鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.夏の取材旅行「九面~小名浜~棚倉」   その3

2012-08-31 05:44:39 | Weblog
崋山が銚子で滞在した「行方屋」大里庄次郎家は、磐城平藩6万石と棚倉藩6万石の「御穀宿」であり、その廻米の陸揚げ、蔵への出し入れ、利根川高瀬船を利用した江戸への回漕、濡米(ねれまい=雨などで濡れてしまったお米)の売り払いなどに携わっていました。幕末において銚子の荒野村には磐城平藩の蔵が3棟存在しており、安政5年(1858年)の時点では、磐城平藩と棚倉藩は「行方屋」の蔵を借り上げて使用し、役人が毎年秋に銚子に出張してきました。「行方屋」は、磐城平藩と棚倉藩と、深い関係を持つ「御穀宿」であったのです。磐城平藩の廻米が積み出される中心的な港は自領の小名浜であり、棚倉藩の場合はやはり自領の平潟でした。棚倉城下から平潟まではおよそ16里(約55km)もあり、阿武隈山地を越えなければならない。牛馬で運んだものとおもわれますが、その運送の道が「平潟街道」でした。内陸部の諸藩や幕領の場合、海岸部の港へと年貢米を輸送しなければならない。河川があればそれを利用しますが、河川がなければ峠道を越えて運送せねばならない。毎年、何千俵という年貢米を運ぶわけだから、その運送業務は大変なものであったろうと推察されます。小名浜港からは三春藩や、笠間藩の飛び地の年貢米も積み出されました。平潟や中ノ作からは会津藩や白河藩の年貢米も積み出されました。守山藩の年貢米は磐城の小浜や中ノ作から積み出されました。というふうに南東北内陸部の諸藩の年貢米は、海岸部の港へと阿武隈山地を越えて陸送され、そこから海路、船で銚子へと運ばれていったのです。もちろん近隣幕領の「御城米」も同様でした。「行方屋」は、小名浜や平潟の「御穀宿」などや廻船問屋と深い関係があったはずです。平潟の「安満屋」菊池半兵衛、小名浜の御代掃部左衛門(みよかもざえもん)らとのつながりを推測することができるのです。 . . . 本文を読む
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2012.夏の取材旅行「九面~小名浜~棚倉」   その2

2012-08-30 05:56:04 | Weblog
小名浜は「浜通り」最南端に位置し、その港は磐城平藩の屈指の港でした。『磐城平藩政史』によれば、幕末において磐城平藩5万石の城主は安藤氏であり、その安藤氏が入部したのは宝暦6年(1756年)のこと。10代藩主安藤対馬守信正(信睦)(1819~1874)は老中を務め、あの「坂下門外の変」で有名です。江戸時代後期においては、磐城平藩や白河藩などの廻米は小名浜や平潟より銚子へと運ばれ、また磐城平藩領楢葉の廻米は、江の網浜や山田浜より銚子へ運ばれました。もちろんその近隣の幕府領や旗本領の廻米もそれらの浜(港)より積み出され、小名浜には御代掃部左衛門(みよかもざえもん)という「御城米浦役人」がおりました。年貢米を銚子で陸揚げし、再び川船に積み込んで利根川を遡り、江戸川経由で江戸へと運ぶルートを「内川江戸廻」という。「廻米」というのは、幕府や藩の年貢米を江戸や大坂に送ることをいい、送られた米は換金され、それが幕府・諸藩の財政支出や家臣の俸禄にあてられたわけであり、したがって「廻米」業務は幕府・諸藩にとってきわめて重要なものでした。今回、「いわき市立図書館」に立ち寄る予定でいたものの、行程と時間の関係で利用することができず、小名浜港については詳しく調べることができませんでした。また別の機会に立ち寄りたいと思っています。 . . . 本文を読む
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2012.夏の取材旅行「九面~小名浜~棚倉」   その1

2012-08-29 05:38:37 | Weblog
「いわき七浜」というのがある。それは仏浜・山田浜・江の網・沼ノ内・中ノ作・小名浜・九面(くづら)浜の七つ。この「いわき(磐城)七浜」で中心的な存在は小名浜であり、『塩の道を行く』によると、このうち九面浜を除いては磐城平藩領でした。小名浜の湊には、平潟湊の鈴木主水と同じく「御城米浦役人」の御代掃部左衛門(みよかもざえもん)がおり、中の作の湊には「穀宿」吉田忠右衛門などがいて、御城米や藩米の回送業務に関わっていました。小名浜湊の御代掃部左衛門も、鈴木主水と同じく五人扶持を賜っていました。『磐城平藩政史』によれば、磐城平藩や白河藩の廻米は小名浜や平潟より銚子へ運ばれ、磐城領楢葉の廻米は江の網や山田浜から銚子へ運ばれており、また『北茨城・磐城と相馬街道』によれば、中ノ作の湊は、磐城平藩・三春藩・二本松藩・守山藩・会津藩などの廻米の積み出し港でした。小名浜は磐城平藩の中心的な廻米の積み出し港であるばかりか、伊達・信夫郡の幕領(天領)の廻米の中継港でもありました。つまり「いわき七浜」は、廻米の積み出し港や寄港地であったわけですが、『磐城平藩政史』によれば、「江戸時代の後期には、江戸への廻米量が増大」し、その多くは銚子経由で江戸へ運ばれたという。九面(くづら)浜は平潟湊に隣接し、平潟と同じく棚倉藩領でした。 . . . 本文を読む
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2012.夏の取材旅行「河原子~大津浜~平潟」 その7

2012-08-28 05:34:38 | Weblog
「平潟湊」を一望のもとに見渡すことができる中央の高台に、豪壮な茅葺き屋根の屋敷を構えていた「鈴木主水(もんど)」とは何者か。私は「豪商」と思いこんでいましたが、どうもそうではなく、棚倉藩の分領である平潟湊において、港湾管理や廻米の円滑な運送を担当する「浦役人」であり、庄屋であった人物。代々「鈴木主水」を襲名していますが、初代は水戸藩士であり、故あって水戸藩を離れ、棚倉藩領の平潟に居住していたところを、人物を見込まれて「浦役人」となったらしく、天保15年(1844年)まで代々その立場にあったらしい。「御城米浦役人」として五人扶持を賜ってもいました。では平潟随一の豪商と言えば、それは菊池(安満屋)半兵衛なる人物。この人物についてはすでに触れていますが、米穀・塩などの仲買問屋として、文化文政以降、平潟随一の冨商となり、棚倉藩はもとより、水戸・仙台・泉などの各藩の御用達として廻米業務にも活躍し、それらの藩から扶持米を賜っていました。平潟の「浦役人」は鈴木主水、そして塩問屋としてまた廻米運送によって平潟随一の豪商になったのが菊池(安満屋)半兵衛であり、この二人が幕末期における平潟の重要人物であったものと思われます。 . . . 本文を読む
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2012.夏の取材旅行「河原子~大津浜~平潟」 その6

2012-08-27 06:07:06 | Weblog
平潟湊は、江戸時代においては棚倉藩の分領であり、藩の表玄関としての役割を持っていました。仙台藩伊達家は、江戸時代初期においてすでにこの平潟湊を、廻米ルートにおける寄港地として重視し、ここに陣屋を置いて、寛永年間(1624~1644)には「常州平潟御穀役人」を常駐させていました。もちろん平潟港は棚倉藩の分領として、棚倉藩の年貢米を積み出すところであったし、さらに伊達・信夫郡の幕府領(天領)の年貢米が、原釜や小名浜などとともに中継港として回航されるところでもあったから、本多利明が、『河道』に「此泊へ領主棚倉侯の国産其外商賈の荷物夥敷群集する也。是より廻船に積込、江戸へ輸送する也」と記すように、年貢米その他の積出港として、また廻船の寄港地として、大きな賑わいを見せた湊であったのです(以上、『北茨城・磐城と相馬街道』に拠る)。棚倉藩の年貢米は阿武隈山地を越えてこの平潟湊に運ばれ、海路、銚子湊を経て、利根川・江戸川の水運(利根川高瀬船)を利用して江戸へと運ばれたわけですが、その銚子において棚倉藩の年貢米の積み下ろしや輸送等を取り扱ったのが、「御穀宿」の大里庄次郎家(行方屋)であったのです。 . . . 本文を読む
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2012.夏の取材旅行「河原子~大津浜~平潟」 その5

2012-08-26 05:54:40 | Weblog
相次ぐ異国船との遭遇や異国人の上陸事件(大津浜事件)に危機感を募らせた水戸藩は、文政8年(1825年)の4月、海防農兵制度を定めます。それは「海岸三処に郷同心五十人ツゝ定番ニナル」というもので、「三処」とは磯浜・河原子・川尻の三ヶ所。それぞれに農兵(郷足軽)50名を常備させるというもの。50名の内訳は猟師(火縄銃を持つ)10名に農民40名。しかし実際には計画通りに進まず、農兵(郷足軽)が新規召し抱えになったのは同年5月29日でしたが、その人数は1ヶ所に25人ずつ、つまり計画の半分でした。郡奉行梶清次衛門は河原子の海防指引役兼務を命じられ、それからしばらくの間、河原子は日立地方における政治の中心地となり、水戸藩の指令や通達はすべてこの河原子郡庁から伝達されるようになったという。つまり河原子は幕末における水戸藩の海防体制上において、重要な位置を占めていたということになります。 . . . 本文を読む
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2012.夏の取材旅行「河原子~大津浜~平潟」 その4

2012-08-25 06:00:43 | Weblog
河原子海岸烏帽子岩の中段にある津明神祠の近くには、ペリー艦隊浦賀沖来航直後、藤田東湖が詠んだ漢詩を刻んだ詩碑が建てられていたことを確認したのですが、それらしい詩碑を、先ほどざっとフェンス外から見た限りでは見掛けることはありませんでした。太平洋の大海原の先に、東湖がアメリカ合衆国の存在を意識していることは重要です。崋山もすでに天保4年(1833年)の時点で、太平洋の大海原の先にアメリカ合衆国の存在を意識しています。『参海雑志』の4月17日(旧暦)の早朝。崋山は日の出を見ようと、滞在している神島の東の磯に出ます。波打ち際にそびえている大きな白い岩の上によじ登って、たばこをくゆらしつつ日の出を待つ崋山は、まだ黒々とした大海原を眺めながら、次のように記しています。「波のミどり深く黒ミたる、西人の称る大東洋にして、かの亜黒(墨)利加とかいえるわたりもこの海岸よりつらなれりと思ふに、まことによの外の思ひを生じ、しバしながむる」。若い時からの異国船情報の集積、そして海外情報の蓄積、それにともなう海防意識の高まりが、神島におけるこのような感慨を生み出したものと思われます。※神島は、伊良湖岬と鳥羽の間にある島。 . . . 本文を読む
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2012.夏の取材旅行「河原子~大津浜~平潟」 その3

2012-08-24 05:35:30 | Weblog
今まで見てきたことからわかる通り、崋山が銚子で滞在した「行方屋」大里庄次郎家は、磐城平藩と棚倉藩の「御穀宿」であり、その蔵を両藩に提供していました。銚子にはそのような「御穀宿」が幕末において六軒もあり、藩によっては蔵や蔵屋敷も存在していました。つまり銚子は東北諸藩の「廻米」ルートの道筋にあり、その「廻米」運送等に関わる大商人たちがおり、そして東北諸藩の「廻米」に関係する役人たちがその「御穀宿」にやってくる町であったのです。「港町銚子の機能とその変容」には、第6表として「幕末における東北諸藩と穀宿」というのが載っていますが、それによると藩名は、仙台藩・米沢藩・磐城平藩・棚倉藩・常陸笠間藩・相馬中村藩、そして幕府御城米となっています。「幕府御城米」というのは、東北地方の天領(幕府領)の年貢米であり、浅草御蔵(現在の台東区蔵前一、二丁目付近)に運ばれることになります。2週間ほどの銚子滞在で、このような銚子港の機能や実態に、情報収集力旺盛な崋山が気付かなかったはずはない。 . . . 本文を読む
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2012.夏の取材旅行「河原子~大津浜~平潟」 その2

2012-08-23 06:02:26 | Weblog
崋山が「四州真景」の旅の際、銚子で滞在した先は荒野村の大里庄次郎(桂麿)宅でした。この大里家は「行方屋」という屋号を持つ「御穀宿」でした。「御穀宿」とは、「東北諸藩の廻米を取り扱うものをいい、諸藩から扶持を支給され、廻米の陸揚げ・蔵への出し入れ・江戸への回漕・濡米の売り払いなどを担当した」商家でした。銚子には幕末、六軒の「御穀宿」が存在し、その一軒が「行方屋」でした。一方、幕府領(天領)の御城米を取り扱っていたのは、やはり荒野村の大野喜惣太でした。幕末において荒野村に存在した東北諸藩の蔵は、仙台藩2棟、米沢藩1棟、磐城平藩3棟、笠間藩1棟で、棚倉藩は「御穀宿」の蔵を借り上げて使用していたという。荒野村の「行方屋」は、磐城平藩と棚倉藩と請負関係を持っていた「御穀宿」であり、その蔵はその両藩に貸し出されていたものと思われます(以上、「港町銚子の機能とその変容」による)。崋山が滞在し親しい友好関係を持った「行方屋」の大里庄次郎(桂麿)は、その6代目当主であり、俳諧を嗜む、当時銚子を代表する「すき人」(文化人)の一人であったのです。この大里家に崋山は2週間ばかりを滞在し、銚子の人々と交流し、各地を写生して回り、そして情報を収集したのです。 . . . 本文を読む
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2012.夏の取材旅行「河原子~大津浜~平潟」 その1

2012-08-22 05:23:18 | Weblog
今夏の取材旅行の目的は、幕末における南東北地方の「廻米」ルートの確認と、東日本大震災の被災地を自分の目で確認することでした。前に常陸地方を取材旅行した時は、水戸藩の尊王攘夷運動の関心から、その起点となった異国人の「大津浜上陸事件」の関連で、大津浜→五浦→平潟まで歩きましたが、そこから引き返し、その先の福島県内へと足を踏み入れることはありませんでした。しかし、渡辺崋山の「四州真景」の旅を追いかけていった結果、銚子を媒介にした江戸を中心とする関東地方と東北地方(さらには蝦夷地)との水上交通路(海運・舟運)の重要性を知ることになり、あらためて東北地方への関心を持つことになりました。そこに昨年3月11日に東日本大震災が発生し、巨大地震による大津波によってたくさんの人々が亡くなり、また福島第一原発の事故により未曾有の被害が生ずることにもなりました。その中で、泊を伴う取材旅行先を東北地方と決め、今年5月にまず福島県の棚倉町や三春町を訪れ、この夏に常陸海岸を北上し、河原子→日立→平潟→九面→小名浜→棚倉→相馬→南相馬→亘理→岩沼→名取までを車で走ってみました。もう一つの「廻米」ルートの関心から立ち寄った図書館は、日立記念図書館・北茨城市立図書館・棚倉町立図書館・丸森町立図書館・岩沼市立図書館でした。以下、その取材報告です。 . . . 本文を読む
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2012.7月取材旅行「桐生」 その最終回

2012-08-13 15:22:29 | Weblog
崋山が天保2年(1831年)10月15日(旧暦)、「雷電山」から桐生全景を写生した絵を見てみると、桐生天満宮から南へとまっすぐに延びる細長い桐生の町(桐生新町一丁目~六丁目)の両側は田園地帯が広がっていました。そしてそこには、崋山によると桐生川の水を取り入れた用水路が縦横に走っていました。崋山は次のように記しています。「たゞ桐生川分水によろしく、枝流田園街にあまねく、水車そこはかとなくかけわたし、操糸の労をはぶく。」「いとものしづかなる中に水車と機声とうちまじり、わがこゝろ甚たのしむ。」桐生川から「分水」した用水路は田園地帯や街中を流れ、そこには水車が架け渡されて「操糸」の動力として使われていたというのです。たいへん静かな町ではあるけれども、水車の回る音とそれを動力とする「八丁撚糸機」の機械音とが混じり合って聞こえてくるのが桐生の町であり、そのような桐生の町をすこぶる愛でている崋山がそこにはいます。しかしその田園地帯に、明治・大正時代になると織物工場(ノコギリ屋根の大工場など)が次々と建てられ、また道路や人家も続々と造られていき、繊維工業の隆盛とともに市街地がどんどん拡大し、桐生の景観は大きく変貌していったのです。 . . . 本文を読む
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2012.7月取材旅行「桐生」 その10

2012-08-13 04:24:57 | Weblog
おそらく崋山が雷電山(現在の水道山公園あたり)から桐生の町の全景を描いたものと思われる絵は、『定本渡辺崋山 第Ⅱ巻 手控編』のP190『毛武游記図巻』の上から2番目のもの。左端の森が桐生天満宮の杜で、そこから一直線に通りが延び、その両側に人家が櫛比しています。右端には渡良瀬川が足利方面へと流れ下っています。右端中程の山は金山や丸山に続く山。桐生の町の向こう側に見える山々は、石尊山・行道山・大岩山・両崖山などになるのだろう。手前に線として見える山稜は、現在、「桐生が岡動物園」のある丘であり、その麓にあるのが美和神社であり、それは同じページの一番上の絵に描かれています。この桐生全景の絵を見てもわかる通り、通りに沿った細長い桐生の町の両側は田んぼになっており、現在の「中通り」に沿った東久方町や仲町、また岩本家の菩提寺である観音院(東二丁目)などのあたりはかつては一面の田園地帯であったことが、この絵からもよくわかります。 . . . 本文を読む
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2012.7月取材旅行「桐生」 その9

2012-08-12 06:36:33 | Weblog
『毛武游記』をみると、実は崋山は桐生の町の全景をしっかりと眺めていることがわかります。崋山は、天保2年(1831年)の10月15日(旧暦)に、光明寺を経て「雷電山」に登り、そこから桐生の町の全景を見晴るかしています。ここからは「桐生の地勢」を「手にとるばかり」に見渡すことができ、崋山は感動を露(あら)わにしています。この「雷電山」とは、現在の水道山公園があるところ。おそらくこの「雷電山」から桐生の町の全景を描いたものが『毛武游記図巻』におさめられており、今から180年ほど前の「桐生新町」及びその周辺の景観を知ることができる貴重な歴史的資料となっています。 . . . 本文を読む
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2012.7月取材旅行「桐生」 その8

2012-08-11 06:30:02 | Weblog
「紗綾市」を見学してから桐生天満宮に足を延ばした崋山は、そこから「田畝の間」を西へと進み、「山ぎわ」に至りました。この「山」とは、現在、「桐生が岡動物園」のある小高い山のことであり、その桐生本町側のふもとには、妙音寺・円満寺・西宮神社・美和神社などの寺社があります。かつては「妙見山」という名前の山であったようだ。崋山は「妙見山にのぼる。近頃修補せしやしろにて記(しるす)にたらず」と記しており、この「妙見山」に登ったと思われる。登ったところに「やしろ」があったけれども、「修補」したばかりの新しいものであり、桐生天満宮の社殿のように細かく記すものは何もなかったようす。「町の裏」より「田畝の間」を西へ進んで「妙見山」の山際に至ったということは、通りの両側に商家や人家が建ち並ぶ桐生の町の、その家並みの外側は田んぼや畑などの耕作地であり、その長い通りに沿った細長い町並みから、「妙見山」の麓にある寺社に向かってそれぞれ細い参道が延びていたものと推測することができる。町の東側を流れる桐生川との間も田んぼや畑が広がっていたはずであり、現在、「本町通り」の両側一帯が住宅地であり、また工場などが散在する状況であることを考えると、かつての桐生の町は、田園の中、桐生天満宮へとほぼ一直線に延びる通り沿いに商家や人家が軒を並べる町であったということになり、現在とは大いにその様相を異にしていたことになります。 . . . 本文を読む
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2012.7月取材旅行「桐生」 その7

2012-08-05 06:05:58 | Weblog
崋山が桐生天満宮を詣でたのは10月27日。まず「紗綾市」を見学して、それからの帰途、下久方村の「天神祠」に参ってから、町の裏から田んぼの間を西行して山際に至り、そこから円満寺の妙見堂に立ち寄って、岩本家に戻っています。現在で言えば、本町通り→買場通り→本町通り→桐生天満宮→山手通り→円満寺→恵比寿通り→酒屋小路を歩いて行ったものと思われます。崋山によれば、「紗綾市」は毎月3日と7日に行われ、その「紗綾市」が行われる場所は、市日ごとに所を替えていたようです。「紗綾市」は日の出から日没まで行われ、買いに来るものは皆遠くから(七八里外)やってきたようだ。絹織物だけでなく、午後になると町中に張り店が出て、様々な雑貨日用品や食料品なども販売される。近郷の老若男女が集まり、桐生の町仲が大変な雑沓と賑わいになるのが「紗綾市」でした。桐生天満宮については、崋山は「此祠は桐生第一街」にあって、六丁目より一文字に通りが町中を貫くその行き止まりのところにあるとし、境内には松並木が黒く繁り、中に一筋の川が清らかに流れ出ているとしています。社殿には花鳥の彫刻が見事になされており、江戸などにおいてもまれな社殿である、とも記しています。 . . . 本文を読む
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