鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 長崎その最終回

2009-02-28 08:31:17 | Weblog
高麗橋から中島川の下流を望むと、右岸に上野彦馬邸が見えました。また中島川と西山川の合流点あたりから中島川の上流を眺めれば、左岸にやはり彦馬邸が見えました。彦馬が、自分の屋敷(一部は写真館)が写った中島川の写真を幾枚も撮影しているのは当然のこととして、実はフェリーチェ・ベアトが彦馬邸や、その周辺の中島川の風景を幾枚も撮影しているのです。それらは、『写真集』や『写真集2』以外にも「長崎大学附属図書館」の「メタデータ・データベース」にも掲載されています。今、私の手元にはベアトが彦馬邸の近辺で写した写真が6枚ありますが、高麗橋の端(伊勢宮の前)から中島川の下流の風景を写したものが、『写真集』P132に掲載されている写真。これと同じ写真が「メタデータ」に「中島川風景(1)」として掲載されているので、興味・関心のある方はご覧下さい。この「メタデータ」の写真には説明が付されており、その説明によればこの写真中央に見える瓦屋根の家は、上野彦馬邸の中島川を挟んだ対岸にあった家で、この写真の右手の川沿いに彦馬邸がありました。中島川をもう少し下れば、そこは西山川と合流する地点でした。この説明には「このときベアトは彦馬邸に滞在したものと推測される」とありますが、「この時」とは「1864年頃」。中島川の河原には、左側の男がしゃがみ、右側の男が横を向いて立っています。右岸に一人の男が、他の二人と同じ方向を向いて(つまり横を向いて)しゃがんでいます。3人ともベアトの注文に応じてポーズを取っているのです。中島川と西山川の合流点のやや上流、不動堂下の中島川の河原から撮影したものが『写真集』P133上の写真。その左手中央に写っている建物が上野彦馬邸で、彦馬がここに写真館を開業してからおよそ2年ほど経過しています。西山川に架かる(合流点近く)、伊勢町と出来大工町とを結ぶ橋が桃渓(ももたに)橋で、そこから上流の鎮西橋方向を写したのが『写真集』P134の写真。左手の建物は曹洞宗光雲寺。その鎮西橋上から、逆に西山川下流(桃渓橋方向)を望んだものが『写真集』P135上の写真で、右端は光雲寺の山門。その左に見える橋は桃渓橋になります。鎮西橋には今は市電が走っています(もちろん橋は昔のままではない)。というふうに見てくると、確かにベアトはこれら一連の写真を撮った時、彦馬邸に滞在していたらしいことが推測されるのです。 . . . 本文を読む

2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 長崎その6

2009-02-27 05:41:32 | Weblog
長崎の古写真で見ることができる中島川の石橋は、上流から一瀬橋(いちのせばし・蛍茶屋のあるところ)・阿弥陀橋・高麗橋・編笠橋・古町橋・眼鏡橋・万橋(よろずばし)を挙げることができます。また伊勢町で分岐している西山川に架かる石橋も写されており、それは上流から鎮西橋(ちんぜいはじ)と桃渓橋(ももたにばし)の二つを挙げることができる。ベアトが幕末に写しているのは、一瀬橋・阿弥陀橋・高麗橋・編笠橋・眼鏡橋、それに鎮西橋・桃渓橋。上野彦馬が写しているのが阿弥陀橋と編笠橋。スティルフリートが写しているのが阿弥陀橋。ファルサ-リが写しているのが桃渓橋と万橋。そして日下部金兵衛が写しているのが阿弥陀橋。なぜか阿弥陀橋が被写体になっている写真が多い。また石橋は写っていませんが、上野彦馬の写真館があったあたりの中島川の風景もかなり被写体になっていますが、これらの写真のほとんどがベアトと上野彦馬が撮ったもの。美しい中島川の流れとその周辺の建物(上野彦馬邸も含めて)が写し撮られています。さて、阿弥陀橋ですが、この橋は、ベアトばかりか上野彦馬・スティルフリート・日下部金兵衛によっても写されています。それ以外にも撮影者不明ながらも多くの写真が撮られています。どこにあるかと言えば中島川を下っていって、西山川と合流する地点、そのあたりを伊勢町といって伊勢宮神社などがあるのですが、合流点の手前にあるのが高麗橋で、その手前(上流側)にあるのが阿弥陀橋。したがって高麗橋の上に立って上流を眺めれば阿弥陀橋が見え、阿弥陀橋に立って下流を眺めれば高麗橋を見ることができるということになります。合流点から北に延びる川が西山川で、まず手前(合流点に近いところ)から桃渓橋、次に鎮西橋がありました。従って桃渓橋から西山川の下流を眺めればすぐにそこは中島川との合流点になり、桃渓橋から西山川の上流を眺めれば、川の奥の方に鎮西橋が見え、その鎮西橋から下流を眺めればすこし離れて桃渓橋が見えたのです。上野彦馬の邸宅(写真館)は、その合流点の付近、桃渓橋を渡って高麗橋に向かう途中の中島川沿いにありました。したがって、上野彦馬邸(写真館)から、桃渓橋も高麗橋も、そして阿弥陀橋もすぐに歩いていける近距離にあったのです。 . . . 本文を読む

2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 長崎その5

2009-02-26 06:17:49 | Weblog
幕末にフェリーチェ・ベアトが長崎を撮った写真の中で私が一番生々しい感動を覚えたのは、「出島遠景」の写真(『F.ベアト幕末日本写真集』P129~P130の折込写真)ですが、それ以外に関心を持ったのは市街を貫流する中島川関連の写真です。同写真集のP128下には「中島川の眼鏡橋」、P132には「中島川の風景」、P133上にも「中島川の風景」、その下には「中島川の風景。高麗橋付近」。さらに「中島川の風景」はP134、P135の上下、P139に及んでいます。『F.ベアト写真集2』を開いて見ると、そのP17上に「長崎の中島川と桃渓(ももたに)橋」、その下に「長崎の中島川と編笠橋」という写真が掲載されています。ベアトはよほど中島川の風景、とくに古い石橋の架かる中島川およびその沿岸の景色に興味と関心を抱いたらしい。当時の長崎に住む人々(日本人)にとってはあたりまえの風景が、どうもベアトにとってはあたりまえのものではなかったようだ。そう思って、ネットで「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」の長崎の中島川関連の古写真を調べてみると、ベアトの写した中島川の石橋の写真は、写真集に掲載されているもの以外にも次々と出てきて驚かされました。さらに上野彦馬、ファサリ(アドルフォ・ファルサ-リ)、玉村康三郎、スティルフリート、そしてあの日下部(くさかべ)金兵衛が、中島川に架かる石橋を写した写真も出てきました。特に多いのは上野彦馬が写したもの。それ以外にも誰が写したかわからないものも多数ある。これだけ多くの石橋の写真が出てくると、幕末からの長崎の街の風景の移り変わりというものが、橋を手掛かりにして伺うことができるに違いないと思いました。多くの中島川に架かる橋を撮った写真の中でも、とくに私が興味を持ったのは、『日下部金兵衛』におさめられている「中島川」の写真(P149)。この写真に見る中島川は、洪水があって上流から大きな石がゴロゴロと押し流れてきたのではないかと思われるほど荒々しい。その大きな石が無造作に転がっている川底の向こうに苔で覆われたような古い石橋が架かり、その奥にも石橋が架かっているのが見える。その手前の石橋の右側のさらに手前に、立派な屋根のついた細長いお堂のような建物が屹立しています。この写真に写っている二つの石橋はどこか。それを探ってみることにしました。 . . . 本文を読む

2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 長崎その4

2009-02-25 06:49:03 | Weblog
3枚目の気になる写真は、『日下部金兵衛』のP150~P151に掲載されている「長崎風景パノラマ写真」。「右端に見える建物は長崎造船所」とありますが、ということは「長崎造船所」が右手下に見える地点が撮影場所ということになる。では左端に写っている建物は何か。手掛かりは、やはり「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」で得られます。それは「飽の浦恵美須神社(1)」という写真。撮影者はなんと「日下部金兵衛」とある。この写真とほぼ同じアングルから金兵衛が写した写真は、『日下部金兵衛』の冒頭の折込写真の中に入っています。「1411の内 SRREET IN NAGASAKI」というのがそれ。両方とも手彩色されています。写された時期が違うから、神社の境内の様子もまわりの風景も全く同じではない。異なる点を挙げてみましょう。「1411」と(1)とします。「1411」では恵美須神社の本殿が左下に写っています。本殿の前の社殿の手前には鳥居があります。その鳥居の手前(左側)は空き地になっていますが、(1)では樹木が繁っています。社殿の前に石鳥居があって、その向こうには何も建物がないのに、(1)では瓦屋根の四角い建物が建っています。石鳥居の向こう側には船の帆柱が数本見えます。左端の陸地の部分に目を転ずると、浜辺は干潮のせいか干潟になっている。右手の帆柱の向こうの沖合いには岩礁が露出しているようだ。左側の岬の向こうに見える山は立山。さて、どちらの写真が先に写されたか、と考えてみると、「1411」では中央下(手前)の鳥居の左側が(1)と異なって整地された広場になっていること、また樹木の繁り具合が「1411」の方が密であることなどを考え併せると、(1)の方が先に写されたもののように思われます。「1411」の写真は、実はその右ページの写真と一つながりになっている4枚のパノラマ写真、すなわち「長崎風景パノラマ写真」の一番左端の写真です。ということは、この写真が撮られた時期が特定されれば、(1)はそれ以前に撮影されたものである(私の推測では)、ということになるのです。撮影地点についてはこれから考察していきますが、写された時期については、引用されている石黒敬章さんの解説文にヒントがある。そこには「霞会館所蔵の明治天皇御巡行の時撮影された一連の写真にある」と記されているのです。 . . . 本文を読む

2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 長崎その3

2009-02-24 06:21:18 | Weblog
古写真の撮影された場所を推定するためには、現地を歩くだけでは不十分であることが多い。というのは100年以上もの歳月の流れの中で、埋め立てられたり、崩されたり、ビルや住宅や工場などが建ち並び、かつての写真の風景とはまるで異なっている場合が多いから。特に都市部や工場地帯などはそう。となると必要になってくるのは古地図であり、古老の思い出話であり、あるいは現地の案内板(古地図が載っているとなおよい)であったり、文献資料であったりする。それらを総合して絞っていかないと、古写真の撮影地点を誤る場合がある。ベアトの写した弁財船(べざいせん)の繋留されている場所は、浦上川の対岸(稲佐から見て)であり、現在の八千代町のあたりだとしましたが、この「八千代町」については、『─わしが町さ物語─長崎郷土物語 下巻』歌川龍平(歴史図書社)が参考になりました。この本のP74~P78に、「古い埋立地」として「八千代町」のことが出てきます。それによると、「明治十年の長崎港の海岸線は銭座町聖徳寺の下から、長崎駅付近までは丘陵がつらなり、その麓に浪よけの石垣がある有様」でした。しかし浦上川の河口部は上流から押し流されてくる土砂のために水深が浅くなり(中島川についても同様)、「海岸に接して投びょうしていた千トン内外の船舶も遠く沖合にかかり、貨物積卸しに非常に不便を感ずるに至」り、そこで長崎市長であった横山寅一郎が「断固として港湾浚渫ならびに埋築の計画を立てて、明治三十七年九月、出島付近、大波止付近、恵美須町以北、平戸小屋付近の埋築を行」うことになりました。その際に、「船蔵町、共樋ノ口、幸町、王浪町などと共に八千代町が出来上がった」という。「御舟町」(御船町)というのは、「明治三十一年三月、浦上山里村西坂郷が長崎に編入されたときに出来上がった町である」という。ということは、ベアトの写真の、弁財船が繋留された人家がある場所は、当時の「浦上山里村西坂郷」の一部であるに違いない。『長崎郷土物語』に添付されている「長崎市内案内図」(昭和二十一年九月一日発行)で言えば、「瀬崎町」(その立山寄りの隣町が「御船町」で、さらにその向こうの町が「御船蔵町」、その西隣が「西坂町」)のあたりが、ベアトの写真に写し撮られている場所のように思われます。八千代町から長崎駅があるあたりは、かつては浦上川の河口部であったということです。 . . . 本文を読む

2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 長崎その2 

2009-02-23 06:32:49 | Weblog
稲佐・飽之浦方面でとくに気になった写真は、3枚ある。1枚は『F.ベアト幕末日本写真集』のP143の上の写真で、1枚はその下の写真。そしてもう1枚は、『日下部金兵衛』のP150~P151に掲載されている「長崎風景パノラマ写真」。これは厳密に言えば1枚ではなく、4枚つなぎのパノラマ写真。先の2枚は明らかにフェリーチェ・ベアトが写したもの。パノラマの方は、上野彦馬が写したものとされてきたようですが、『日下部金兵衛』の著者である中村啓信(ひろとし)さんによると、金兵衛の楕円形アルバムに、パノラマ写真の右から2枚目の彩色写真が掲載されているという(カタログナンバー1411)。その彩色写真は。実は『日下部金兵衛』の冒頭の折込写真に掲載されており、その左ページに掲載されているのは、パノラマ写真のうち一番左端の写真なのです。折込写真(彩色されたもの)の方が、白黒のそれよりずっと鮮明で美しい。中村さんは、このパノラマ写真は、ベアトの指示で金兵衛がシャッターを切ったものという一つの可能性を示唆していますが、「いずれにしても上野彦馬が作者ではない」と断定されています。作者はさておき、ベアトの2枚の写真と、「長崎風景パノラマ写真」が撮影された地点はどこか。ベアトの2枚は、上は「屋形船」、下は「日本の舟」とあり、最初はどこで写されたものかわかりませんでした。この上の写真は、『F.ベアト写真集2』にも彩色写真として掲載されています。P78の写真がそれ。彩色されているということは、この彩色を手がけたのは日下部金兵衛である可能性がきわめて高い(この写真集2には彩色写真が数多く納められていますが、この彩色を担当したのも日下部金兵衛である可能性がきわめて高く、私は日下部金兵衛であると断定してもよいと考えています)。このベアトの2枚の写真が、長崎の稲佐海岸で撮影されたものであることを知ったのは、「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」の長崎の項、「長崎稲佐海岸(1)」と「稲佐のイサバ船と弁財船(2)」の写真でした。ベアトとほぼ同じアングルで(つまり同じ地点から)撮られています。これでベアトが写した船(舟)の写真が、長崎の、しかも稲佐海岸において撮られたものであるというところまで絞り込まれました。あとは現地で確かめるしかない。手掛かりは背後の山稜の形、そう考えました。 . . . 本文を読む

2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 長崎その1 

2009-02-22 07:06:54 | Weblog
久しぶりに、昨年冬の取材旅行の報告に戻ります。長崎の報告が残っているので。長崎については、幕末にフェリーチェ・ベアトが写真を撮った地点、明治になって日下部金兵衛や上野彦馬が写真を撮った地点を確認することが、一番の目的でした。幕末・明治の長崎の様子はどういうものであったのか。それを探る手掛かりはいくつもあって、たとえば文献資料で調べたり、絵画資料で調べたり、長崎を舞台にした歴史小説で雰囲気を味わったり…といろいろあるわけですが、何と言っても生々しい資料は「古写真」(歴史写真)です。「百聞は一見に如(し)かず」という言葉がありますが、写真は、ある時点における一瞬のあるもの(景色であったり人物であったり)のそのままの姿を写し撮っているわけで、その生々しい迫力は、他のものの追随を許さないものがある。人物の写真が残っているとなおさらで、もし坂本龍馬や土方歳三が、西郷隆盛のように一枚の写真も残していなかったならば、その二人の顔はいろいろなふうに想像されていたに違いありませんが、おそらくあの二人の写真の顔とはまるで別人の顔が「創造」されていたことでしょう。一枚の写真によって、おそらくこうであったろうと思い込んでいた情景や人物の顔が、「へぇー、こうだったんだ」と、新鮮な驚きとともに覆(くつがえ)されてしまう経験は、今まで何度もしてきました。現地に行って、今ある風景から昔の風景を推測するのには限界があります。文献的資料からある人物の容貌を推測するのも、いくらその記述が詳細を極めていても限界がある。幸いに、幕末・明治期の古写真は多数残されており、それらを活用しながら、出来れば現地に行ってその地の匂いや色や起伏、またその地の人々が話す言葉(方言)や古老のむかしの記憶を確かめるということが、幕末・明治期(それ以後もそうですが)の歴史小説を書く上での基本中の基本であると私は考えています。長崎については、幕末日本の最初の開港地の一つということもあり、横浜と同様に、幕末・明治期に写された写真が多数残っています。もっとも早い時期に長崎を写した外国人写真家の一人が、フェリーチェ・ベアト。私が『波濤の果て 中江兆民の長崎』を書いた時に、長崎の情景を描くのに最も参考になったのは、『F.ベアト幕末日本写真集』のP124~P143までの一連の写真(この中には長崎以外のものも入っていますが)であったのです。 . . . 本文を読む

小山騰さんの『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』について その4

2009-02-13 06:24:16 | Weblog
前回、鎌倉の大仏の膝や手のひらの上に登って記念写真を撮るといった発想は、当時の日本人にはなかったものに違いない、つまり、そういう発想は日本を訪れた西洋人にあったものだ、としましたが、フェリーチェ・ベアトの鎌倉の大仏の写真(幕末期)をよく見てみると、大仏の膝や手のひらに日本人がいることに気付かされます。鎌倉の大仏を撮った写真は、『F.ベアト幕末日本写真集』に2枚(P53、P54)、『F.ベアト写真集2』に2枚(P35、P36)あります。どの写真も、膝や手のひら、さらに腕の上に人足や別当(馬丁)、あるいは従者のような男たちが立ったり座ったりしてポーズをとっています。面白いのは、『F.ベアト幕末日本写真集』のP54の写真。この写真では従者か人足のような二人の男(日本人)が、大仏の右腕の上に乗っており、左側の男は足を掛けて大仏の顔を見上げるようなポーズをとり、右側の男は右手に編み笠のようなものを手にして(この男にとって)左斜め方向を眺めています。大仏の前には3人の外国人が写っています。左側の男は、大仏の前の石段の上で腰を掛けており、左手で頬杖をついてベアトの方を向いています。口のまわりに髯を生やしているようだ。右側の石段の途中の石垣の上に腰を掛けている男は、頭に丸い帽子を被り、ちょび髯を生やし、長めのブーツを履いた左足を前に伸ばしています。さて真ん中の大仏の方に向いていて後姿を見せている人物。これは女性〈西洋人〉のようにも見える。実は鎌倉で写した写真で外国人が写っている写真はほかにもある。『F.ベアト幕末日本写真集』のP53の上の写真、P51の写真、P47、さらにP46の写真。帽子を被り、長いマントを羽織り、常に横を向いて写っている男は、同じ人物のように見受けられる。これは誰か。ベアトと親しかったワーグマンでしょうか。よくわからない。ともかく、幕末期において鎌倉の大仏の上に乗って写真に撮られた日本人はいるのですが、これはもちろん外国人写真家であるベアトの注文でポーズを取ったのであって、当時日本人の間に大仏の上に乗って記念写真を撮るといった発想があったことを示すものではありません。それにしても、大仏の上に乗って記念写真を撮ったヘンリー・ギルマールたち5人の表情は、なんとにこやかではればれとしていることでしょうか。真夏の太陽は、この日も彼らの頭上にさんさんと輝いていました。 . . . 本文を読む

小山騰さんの『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』について その3

2009-02-12 05:59:43 | Weblog
ヘンリー・ギルマート一行が、明治15年(1882年)7月25日に鎌倉を訪問した際に、鎌倉の大仏の膝や手のひらの上によじ登って記念写真を撮った(撮影したのは臼井秀三郎)ことについては、すでに触れましたが、その写真(P34)の説明には、「現在、宗教上の理由で大仏の上にのることは禁止されている」と記されています。仏像の膝や手のひらの上によじ登って記念写真を撮るといった発想は、当時の日本人にはまったくなかったものに違いない。となると、よじ登って記念写真を撮影したのは横浜からやってきた外国人たちということになる。この写真を見ると、ヘンリー・ギルマートの一行は、男も女も、真夏ということもあって白い色の洋服を着ています(しかし長袖)。女性たちは白の帽子をかぶり、左側の女性は手に日傘まで持っています。さて、彼らはこの上にどのようによじ登ったのだろうか。膝や手のひらの上まで1m50cmから2mほどもあり、このような姿で、白い服を汚すことなしによじ登れる高さでも形状でもない。上がるためのはしごのようなものがあったのだろうか(撮影時には撤去した?)。この鎌倉の大仏の膝や手のひらの上に外国人たちがよじ登ったことについては、一人の外国人女性の証言があります。それはアメリカ人女性で、名前をエライザ・ルアマー・シッドモア(1856~1928)という。たいへんな知日家にして親日家。ジュネーブで亡くなりましたが、遺骨は「その死を惜しむ日本政府の配慮」で「横浜山手の外人墓地」に迎えられ、昭和4年(1929年)の秋に埋葬式(納骨式)が行なわれました。弔辞を述べたのは新渡戸稲造でした。この証言が載っているのは、シッドモアの著書である『日本・人力車旅情』恩地光夫訳(有隣新書/有隣堂)。そこには次のように記されています。「大仏は錫(すず)と微量の金の合金が銅に混入されている青銅製だが、その親指同士および両手をそれぞれあわせた部分の青銅は、見物客がよじ登り、写真に撮ってもらおうと座るため、ピカピカに磨かれてしまい、きめ細やかな黒ずんだ色合いとなっている。これ以外は、色がさえず、風雨でしみがついている。表面は立派だが、あちこちの箇所を溶接した継ぎ目はむき出しになっている」。これによれば、外国人の見物客たちは記念写真を撮るために、やはり大仏の高い膝の上によじ登ったようです。その時の光景を、想像してみたくなる。 . . . 本文を読む

小山騰さんの『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』について その2

2009-02-11 06:24:36 | Weblog
この『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』の表紙カバーの写真は、前に触れたことがありますが、鎌倉の大仏の膝や手のひらの上に乗った外国人の男女5人(男性3人と女性2人)が写されているという点で印象的な写真です。撮影時は明治15年(1882年)7月25日。この日、彼らはヨットで横浜から金沢湾(金沢の平潟のことか─鮎川)に出かけ、そこでヨットの碇(いかり)を下ろし、その後「六浦道」(鎌倉街道)を通って「朝比奈の切り通し」を抜けて鎌倉を訪問し、鶴岡八幡宮や鎌倉の大仏を見学しました。真夏の太陽の光はさんさんとふりそそいでいます。手のひらに座る右側の女性は皮靴を履いた足を垂らし、にこやかな表情でカメラの方を向いています。左手の女性はやや顔を傾(かし)げ、右手には日傘を持っています。その2人の後ろに立っている3人の男のうち、真ん中の人物は右手に帽子を持ち、大仏の衣紋のところによりかかっている。そしてやはりにこやかにカメラの方に視線を向けています。右側のやや年輩の男性は、やや左方向を眺めています。左側の膝の上に立っている男性は、口のまわりいっぱいに顎鬚(あごひげ)を生やしており、両手を後ろに回しています。この5人は、ヘンリー・ギルマールの一行で、この写真を撮影したのは臼井秀三郎。本書P34には、この写真のもとの写真が掲載されていますが、この説明によると、左端のひげを生やした人物がヘンリー・ギルマールその人。当時30歳。30歳にしては、顎鬚があるせいか老けて見えます。後列中央のにこやかな表情をしている男性は、おそらくチャールズ・ケトルウェルで、後列右端の人物はデイブという名前の横浜在住の英国人であろう、とされています。前列の2人の女性は、『旅行日記』で「二人のブル」と記されている女性で、どちらかがブル夫人でもう一人はその関係者。「(左側の女性)がケトルウェル夫人である可能性も考えられる」とありますが、もしそうであると、にこやかに笑みを浮かべている右側の女性がブル夫人ということになります。彼らはこの日、朝比奈の切り通しを抜け、鶴岡八幡宮の前を通って、鎌倉の大仏のところにやって来ました。そしてこの大仏の膝や手のひらの上によじ登って、同行の写真師臼井秀三郎に記念写真を撮らせました。大仏の顔の部分の影の差し方から、この明治15年7月25日の何時何分頃に撮影されたのかも推測できるに違いない。 . . . 本文を読む

小山騰さんの『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』について その1

2009-02-10 05:31:59 | Weblog
最近入手した明治古写真の本に『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』というのがあります。著者は小山騰(のぼる)さんという方で、ケンブリッジ大学図書館日本部長をされている。「はじめに」によると、ケンブリッジ大学図書館写本部には、12個の緑色の大きな箱に入った写真が所蔵されているという。そのうち5箱は「日本」関係で全部で218枚の写真が入っています。写真の影像の大きさは、一枚の例外を除いてすべて縦21cm、横25cm。これら日本の5箱を含む12の箱におさめられた写真は、ヘンリー・ギルマール(1852~1933)という人物が、1882年から1883年にかけて、マーケーザ号というヨットで、カムチャッカ半島、東南アジア、ニューギニア、日本などを探検旅行した際に、地元の専門の写真家に撮影させたものや、また自分自身で撮影したものを収めたもの。このヘンリー・ギルマールはいかなる人物であるかというと、ケンブリッジに居を構え、旅行家・博物学者・文筆家として活躍したイギリス人で、実際に講義をすることはなかったが、ケンブリッジ大学で最初に任命された地理学の教員(助教授)であったという。ギルマールたちは、2年3ヶ月におよぶ探検旅行中、二度、日本に立ち寄り、日本各地を旅行して回りました。2回の旅行期日を合わせると5ヶ月におよぶという大旅行です。この小山騰さんの本は、「『マーケーザ号の巡航』執筆のために準備された資料(写真、『旅行日記』および手紙)およびギルマールの半生記である『いなごの喰った年』などを利用して、マーケーザ号の日本旅行を詳述」したもの。そしてそこに紹介されている日本各地の写真は、「ギルマールたちに同行した写真師臼井秀三郎が撮影したもの」です。この写真集の写真の、私にとってもっとも興味深い点は、その多くが写真の撮影期日が特定されること。明治何年何月何日まで特定されるのです。そこまで特定されるものでなくても、何日から何日までの間、あるいは「マーケーザ号の日本旅行以前」というところまで絞り込むことができるのです。マーケーザ号の日本旅行が1882年(明治15年)7月と、1882年(明治15年)の10月から翌明治16年(1883年)の1月末までですから、すべての写真は、明治16年1月以前に写した日本の各地の風景である、ということになるのです。その意味においても、これらの写真は貴重なものです。 . . . 本文を読む

中村啓信さんの『日下部金兵衛』について その4

2009-02-09 06:29:57 | Weblog
『日下部金兵衛』にもう一枚、若き日の金兵衛の写真があります。それはP63に掲載されているもの。写真研究家の桑嶋洋一氏が昭和62年(1987年)の夏、ソ連(当時)で見つけ撮影してきたものだという。原写真にはキャプションが付いており、「彩色する画工」と書かれているとのこと。撮影年代は明治10年頃で横浜で撮影されたという。P60の写真と照らし合わせてみて同一人物であることは間違いない。P63の金兵衛は、左斜め前やや上を見ているから、金兵衛の顔がよくわかる。眉は太く、眼窩はやや窪んでいる。顎はかっちりとし口は固く閉じられています。ものの真実を探究するような意思の強さを感じさせる表情。体は小柄ですが骨格たくましくがっしりとしています。座卓に乗せた右手には絵筆を持っている。左手に持っているのは絵皿。座卓の上には画帳のようなものが開かれています。絵筆を5本ほど入れた絵筆立ても乗っている。膝のまわりの古ぼけた畳の上には、巻紙や扇子、布袋(?)のようなものが無造作に置かれています。畳はよほど古びていて、湿気を含んででこぼこが出来ており、左端に見える畳のへりはめくれ上がっている。障子も新しいとはいえない。一部新しいのに張り替えたところもありますが、大事に使われているものの長らく張り替えてはいないようで、色がくすんでいます。右側の壁と左側の障子のところに、二枚の絵があります。壁の方の絵は軸装で、絵柄は白い鶴が二羽、松の傍らに立っているというもの。障子に立てかけられている絵の方は、婦人2人と、その婦人の一人に前抱きされた子供が描かれています。婦人の着物の描かれ方は、日本画というよりもまるで油絵のようであり、「和洋折衷」のような趣きがある。この写真が撮られた場所はどこか。金兵衛の住居、すなわち住吉町の長屋である可能性が高い。そこが金兵衛の仕事場でもあったのです。ここが金兵衛の住む長屋の一室であったとするなら、当時、金兵衛はここに妻なをと3歳になったばかりの長男太郎と三人で住んでいたということになる。では、この仕事場(長屋の一室)の金兵衛を写真に撮ったのは誰か。明治10年にスタジオを手放す、金兵衛と長年の親しい付き合いのあったフェリーチェ・ベアトではないか、と私は推測します。ある日、ベアトは住吉町の金兵衛の住む長屋を銀板写真機を持って訪れ、そこで金兵衛を写した、そう想像してみたくなるのです。 . . . 本文を読む

中村啓信さんの『日下部金兵衛』について その3

2009-02-08 06:58:53 | Weblog
若き日の日下部(くさかべ)金兵衛はどのような顔をしていたのか。中村さんの『日下部金兵衛』には、ちゃんとその写真が出てきます。という意味においても、この本は貴重です。まずP60の写真。これは横浜居留地のスタジオで写されたスティルフリートと日下部金兵衛の写真。金兵衛は左側に横を向いて座っています。頭はまだちょん髷で和服を着用している。膝に置いた手には何か紙のようなものを持っています。目はやや窪み、まなざしは真剣そのもの。口は固く閉じられ、意思の強さを表しています。「職人気質(かたぎ)」という言葉が、その全体の風貌から浮かんできます。右側のスティルフリートは、左手に絵筆を数本持って椅子に座り、やはり横を向いていますが、金兵衛の視線とスティルフリートの視線はずれています(目を見て話しているという風ではない)。スティルフリートの右前に画架がありますが、そこにはモノクロのスティルフリート自身の写真が貼られています。この写真には、暗箱カメラが2台写っています。左側(金兵衛の頭上)のはかなり大きく、それに対して右側(スティルフリートの背後)のはやや小ぶり。中村さんは、「この部屋の主人は紛れもなくステイルフリードであるが、実は昨日までベアトの部屋だったのではないか」と推測されています。明治10年(1877年)、ベアトは、横浜の外国人居留地No17にあったスタジオをスティルフリートとアンダーソンに売却していますが、その頃、「ベアトはすでに日本での写真活動から手を引いていたか、日本での営業写真師の活動を終えていたとみられる」。この写真に写されているスタジオは、したがってベアトが以前に使用していたもので、この写真を撮影した時点でのこのスタジオの所有者は、スティルフリートとアンダーソン。この写真を撮ったのはアンダーソンであろうというのが中村さんの推測です。であれば、このスタジオはベアトが長らく使ってきたスタジオを写したものということになり、これも実に貴重なものであるといっていい。このスタジオは、「金兵衛にとっては足しげく通勤してきた家」であり、またベアトがそれを売却した今となっては、自分を招いたスティルフリートとアンダーソンとともに、これから一緒に仕事をしていく場所でもある。金兵衛は、長年一緒に仕事をしてきたベアトと離れて、これから新しいパートナーとともに仕事をして行こうとしているのです。 . . . 本文を読む

中村啓信さんの『日下部金兵衛』について その2

2009-02-07 06:59:06 | Weblog
日本古代文学の研究者である中村啓信(ひろとし)さんが、日下部金兵衛に関心を持つに至った経緯が面白い。中村さんは「跋文」において、「世には奇縁というものがあるらしい」として、そのあたりの経緯について記されています。一つの(しかし重大な)きっかけは、「結婚する頃、妻の母方の家系が甲斐の日下部だと分かった」ことにありました。「日下部金兵衛」について、中村さんは、「妻の母方の家系」の一人として知ることになったようです。しかし「日下部金兵衛のことは話に過ぎなかった」のが、「日下部金兵衛」に真に心を揺さぶられる出会いが生まれます。それは、ワースウィック編の『JAPAN』という写真集でした。この写真集は、1979年(昭和54年)にニューヨークのペンウィック社から、クラーク・ワースウィック氏の編集によって刊行されたもので、東京の丸善により輸入・発売されたもの。そこには、「日下部金兵衛」の作品として31点の写真が掲載されていました。それ以来、妻の母方の先祖である日下部金兵衛について、中村さんは調べていくことになったのですが、まず写真史や人物辞典から調べてみたものの何にも載っていない。そこで自分で調べるしかない、ということから研究を進めることになったのです。調べていくと、またまた「奇縁」というべき面白いことがわかってきました。中村さんは、中学・高校通じての友人の家へしばしば自転車で出かけたのですが、その友人の家からほんのすぐのところに天尊躰寺というお寺がありました。実はそれが日下部家代々の菩提寺であったのです。親しい友人が住んでいた町(甲府市工〔たくみ〕町〔現城東町〕)に金兵衛は生まれ、少年時代を過ごしていたのです。また金兵衛が昇仙峡を撮りに行く時、「往きは甲府市内から和田峠を越え金桜神社に到り、復(かえ)りは吉沢橋で荒川を渡り、山宮道陸神の男女二体の立つ我が家の前の道を通過したものと思われる」こともわかってきました。「何も知らずに、通った私のもっとも大事な道筋が金兵衛縁故の道であった」というわけです。さて、中村さんの奥さまの母方の先祖に金兵衛がいた、ということですが、具体的に言うと、奥さまの母である「春子」さんのおじいさんということになります。つまり中村さんの奥さまは、金兵衛の曾孫にあたる。春子さんは、その抜群の記憶力で、中村さんにおじいさんである金兵衛のことについて語りました。 . . . 本文を読む

中村啓信さんの『日下部金兵衛』について その1

2009-02-06 05:51:24 | Weblog
横浜伊勢佐木町の有隣堂本店にたまたま立ち寄った時、伊勢佐木町通りの歩道にはいつも以上に多くの人々があふれ、カメラを構えた人や撮影用の大型ビデオカメラを構えた業界関係の人たちがいました。どうしてかと思ったら、ちょうどその日は、通り隔てた斜め前にある「松坂屋」の閉店の日だったのです。最終日のセールに合わせて開店を待つ人たちや、その風景を撮る人たちで、通りはあふれんばかりでした。その風景を私もしばらく眺めた後、ふたたび有隣堂に入ったら、地下1階で古書展が開かれているのに気付き、のぞいてみることにしました。古書展の会期はそろそろ終わろうとしていましたが、休日ということもあって、地下1階の古書展のコーナーは古本を探す人でにぎわっていました。そこで見つけた本の一冊が、『明治時代カラー写真の巨人 日下部金兵衛』(国書刊行会)という本でした。著者は中村啓信(ひろとし)さんという方で大学で古代文学(とくに『古事記』)を研究されていた方。「日下部(くさかべ)金兵衛」というのは明治時代の有名な写真家の一人で、名前については私は知っていましたが、詳しくは知りませんでした。「古書」ということですが、発行は「平成18年7月30日」だから、実は「古書」というほどのものではない。まだ新しい本でした。まずその表紙の写真に目を惹きつけられました。若く美しい女性が、豪華な衝立の手前と向こう側に立っていて、衝立の向こう側の娘が、手前側のやや斜め方向を向いた娘に、下目遣いになにやらささやいている情景です。衝立の右側には外光が白く差し込む円形の障子窓があり、畳の紋様はまるで波のようにゆらめいているようだ。背後の壁は上の方がうっすらと黒くなっている。構図は計算され尽くしているものの、娘が衝立越しにささやきかける表情はいたって自然で、それを聞く娘の表情も自然で気取りがない。手前の娘の着物は淡いピンクで、衝立向こうの娘のそれはうぐいす色。結った髪は豊かで黒々と輝き、若さを感じさせる。2人の娘は、それぞれ清楚で目を見張るほどに美しい。衝立も凝っている。「黒漆地に螺鈿(らでん)の鳥花」があしらわれ、画面には鶴が縦列になって葦の生えた水面に舞いおりていく光景が描かれています。表紙を開けると、彩色された古写真やモノクロ写真が満載されており、そのどれもが構図が見事で美しい。心が踊るまま、即、購入することにしました。 . . . 本文を読む