鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.4月取材旅行「鴻巣~吹上~熊谷」 その最終回

2012-04-29 07:55:48 | Weblog
崋山はまず桐生へと赴き、妹茂登の嫁ぎ先岩本家に腰を落ち着けます。桐生近辺を見て回ったりした後、岩本家を出立し、それから深谷を経て三ヶ尻へとやってきます。熊谷宿を経て桐生の岩本家に崋山が到着したのは、天保2年(1831年)の10月12日(旧暦)。一ヶ月弱の桐生滞在の後に、岩本家を出立したのが11月7日。別の資料によれば、途中深谷宿においてその日は宿泊した可能性が高いから、大麻生村の古澤家に到着したのは翌11月8日で、三ヶ尻村の初訪問もその日であった可能性が高い。三ヶ尻村は、藩祖三宅康貞公の故領地であり、崋山にとっては藩祖の旧領であったこの三ヶ尻村の現地調査(フィールドワーク)こそ、この毛武旅行の第1のテーマ(目的)であったわけですが、まず桐生の岩本家を訪ねたのは、そこにいる妹茂登の様子を我が目で確かめるだけでなく、三ヶ尻村調査の有力な足がかりをつかむことにありました。岩本家の人的なネットワークを利用して、三ヶ尻調査の有力な伝手(つて)となる人物を捜し出すことが崋山のねらいでもありました。崋山は「四州真景」の旅において、宿の主人や知り合った旅人たちから、その地のひとかどの人物を紹介され、その人物たちにわざわざ会いに行くことによって有益な情報を手に入れていますが、この毛武旅行においても、岩本家の人的つながりを利用して、その情報ネットワークを拡大し、メインテーマの三ヶ尻村訪問およびその調査へとつなげていきました。 . . . 本文を読む

2012.4月取材旅行「鴻巣~吹上~熊谷」 その10

2012-04-27 05:34:59 | Weblog
『渡辺崋山集 第2巻』の解説によれば、崋山は天保2年(1831年)の11月7日(旧暦)に桐生を出立。深谷を経由してその日のうちに大麻生(おおあそう)の名主古沢喜兵衛家まで歩いたと考えられる、という。三ヶ尻では黒田平蔵や蓮沼忠兵衛らの協力を得て調査を行い、11月18日の竜泉寺仁王門落成式にも出席。崋山らがどこに滞在したかははっきりしないが、大麻生の古沢家、三ヶ尻の黒田家・蓮沼家および竜泉寺に滞在したと推定される、とも記されています。江戸に帰着したのは12月4日であるから、12月の初頭には三ヶ尻を出立したものと思われます。熊谷宿に出て、そこから中山道を江戸へと向かったのでしょう。『訪瓺録』の上巻の内容は、名義、彊域、形勢、賦課附沿革、風俗、物産。下巻の内容は、幸安寺・竜泉寺・八幡社・天王・三宅屋敷・黒沢屋敷・火雨塚・旧家(笠原清七)。「文献のみによる考証ではなく、現地の住民から聞き取り調査していることは、すぐれた地誌編集の方法といえよう」と記され、崋山が、三ヶ尻村の村人たちと、調査を通して多く接触していることが推測されます。 . . . 本文を読む

2012.4月取材旅行「鴻巣~吹上~熊谷」 その9

2012-04-26 05:33:33 | Weblog
中島迪武(みちたけ)さんの『やさしい熊谷の歴史』には、P118からしばらく崋山の『訪瓺録』についての記述があります。『訪瓺録』は、「ほうちょうろく」あるいは「ほうへいろく」と読み、天保3年(1832年)の夏頃に藩主に献ぜられたもので、藩主三宅家の旧領である三ヶ尻を崋山が調査した記録。三ヶ尻村は、『やさしい熊谷の歴史』によれば、三宅家の祖三宅康貞が天正18年(1590年)に領有した旧領。中島さんは、崋山ははじめは天保元年(1830年)に三ヶ尻を訪れ、翌天保2年(1831年)にも三ヶ尻を訪れたとしていますが、「天保元年」に訪れたとするのが、何に拠るのかはわからない。『渡辺崋山集 第2巻』の解説を見ても、芳賀徹さんの『渡辺崋山 優しい旅人』に目を通してみても、「天保元年」に訪れたという記述はなく、崋山が三ヶ尻を訪れ、調査のため長期滞在したのは、妹茂登の嫁いだ岩本家のある桐生訪問からの帰途であり、天保2年の11月7日から12月初旬にかけての約1ヶ月、その一回のみであったと思われます。『やさしい熊谷の歴史』に紹介されている『新編武蔵風土記稿』の記述によれば、三ヶ尻村は幡羅郡にあり、広さは東西30町、南北16町。人家は300軒。小名に、上宿・中宿・下宿・横町・宮島・馬場・久保・小屋・上野・清水・森・林がありました。地図でその位置を確かめてみると、現在のJR高崎線籠原駅と秩父鉄道明戸(あけと)駅を結ぶ線の中央一帯であり、観音山や三ヶ尻小学校、三ヶ尻中学校などが存在しています。現在の住所は熊谷市三ヶ尻であり、南を走る秩父鉄道を越えれば荒川が東西に流れています。 . . . 本文を読む

2012.4月取材旅行「鴻巣~吹上~熊谷」 その8

2012-04-25 05:13:59 | Weblog
芭蕉が荒川堤(久下の長土手・熊谷堤)を詠んだ俳句としては、「土手長し日長し鐘は熊谷寺」のほか、「しばらくは花の上なる月夜かな」というのもあります。「花」はこの場合「桜の花」であり、この堤(長土手)は、桜の名所でもあったらしい。『行田歴史散歩』大井荘次(大井立夫設計工房)によれば、忍藩第一の名君といわれる15代藩主松平忠国が、熊谷堤で観桜の宴を催したこともあったという。この旧熊谷堤は荒川堤防の大規模改修工事などによってそのほとんどが失われ、わずかに「万平公園」内に、その一部が150mほど残っています。その土手に植樹された桜が、かつての桜の名所をしのばせるものになっています。 . . . 本文を読む

2012.4月取材旅行「鴻巣~吹上~熊谷」 その7

2012-04-24 05:15:06 | Weblog
『やさしい熊谷の歴史』(中島迪武)によれば、荒川堤(久下の長土手)は、大曲(おおまがり)から久下(くげ)宿(ここに立場があった)を経て、そこからまた堤に上がって三町(約300m)ほどで「みかりや」と呼ばれる休茶屋に到着。そこから堤を下り、東竹院の前を通過し、熊久橋を渡れば熊谷宿に至りました。前に触れたように、この長土手の上り口(江戸方面から歩いてきて)と下り口にそれぞれ一軒の茶店があり、下り口にあったのが「みかりや茶屋」でした。渓斎英泉の「岐阻道中熊谷宿八丁堤ノ景」は、やはりこの本の記述によると、「みかりや」茶屋の付近を描いたものであるという。久下村には荒川に面した河岸があって(久下河岸)、江川村の河岸(江川河岸)とともに大変繁盛した河岸であり、船主の屋敷や河岸問屋、宿屋などがあったという。特に荒川沿岸で最も栄えた河岸は「江川河岸」であり、忍(おし)藩の御用船は主にこの「江川河岸」を使用していた、とも記されています。この「江川河岸」は江戸までおよそ36里(約144km)。早船で2日、短い時で4、5日。普通は15日~20日ほどであったという。明治7年(1874年)、下久下村と江川村が合併して新川村となり、「江川河岸」は、「新川河岸」と呼ばれて、明治になっても荒川水運の要衝地であったようです。崋山は、この長土手を「熊谷の土手」と記し、「其長さおよそ三里もありぬらん」としていますが、その「三里」とは、大曲の上り口(ここに崋山が盥の中で泳ぐカジカを写生した茶屋があった)から「みかりや茶屋」のあった「下り口」までの距離であったろうか。英泉の浮世絵の左半分にはその「みかりや茶屋」、そして右半分には荒川の長土手(久下の長土手)が描かれています。 . . . 本文を読む

2012.4月取材旅行「鴻巣~吹上~熊谷」 その6

2012-04-23 05:17:18 | Weblog
崋山が、荒川の長土手にあった茶屋(一軒家)の盥(たらい)に見た魚とは何であったのか。崋山はそれを写生したはずですが、図はなく、しかし「鰍図」とあって「鰍」(かじか)であったことがわかります。その「鰍」は、おそらくその茶店の「素朴」な主人が、荒川で網獲りしたもの。盥の中に入れられ、その中で泳いでいたのでしょう。辞書で調べてみると、「鰍」はカサゴ科カジカ科の魚の総称。日本には約90種がいて、大部分は北日本の沿岸や河川の冷水域に分布しているという。また「鰍」の一種で、全長15cmになり、頭と口は大きく、やや扁平のずんぐりした体形。背部は灰褐色で、背面に暗色のまだら模様がある。食用にして美味。北海道南部以南の底が小石で水のきれいな河川に分布、とある。茶店の主人が、旅人に供するために荒川で網で捕獲したものなのでしょう。盥に入れてあったその「鰍」を目に留めた崋山が、絵筆と紙を出してさらさらと写生したのです。『やさしい熊谷の歴史』(中島迪武)によれば、荒川堤は「久下(くげ)の長土手」とも言い、芭蕉の句に、「土手長し日長し鐘は熊谷寺(ゆうこくじ)」というのがあるとのこと。この長土手の上り口(吹上側)と下り口(熊谷側)にそれぞれ一軒の茶店があり、下り口のそれは「みかりや」という名前で、忍城主が狩に出ると、必ずこの茶店で休んだという。崋山が休憩したのは上り口の茶屋であったのですが、今のところ私にはその茶店の名前はわかりません。 . . . 本文を読む

2012.4月取材旅行「鴻巣~吹上~熊谷」 その5

2012-04-22 06:33:33 | Weblog
駕籠に乗った崋山は久下(くげ)を過ぎ、坂をのぼって荒川の長土手に出ました。茶店があり、荒川で網獲りしたという小さな魚を盥(たらい)に入れて置いてあったのが珍しく、その茶屋で休憩した崋山はその様子を写生しています。この茶店は一軒家であって、酒や飯も出す大きな店であるけれども、その主人はたいへん素朴な人柄であったと、崋山はわざわざ記しています。荒川の長土手は「熊谷の土手」とも言い、水害を防ぐために設けられたもの。「長さおよそ三里もありぬらん」と崋山は記し、堤には「皁樹」(そうじゅ・さいかちの木)が植えられているとも記しています。この荒川の長土手を下りれば、熊谷宿まではもうあとわずかの距離でした。 . . . 本文を読む

2012.4月取材旅行「鴻巣~吹上~熊谷」 その4

2012-04-20 04:40:19 | Weblog
駕籠かきは話好きであったのか、それとも崋山がうまく聞き出したのか、上州新田郡の旗本「新田万次郎」の家来で、「伯楽」と呼ばれる、馬の売買をする人についてのある興味深い話を崋山にしています。「新田万次郎」とは、新田氏の一族である「岩松満次郎」のことで、「左中将義貞」すなわち新田義貞の末裔。その岩松満次郎家の「伯楽」は、秋のなかばに至ると奥州の仙台へ出掛けて馬を購入し、「新田どの御用」という札を立て、一人が2、3頭も曳いて帰ってくるのを常としました。昼は往来の人々の妨げになるものだから、夜だけ旅行するのが「伯楽」の慣わしであったが、この岩松家の「伯楽」は、「新田どの御用」という札を押し立てて、日中も馬を連れて公然と街道を移動していました。この「伯楽」がある時、仙台の町を通った時、百姓体の男から、「『新田どの御用』とあるが、その『新田どの』とは誰のことですか」と声を掛けられます。「伯楽」がその問いに答えると、その百姓体の男は驚き、「実は私たちもみな、先祖が新田義貞公の家来であり、義貞公が討死してから世を逃れ、仙台北西の山奥の村落を世を送ってきたものです。ぜひ来てみませんか」ということで、その村を訪ねてみると、大きな屋敷が幾つも並んでいて、どれも豊かな家々であるように見受けられました。「伯楽」は、主君である岩松満次郎に会わせる約束をその村人と交わし、戻ってからこのことを岩松満次郎に報告。その結果、今年の夏に、7人の村人が「お目見え」ということで初めて新田郡の地にやってきて、約束通り、30両を献上して奥州に戻って行った、というのが、崋山が駕籠かきから聞いた話の内容でした。この話の中で私が興味深く思ったことは、毎年、秋の半ばになると、馬を売買する人々が仙台へ行って馬を購入し、馬を引き連れて戻ってくるということでした。「伯楽」と呼ばれる人々の活動範囲やその様子をうかがわせる話として興味深いものでした。 . . . 本文を読む

2012.4月取材旅行「鴻巣~吹上~熊谷」 その3 

2012-04-19 04:25:20 | Weblog
翌日、起床したのは「寅刻過頃」とあるから、午前4時頃。崋山たちは行燈のもとで朝食を摂りました。旅装を整えて駕籠に乗って鴻巣宿の穀屋前を出立。その日のうちに鴻巣宿から桐生に至るには、熊谷あたりで夜明けを迎えるぐらいでなくてはいけないと聞いていたから、相当に早い時刻の出発となりました。岩本家の使用人吉兵衛は先触れとして先行し、高木梧庵は馬に乗って後発。崋山の乗る駕籠の脇には下僕の弥助が付く。風はないけれどもこの日は寒く、霧が深く立ち込めていました。沿道ところどころで美しく紅葉した雑木林を見ることができました。茅葺屋根の茶店がところどころにあって、その茶店で時々休憩を摂りながら、崋山が乗る駕籠は早朝の中山道を進んで行きました。 . . . 本文を読む

2012.4月取材旅行「鴻巣~吹上~熊谷」 その2 

2012-04-18 03:31:25 | Weblog
鴻巣宿の穀屋次郎兵衛方で、崋山は妹茂登の嫁いだ桐生岩本家の使用人である吉兵衛と落ち合っています。本来は板橋宿で落ち合うはずであったのが、何らかの行き違いがあって、吉兵衛は一足先に穀屋に到着しており、崋山が夜遅くに穀屋に到着したのを知って、驚いて崋山を出迎えました。疲れ果てていた崋山はすぐに酒を命じ、肴が悪かったため卵を五つ購入してそれを食べています。吉兵衛は崋山に、「明日は駕籠に乗って桐生へ向かうように」と勧めます。その理由は、「桐生は経済的に豊かなところだから、駕籠でその宿に入らないと外聞が悪いから」というものでした。崋山は気が進まなかったものの、疲れていることもあって、吉兵衛の勧めにやむなく従い、明日の駕籠を宿の者に命じました。またやはり疲れ果てた高木梧庵を熊谷宿まで乗せるために、崋山は「から尻」(荷なしの馬)を宿の者に命じています。この日は朝から雨模様でしたが、桶川宿を過ぎたあたりから雨は激しくなり、鴻巣宿穀屋に入ってからも激しく降り続けました。 . . . 本文を読む

2012.4月取材旅行「鴻巣~吹上~熊谷」 その1 

2012-04-16 05:41:46 | Weblog
3月の取材旅行は、中山道を鴻巣まで歩きました。江戸を出立した崋山は、上尾宿で生田万と別れ、すっかり暗くなった中山道をさらに進んで、予定通り鴻巣宿まで歩き続けました。宿泊した旅籠は「穀屋次郎兵衛」。その「穀屋」がどこにあったかは、今のところ私にはわかりませんが、奥に大きな蔵があって、その中が3つに仕切られ、旅人が泊まる部屋になっていました。部屋に番号札が掛けられており、出口に履物や杖などが置かれているところも部屋番号が記されており、その機能的なところに崋山は着目しています。崋山が江戸から鴻巣まで歩いた年月日は、天保2年(1831年)の10月11日(旧暦)のこと。翌12日、鴻巣宿を出立した崋山は、吹上→久下(くげ)→荒川土手→熊谷→妻沼(めぬま)→利根川→太田を経て、「亥刻すぐる」頃、桐生の町に到着します。「亥刻」とは午後10時頃だから、午後10時過ぎに桐生に到着したことになる。鴻巣宿を出立したのが午前5時頃と推測されるから、およそ17時間の行程。ただし崋山は、この日は鴻巣宿から新田郡の金山あたりまでは駕籠に乗っているから、行程の四分の三ほどは駕籠で四分の一ほどが徒歩。崋山は駕籠の窓から、そして休憩した茶店の店先から沿道の風景を眺めたものと思われる。熊谷宿からは中山道を離れ、桐生へ通ずる道を進むことになります。今回の取材旅行は、鴻巣から吹上を経て熊谷までの中山道を歩きました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

「フェリーチェ・ベアトの東洋」展 その最終回

2012-04-08 08:30:45 | Weblog
フェリーチェ・ベアトの没年月日と亡くなった場所については、『F・ベアト写真集2』の解説編(「横浜写真小史再論」)で斎藤多喜夫さんが記すように、1908年頃に死去したらしいと推測されるばかりで、はっきりしたことはわかっていませんでした。しかし、この『フェリーチェ・ベアトの東洋』のパンフレットには、「フェリーチェ・ベアト(1832~1909)」と明確に没年が記されていました。カタログに目を通すと、「最近になってようやく亡くなった日付と場所が確定した」という。カタログ(日本語版)の「フェリーチェ・ベアト抄史」によれば、ベアトは1832年にイタリアのヴェネツィアに生まれ、1909年の1月29日にやはりイタリアのフィレンツェで亡くなっています。ベアトがビルマに滞在していたのは、1887年から1902年の間であり、外国滞在としては、日本に次ぐ長さの滞在期間であったことがわかりました。彼が77年の長い生涯の中で滞在したところは、イタリア、ギリシャのコルフ島(イギリスの保護領)、フランスのパリ、クリミア半島、マルタ島、エルサレム、カイロ、アテネ、シリア、コンスタンティノープル、インド、、中国(清国)、イギリス、日本、朝鮮、エジプト、スーダン、ビルマなどであり、「最初のグローバルな写真師の一人」(P25)であり、「19世紀を代表する写真家の一人として評価する機運が高ま」ってきたという指摘(P2)などは、ベアトの幕末日本を写した写真に魅せられてきた私にとって、たいへん嬉しいものでした。 . . . 本文を読む

「フェリーチェ・ベアトの東洋」展 その2

2012-04-04 05:47:35 | Weblog
私はフェリーチェ・ベアトの写真集を2冊持っています。その一冊は『F・ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)で、横浜開港資料館の売店で購入したもの。もう一冊は『F・ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本』(明石書店)というもので、横浜伊勢佐木町の有隣堂で購入しました。この2冊に収録されている写真のいくつかについては、すでにこのブログでも取り上げたことがありますが、「よくぞ、このような写真を撮っておいてくれたものだ」と感謝したくなるような、「幕末日本」の貴重な写真がたくさん収められています。今回の東京都写真美術館の『フェリーチェ・ベアトの東洋』展のポスターを見て、まず思ったことは、ベアトが日本以外の東洋でどのような写真を撮っていたのかということと、カタログが売っているはずだから、それをぜひ手に入れたいということでした。ベアトはアジア航路でヨーロッパから日本に来たはずであり、日本に来る以前においてははインドや中国にも滞在していたということを知っていました。彼の写真技術や技法はすでに来日以前にほぼ完成していたようであり、日本での彼の写真撮影はその応用とも言うべきものでした。被写体としては、ベアトにとってはインドや中国よりも格段に魅力的なものであって、それがベアトが日本に長期滞在するようになった一番の理由であったと思われます。そのベアトが、来日以前にインドや中国でどういう風景を写していたのか、興味津々で展覧会場に入りました。 . . . 本文を読む

「フェリーチェ・ベアトの東洋」展 その1

2012-04-03 05:54:38 | Weblog
職場の廊下の壁に貼り出されていたポスターの中に、「J・ポール・ゲティ美術館コレクション フェリーチェ・ベアトの東洋」という1枚があり、その写真展が「東京都写真美術館」で開かれている(3/6~5/6)のを知りました。「東京都写真美術館」へは今まで行ったことがなく、それがどこにあるのかを確認してみると、「恵比寿ガーデンプレイス」の中にあるとのこと。最寄駅はJR山手線の恵比寿駅。ということでさっそく出掛けてみることにしました。 . . . 本文を読む