『帰ってきた国指定重要文化財 渡辺崋山筆千山万水図』(図録)によれば、寄贈者の奈良岩雄氏の祖父である奈良磐松氏(1879~1961)は、秋田蘭画の収集家として知られ、大正時代には、所蔵品目録が刊行されているという。戦後に退任してからは、美術品収集に専念し、没後は遺志により、秋田県出身者の書画、重要美術品を含む62点が秋田市美術館に寄贈され、その後、奈良家の資料は奈良淳一郎・奈良恭三郎両氏から奈良岩雄氏に引き継がれたとのこと。この記述によると、奈良磐松氏が崋山の『千山万水図』を入手し、それが子孫によって大切に保管され、奈良岩雄氏によって田原市博物館に寄贈されたということであるようですが、その詳しい経緯はよくわかりません。奈良磐松氏が入手したとして、どういう興味・関心や経緯で購入したのかもわかりません。崋山の『千山万水図』は、田原蟄居中の天保12年(1841年)6月に描かれたもの。それから4ヵ月後の10月11日、崋山は田原城下池の原の幽居先で自刃し、49歳で亡くなっています。その晩年の大作『千山万水図』が重要文化財に指定されたのは昭和27年(1952年)3月29日のことでした。 . . . 本文を読む
田原市博物館の平成27年春の企画展カタログによれば、奈良家は、16世紀半ばに奈良から秋田に移住し、江戸時代に金足村小泉に居を構えて、大地主になったといいます。旧奈良家住宅は、江戸時代の宝暦年間(1751~1763)に9代善政(喜兵衛)によって建てられたもの。この時の棟梁は土崎の間杉五郎八。この住宅は、秋田県中央海岸部の大型農家建築物として、よく初期の形態をとどめ、また建築年代が明らかな点でも貴重な民家であり、昭和40年(1965年)5月29日に重要文化財に指定されたということです。 . . . 本文を読む
平成27年(2015年)4月11日~5月24日にかけて、田原市博物館において、「春の企画展 帰ってきた国指定重要文化財 渡辺崋山筆 千山万水図」がありました。この「千山万水図」(せんざんばんすいず)は、崋山が、最晩年に田原で描いたもので、それが秋田市金足の奈良岩雄氏から田原市博物館に寄贈され、初公開されたのです。私は、「北前船」の関係で青森から秋田にかけて取材旅行をした時に、秋田市郊外にある秋田県立博物館を訪れ、そこから歩いて県立博物館の分館を訪ねたのですが、それが秋田県内屈指の豪農であった「旧奈良家住宅」であり、そこには民俗学の先駆者として知られる菅江真澄(すがえますみ・1754~1829)が滞在していたことを知りましたが、その奈良家は、崋山の最晩年の大作である「千山万水図」を所蔵していた家でもあったのです。崋山の作品は、五所川原の青森県屈指の豪商佐々木家ばかりか、秋田県屈指の豪農であった奈良家にも所蔵されていたのです。 . . . 本文を読む
太宰治が『津軽』の旅をしたのは、昭和19年(1944年)の5月から6月にかけてのこと。五所川原の「布嘉御殿」が、市内の木工所から出火した火災によって炎上したのは、昭和19年の11月29日のことでした。『津軽・斜陽の家』によれば、「布嘉御殿」が類焼したのは、裏庭に積み上げられていた一年分の炭俵や薪(たきぎ)の上に、板切れ状の火の子が降り注いだからであるとか、あるいは、レンガ塀の隙間から強風が吹きこみ、あたかもふいご状になったからだ、とも伝えられているとのこと。七つあった蔵もすべて瓦解・炎上し、そこに所蔵されていた「宝もの」もすべて焼失してしまったという。崋山の『訪瓺録』(自筆本)も、その中に含まれていたのです。しかし、太宰が『津軽』の旅をした時、初代佐々木嘉太郎が建てた「布嘉御殿」は、その城塞のような威容(東北一の豪邸であったと言われる)で、五所川原の町や津軽平野を睥睨していたのです。 . . . 本文を読む
『渡邉崋山と(訪瓺録)三ヶ尻』の事務局注「八つの訪瓺録」によれば、「青森県北津軽郡五所川原町(現在は市)字本町の大地主で貴族院議員の佐々木嘉太郎氏」は、谷文晁と渡辺崋山のコレクターであったとのこと。崋山の『訪瓺録』(副本・自筆本)を手に入れた佐々木嘉太郎は、今までの考察によれば、初代嘉太郎ではなく、二代目か三代目の嘉太郎であったと考えられます。初代嘉太郎が、谷文や渡辺崋山に関心を持っていたかどうかは、今のところわかりません。初代嘉太郎の風貌については、『津軽・斜陽の家』には、次のように記されています。「小柄で、細面。かすれた低い声でおもしろそうでもなく冗談をつぶやく。津軽の囲炉裏端によくいる老人のタイプである。酒は飲まず、質素を旨とし、いつも木綿の和服を着用していた。趣味もこれといってなく、強いていえば、小鳥を飼育するぐらいだった。」この記述を読む限りでは、初代嘉太郎が、江戸の文人画に強い興味・関心を持っている気配を感じ取ることはできません。 . . . 本文を読む
『渡邉崋山と(訪瓺録)三ヶ尻』(熊谷市立図書館)の「事務局注」によれば、『訪瓺録』は「八つ」あるとのことです。①崋山が藩主三宅康直侯に調査報告書として献上した原本。これは「現在は所在が不明です」と記されています。②崋山が三宅康直侯に提出した原本の控え(副本)として作成したもの。この副本は、後に愛知県豊橋市の鈴木まささんという人が手に入れ、模写本を作ったあと、青森県の佐々木嘉太郎氏に譲っている、と記されています。これが正しければ、「布嘉御殿」の炎上とともに焼失したのは、①の原本ではなく、②の副本であるということになります。またこの記述からは、鈴木まささんから佐々木嘉太郎の手に渡ったものと読み取ることができます。この佐々木嘉太郎は、今まで見てきたように、初代嘉太郎ではなく、二代目か三代目の嘉太郎ということになります。その嘉太郎は、鈴木まささんが副本を所有していることを、何かの伝手で知り、多額の金を払って手に入れたものと考えられます。鈴木まささんは副本を大正末年に一日一ページずつ丹念に引き写しをして写本を作り(『渡辺崋山集 第2巻』の解説には「「影写したもの」とあります)、その後、この副本を佐々木嘉太郎氏に譲ったのです。鈴木まささんが丹念に「影写」した写本は、現在、田原市博物館に所蔵されています。これが③の『訪瓺録』(田原市博物館所蔵写本)。④熊谷市三ヶ尻の龍泉寺にある「龍泉寺本」。これは崋山が三宅康直侯に提出する前に、崋山の弟五郎(如山)と弟子の高木梧庵が模写したもの。⑤熊谷市三ヶ尻の大澤氏が所有している「大澤本」。これは④を模写したもの。⑥熊谷市三ヶ尻の蓮沼宅に所蔵されている「蓮沼本」。これも④を模写したもの。⑦「国立国会図書館本」。⑧東京大学総合図書館南葵文庫にある「東大本」。天保5年に模写されたもので、明治38年(1905年)に東大が古本として購入しています。「現存しているもので、確認出来たもの」は、その八つのうち六つである、と記されています。「事務局注」の記された時点において、原本は所在不明であり、副本(これも崋山自筆本)は、昭和19年11月29日の五所川原大火において、すでに焼失してしまっていたのです。 . . . 本文を読む
『渡辺崋山集 第2巻 日記・紀行(下)』(日本図書センター)の『訪瓺録』(ほうちょうろく)の解説には、「『訪瓺録』の原本は、豊橋市の画商鈴木氏の手に入り、青森県五所川原の佐々木嘉太郎氏が所蔵するに至ったが、昭和十八年佐々木氏宅火災のため焼失した」と記されています。この「青森県五所川原の佐々木嘉太郎氏」とは、「布嘉」と呼ばれ、「布嘉御殿」を建てた青森県第一位の多額納税者であり、貴族院勅選議員であった佐々木嘉太郎(につながる人物) のことであるらしいことを、私は、鎌田慧氏の『津軽・斜陽の家』(祥伝社)で初めて知りました。どういう経緯で、佐々木家が渡辺崋山のこの『訪瓺録』を手に入れるに至ったかはわかりません。「鈴木まさ筆写本」(大正末年に豊橋市の画商の娘鈴木まさが崋山筆の自筆本を影写したもの)が残っていることから、「大正末年」以後に、鈴木まさが崋山自筆本を手離し、佐々木家が手に入れたとすると、大正末年にはすでに初代佐々木嘉太郎は亡くなっている(大正3年)から、初代嘉太郎の死後に佐々木家が崋山自筆の『訪瓺録』を手に入れたことになります。解説には「昭和十八年佐々木氏宅火災」とあるけれども、佐々木邸(「布嘉御殿」)が五所川原の大火で焼失したのは、昭和19年11月29日のことであったことはすでに触れたところです。 . . . 本文を読む
『津軽・斜陽の家』によれば、佐々木嘉太郎(初代)が「布嘉御殿」の新築に取り掛かったのは、養子先の当主である佐々木喜太郎の死去を見届けてからのことでした。それまでに嘉太郎は、上方に出掛けた折などに、京阪の有名な建造物はもとより、北陸まで足を伸ばして、めぼしい建物の見取り図を描いては想を練っていたという。では、完成した「布嘉御殿」の姿はどういうものであったのでしょうか。 . . . 本文を読む
太宰治の『津軽』関係で触れた五所川原の豪商、「布嘉」こと佐々木嘉太郎は、実は崋山の著した『訪瓺録』の所蔵者であったことを知りました。実は『渡辺崋山集 第2巻』の『訪瓺録』の解説に触れられていることであったのに、そのことに気付かず、最近、『渡邉崋山と(訪瓺録)三ヶ尻』(熊谷市立図書館)に目を通して、そのことに気付きました。そこで、再び、『津軽・斜陽の家』(鎌田慧)の、該当の部分(佐々木嘉太郎関係の部分)を読み返してみました。 . . . 本文を読む