鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「稚内 その2」

2008-09-30 04:32:48 | Weblog
抜海(ばっかい)で右折して峻険な崖道を登って丘陵の頂上部に至った兆民一行は、そこから広がる景色に我を忘れました。今まで進んできた苫前からここまでの海岸の砂浜が、まるで大きな白い虹のごとく湾曲して伸び、青い日本海上にはコニーデ型の利尻山が白い雲とともに突出。その壮大な眺めに、兆民と宮崎はほとんど同時に、「快なり」と感嘆の声を発しました。それより坂を下り、だんだんと深くなっていく森の中を進んで行くと再び海岸に出ましたが、そこが稚内でした。今まで、増毛を出立して以来、鬼鹿と苫前を除いてはほとんど一軒屋かたかだか二、三軒の集落に過ぎなかったのが、この稚内には数百戸もの人家が密集している。その集落を望見して、兆民は「喜ばしきこと限無(かぎりな)し」との感慨を洩らしています。それまでの行路が、太古の風景はかくやと思わせるほどの、よほど寂寞(せきばく)としたものであったのでしょう。馬子の先導である宿に入ったところが、初めは気付かなかったけれどもそこは馬子やそれに類する人たちが宿泊する宿で、現に隣の席では馬子たちが賑やかに飲み食いしていました。兆民と宮崎が、笑いながら酒を飲み始めた頃、通りを歩いていた男の1人が、宿で酒を飲んでいる2人をじっと見ている。それに気付いた兆民と宮崎は、その男の顔を見て、瞬時にその男の姓名を思い出しました。小樽から増毛までの汽船に乗り合わせた『北海時論』の記者である白土宇吉でした。白土は兆民らと一杯付き合った後、ただちに立ち去り、同じく『北海時論』の記者である武藤金吉と中村齢助を伴ってふたたびやって来て、兆民と宮崎を促して、場所を替えさせ(別のところで飲んだのでしょう)、さらに案内して稚内総代の1人である木下某宅(旅館)に連れて行きました。白土・武藤・中村の3名は、増毛から汽船で稚内に向かい、ここ稚内にしばらく滞在していたのです。宿の主人木下某は人となり、きわめて質朴。その旅館は、小樽で言えば「越中屋」のような立派な建物でした。兆民は木賃宿からホテルに移ったような思いを抱きました。この日は海も空もすがすがしい青色に満ちていて、2階の部屋から海を見晴るかすと、なんとサガレン島の島影がはっきりと見えました。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「稚内 その1」

2008-09-29 05:36:44 | Weblog
明治24年(1891年)9月8日の朝、兆民は、宮崎や馬子(まご・馬曳きで道案内を兼ねる)とともに、それぞれ馬(道産子)に乗って天塩の宿を出立。潅木が鬱蒼(うっそう)と茂った原野を二十町ばかり(約2km)進んだところで、天塩川の渡船場に出ました。この時、空がにわかにかき曇り、急に強い風が吹いてきました。渡し舟の船頭が、「人だけなら渡ることができますが、馬を載せてはなかなか渡れません」と言う。川を眺めると、波が立っていて、まるで海のよう。ということでやむなく馬首を回(めぐ)らして宿(菊地宅)に戻り、退屈しのぎに、宿の番頭を呼んでこの宿にあるたけの小説や軍書、新旧新聞紙などを持ってこさせて、それを蒲団に入りながら読むことに。翌朝は風もやみ外は快晴。嬉々として宿を出発した兆民一行は、天塩川を渡し舟で渡り、その日のうちに稚内に到着すべく、八里の道程を「飛ぶが如く」馬を走らせ(といっても道産子です)、正午頃、ワツカサカナイ(稚咲内)に到着。そこで昼食を摂ると、それより海浜に出て、左手に利尻島を見ながら抜海(ばっかい)というところに至りました。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「天塩 その3」

2008-09-28 05:45:59 | Weblog
新谷行(しんや・ぎょう)さんの『増補 アイヌ民族抵抗史』(三一新書)によれば、幕末において、「多くの和人が蝦夷に渡ってさまざまな見聞録を著しているが、これらはすべて物珍しげな目でアイヌ人を眺め、まるで獣の生態を見るごとく、その生活様式、風俗等々を記録しているだけである。」松宮観山の『蝦夷談筆記』も然り、最上徳内の『蝦夷草紙』も然り。しかし、「松浦武四郎の場合は違って」いました。「松浦は一八四五年(弘化二)に初めて蝦夷地へ足を踏み入れて以来、一貫してアイヌ民族を友とし、ついにはアイヌ同胞になりかわって、つぎつぎと請負人、出稼人、通辞など、和人の非道と不正を暴露して」いきます。彼の著作は膨大な数にのぼりますが、「そのどれにもアイヌ民族に対するかぎりない友愛の情が注がれていると同時に、和人の犯した非道な行為の数々を激しい怒りで告発している。このために松浦は松前藩の刺客につけねらわれ」ます。そして新谷さんよれば、松浦武四郎が蝦夷地の全島を歩いて最も怒りをこめて記録したのは、和人がアイヌの女性に対して行った行為でした。アイヌの女性たちの多くが、漁場の支配人や番人、出稼ぎ人などの和人によって「慰み者」とされ、妊娠した場合は堕胎させられているという現実でした。アイヌ民族の人口(松前地方居住の者を除く)は、文化年間から安政元年(1854年)にかけて2万6800余人から1万805人に急減。とくにひどかったのは、シャコタン(しゃこたん)場所から宗谷場所に至る地域で、文政5年(1822年)に6131人だったのが安政元年には3400人余になっていました。このシャコタン場所から宗谷場所に至る地域とは、兆民が旅した北海道西海岸の地域とほぼ重なります。兆民が旅したのは明治24年(1891年)であるから、安政元年(1854年)から36年後。この地域のアイヌの人口は、さらに激減していたことでしょう。明治になって開拓使が設置され(明治2年)、蝦夷地が明治政府の直接支配を受けるようになると和人の移住はさらに増加。漁撈や狩猟が大がかりになり乱獲が進んでいったことにより、アイヌの生活は窮迫の度を増すばかりでした。明治24年(1891年)において、全道人口は46万9088人、アイヌ人口は1万7201人。わずか3.67%を占めるに過ぎなくなっていました。ちなみに大正6年(1917年)には1%を割っています。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「天塩 その2」

2008-09-27 06:26:51 | Weblog
遊歩道を進むと、左手に「天塩川歴史紀行 『天塩日誌』を訪ねて」というガイドパネルがありました。それによると『天塩日誌』の著者である松浦武四郎は、安政4年(1857年)6月7日、北方に向かってこれから天塩川の河口を海に出ようとしている箱館奉行堀織部正(おりべのしょう・利熙〔としひろ〕・1818~1860)の一行を見送った後、アイヌの男性4名とともに延べ24日間の天塩川探査に出発しました。アイヌ男性4人の名前は、アエリテンカ、トセツ、エコレ、トキコサン。船は2人乗りのひょうたん型をした丸木舟。松浦武四郎は、その前日である6月6日に天塩に到着して宿泊。この6月7日に天塩川河口付近を丸木舟に乗って出発し、名寄川および天塩川の沿岸地帯および上流を探査。オニサッペというところには、上流探査からの帰途、6月27日に宿泊していますが、ここが「北海道」命名の地であるらしい。そして6月30日に出発地点である天塩に戻り、そこで泊まって長かった探査の疲れを癒しました。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「天塩 その1」

2008-09-26 05:10:05 | Weblog
風連別(「フーレンペツ」)という地名は、松浦武四郎(たけしろう・1818~1888)の『近世蝦夷人物誌』にも出てくるようです。それによれば、フーレンペツには、「占(まじな)い師」クウシュイという者が住んでいたらしい。またここには通行人の宿泊のための番屋もあったという。道も「上道」と「下道」というものがあったとも。おそらく「上道」とは、崖上の丘陵をくねくねと遠別・天塩方面につながる道であり、「下道」とは、崖下の砂浜を同じく遠別・天塩方面とつながる道(波打ち際の道なき道)であったでしょう。風連別の土地の人の話によれば、「上道」はかつては曲がりくねった細い道で、丘の登り下りもあって、遠別へ行くにもたいそう時間がかかり、たいていは「下道」、すなわち崖下の海岸沿いの道を利用したとのこと。風連別には、通行人のための道があり、宿泊するための施設(風連別川の河口付近か)が幕末にすでにあったことが、松浦武四郎のこの記録からわかります。ちなみに松浦武四郎は、留萌・苫前・風連別・天塩などにおいて、この土地に住むアイヌの「人物」たちについての興味深い記録を残しています。さて遠別より天塩まではおよそ20km(五里)の行程。この間を兆民一行は原野の中の一本道をひたすら北上しました。この道行きにおいて兆民一行の目の前に展開された光景は、きわめて印象的なものでした。馬上から見渡す原野には、淡紅色のハマナスの花が一面に咲いていたのです。その美しさは「言語に絶えたり」としか表現できないものでした。しいて表現するならば、天に連なる緑の絨毯(じゅうたん)の上に「千億の珠玉を散らした」ような光景。その淡紅色のハマナスの花の群落の中に、後咲(あとざ)きの花も混じっていて、それらの花々の香気が、その群落の中を進む兆民一行を包み込みました。この鮮やかな「錦繍(きんしゅう)世界」を馬にまたがって乗り切った兆民一行は、その日の午後4時頃天塩に到着し、「駅伝」の「菊池某方」に入ったのです。明治24年(1891年)9月7日のことでした。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「風連別 その7」

2008-09-25 05:23:01 | Weblog
兆民が風連別の宿で宿泊(2泊)した当時、家は一軒のみであったという。ニシン漁も、建網50余統の願書が出されていたものの、まだ許可は下りていませんでした。しかし、土地の方の話によれば、風連別の川筋や旧道の両側には、かつて家が密集し、浜辺にはニシン船が置いてあって、二シン漁が盛んに行われていました。つまり兆民がここを通過した明治24年(1891年)以後、ここ風連別には人が入植し、昭和29年頃までニシン漁が盛んに行われていたということです。神社(豊岬稲荷神社)も出来たし、小学校(豊岬小学校)も出来たのです。お寺(浄土宗法心寺)も出来ています。この風連別に多くの人が入ってきたのは、兆民が旅した年の後になるわけですから、兆民はこの土地の賑わいはとうぜんのことながら見てはいないことになる。であるなら、なぜ2泊しているのか。考えられるのは、遠別方面へ向かう崖下の砂浜の道(道なき道)が通れる状況ではなかったこと。風連別からしばらくはかなり急傾斜な崖が右手に続いていくことになるのですが、一昨日来の風雨の余波で大きな波が打ち寄せていたということでしょうか。宿の主人である宗五郎と話をしたり、付近の台地の上(現在の「みさき台公園」のあるあたり)を荒波の打ち寄せる日本海を眺めながら歩いてみたりしたのかも知れない。早朝から夕暮れまでの景色の変化を楽しんだのかも知れない。全く人家のない、広漠たる海と陸地の景色の広がり。「北海道の本色」があらわれて、「天地開闢(かいびゃく)の初(はじめ)」とはこういう景色であったか、との思いを、兆民にふたたび痛感させるような展望であったと思われます。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「風連別 その6」

2008-09-24 05:26:19 | Weblog
 風連別の宿を出立した兆民一行は、ふたたび馬にまたがり、「ウヱンベツ」(遠別)で昼食を摂りました。ここもやはり一軒家。苫前から天塩まではおよそ20余里(およそ80km)。兆民の記すところでは、たいてい五里ないし六里ごとに人家が一軒宛(あて)の割合で存在しました。苫前→築別→風連別→遠別→天塩、といったところでしょうか。この一軒家は宿を兼ねていたようですが、どれも茅葺(かやぶ)・板戸で、わずかに炊煙を上げているのみの貧しそうな家でした。ところがこれほど貧しそうな家であるのに、兆民にとって、「怪訝(けげん)に堪(た)へざる一事」がありました。それは、どの家でも、客人に出す茶は必ず「玉露(ぎょくろ)」、飯は必ず「白米」であったこと。かつて四国や九州を旅した時の「山林田舎」のように、麦飯・粟飯・芋飯と、黒く煤けた茶壷で数日夜来煎(せん)じ続けた渋味の番茶を出すのとは大違いでした。兆民は、これを、小樽や札幌などの都会に植え付けられた「奢侈贅沢(しゃしぜいたく)の種子」が風に吹かれて、この僻遠の地まで流れてきて定着したものだとしています。たしかにそうかも知れないが、これはニシン漁の繁栄と無関係のことではないでしょう。この時期(9月初旬)、二シン漁の漁期は終わっており、一時期の賑わいは西海岸から消えていましたが、そのニシン漁による利益はこの地域の経済をそれなりに潤(うるお)していたに違いない。この「玉露」や「白米」は、まだ当時、小樽などに姿を現していた「北前船」などによって、上方(かみがた)や北陸・東北地方などから運ばれてきたものであったでしょう。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「風連別 その5」

2008-09-23 06:56:21 | Weblog
風連別の旅店の主人船水宗五郎は、兆民たちに、地面払い下げの願書を出してからかなりの年数が経っているがまだ辞令書が得られていないことを訴える。近来土地を開墾し畑を耕し収穫を得ているけれども果たして所有権を得られるものかどうかとも。そこで兆民は、「ニシン業の方はどうか」と問いかけます。すると宗五郎は、「ここにはニシンかたいそうやってきます。だから建網(たてあみ)五十統余の願書が出ていますが、いずれもいまだに辞令が出ていません。私も一統分だけ願書を出しているのですが…」と答えました。すなわち願書を出してもお役所の事務処理が滞(とどこお)っているのです。兆民は、ここはたしかに広大な北海道の中でもとくに僻遠(へきえん)の地で、しかも道庁役人がしばしば交代しているからこのような状況はとうてい免れないことなのだろうと思いつつも、その事務処理の停滞という積弊(せきへい)は解決がなされるべきだ、という思いを抱いています。この記述からもいろいろなことがわかりますが、風連別にも、この時期ニシンの大群がやってきていたことがわかります。「建網五十統余」といえば苫前に匹敵する。西海岸中、ニシン大漁場の一つになる可能性を秘めていたことになります。しかし僻遠の地であることや道庁役人の頻繁な交代のために、願書の事務処理がはなはだしく停滞し、土地の人々の不満を招いていた、という現実があったのです。ここで一つ不可解な点。兆民一行(といっても宮崎と馬子を含めて3人)が風連別の宗五郎の旅店に入ったのは9月5日。ここに一泊していることは確実です。ところが天塩に宿泊したのは9月7日のことでした。7日の昼、一行は遠別(えんべつ)でお昼を摂っています。風連別から遠別まで約20km。遠別から天塩までもおよそ20km。ということは風連別から天塩まで約40km(十里)。馬に乗っておよそ7時間前後の距離。ところが天塩到着は7日の夕刻前。考えられることは、風連別に兆民一行は2泊しているということ。風連別で兆民は何を見たのか。なぜもう一泊したのか。辺りを歩いたとしたら、どういう景色を彼は見たのだろうか。そういったことを念頭において、晩夏の青い日本海が見える風連別の地で取材をしました。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「風連別 その4」

2008-09-22 06:01:11 | Weblog
中江兆民が北海道西海岸を旅した明治24年(1891年)当時、苫前(とままえ)は「鰊(にしん)建網(たてあみ)五十余統」もある「西岸中大漁場」の一つとして人家が集まっていたようですが、築別(ちくべつ)には漁師の家は一軒しかなかったようだ。ここで兆民は、鱒(ます)の塩焼とノナ(ムラサキウニ)の塩辛をおかずにしてご飯を3杯も平らげています。よほど美味であったのでしょう。この漁家の主人とは実に面白い出会いであったようです。暴風雨でずぶぬれになった2人は、漁家に入ると囲炉裏端に座ってその家の主人に挨拶をしました。主人はぼろ服で髪の毛はぼさぼさ。本を読んでいた主人は、読んでいた本を傍らにおいて挨拶に答えました。兆民が、主人が熱中して読んでいた本を手に取ってみると、それは滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の「第九輯(しゅう)」(第9巻ということか)でした。主人の名を聞くと、青木宗吾。毎年焼尻島(やぎしりとう)に渡って二シン漁に従事しているのだという。二シン漁は2月末からせいぜい6月まで。その二シン漁を終えて苫前の自分の家に戻って来ているのです。主人は話の中で、焼尻島の斉藤という人物の人となりをいたく誉めたのですが、この斉藤の名前を兆民は知っていました。兆民が「少々関係」していた「金弦社」の社員であったからです。この「金弦社」がどういう団体であったかは今のところ私にはわかりませんが、兆民は、「それほどに面白い人なら、来年は自分も貴殿と同行して焼尻島に渡ってみたいものだ」と言います。それを聞いた主人は喜びを満面にあらわしました。外に出て馬の荷鞍を見た主人は、それでは痛かろうと、座布団2枚を家の中から取り出してきて、兆民と宮崎に貸してくれさえしたのです。外はますます風雨が増していました。雨のために水量が増した川を、馬とともに渡し舟で渡って、草が生えている海岸沿いの道なき道を進みました。押し寄せる波は馬の足の半ば(30cm前後)に達するほど。「唯一条の手綱」に生死は係(かか)っていました。2人の馬には馬子(まご)がついていたことがここの記述からわかります。馬子は泣きそうな顔で、「天塩まではなかなか行けるものではありません。風連別というところがこの先にありますから、そこで泊まることにいたしましょう」と2人を促しました。右手はそりたった崖、左は怒涛の日本海。兆民はその道中、漢詩を一首作りました。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「風連別 その3」

2008-09-21 06:55:40 | Weblog
鬼鹿まで、兆民と宮崎伝は「開明国普通一般の道路」を、左手に広大な日本海を眺めながら進みました。鬼鹿に到着したのは9月3日午後5時頃。馬の継立所(つぎたてしょ・「駅伝」)でもある「住吉某方」に泊まりました。翌日4日の朝、再び馬(道産子)に乗り旅館を出発。苫前(とままえ)に向かうのですが、ここから先が道を行くのが困難で、沿道の人家も少なく、したがって人馬の通行もほとんどなく、ただ左手に波の打ち寄せる日本海の広がりと、右手に海岸に落ち込む丘陵の崖を見るばかり。兆民に、「天地開闢(かいびゃく)の初(はじめ)」の景色というものはこういうものであったのか、と思わせるほどでした。兆民にとって、確かに物寂しいけれど、物寂しければさびしいほどそれだけ愉快を覚えるような、北海道西海岸の道行きでした。苫前には4日の午後2時頃到着。入った宿(駅伝・馬の継立所)は「山カ(やまか)印」。この苫前より天塩まで十六里(およそ64km)の間は馬の継立所はないという。兆民たちは、その日、さらに先に進みたかった(日暮れまで4時間以上もある)ようですが、それから先を馬から下りて歩いていけば、海岸の砂地で歩行がはかどらず空しく日数を費やすおそれがあるだろうと判断して、やむをえず苫前に一泊することにしたのです。当時、苫前は、ニシン漁のための「建網(たてあみ)」が50余統もあるような西海岸におけるニシン大漁場の一つでした。翌5日早朝、昨夜来の暴風雨の中を兆民たちはふたたび馬に乗って宿を出発。鬼鹿以来、右は崖、左は海浜に沿って進みます。白い波が馬の足に打ち寄せ、波しぶきが体にかかる。右手の崖が尽きたかと思うと、右折すればまた崖が延々と延びている。全く同じ景色の中を、日本海の荒波の音を聞きながら、風雨や波しぶきに打たれながら2人は道産子の背中にまたがって進んでいきました。築別に入った兆民たちは一軒の漁師の家で昼食を摂り、天塩まで行くつもりが、風雨が激しく、馬子(まご)の勧めにしたがって、予定を変更して風連別(ふうれんべつ)というところで泊まることにしました。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「風連別 その2」

2008-09-20 06:21:22 | Weblog
 正午に留萌(るもい)に到着した兆民は、昼食を摂ると、馬を替えて再び出発。増毛より留萌までは四里。留萌より次の宿泊地である鬼鹿(おにしか)まではおよそ六里の道のりでした。この留萌から鬼鹿までの道は「開明国普通一般の道路」でした。この留萌より海岸に沿って鬼鹿へ向かう道筋に、一つのトンネルがあり、その真っ暗闇のトンネルを兆民と宮崎伝は、道産子に乗って潜り抜けました。鬼鹿に到着したのはその日9月3日の午後5時頃。留萌を午後1時頃に出発したとして、およそ4時間の道中。留萌~鬼鹿間はおよそ六里。道産子の進む速度は、時速およそ6km。人が歩くスピードよりもやや速い程度でした。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「風連別 その1」

2008-09-19 03:49:25 | Weblog
北海道には「ばんえい競馬」というものがある。馬が重い荷物を載せたそりを曳き、その力と速さを競うもの。この「ばんえい競馬」に使われている馬を「ばんえい馬」とも「ばんば」とも言う。漢字で書くと「輓曳馬」「輓馬」となる。この馬は、明治以後、軍馬や産業馬として外国から輸入されたものの混血で、在来馬(在来和種)とは異なり、体重も800~1200kg前後もある大型のもので、木材を運び出すなど主に重量物の運搬を目的として飼われてきたものだという。これに対して道産子(北海道和種馬)はずっと小柄。体高(肩までの高さは130cm前後)。日本には、現在、在来和種(洋種馬など外来の馬種とはほとんど混血することなく残ってきた日本固有の馬および馬種)は8種ありますが、その中でもっとも数が多いのが、この北海道和種馬(道産子)。ネットで道産子関係を調べてみると、共通するのは、丸い顔・優しく可愛い目・太い短い足・やはり太くがっしりした胴体・大人しく優しい・粗食に耐え、辛抱強く、頑丈な働き者といったところ。人懐っこいが必要以上に人間にベタベタしない、ともある。農耕馬としても乗馬用の馬としても、また運搬用の馬としてもほとんど欠点がない。しいて挙げれば、競馬用の馬と違ってスマートではなく速度が遅いことぐらい。ずんぐりむっくりしていて、愛嬌のある馬なのです。もともとは今や絶滅してしまっている南部馬が、江戸時代に内地から連れて来られたもの。それが蝦夷地(北海道)の山林原野に放し飼いされて、その気候・風土に適合していったものであるから、冬の厳しい寒さにもいたって我慢強い。冬、山林原野に放し飼いされて、背中に雪が降り積もり、胴体や鼻などからツララが垂れ下がっていても、一晩中、同じ場所にずっと立ち続けているほどの馬。冬、零下10数℃の世界を、全身霜をかぶったように真っ白になりながら荷物の運搬などに立ち働いたのも、この道産子でした。背中までの高さは130cm前後と、またがりやすく下りやすい。歩行の時の上下の揺れも少なく、性格もおとなしい。移動用の手段としても最適でした。なぜ上下動が少ないのかと言えば、和種の歩き方は「側対歩」であったから。すなわち、前後の足を片側ずつ左右交互に動かす歩き方であったから、だとのこと。兆民が増毛から乗った馬とはこういう馬だったのです。二、三里ほど乗ってみて、彼はすぐにその馬に慣れました。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「増毛 その5」

2008-09-18 06:08:29 | Weblog
 中江兆民が増毛(ましけ)から、生まれてから初めて乗ったという馬はどういう馬だったのか。兆民は、北門新報社の社員である宮崎伝とともに、増毛で2頭の馬を手配してもらい、その背中に乗って海岸沿いの波打ち際を、まず留萌(るもい)に向かって進んだのです。明治24年(1891年)9月3日の午前8時前後であったでしょう。港近くの旅店で、2人は風呂に入ってさっぱりとし、朝飯もすませていました。宮崎の方はともかくも、初めて馬の背中に乗る兆民は、はじめのうちはおっかなびっくり。しかし二、三里も乗り続けると、もう「恰(あたか)も馭法(ぎょほう・馬を操る方法)の深奥(しんおう)を極めた」ようになり、「頗(すこぶ)る愉快」な気分を味わうほどでした。この馬は「道産子(どさんこ)」であったに違いない。この「道産子」を、今回の取材旅行で私が初めて目にしたのは、札幌郊外の「北海道開拓の村」。レール上のあのレトロな馬車を引っ張っていたのが「道産子」です。クリーム色の小柄な馬で、客を載せた重い馬車を引き終わっても(1日何度も往復している)平然とした表情で静かに立ち止まっていました。優しい顔と黒い丸い眼をしていました。「開拓の村」には道産子が3頭いるということですが、おそらく名前があるはず。うっかり聞き忘れてしまったので、ネットでいろいろ調べたところ、1頭が「リキ号」であることはわかりましたが、あと2頭は判明せず。私が乗った馬車を引っ張った、あの白い馬は何という名であったのだろう。増毛の 龍渕寺(りゅういんじ)というお寺の庭の真ん中には、馬頭観音がありましたが、あの「馬」とは、おそらく「道産子」であったと思われます。ということで「道産子」をネットで調べてみたところ、もっとも詳しかったのは、「馬文化ひだか」(日高路発馬文化情報サイト)。それによると、この「道産子」のもとになったのは、江戸時代、夏の間使役するために連れてきた南部馬であったという。つまり内地からやってきたのです。しかし冬期になって原野に放置されてしまったことにより(野生化したものもあったでしょう)、蝦夷地の気候風土に適応した馬になっていきました。江戸時代後期には、南部馬とは違った特質を持つ馬が成立していたらしい。正式名称は「北海道和種」。山林原野に周年放牧して飼育されるのが基本で、飼料は笹(ミヤコザサ)が中心であったということです。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「増毛 その4」

2008-09-17 06:04:14 | Weblog
私の幼い頃の記憶に、「昆布巻(こぶまき)」というものがあります。とろとろの分厚い昆布で幾重にも巻かれた芯のところにあるのは身欠きニシン。一本そのまま食べたり、輪切りにして食べたりしました。これを売りに来た行商のおばちゃんの姿が、私の脳裡には刻みこまれています。家の玄関の上がり框(かまち)(といっても狭いものでしたが)に、おばちゃんがどっかりと座って、背中から下ろした籠(竹で編んであったような)の中から「昆布巻」を取り出し、母が財布からお金を出して、何か世間話をしながら買っていました。行商に来るおばちゃんとは顔馴染(かおなじみ)であるように感じられました。おばちゃんはもんぺと着物姿であったような気がする。頭には手拭いを巻いていました。食べると、昆布は口の中でとろけるような感じ。芯の身欠きニシンの方も柔らかでした。昆布を巻いているのはかんびょう。昆布をほぐして広げていったら、その大きさに驚いたことも。あのおばちゃんはどこからやって来たのだろう、と考えてみると、おそらく京福電車の三国線に乗って、三国からやって来たに違いない。歩いて来たのではなく、電車で福井平野の真ん中を走り抜けて、おそらく田原町で下車し、そこからお得意さんを行商に回っていたと思われます。当時行商にやって来たのは、昆布巻売りのおばちゃんだけではない。鰯売りのおじさんもいました。遠くから「いわーしわしわしわし…」という呼び声が聞こえてきたものです。魚屋さんが行商にもやってきました。自転車にリヤカーみたいなものを引いて、そのリヤカーにいろいろな種類の魚が氷とともに並べられているのです。買う魚を指示すると、おじさんがまな板の上で、その魚をさばいたものです。魚屋さんの店の名前は「魚伝(さかでん)」と言いました。富山の薬売りもやって来ました。木箱のようなものから子どもへのお土産である紙風船などをくれて、それが子どもには楽しみでした。さてあの「昆布巻」ですが、あれは三国港の人が作っていたものだと思われますが、原料の昆布やニシンは、北海道から運ばれてきたものであったに違いない。当時は昭和30年代。ニシン漁は昭和29年頃にニシンが来なくなったことによって突然途絶えています。三国は「北前船」の重要な寄港地の一つ。その歴史の中で生まれた三国の特産品の一つであったのでしょう。それを幼いときの私は、まだ、確かに食べていたのです。 . . . 本文を読む

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「増毛 その3」

2008-09-16 06:01:51 | Weblog
増毛町という町名の由来は、他の多くの北海道の地名がそうであるように、アイヌ語に由来します。アイヌ語の「マシュキ二」または「マシュケ」は、「かもめの多いところ」という意味。ニシンの大群が海岸に押し寄せてくる(これを「群来」〔くき〕という)と、海一面にかもめが飛ぶことから、アイヌ語の地名が生まれたらしい。そのアイヌ語に漢字をあてはめたもの。ニシンの大群がやって来ると、海が盛り上がって見えたという。海は魚群で黒く見えると思いきや、白くなるという。それはニシンのメスが産んだ卵にオスが精液をかけるからだというのだから、その「群来」のすさまじさが想像できるというもの。そのニシンを餌とするかもめたちがこれまた数え切れないほど海上を飛び回り、甲高い鳴き声を一面に響かせるのです。そのニシンの大群の押し寄せた海に向かって、浜辺から顔を紅潮させた「ヤン衆」たちを乗せたニシン船が乗り出していく。女や子どもたちは、そんな男たちを浜辺で見送るのです。マシケ(増毛)が最初に歴史に登場するのは宝永3年(1706年)のことだという。この年、松前藩藩士・下国家がマシケ領を知行したのですが、しかしそれは文字の記録として登場するのであって、そこにはアイヌ語の地名からわかる通り、ずっとはるか昔からのアイヌの人たちの綿々たる歴史がありました。宝暦元年(1751年)に「増毛場所」が生まれますが、この「宝暦増毛場所」の時代から、増毛は豊富な水産資源に恵まれ、とくにニシン漁は多くの冨を増毛にもたらしました。増毛の歴史や文化を特徴づけるのは、そのような二シン漁の繁栄によるだけではなく、北辺防備のために津軽藩や秋田藩の陣屋が置かれたことも大きな意味を持っているように思われます。たとえば秋田藩の元陣屋の軽輩(下級武士)たちが、増毛への永住を願い出て増毛の地に残ることになりますが(永寿川などの地名の由来)、そのような侍たちの有していた文化(武士文化)が、この町の文化や歴史を豊かにしたであろうことは容易に推測されるところです。明治時代半ば以降、増毛は港湾・鉄道の整備が進められたこととニシン漁の繁栄によりさらなる発展を遂げ、その繁栄の名残りを今でも町の各所に見ることが出来るのです。 . . . 本文を読む