鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その2

2015-04-14 06:48:20 | Weblog
崋山らが上陸したところは神島の北側の集落のある側ではなく、神島の南側の磯辺でした。その磯辺は海が深くて、折悪しく波が逆巻いていました。したがって、帆を下ろして櫓を押して磯辺に近付こうとしても、波のために船は引き返され、引き返されたかと思うと磯辺近くに打ち寄せられるといったことを繰り返し、どうしてもうまく着岸することができない。そこで船子たちは碇(いかり)を投げ入れて船が沖合いに流れないようにした上で、綱を持って磯辺に泳ぎ着き、力を限りにその綱を引いて船を磯辺に近付けようとしているうちに、この島の腰巻ばかりをつけた女たちが何人も群れ集まって来て、その綱を一緒に引いてくれたので、船は無事磯辺に着岸することができました。船子たちは崋山たちを背負うと小高い岩の上に下ろし、また荷物も船から運んで、それが終わると直ちに船に乗り移って碇を上げ、潮に引かれて伊良湖の浜に向けて戻って行きました。磯辺の小高い岩の上に立つ崋山たち3人は、伊良湖の浜に向けて離れていく船を眺めながら何となく物悲しい気分になり、かの俊寛が罪を得て薩摩国鬼界島(きかいがしま)に流された時と同じ気分を味わうような心持ちになりました。さて、崋山らが上陸した場所はというと、「島の南辺」と崋山が記しているように、神島の南側の磯辺であり、私はそれを「ニワの浜」と推定しました。現在、神島小学校と神島中学校があるあたり、そのグランドの南側の磯辺になります。ここからは「古里の浜(ごりのはま)」を左手に見て北側の集落へと向かう道があり、これは昔からあった道であるものと思われます。「下ひも」(=腰巻)ばかりを付けた上半身裸の女性が何人も群れ集まってきた、というその女性たちは、神島の海女(あま)たちであり、「ニワの浜」でアワビや牡蠣(かき)などの素潜り漁をしていた女性たちであったでしょう。崋山はあとで、「磯に出るものハあしなかをはきて走る。女は皆はだかにて、ふんどしばかりにこしをおほひ、そのなりはひをなす」と記しています。「神嶌、船ヲアグル図」および「神島風俗」のスケッチを見ても、女たちが下半身に付けているのは「ふんどし」ではなくて白い腰巻であり、その姿で、海女として海に潜ってアワビやカキなどを獲っていたのです。 . . . 本文を読む