅行「徳富蘇峰が歩いた富士山東麓北郷村」 その1

2010-03-28 06:49:48 | Weblog
徳富蘇峰(猪一郎)が同志社英学校を卒業目前に中途退学したのは明治13年(1880年)の5月。退学した17歳の猪一郎は東京に向かうのですが、どういう動機であったか富士登山を決行します。富士川を渡って大宮(現在の富士宮)経由で富士山の頂上を目指したようであり、とすれば村山口登山道を利用したと考えてまず間違いはない。頂上に達した猪一郎は、下山道として須走口登山道を選び、砂走りを利用して一気に下り、須走浅間神社に出るとそこから須走村を通り(あるいは宿泊して)、足柄道を上小林→古沢→竹之下→足柄峠→関本→小田原と進み、ふたたび東海道に出て東京へと向かいました。当時は東海道線はまだありませんから、おそらくほとんどを徒歩で移動したに違いない。それから33年後の1913年(大正2年)の夏、蘇峰(猪一郎)は、東京から東海道線を利用して御殿場駅で下車。そして丸1ヶ月を高根村増田(現御殿場市)の臨済宗妙心寺派青龍寺で過ごしました。8月3日の夕刻、蘇峰は散歩に出ますがたまたま古沢の浅間神社へ出ました。杉の巨木が屹立する一幣司浅間神社の境内の北側は足柄道が通る。その杉の巨木と足柄道を見た時、蘇峰は33年前に自分がこの道を歩いたことを思い出しました。「予か明治十三年八月、大宮より富士に登り、須走に降り、竹ノ下を経て、足柄を越え、小田原に出(い)つるや、実に此の道を経たりし也。今や三十三年目に、此(この)道を逍遥す、偶然とは云へ、予に取りては、洵(まこと)に無量の感慨あるを免かれさる也」。当時蘇峰は齢(よわい)50歳。33年前、富士山を下り、足柄峠へとこの古沢の浅間神社の脇を通過していった若き日の蘇峰(猪一郎)は、東海道へ出て東京へ向かおうとしていました。東京に出た17歳の猪一郎は、中江兆民と会っている可能性がある。松永昌三さんの『中江兆民評伝』によれば、当時、兆民は三島中洲の二松学舎に学び、また岡松甕谷(おうこく)の紹成書院という塾に学んでいた(両方で漢学を学ぶ)のですが、「一八八〇(明治13)年、徳富蘇峰も同塾(紹成書院のこと─鮎川註)に学び兆民も一緒だったといわれる」とあるからです。東京に出た蘇峰は、そこで兆民と初めての出会いを持ったと考えられる。それから33年後に古沢を訪れた蘇峰は、そこで青雲の志を抱いて東京へ向かっていった若き日の自分を思い出したのです。 . . . 本文を読む

「富士講」について その最終回

2010-03-27 08:10:18 | Weblog
『富士講の歴史 江戸庶民の山岳信仰』の著者岩科小一郎さんは、角行や身禄は、富士講の根であり幹であって、富士講という花はその幹から枝が出て咲いたものであるとする。「したがって身禄以前には講という名称はないとみてよい」と指摘する。また「富士講」という名称が公文書に初出するのは寛政7年(1795年)の町触れであるとしています。「近年富士講と唱(となえ)、奉納物建立を申立て俗にて行衣(ぎょうい)を着し……」といった内容の町触れ。「行衣」というのはあの富士登山の時に着ていく白装束のことで、「俗にて」というのがポイントとなる。たとえば富士講の先達(せんだつ)は、本山・当山その他どの山伏の派にも属してはいない(体系的には修験の範疇に入るけれども)。講員も富士講に属してはいるけれども、本山・末寺制度の中にある檀那寺があって、その檀家であり、死ねばもちろんその檀那寺(菩提寺)のお墓に入る。「講」というのはもともと同じ目的をもった地域の人々の集まりであって、一つの家で幾つもの講に所属しているというのはきわめてありふれたことでした。富士講はその数ある講の一つであって、身禄の教えを守り、信仰の対象である富士山に登山することを目的とする講。その集まりのリーダが「先達」であって、先達は信仰のリーダーであり、富士登山の際の引率者でもある。したがって「先達」は、御師の認定によりその立場に就くものの、富士登山の熟達した経験者(登山回数7回以上)であり、講員の信頼を集める人柄であることが重要でした。富士講には月1回の「月拝み」(法会)があって、講員たちは「先達」や「世話人」の家に集まります。そこで身禄の教えをもとに「先達」によりさまざまな教えがあり、講員たちはさまざまな悩みを「先達」にぶつけ、「先達」はそれを解決しようとします(それが「衆生済度」)。この場が日常的には富士講の重要な場であって、「先達」が力を発揮する場であったわけです。しかし「先達」は宗教専門職的立場にはいない。身禄は、「先達」のつとめは「家をたいてん(退転)して勤める行にはあらず」としており、「身にそなわりたる家職」に励んだ上でつとめるものでした。なぜか身禄は、専門的な宗教者を嫌う。尼・入道・坊主・山伏を嫌うのですが、彼らは信者からのお布施で生活し、庶民の日常的な悩みの世界(本音の世界)からは離れたところにいたからかも知れません。 . . . 本文を読む

「富士講」について その5

2010-03-26 06:57:53 | Weblog
『岩波講座日本通史 別巻2』に宮崎ふみ子さんの「民衆宗教のルーツをもとめて─富士講」という論文がある。これは富士講の研究史をたどることによって、富士講の歴史的位置や特質を押さえようとした論文で、「富士講」というものを調べるにあたってたいへん参考になる論文。研究史については措いといて、富士講の歴史的位置や特質、言い換えればなぜ江戸後期の江戸市中の庶民を中心とする人々が富士講というものに心を惹かれたのか(「八百八町」と言われた江戸市中に、「八百八講」と言われるほどの富士講の爆発的広まりがどうして生まれたのか)ということについて、宮崎さんが触れているところを、抜き出してみたい。 . . . 本文を読む

「富士講」の富士登山 その4

2010-03-24 07:04:12 | Weblog
富士講の人々が吉田口(北口)から登るのは、そこは富士講の開祖とされる角行や中興の祖である身禄の修行の跡が多く、また身禄もおもにその登山道を利用して富士登山をしたから。田辺十郎右衛門という人物がいる。この人は八合目の「大行合」で登山者相手に水売りをやっていた人であり、食行身禄が享保18年(1733年)6月、断食入定を決意して富士登山をした時、一緒に伴った人であり、また入定するまでに身禄が一日一話をした相手でもある。その話をまとめた『三十一日之巻』は冨士講の聖典であり、身禄派の隆盛はこの人物により築かれていったといっていい。この田辺十郎右衛門の家は上吉田にあり、身禄は初めは瓶子屋(田辺伊賀)を富士登山の際の宿としていましたが、次に大国屋(田辺和泉)に移り、最後は八合目「大行合」で水売りをしていたこの田辺十郎右衛門の家を宿とするようになりました。その関係で、十郎右衛門は身禄の直弟子となったのです。このこともあって、身禄死後、江戸市中に富士講が急速な勢いで広まっていくと、上吉田の御師の家が富士講の人々の宿泊先となり、幕末には80軒以上もの御師の宿坊が集中することになるのです。というふうに考えると、上吉田の御師宿の繁栄は富士講によって築かれることになったといっていいかも知れない。角行は富士講の開祖とされていますが、身禄以前に富士講はなく、身禄在世の時にも富士講はなく、身禄が入定した後、その教えを弟子たちが人々に広めたことによって富士講は生まれたのです。断食入定を決意した時、身禄は組み立て式の厨子を江戸から持参して来ました。この組み立て式の厨子は身禄自身が作ったもの。身禄は身長五尺(1m50cm)の小柄な人であったようですが、その厨子を背中に負って江戸から歩いてきたのでしょうか。田辺十郎右衛門と冨士の頂きに達した身禄は、そこを入定の地としようとしますが大宮役人に追い払われ、頂上から下った七合五勺にあった烏帽子岩のところを入定の地と定めて、そこで厨子を組み立てその中で座して断食に入ります。口にするのは水だけ。6月13日から7月14日まで31日間の教えをまとめたのが『三十一日之巻』。身禄が息絶えたのは7月17日ともその数日後であったともいう。というふうに考えると、身禄は、最初は頂上の「御内院」(噴火口=仙元大菩薩の居所)を拝する付近を入定の地と考えていたということになる。 . . . 本文を読む

「富士講」の富士登山 その3

2010-03-23 07:27:01 | Weblog
この図録に収められている絵葉書によって見ることができる富士登山のようすは、明治末期から昭和初期にかけてのもの。しかし、おそらく幕末の頃の富士登山のようすや登山道のようすも、この絵葉書に見られるものとそれほど大きく異なってはいなかったように思われます。たとえば冒頭カラーの「金鳥居」を写した絵葉書(写真)ですが、鉄道馬車の軌道が走り電柱が並んでいて通りのようすは大きく変貌しているものの、通り両側の家並みのようすは幕末のそれとそれほど変わってはいません。また登山道の石室のようすは、石造りであるだけに幕末においてもおそらくこの絵葉書の通りであったと思われます。上吉田の通りや須走の通り自体は鉄道馬車が走ることになって大きく変貌したものの、それ以外はそれほど大きくは変化していない(ようだ)、ということを押さえた上で、幕末における富士登山の実際を絵葉書から推測していきたいと思います。 . . . 本文を読む

「富士講」の富士登山 その2

2010-03-22 08:52:12 | Weblog
大月宿を過ぎたところで甲州街道を左折し、谷村を経て、小沼の「身禄茶屋」にて小憩をとると、まもなく上吉田に至る。この入口には大きな「金鳥居」が立っていますが、これを潜ると、通りの両側には各御師の宿坊への入口が次々と現れる。「金鳥居」は富士山の「一ノ鳥居」であり、俗世間と富士山の神聖な世界とを分ける境界としての役割をもつもの。この鳥居を潜れば、そこは富士山の神域であり、したがってそこにある上吉田宿はもう俗世間とは隔絶された世界になるのです。上吉田宿は御師の住宅を中心に、その御師の使用人や強力(ごうりき)などの家が集中している独特の空間。富士山は目の前(通りから見てやや左手)にその美しい威容を見せています。金鳥居を潜って真っ直ぐに延びる通りは、雛段状の段差があり、中央には用水が流れ、また石灯籠や登山記念碑などの石造物が各所に立っています。通りの段になっているところには敷石が施されており、段が崩れないようになっている。また通りには長い竿が幾本か立てられていますが、それには富士講の人々を迎え入れる幟旗(のぼりばた)がくくりつけられ、それが風にはためいています。水路脇には信者から奉納された、墨で黒々と文字が記された見上げるほど大きな木柱なども立っています。段状になっている通りは、この土地が富士山の北のすそ野に広がっているものだから、少しずつ上へと上がっていくのですが、その段ごとに両側に家があって、また御師の家への入口がありました。御師の家は通りからやや奥まったところにあるのです。先達に率いられた一団は、定宿である御師の家の入口を確認すると、通りから折れて細い道へと入っていきます。明治初年の上吉田宿の町並みを確認できるのは、『冨嶽写真 写された幕末・明治の富士山』(富士吉田市歴史民俗博物館)のP10の図。通りに沿った御師の家もありますが、多くの場合、通りから入った奥のところに御師の家があることがわかります。御師は、それぞれ檀那場をもっており、その檀那場からやってくる人々に自らの住宅を宿坊として提供し、富士登山のための世話を行っていました。したがってそれぞれの富士講の一団の宿泊する御師の宿は決まっていました。その家の御師とはすでによく見知っている間柄であったのです。ここでは、現在公開されている御師宿坊「旧外川家住宅」を例にとってみることにします。 . . . 本文を読む

「富士講」の富士登山 その1

2010-03-21 08:02:35 | Weblog
岩科小一郎さんの『富士講の歴史 江戸庶民の山岳信仰』によれば、富士講は「代参講」である。「代参講」と言えば、大山講もそう。「代参講」とは、富士山にしても大山にしても江戸から行くには旅費がそれなりに掛かるので、全講員が旅費を掛金して、それで代参者の旅費を賄うというもの。講金の集金に歩くのは世話人。講員100名で5年満期であると年に20人ずつ登山して5年で講員全員が登山できるという仕組み。5年に一回は、掛金をちゃんと納めていれば富士登山ができるということです。20年満期という場合もあって、その場合は「一生に一度の講」となり、富士登山に行けるのは一生に一度。掛金は少なかったのでしょうが、それだけに富士登山に行ける時の楽しみは格別のことであったでしょう。さて富士登山に行くことが決まれば、その用意をすることになる。まず行衣(ぎょうい)という白装束や頭に被る菅笠、白の手甲脚絆(てっこうきゃはん)。首に掛ける数珠や手に持つ金剛杖。それに右腰に掛ける鈴と左腰に掛ける下箱(げばこ・日用品を入れるもの)。「初山(はつやま)」と言って初めて富士登山をする時には、行衣は新調しますが、その後に登る時にはもう新調はせず同じ行衣をずっと着通しました。菅笠や手甲脚絆は新調したかも知れませんが、あとの物は他から借りたりお古であったでしょう。出掛ける前には精進潔斎(しょうじんけっさい)し水垢離(みずごり)をします。「マネキ」と言う布製の小旗(講旗)も用意されます。これには講社名や講印、先達や役員の名前が染められており、布の上端に細竹を入れて下げ緒を付け、旅宿や石室に掛けられ、そして富士山の拝所や休み茶屋に奉納されることになります。菅笠の正面にも講印が付けられています。さていよいよ出発です。富士登山に向かう講員を率いるのは「先達(せんだつ)」。出掛ける時期は、6月1日(旧暦)の「お山開き」以後。「先達」というのは「講三役」の一つで、信仰および登山におけるリーダーとなる人。講には「元講」と「枝講」があり、「枝講」は「元講」から枝分かれしたものですが、その「元講」の先達を「大先達」といい、「枝講」の先達を「小先達」というらしい。「先達」は御師が認定しますが、登山回数7度以上であることと講員から信頼される人柄であることが重視されました。大勢の講員の見送りを受け、早朝、白装束の一団はいざ出立ということになる。 . . . 本文を読む

「富士講」について その2

2010-03-20 08:15:50 | Weblog
『江戸の参詣講─挑灯と講中札に見る霊場信仰』(秦野市)という冊子がある。これには挑灯と講中札が176も収められています。内訳は挑灯が9で講中札が167で、講中札が圧倒的に多い。この176の挑灯と講中札のうち、大山講・江の島講・富士講関係のものは83%を占める。つまり江戸の参詣講の行き先は、大山・江の島・富士山が圧倒的に多かったことを、この数字からうかがうことができる。年代としては文化・文政期(1804~1830)が半数以上を占める。「講中札元祖」とされているのは若松屋喜兵衛というものであり、「天明六年(1786年)三月始而(はじめて)札掛(ふだかけ)ル」とある。「講中札」をこの時に初めて掛けたというのです。講中札の実際は、最大のもので縦1m、横20cmほど。かなり大きなもので、冊子では、右側が講中札の表、左側が講中札の裏になっています。この「若松屋喜兵衛」とは何者かと言えば、「解題」によると、新吉原の遊女屋の経営者であるらしい。新吉原の江戸町一丁目の河岸(「お歯黒どぶ」と呼ばれた新吉原を囲っていた堀)に近い側に「若松屋」という妓楼があって、そこには「若梅」とか「若糸」とかいった座敷持5人と、部屋持8人。その他5人、合わせて18人の遊女がいたという。この若松屋喜兵衛が天明6年3月に初めて掛けた札が「新吉原永代片瀬月参講」というもの。「新吉原江之嶋巳待講」というものもあり、江の島信仰と新吉原の関係が深かったことを示しています。「御神酒講」の講中札も多く収められていますが、これは江の島や大山や富士山詣での時に御神酒を奉納するもの。魚問屋の講中札もありますが、これは日本橋の魚問屋のもので、「解題」には大山の御師(おし)が江戸に入ってまず最初に立ち寄ったのは日本橋とある。日本橋近辺にあった魚問屋と大山信仰の深い関係をうかがわせるものです。実は、この大山・江の島・富士山の三つはセットとして考えられていたようであり、「富士山を参詣したらカタマイリはいけない」と言われていました。どういうことかというと、富士山に参拝したものは大山にも必ずお参りするものだということであって、富士山と大山はセットにされており、さらに江の島にも参詣するものだというふうに考えられていたのです。さらに付け加えれば道了尊(大雄山最乗寺)もセットにされている場合が多かったのです。 . . . 本文を読む

「富士講」について その1

2010-03-19 06:55:24 | Weblog
富士吉田→須走→足柄峠→関本と歩いてきて思ったことは、この道は、「富士講」の人々がおびただしく往来した道でもあるということでした。石造物の中には、「富士講」関係のものがかなりの数を占めていました。富士吉田や須走の浅間神社境内および周辺、上小林の「きやり地蔵」の境内などは特に「富士講」関係の石造物が目立ちました。竹久夢二は、明治42年(1909年)8月14日に須走口から富士登山をしていますが、「宿の婆」より「おしずかにお山をなさいませ」と言われています。この言葉は、宿の者がこれから富士登山をする富士講の人々に掛ける言葉でもあったでしょう。夢二と元妻のたま子は須走口登山道を利用して頂上を目指しますが、そのルート上で多くの富士講の人々の白装束姿と出会ったはずです。たま子は具合が悪くなり八合目の石室内で横たわりますが、そこには白い衣に黒い袴をはいた富士講の「先達様(せんだつさま)」が現れ、富士講の人々に説教を始めました。結局、たま子の具合は戻らず夢二は富士登頂をあきらめ下山するのですが、登山道でも石室でも夢二は多くの白装束姿の人々に出会ったのです。徳冨蘇峰は、大正2年(1913年)の8月初頭に御殿場駅に下車しますが、その駅前で彼が見たものは「富士登山道者の雑沓」でした。8月4日、蘇峰は馬車鉄道を乗り継いで山中湖まで行き、再び馬車鉄道に乗って戻ってきますが、須走で小憩して馬車に乗ろうとしたところがそこには馬車に乗ろうとする白装束の「道者」たちが満ち溢れていました。蘇峰は次のように記しています。「即今道者雑沓、馬車に乗るの難(かた)きは、東京に於ける割引電車に乗るよりも難(かた)し」。明治・大正になっても、富士講の人々による富士登山がきわめて活発であったことを示しています。ルート上の宿場町や旅籠は、宿泊する富士講の人々で大いに賑わっており、またルート上の水飲み場は富士講の人々が休憩する場所でもありました。江戸は「八百八町」と言われましたが、江戸における富士講は「八百八講」と言われるほどに存在しました。つまりどの町にも富士講があったということですが、これは考えてみると大変なことで、夏ともなれば江戸から多くの富士講の人々が富士登山へと向かったことになります。江戸→富士登山→大山→江の島というルートはもっともポピュラーなコースであり、10日余りをかけて江戸に帰ってきたのです。 . . . 本文を読む

オランダ公使ポルスブルックの富士登山について

2010-03-14 08:56:18 | Weblog
オランダ公使ポルスブルックの富士登山について詳しいのは、『月の輪』の塩川甲子郎さんの「村山から外国人として初めて富士登山をしたラザフォード・オールコック」という論文と、遠藤秀男さんの『富士山よもやま話』という本。その二つを参考にして、ポルスブルックの富士登山についてまとめてみたい。このポルスブルックの一行に横浜の写真師であるベアトが、随行カメラマンとして加わっていたことはすでに触れた通りです。またこの一行を構成したのは、幕府側の警護の武士たちであり、また人足や別当、また通詞でした。たどったルートは、イギリスの初代駐日公使のオールコック一行とほぼ同じ。警護の武士団の中には、ゴリラ顔のあの洋装の侍も加わっていました。 . . . 本文を読む

オランダ公使ポルスブルック一行の警護武士

2010-03-13 07:06:27 | Weblog
フェリーチェ・ベアトの写真を見ていると、この写真の人物はどこか別のベアトの写真で見たことがあるなと思わせることがある。それを意識してじっくりと写真を見ていくと、確かにそうであったことが判明する。『F・ベアト幕末日本写真集』だけを見ていた時は、そのことを感じたことはなかったけれど、『F・ベアト写真集2』を購入してその写真を見ていった時、そういう思いをしばしば味わうことになりました。そして調べてみると、同じ人物が違う題名で何度か登場してくることを確認したのです。たとえばいくつか例を挙げてみましょう。『写真集2』のP81に「母と子」という写真があり、眠りこけた幼児をおんぶしている若い女性が写っています。この目鼻立ちのくっきりした若い女性と、同P88の「化粧」と題された写真の女性とは同一人物。着ている着物や髷(まげ)の形まで全く同じだから、同じ時に撮影されたものと考えていい。実はこの女性はさらにあと2枚の写真にも被写体となっています。その1枚は同P75の写真。上の「駕籠」という写真の駕籠に乗っている女性がそれ。着物は同じであるからやはり同時期に撮影されたものと思われる。もう1枚はP61の「踊り子」。同ページの下の解説には、「この写真に写っているのは、まだ豪華な衣装を身につけておらず、足の運び、というよりむしろ流行の踊りのポーズを練習している非常に綺麗な踊り子である」と記されています。同じ若い女性が、子をおんぶしたポーズで、化粧をしているポーズで、駕籠に乗っているポーズで、そして踊っているポーズで、それぞれの写真に写っていることになります。室内で写された2枚(化粧・踊り子)については、畳の柄から同じ場所で撮影されたものと見てまず間違いない(これはベアトのスタジオである可能性が高い)から、この若い「綺麗な」女性は一連の写真を撮る際に、モデルとしてベアトに採用された女性ということになる。もう一つ具体例を挙げましょう。同書P62の「娼妓」という写真に写るやや年増の厚化粧の女性。この女性は同P90の「社交的な食事」という写真の真ん中に座っている女性と同一人物で、着物も化粧も同じ。ということは同時期に同じ場所(もしくは近くの場所)で撮影されたものと考えられる。私は『酒匂川の浅瀬』の写真を見て、輦台に座っている武士の中に、この男の顔はどこかで見たことがあるなという人物を見付けました。 . . . 本文を読む

2010.2月取材旅行「関本~井細田~酒匂川」その最終回

2010-03-12 06:45:09 | Weblog
蓑笠之助は会所を酒匂川西岸の吉田島に置き、酒匂川の東西両岸83ヶ村の地方(じかた)支配に取り組みました。もちろん宝永の富士山大爆発によって生じた積砂や洪水災害により疲弊・荒廃したこの地域の復興をはかるという重い課題を担っていました。着任後に彼が取り組んだことは、大蝗(いなご)による西日本の飢饉発生という事態への対策でした。享保19年(1734年)には、養父田中丘隅が造った文命西・東堤が、8月7日に襲来した台風による集中豪雨のために、翌日未明に相次いで切れるという事態が発生。文命堤だけでなく東岸でも堤切れが発生し、酒匂川西筋もそして東筋もたいへんな被害を受けることとなりました。この非常事態に対する蓑笠之助の動きは俊敏でした。その対応の速さはこれまでの役人たちとは大いに異なり「前代未聞」と地元で語られたほど。「村側から提出された訴願の処理も早く、その年の暮れには大口土手の仮締切りが行われ、翌年二月に本工事を開始、五月中には完了した」という。延享3年(1746年)、支配地域の復旧への道が開かれたことを見届けた笠之助は、10年余の地方支配の任務を終えて東海道を江戸へと戻っていきました。「笠之助の普請以降、かつてのような大決壊、村ぐるみの壊滅は発生しなかったようである。その意味で富士山宝永大爆発の二次災害としての酒匂川氾濫、足柄平野荒廃も、ここで一つの区切りに到達したことは確かである」と永原さんは記しています。この『富士山宝永大爆発』の要約であり圧巻とも言える部分は、第12章の「終りに」のところ。ここで永原さんは伊奈忠順・蓑笠之助など「地方(じかた)巧者」(現場の農政・土木関係のエキスパート)や有能な在村指導者の存在(役割)を重視するとともに、被災農民の意欲や底力というものを感動をもって強調されています。支配者からは「亡所もやむなし」と冷たく突き放されながらも、復旧への粘り強い取り組みを農民たちは諦めることなく続けていきます。そこでは村々に存在する計算的能力・文書作製能力・支配者側との交渉能力などが発揮されましたが、それは村々の名主を中心とする村役人層のリーダーシップがあってのものでした。被災農民の執念や底力はもちろんのこと、それをまとめ上げていった村役人層の役割というものを永原さんは強調するのですが、それは史料を読み込んでいく中で永原さんに見えてきたものであるのでしょう。 . . . 本文を読む

2010.2月取材旅行「関本~井細田~酒匂川」その5

2010-03-11 07:32:45 | Weblog
田中丘隅(きゅうぐう)は、武蔵国多摩郡平沢村(あきるの市)の農民出身。成人して川崎宿の本陣田中兵庫の養子となり名主を兼帯。農政や治水技術にすぐれ、享保6年(1821年)には『民間省要』を著しています。この丘隅を登用したのが町奉行であり関東の地方(じかた)支配を兼帯していた大岡忠相。丘隅が酒匂川治水の中心に登場してくるのは享保11年(1726年)以後のこと。その3年前の享保8年(1723年)7月、丘隅は幕命で「川通御用」として酒匂川筋を視察しています。享保10年(1725年)12月、大岡忠相は江戸屋敷に丘隅を呼び、来年から大口堤締切り普請に着工すべきことと、その経費は町奉行所から支出されることを伝えます。工事は享保11年(1726年)2月22日に開始され6月29日に完了。出来上がった新しい堤は、丘隅によって文命東堤・同西堤と命名されました。この新しい堤は比較的長持ちしますが、その理由の一つとして特筆すべきは、地元住民による治水・水防体制の組織化が行われたこと。具体的にいえば、水防組合が編成されて村別責任範囲(補修担当地区)が決められ、また補強のための土手裏への植栽が行われたりしたこと。この文命堤の完成によって、酒匂川右岸の村々には復興の兆しが見えてきましたが、これまで被害の軽かった左岸の村々において洪水の脅威が高まる事態が生じました。享保13年(1728年)8月、享保16年(1731年)5~6月に、土手が決壊して左岸の村々が大きな被害を受け、享保19年(1734年)には文命堤も決壊。その中で、足柄地方の幕領支配・酒匂川治水に登場してくるのが蓑笠之助でした。この笠之助の才能を見出したのは丘隅。丘隅が井沢弥惣兵衛のもとで多摩川治水普請に関わった時、丘隅のもとで働いていたのがこの笠之助でした。蓑家というのはもともとは伊賀忍者服部氏の一族で家康に仕えた家。大和猿楽の宝生座(ほうしょうざ)に属していたこの蓑家に、笠之助は養子として入りました。丘隅はよほど笠之助の人柄や才能に惚れ込んだようで、この笠之助を娘の夫とし(つまり養子とし)、文命堤普請の際にも側で働かせています。笠之助は、養父丘隅の死の翌年である享保15年(1730年)2月、酒匂川西堤普請を命ぜられるとともに荒地開発吟味役となり、翌年6月には支配勘定格となり、酒匂川の東西両岸83ヶ村の支配を行うこととなったのです。 . . . 本文を読む