『百年前の東京絵図』の山本松谷の絵が、私にとって興味深い点の一つは、街や通りの賑わいの中に子どもたちが描きこまれていること。さすがに吉原や神田の古着市場などには子どもは登場しませんが、親に手を引かれたり、赤ん坊を背中におぶったり、通りで遊びに興じたり、露店で買い物をしている子どもたちがあちこちに登場します。さらに、これは編者である山本駿次郎さんの関心によるのでしょうが、各所に、遊んでいる子どもたちを中心に松谷が描いた子どもの風俗や姿が、挿絵として掲載されています。これらの挿絵を見ると、私は、渡辺崋山の『一掃百態』に描かれた子どもたちを思い出す。たとえばP171の相撲に興ずる男の子たち、P140~141の輪を転がして遊ぶ子どもたち、P135の兵隊さんごっこをしている子どもたち、P94~95の遊んでいる女の子たちにへびを吊るした竿を差し出していたずらをしている少年たち……。これらを観ていると、松谷は、渡辺崋山がそうであったように、つねに懐(ふところ)に切り紙を忍ばせて(あるいは画帳を持って)、遊んでいる子どもたちの姿を見かけると、すぐにその切り紙を取り出してこまめにスケッチしていたのではないか、と思われてきます。松谷は、東京で、当時南画の巨匠であった滝和亭(たきかてい)に入門していますが、挿絵などを見るとその南画のタッチを感じさせます。この滝和亭は若い時に渡辺崋山や椿椿山(ちんざん)に私淑したというから、松谷の絵にはもしかしたら渡辺崋山の影響があるのかも知れない。当時の子どもたちの遊びの内容、日常の装いなどがよくわかります。また階層による服装の違いなどもよくわかる。たとえばP160~161の「比枝(ひえ)神社拝殿」。この画面の右手前には、女性教師に引率された女生徒たちが描かれています。稚児髷(ちごまげ)を結っていることから年の頃は10歳前後。解説では、ほとんど海老茶の袴(はかま)をはいていることから、比枝神社近くの永田二丁目にあった華族女学校小学科の生徒かもしれない、とされています。華族女学校に通っているということであれば、この女生徒たちはよほど上流家庭の子どもたちであるということになります。一方、画面左手には、庭掃除をしている男に近寄ろうとしている女の子がいて、赤ん坊を背負っています。頭には白手拭いを巻いています。ここには対照的な女の子の姿が描きこまれているのです。 . . . 本文を読む
『百年前の東京絵図』の山本松谷の絵(石版画)には東京の街の賑わいが描き出されています。したがって画面には老若男女、和装洋装、またさまざまな職種の人たちが登場します。どれか一枚でも絵を開いてみれば、そこにはさまざまな人々がさまざまな装いのもとに話を交わしたり、あたりを眺めたり、歩いたり、走ったりしています。さまざまな乗り物も描かれています。たとえば「旧京橋の図」(P58~59)。京橋の上には銀座・新橋方面に進んでいる鉄道馬車、日本橋方面に進んでいる箱馬車、相当に重そうな野菜らしき荷を積んだ大八車(鉄製の車輪と心棒)が走っています。橋の下の京橋川にはやはり荷物を積んだ荷船が行き交います。川の両側の通りには問屋街のすさまじいまでの雑踏があり、そして黒漆喰塀土蔵造りの商家と白壁の大きな土蔵が並びます。P48~49の「日本橋新年の景」には、木造の日本橋に馬車鉄道の二本の軌道が敷設され、その日本橋の上を、日の丸の旗を交叉させて銀座・新橋方面に向かって走る2頭曳きの馬車鉄道が描かれています。橋の下の日本橋川にも日の丸を交叉させた初荷の船が浮かんでいます。人力車の連なりが見えるのは、P44~45の「歌舞伎座」。歌舞伎座前の通りには人力車5台が連なって、歌舞伎座の前に今しも到着しようとしています。面白いのはP6~7の「八つ山(やつやま)付近の景」。これは東海道ですが、通りの奥に鉄道馬車が見え、そして手前に通行人と衝突して転倒した自転車とそれに乗った洋装の男が描かれる。広目屋(チンドン屋・「都囃し」)の一団を含む通行人たちが、その事故現場に視線を向けています。明治32,3年頃から東京では自転車が大流行しだしたという。人力車が連なって走る光景は「神田神社男坂を望む」(P67~68)にも描かれています。川に浮かぶおびただしい数の船が描かれた絵は、P120~121の「中洲付近の景」。画面後方の流れが隅田川で、手前が箱崎川。両方の川面には荷物を積載した大小さまざまの船が行き来しています。これを見ると、東京の経済が、河川を利用した流通により、かなりの比重で支えられていた時代があったことを再認識させられます。「解説 記憶の墓標」で、倉本四郎さんが「橋である。橋づくしである。…まるで、橋をぬきにしては、東京は語れないといったあんばいである」としていますが、それほどに江戸・東京は川が多かったのです。 . . . 本文を読む
山本松谷(しょうこく)とはどういう人物なのか。あらましは『百年前の東京絵図』の巻末、「山本松谷画業と生涯 知る人ぞ知る幻の画人」という山本駿次郎さんの文で知ることができます。本名は茂三郎。明治3年(1870年)11月9日に高知県後免町(現南国市)に生まれています。父は市蔵、母はいわ子。御一新までは父は土佐藩士であったというから、茂三郎は武家の子であったということになる。7歳の時、高知郊外の種崎村の絵師柳本洞素(やなぎもとどうそ)に入門。この洞素というのは山内(やまのうち)家の御用絵師であったという。明治12年(1879年)には洞素の推挙で、高知市蓮池町の河田小龍の塾に入っています。河田小龍はこの年56歳。「画人としてより、最も進歩的な知識人として土佐藩に登用され、幕末動乱の渦中に東奔西走しながら、坂本竜馬に影響を与えた人として知られる」とありますが、私としては、中浜万次郎(「ジョン万次郎」)の漂流談を『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』としてまとめた人物として馴染みがある。この『漂巽紀略』の全文は、その挿画とともに、『中浜万次郎集成』(小学館)の中に収録されています。明治15年(1882年)、小龍は入門3年目の茂三郎に「小斉」の号を与えています。茂三郎は明治22年(1889年)正月、神田駿河台紅梅町河岸にあった南画の巨匠滝和亭(たきわてい)に入門。この滝和亭、若い頃に渡辺崋山や椿椿山(つばきちんざん)に私淑していたというから面白い。雑誌『風俗画報』というのがある。これは、明治22年2月の帝国憲法発布記念として、日本橋区葺屋町の「東陽堂」から発行されたものですが、創刊号以来、「絵で読む新聞」として全国から記事や絵などの投稿が誌面を飾っていました。茂三郎も「早乙女図」という作品を投稿したところ、これに着目したのが編集責任者であった山下重民。茂三郎の「早乙女図」に「記録画の報道性と石版画に対応できる体質」を認めた山下重民は、この茂三郎を招いて「東陽堂」の絵画部員として採用することに。そして明治29年(1896年)の9月には、「松谷画業の本命ともいうべき『新撰東京名所図会』」の第一編が出されることになりました。これから最終巻(明治42年3月)まで10年余の画業が、彼の生涯の画業を代表するものでした。東京の街の賑わいというものを愛情を込め丹念に描き出した稀有の画家でした。 . . . 本文を読む
幕末・明治を生きた人々が歩いた道筋にどういう風景が広がっていたか、ということを知る手掛かりは、古写真であり、文章(小説・日記・紀行文・記録文・研究書・随筆等々)であり、また絵画資料(浮世絵・絵葉書・泥絵・石版画等々)であったりするのですが、とくに古写真や絵画資料ほどかつての風景を今に髣髴(ほうふつ)とさせるものはない。江戸・東京を調べていて、当時の人々のようすや街の風景がよくわかる絵画資料に出会った時ほど、うれしくなることはない。古写真も人や街のようすを知ることが出来るとても重要な歴史資料であるのですが、幕末や明治半ば頃までにおいては、その撮影に要する時間の制約もあって人々が動き回る雑踏を写し出すことは困難でした。指示通りに人を配置する(ポーズをとらせる)ということが必要でした。たとえば『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』ですが、ここに掲載されている写真はすべて臼井秀三郎が撮影したものですが、その風景写真の中に人が写しこまれているのはごくまれです。P159の「新冨座」には群集が写っているものの、動きがあるためぼけて写っています。P161上の「上野公園入口の洋式風車」は、明治10年(1877年)の第1回内国勧業博覧会の時のものですが、群集は写っていますが、やはり手前を中心にぼけています。その点で貴重なのは表紙カバーの裏側の、ギルマール一行を乗せた人力車の連なりを写した写真。これは明治15年(1872年)に写されたものと思われ、人力車夫の出で立ちや通り筋の商家のようすがよくわかる写真です。しかしみな臼井の構えるカメラを意識してポーズを取っています。それに較べると絵画資料の方は、雑踏を彩色のもとに描き、場合によってはその雑踏の中の人々の表情や生活の物音までを生々しく感じさせるものがある。写真の生々しさとはまた別の生々しさを感じさせるのです。当時の人々の生活は「ああ、こうだったんだ」「ああ、こうだったのか」とたしかに感じさせるものがあるのです。最近目にしたものでは、『東京市電名所図絵』の一連の石版画であり、また『百年前の東京絵図』の山本松谷(しょうこく)の石版画がそれでした。この『百年前の東京絵図』は、山本松谷が『風俗画報』の「新撰東京名所図会」に描いたものを抜粋したもの。ここには明治30年代を中心とした東京の通りを行く人々の様子、通り界隈の風景が見事に描き出されています。 . . . 本文を読む
「本郷通り」というのは実はかつての中山道。本郷追分(おいわけ)はここで日光街道(岩槻街道)が分かれるところ。この通りを啄木はよく歩いています。団子坂上の森鴎外宅(観潮楼)へ行く時ばかりでなく、下宿から近かったということもあってよく通りをそぞろ歩いています。本郷三丁目交差点(本郷通りと春日通りの交差するところ)は、当時、路面電車の停留場があり、また東京帝国大学がほんの近くにあるということもあって、学生などを中心に多くの人々が行き交っていたところでした。この本郷三丁目の西北角に洋品店の「かねやす」という老舗がありますが、ここはもともとは小間物屋で、「本郷もかねやすまでは江戸の内」という看板があるように、ここまでが「江戸の内」と意識されていた時代があったのです。「かねやす」はもともとここにあったのではなく、明治の市区改正以前は本郷薬師がある側にあったらしい。江戸時代から明治時代半ばにかけて、このあたりまでは黒漆喰の土蔵造り瓦葺きの家々が軒を連ねていましたが、 ここから先は茅葺きの家が並んでいたらしい。江戸中心部に住む人々にとって、ここからはもう田舎(郊外)の風情が感じられるところであったのです。そのことがよくわかるのが馬場孤蝶の『明治の東京』。その中に次のような記述がある。「僕の少年時分には、大学の赤門前などは、まるで田舎であった。確に兼安(かねやす)までは江戸のうちで、それから先きはどうしても宿場といわなければならなかった。縄暖簾(なわのれん)の居酒屋あり、車大工の店あり、小(こ)宿屋ありという風で、その前をば、汚さを極めた幌かけの危うげな車体をば痩せ馬に輓(ひ)かせたいわゆる円太郎馬車がガラッ駈けを追って通るのだから、今の大抵の田舎町よりもなお田舎びているくらいだった。」この円太郎馬車については、別のところでも次のような記述がある。「筋違(すじかい)即ち、大凡(おおよそ)今の万世橋のあたりから、神田明神前、本郷通り、追分、白山前などを経て、板橋へ通う乗合馬車は明らかに記憶しておる。随分車体は汚ならしく、馬は痩せていて、一寸(ちょっと)危険を感ぜられるくらいに見えて(中略)板橋で乗った客が大抵終点の筋違まで行くという風であったのではあるまいかと思うのだ。」つまり旧中山道の第一宿であった板橋と東京の中心(筋違=万世橋付近)を結ぶ乗合馬車が走っていた通りでもあったのです。 . . . 本文を読む
啄木は「本郷三丁目」の停留場から路面電車に乗って、たとえばどういうところへ行っているのだろう、ということを日記から探ってみました。甲武鉄道に乗るためにその始発駅である御茶ノ水まで。そこから甲武鉄道の電車(1両編成)で与謝野家のある千駄ヶ谷や、市谷、四ツ谷などへ行っています。中橋広小路。三田の芝公園─ここには吉井勇の家がありました。京橋。上野駅。江戸川の終点。神田橋外。神田─ここには平出修の勤める病院があり、また平出が住む家があった(北神保町2)。数寄屋橋─ここから滝山町の東京朝日新聞社に通勤。浅草─凌雲閣(浅草十二階)下の界隈(啄木はそこを「塔下苑」と呼ぶ)で遊んだり、電気館の活動写真を観ています。父と妻子と4人で連れ立って浅草に遊びに出た時もある。日比谷。両国。新橋のステーション。麻布霞町─ここには佐藤北江の家がある。田原町─金田一京助とともに浅草公園→吾妻橋→川蒸気で隅田川を千住大橋まで行き、そこからふたたび川蒸気で鐘ヶ淵まで戻り、そこから土手の上を歩いて言問橋からまた川蒸気に乗り浅草へ戻るという桜見物をしている。上野のステーション─上野から田端まで汽車に乗ったことも。また家族が上京してきたのを金田一とともにここで迎える。坂本─ここから吉原に初めて足を踏み入れる。日本橋。こうやってみてくると、4度目の上京の時の啄木の行動範囲は東京市内に限られていることがわかります。遠くても千駄ヶ谷や三田、千住大橋あたりまでで、そこからさらに郊外へ出ることはなかったのです。本郷三丁目から上野広小路を経て浅草までは、啄木はしばしば出掛けています。「追想」には、次のような記述もあります。「時として私は新橋なり上野なりの停車場に行つて、急(いそが)しく出(で)つ入(い)りつする人々を見ながら何時間も過すことがある。又、用もないのに電車に乗つて町々を乗廻してることがある。…痛ましい我が姿を白地(あからさま)に見ねばならぬ恐ろしさに、私はさうして耳を塞ぎ目を瞑(つむ)つて逃げ回つてゐるのだ。やがて、無理算段をした電車賃の尽くる日が来る。私には二里余の路をテクテク歩いて行く勇気がない」 啄木にとって電車は給料を手に入れるための不可欠の通勤の手段であり、また知り合いを訪ねる手段であり、そして自らの状況を忘れるための手段でもあったのです。それは乗り換え自由で、均一料金四銭の路面電車でした。 . . . 本文を読む
函館から啄木を乗せた三河丸が、荻の浜を経て横浜に入港し投錨したのは、明治41年(1908年)の4月27日午後6時。上陸して横浜に一泊した啄木は、翌28日の午後2時に横浜駅発の汽車に乗り、終点である新橋駅に午後3時に着いています。新橋駅前から路面電車(東京電鉄)に乗り込むと思いきや、啄木は予想に反して人力車に乗り込んでいます。啄木がめざしたところは、明治39年(1906年)もそうであったように与謝野寛・晶子夫妻の千駄ヶ谷の家(新詩社)でした。日記(「明治四十一年日記」)には次のようにあります。「三時新橋に着く。俥といふ俥は皆幌をかけて客を待って居た。永く地方に退いて居た者が久振りで此大都の呑吐口に来て、誰しも感ずる様な一種の不安が、直ちに予の心を襲うた。電車に乗って二度三度乗換するといふ事が、何だか馬鹿に面倒臭い事の様な気がし出した。予は遂に一台の俥に賃して、緑の雨の中を千駄ヶ谷まで走らせた。四時過ぎて新詩社につく。」啄木が新橋駅で汽車を降りると、駅前には幌をかけた多くの人力車が客を待ち受けていました。幌をかけていたのはあいにく雨が降っていたから。当時、山手線は走っていない。となるとここで出てくる「電車」とは、まず駅前(「芝口」)から出ている路面電車(東京電鉄)であり、御茶ノ水から出る(万世橋駅の開業は明治45年)甲武鉄道の電車であるに違いない。啄木は路面電車を乗り換えて御茶ノ水まで行き、そこから甲武鉄道で千駄ヶ谷まで行けることを知っていたと思いますが、「二度三度乗換する」ということが「馬鹿に面倒臭い事の様な」気がして、あいにくの雨模様ということもあり、与謝野宅まで濡れずに行ける人力車に乗ることを選択したのです。万世橋で乗り換えることが出来るならともかく、この時点ではたしかに「二度三度」乗り換えしなければならないとなると、啄木が躊躇するのも無理はない。4月30日の宮崎大四郎(郁雨)宛書簡を見ると、人力車に乗った直接の理由がわかります。「青葉の雨に傘なければ、直ちに俥に賃して千駄ヶ谷までまゐり候。」つまり啄木は傘を持っていなかったのです。そこで思い切って「なけなしの財布の底」をはたいて(5月7日・森林太郎宛書簡)、幌をかけた人力車に飛び乗ったのです。4月29日、啄木は千駄ヶ谷から甲武鉄道の電車に乗り、赤心館に赴くためにおそらく本郷行きの路面電車を利用しているはずです。 . . . 本文を読む
石川啄木が路面電車が走る東京を見たのは、明治39年(1906年)6月の3度目の上京の時であるに違いない。しかしその間の日記は残されていないし、その時の手紙を見ても電車に関する記述は出てこない。「渋民日記」の「八十日間の記」の中に、東京について、「予の感ずる処では、東京は決して予の如き人間の生活に適した処ではない。本を多く読む便利の多い外に、何も利益はない。精神の死ぬ墓は常に都会だ。矢張予はまだまだ田舎に居て、大革命の計画を充分に準備する方が可(いい)のだ。滞京中感じたことは沢山ある。逢うた人も沢山ある。然し豪(えら)い人は矢張無いものだ。」とあるばかり。行き先は千駄ヶ谷の新詩社、すなわち与謝野寛・晶子夫妻の家でした。4度目の上京の時(やがて家族を呼び寄せ、ここで死ぬことになる)になると、路面電車に関する記述(乗降地・車内風景・回数券・電車の音・事故・トロリーポールが架線と触れる時の光…)が、日記に頻繁に出るようになってきます。啄木が乗った路面電車はどのようなものであったかというと、それがわかるのが『東京市電名所図絵』のP171~P174の一連の写真。吉川文夫さんの解説によるもので、明治41年~明治45年にかけては、従来東京電車鉄道・東京電気鉄道・東京市街鉄道で使われていたものと、東京鉄道に一本化されてから新造されたものがまじり合って走っていたに違いない。明治43年に大型のボギー車(東京鉄道1121形)が登場するまでは、ほぼ同じようなスタイルの四輪単車でした。これ以外に当時の電車の様子がよくわかるのが石版画。掲載されている石版画からピックアップしてみると、P38~39が明治40年2月発行のもので、桜田門外を走る街鉄(東京市街鉄道)時代の緑色の電車が描かれています。P44~45は明治39年6月発行のもので、霞ヶ関から桜田門の間を走る街鉄が描かれていますが、夜景ということもあってその車体の色はわからない。前照灯が軌道を照らしているのが印象深い。P86~87は、明治42年3月発行のもので、両国橋を赤色のダブルルーフの電車が走っています。P90も両国橋を走る赤い電車(屋根部分と下は白)で、明治42年3月発行のもの。P116~117は浅草仲見世前(明治41年発行)。P124~125は両国国技館前(明治43年)。マークと番号が入り、車体の色は緑と茶、屋根はやはり白色です。 . . . 本文を読む
『東京市電名所図絵』のP54~55には、「万世橋駅前広瀬中佐銅像」という石版画が掲載されていますが、そこには次のように記されています。「東京の市電王国とも言うべき、神田須田町、万世橋、小川町界隈は、明治大正期に最も活気を呈した繁華の地。早朝から深夜の終電まで、電車は乗客で溢れ、運転手も車掌も首都の都大路を堂々と走りぬけていった。」この石版画が発行されたのは大正6年(1917年)であるから、関東大震災前の万世橋駅前界隈がここに描かれていることになります。右側の赤煉瓦の建物が「万世橋駅」で、この駅が甲武鉄道の始発駅として開業したのが明治45年(1912年)。啄木の没年ですが、啄木はこの駅舎が造られていく過程を目撃しているに違いない。中央の駅前にそびえているのが広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像。これは初代万世橋駅完成の1年前に出来たというから、明治44年に完成したもので、これも啄木は目にしているはず。左手に尖塔を頂く建物は神田郵便局。その右側の通りの奥には、やはり高架橋である昌平橋が見える。その赤煉瓦の高架橋の上を、当時は1両で運転していた甲武鉄道(現在の中央線)の電車がまさにすれ違おうとしています。この万世橋界隈の賑わいについては、『江戸東京物語 都心篇』(新潮文庫)にも触れられています。「それにしても、須田町がどうして東京一の盛り場になったのか。それは、ここがターミナルだったからである。現在のJR中央線が東京駅まで接続されたのは大正八年のことで、それまでは万世橋駅が終着駅だった。」万世橋の位置も構造も変遷していますが、今あるところに鉄橋として架け替わったのは明治36年(1903年)のこと。これはおそらく路面電車の軌道建設と関係があるように思われます。啄木は、この明治36年に架け替えられた鉄製の万世橋の上を走る路面電車に乗っていたということになります。これ以前の初代万世橋(現在の万世橋と昌平橋の間にあった)は東京で初めての石橋でしたが、これが描かれているのが、たとえば『百年前の東京絵図』(小学館文庫)のP92~93の山本松谷(しょうこく・1870~1965)の絵。手前左右に流れる川は神田川で、右端の石橋が初代万世橋。二連アーチのの石橋で、「眼鏡橋」として知られ、「わざわざ見物にくる人がある程有名で立派な橋であった」という。その左隣に架かる橋は、東京馬車鉄道の専用橋でした。 . . . 本文を読む
啄木が最初の上京をしたのは明治32年(1899年)の13歳の時。夏季休暇を利用して、姉とらの夫山本千三郎のもとに約一ヶ月間滞在しました。2回目の上京が明治35年(1902年)の10月末(16歳)。初めて新詩社の会合に出席し、また与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪問したりしましたが、病を得て、翌年2月に父に伴われて帰郷。3回目の上京が明治39年(1906年)の6月(20歳)。父の宝徳寺復帰運動を兼ねての上京で、夏目漱石や島崎藤村らの小説から強い刺激を受け、帰郷してから小説を書き始めるようになりました。そして4度目が明治41年(1908年)の4月28日(22歳)。こうやってみてくると、啄木は厳密には4回上京したということになる。そしてこの4回目の時、啄木は朝日新聞社に校正係としての職を得、家族を呼び寄せて、そして貧窮と病気(肺結核)のうちに亡くなります(明治45年4月13日・26歳)。啄木が死ぬ2年前には長男真一が生まれて間もなく死に、そして母かつも1ヶ月前に亡くなっています(肺結核)。さて、私が興味・関心のあることがらは、啄木が東京でどういう人々と出会い、またどういった光景や景観(景色)に出会ったかということですが、特に興味あることは東京の風景のうち路面電車です。東京市街に営業用として初めて電車が走ったのは明治36年(1903年)。2回目の上京まではまだ走っておらず、3回目の上京の時にはすでに走っています。そしてもっぱら路面電車を利用するようになったのが4回目の上京の時。「東京鉄道」一社時代から「東京市電」に移っていく時でした(「東京市電」になったのは明治44年)。一葉(明治29年没)や兆民(明治34年)の時代はまだ東京市街を路面電車は走っておらず、通りには人力車や馬車や馬車鉄道(ごく一部)が走っているばかりでした。ところが啄木になると、第3回目の上京の時には東京市内を路面電車が走り、そして第4回目の時には通勤を始めとする移動の手段として路面電車をもっぱら利用するようになっています。啄木は、路面電車が走る前の東京を知っており、そして路面電車が縦横に走る東京を知っているのです。啄木が貴重なのは、その日記を通して、どこからどこまで路面電車を利用したかがわかること。この路面電車の普及によって、東京の景観も、人々の暮らしぶりも、大きく変化したのではないかと私は思っています。 . . . 本文を読む
啄木は乗り換えて数奇屋橋で路面電車を下り、瀧山町の東京朝日新聞社に向かったのだろうか。上野広小路からやってきた時、次に乗り換える場所は銀座四丁目付近。そこから日比谷・桜田門方面へ行く路面電車があったとすれば、それに乗って下車するところが数寄屋橋であったということになりますが、明治42年(1909年)当時は東京の路面電車は東京鉄道会社一社に統一されています(明治39年〔1906年9月11日より〕)。それまでは東京電車鉄道(「東鉄」)・東京市街鉄道(「街鉄」)・東京電気鉄道(「外濠線」)と3社が鼎立していたのですが、明治39年9月5日の日比谷公園での値上げ案反対集会で電車が破壊されたことをきっかけに、3社は統合されることになりました。料金は統一されて四銭になったものの(従来は3社がそれぞれ三銭均一。しかし他社の線に乗り換えはできない)、乗り換えが増え市民の移動は飛躍的に便利になりました。この東京鉄道会社一社時代の貴重な路線図が載っているのが『東京市電名所図絵』のP70~71。明治40年(1907年)3月に発行された「東京市内電車案内図」で、この年3月20日から開かれる東京勧業博覧会(上野公園)に合わせて作成されたものであるらしい。この当時においてすでに路線総距離は約143kmに達していたというのは驚きです。この地図で停留場の名前を読み取ることは、文字が小さくて困難ですが、銀座尾張町(銀座四丁目の交差点になる)で桜田門方面(逆は築地方面)へ行く路線が交差していることがわかります。ここ銀座尾張町で乗り換えて日比谷・桜田門方面へ行く電車に乗れば次の停留場が数寄屋橋。統一料金四銭(均一料金)であることを考えれば、乗り換えて最寄の停留場で下りるのが通勤にはもっとも便利であるということになる。たしかに啄木は、数奇屋橋で路面電車を下りて、東京朝日新聞社に向かったのです。帰りは数寄屋橋で乗り、銀座尾張町で乗り換えて、京橋→日本橋→万世橋を経て上野広小路で乗り換え、本郷三丁目で下りたのです。これが啄木の、通常の路面電車利用による通勤コースでした。それ以外にも浅草や新橋など市内各地に赴く場合も、啄木は路面電車(東京鉄道会社)を頻繁に利用しています。日記を読むと50回券や20回券というものもあったらしく、啄木は収入があった時にはその回数券を購入し、それを通勤等の外出の際に利用していました。 . . . 本文を読む
明治41年(1908年)4月24日の夜、啄木は家族(母・妻・娘)を宮崎家に置いて函館の港から三河丸に乗り込み、三等室に「犬コロの如く丸くなつて」一夜を過ごします。その翌朝早朝、三河丸は函館港を出航して横浜に向かいました。啄木にとって3度目の上京となる。「飄泊(ひょうはく)の一年間、モ一度東京へ行つて、自分の文学的運命を極度まで試験せねばならぬといふのが其最後の結論」でした。三河丸は「荻の浜」を経由して27日の午後6時に横浜港に到着。その夜は横浜に泊まった啄木は、翌日の午後2時に横浜駅から汽車に乗り午後3時に新橋駅着。新橋から雨の中人力車を走らせて千駄ヶ谷の与謝野寛・晶子夫妻の家へ。そこで東京到着第一夜を過ごしています。29日には東京市中を散策した後、本郷菊坂赤心館の金田一京助を訪問。そこで一泊。千駄ヶ谷の与謝野邸を辞して、金田一のいる赤心館に引っ越したのは5月4日のことでした。この赤心館から森川町一番地新坂の蓋平館別荘という高級下宿に金田一とともに移ったのが9月6日。この啄木が、手紙と履歴書と創刊したばかりの『スバル』一部を、東京朝日新聞社編集長佐藤北江(真一氏)宛に送ったのが翌明治42年(1909年)の2月3日のこと。啄木が東京朝日新聞社を初めて訪ねたのは2月6日。翌日再び東京朝日新聞社を訪ねた啄木は、そこで初めて編集長の佐藤北江と会っています。東京朝日入社のことが決したのが2月24日。本郷三丁目から路面電車に乗って通勤を始めたのが3月1日の月曜日からのことでした。東京に営業用として路面電車が走ったのは明治36年(1903年)のこと。この東京電車鉄道と、東京市街鉄道、そして東京電気鉄道の3社が合併して東京鉄道となったのが明治39年(1906年)。この東京鉄道が東京市に買収されて東京市電になったのが明治44年(1911年)のこと。ということは、啄木が3度目の上京をした際に利用した路面電車は「東京鉄道」であったということになる。森川町あるいは本郷弓町から東京朝日新聞社に通勤する際に啄木が利用した路線の経路は、本郷三丁目→上野広小路→日本橋→京橋→銀座七丁目と私は最初のうちは推測しましたが、啄木初出勤の日の日記を見ると、「昼飯をくつて電車で数寄屋橋まで、初めて滝山町の朝日新聞社に出社した」とある。当時、乗り換えをして数寄屋橋まで行けたのだろうか? . . . 本文を読む
林順信(じゅんしん)さんに『東京市電名所図絵』という本がある(JTBキャンブックス)。副題は「総天然色石版画・絵葉書に見る明治・大正・昭和の東京」とあって、車両解説は吉川文夫さん。同書P9には次のように記されています。「本書で紹介する絵は一部の木版画を除いては石版画で、リトグラフによる近代印刷として明治二十年代から盛んに行われた。大きさは天地約四十cm、左右約五十五cmである。書籍の表紙や口絵にも、一枚刷りのポスターにも石版印刷が用いられ、その後オフセット印刷となるまでの主役だった。東京見物に訪れた人々は、自分の想い出として、また故郷へのお土産として石版画を買って帰った。」P4からP19までは、日本橋が描かれた石版画や古写真が掲載されていますが、共通するのはすべてに路面電車が走っていること。この一連の石版画・古写真の中でもっとも古いのは明治45年(1912年)頃のもの、つまり明治末期のもので、日本橋東北側から日本橋を写したのがP9の古写真で、ほぼ同じアングルから見た景色を石版画にしたものがP6~7に掲載されているもの。アングルはややずれますが、その日本橋界隈の夜景を描いた石版画がP14~15のそれ。興味を惹かれるのは、一部4階建ての洋風のビルが建つものの、その並びや界隈には瓦屋根土蔵造りの商家が密集していること。これは大正時代になっても変わらない。P12の絵葉書は、大正10年(1921年)頃の日本橋と室町通り方面を眺めたもので、通り右手には2階建て(一部3階建て)の瓦屋根黒漆喰土蔵造りの商家が櫛比(しっぴ)しています。その風景は、意外にも関東大震災後の昭和2年(1927年)頃においてもそれほど変わっていない。P13の絵葉書がそれですが、大震災でつぶれたり焼失した商家はほとんど建て変わってはいるものの、やはり通り右側には土蔵造りの商家が櫛比し、左側とは対照的に商家の屋根から飛び出ているような高層ビルディングはほとんど見られません。ということは、東京の風景が著しく一変したのは、やはり東京大空襲以後であるということが言えそうです。この日本橋上を走る路面電車に乗って通勤していた多数の人たちの中に、石川一(はじめ・啄木)という青年がいました。通勤区間は、本郷三丁目から上野広小路を経て数寄屋橋まで。数寄屋橋から少し入ると、そこに彼の勤務先がありました。 . . . 本文を読む
下谷龍泉寺町の大音寺通り界隈が、龍泉寺の門前町でないことは、前に触れたことがありますが、ではどういう街であったかと言えば、江戸時代においてはそこが茶屋町通りと言われたように、吉原遊郭へと向かう道筋に出来た「茶屋」のある街、つまり新吉原が出来たことにより形成された街であったことがわかってきました。三田村鳶魚(えんぎょ・1870~1952)に『花柳風俗』(中公文庫)というのがありますが、その「吉原一夕話」の中に「いろいろある茶屋」という項があって、そこに「田町の茶屋」の説明がある。「田町の茶屋から行く場合、これは編笠茶屋というので、昔の嫖客(ひょうきゃく)は素面(すめん)で廓(くるわ)へ入りません。編笠を冠(かぶ)って面を隠して入る。その編笠を田町の茶屋で借りて入ったのです。後に素面で出入りするようになっても、編笠茶屋という名前が残って、編笠を吊しておいた。それも廃れて、編笠を吊しておかないようになっても、旧称を伝えておりました。」この「編笠茶屋」に入ると酒や菓子が出て、そこからお客が娼家へ送り込まれるのです。こういう茶屋が、「田町に八十軒、竜泉寺町に四十軒、土手のが百六十軒、山谷堀に六十六軒あった」という。このような茶屋があったから、かつては「茶屋町通り」(現在もこの名前が使われている)と言われたのです。一葉が荒物や駄菓子を売る店を構えた大音寺通りは、かつては吉原に行く客のための「茶屋町」として賑わった街だったのです。『資料目録 樋口一葉』の下谷龍泉寺町についての説明によると、幕末には22軒の茶屋が吉原に遊ぶ客たちを迎えて妓楼に導いていたが、明治維新後、廓の水道尻や非常門の出入りが酉の市の日だけに限られると、その茶屋は姿を消して、廓の中に仕事を持つ兼業者が多く住む商家の町に変わっていった、とある。また、大音寺通り周辺には長屋が建ち並び、生活の極めて貧しい人々が暮らしていたとも。明治20年代には、維新直後の4倍に近い約2000人が界隈に住んでいたらしい。同書P51~52には、一葉在住当時の大音寺通りの街並が考証されていますが、いろいろなお店が並んでいます。かつての茶屋が姿を変えたものもあるのでしょう。私はこれらのお店が吉原遊廓が必要とする日用品を売っている店だと思い込んでいましたが、実はそのようなお店は遊廓内にちゃんと備わっていたことを『明治吉原細見記』で知りました。 . . . 本文を読む
『明治吉原細見記』のP18~19に斎藤さんが描いた明治27年(1894年)当時の吉原遊廓の明細図が載っていますが、この絵図で、大門を入った仲之町の左側の家並みの中に、伏見町の通りに入る角から3軒目に「伊勢久」という引出茶屋があるのがわかります。「引手茶屋」というのは、遊廓で客を妓楼に案内するのを業とする茶屋。大門から入った遊客は、いったん引手茶屋に入り、そこで吉原芸者などと三味線や踊り、また酒食を楽しんだ後、頃合いを見て茶屋から案内された妓楼に繰り込んでいったのです。大門から仲之町に入ったところには、そのような引手茶屋が軒を並べていたのですが、その一軒が「伊勢久」というお店でした。この「伊勢久」については斎藤さんの『明治吉原細見記』には何の記述もありませんが、和田芳恵さんの『一葉の日記』には注目すべき記述がありました。 . . . 本文を読む