鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その4

2015-04-17 05:59:32 | Weblog

 神島灯台から案内標示に従って監的哨に向かいました。

 10分ほど山道を歩くと、断崖の上に建つ監的哨が現れ、その鉄筋コンクリートの建物の中の階段を上がって屋上に出ると、灯明山が海面へと落ち込む斜面の右側に、伊良湖岬の古山と宮山、そして骨山が3つ並んでいるのが見えました。

 古山の左手奥には知多半島や伊勢湾の陸地がうっすらと見えます。

 南方向の海岸部を見てみると、白い岩が露出した岬が見えますが、あれが「弁天岬」であるでしょう。

 また北方向には灯明山が大きく立ちはだかっています。

 監的哨からは、伊良湖岬の先端と伊良湖水道の海域、それに遠州灘と太平洋の広がり、さらに紀伊半島の陸地が見渡せることになります。

 ポイントは、伊良湖水道と伊良湖岬の先端がよく見えるということであるでしょう。

 2階部分や1階部分のかつてはガラス窓が入っていたところからも、伊良湖岬がよく見えました。

 「監的哨」の案内板によると、この神島監的哨は、昭和4年(1929年)に旧陸軍の軍事施設として、愛知県の伊良湖から撃った大砲の試射弾の着弾点を確認するために建てられたものであるとのこと。

 建物は縦横7.5m、高さ7mの2階建てで、コンクリートには神島の石も使用されているといわれているという。

 昭和20年に第二次世界大戦が終結し、試砲場の消滅とともにその役割を終えたとのこと。

 そして三島由紀夫の『潮騒』のクライマックスシーンにも登場する、とも記されていました。

 先ほどの定期船乗り場の近くにあった「『潮騒』と神島」の案内板によると、三島由紀夫が神島を訪れたのは昭和28年(1953年)のこと。

 父のつてで、当時の農林水産局の紹介により、この神島を選んだのだという。

 三島は、漁協組合長の寺田宗一さん宅に宿泊しながら島中を取材してまわり、純愛小説『潮騒』を書き上げたとのこと。

 ということは、終戦後8年目、「監的哨」が使われなくなってから8年目に三島はこの「監的哨」を訪れたことになります。

 三島由紀夫がこの「監的哨」を初めて見て、どういう感慨を抱いたかはわからない。

 戦後70年を経た現在のそれとは異なって、まだ生々しい痕跡(兵士たちの生活の痕跡)が残されていたかもしれません。

 例の『潮騒』関係の案内パネルには、対岸の渥美半島伊良湖岬、伊勢湾までも一望できる景観はすばらしく、空気が澄んでいる時は富士山を見ることもできる、とありました。

 鳥羽の日和山(ひよりやま)の頂きより富士山が見えたように、また渥美半島の高松の「富士見茶屋」から富士山が見えたように、その中間点にあるこの神島の「監的哨」からも富士山を見ることができたのです。

 もちろん、灯明山の頂きにあった灯明台からも、空気が澄みきっていれば富士山が見える日があったことでしょう。

 「監的哨」は、伊良湖岬から放たれた大砲の弾の着弾を確認するための陸軍施設とありましたが、もちろん大砲の弾は神島に撃ちこまれたものではなく、伊良湖水道の海域に撃ちこまれたものであり、その着弾の情況を確認するためのものであったでしょう。

 つまり伊良湖水道に侵入してくるであろう「敵国」軍艦を防ぐという意味合いのもとに、その海域に向けての大砲の試射が行われていたものと思われます。

 その着弾点を確認するための施設が、この「監的哨」であったわけです。

 「監的哨」の窓から見える伊良湖岬から大砲の弾が飛んできて、伊良湖岬から神島の間の海面(伊良湖水道)に着弾し、大きな水しぶきを上げる光景が目に浮かびました。

 しばらくベンチに座って休憩した後、「←カルスト地形」の案内に従って、先ほど眼下に見えた弁天岬の方へと向かって、山道を下って行きました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」

・『郷土志摩 No44 神島特集号』



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