鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 軽井沢その2

2009-08-30 06:52:57 | Weblog
明治25年(1892年)の2月2日、兆民と小山太郎は、軽井沢停車場から汽車に乗り、午後2時55分に小諸停車場に到着しています。ということは、小諸~軽井沢間に鉄道がすでに敷かれているということになりますが、その5年前の明治20年(1887年)、兆民と小山久之助が軽井沢から小諸に向かった時には、まだ鉄道は敷かれておらず、兆民一行はおそらく馬車で、軽井沢から小諸まで、北国街道を揺られていったと思われます。では、長野県内の鉄道敷設状況はどうであったのか、という点を見ていくと、直江津~長野間が全通したのは明治21年(1888年)5月。長野~上田間が開通したのが同年8月15日。そして上田~軽井沢間が開通したのが同年12月1日のことでした。つまり直江津~軽井沢間が全通したのは明治21年12月1日であった、ということになります。軽井沢停車場が設けられたところは、軽井沢宿よりもはるか南方1500mほどの地点でした。さて、この明治21年12月1日というと、この日は碓氷馬車鉄道が横川~軽井沢間の全通したまさにその当日であり、この日より、東京(上野)~高崎~横川~〔馬車鉄道〕~軽井沢~長野~直江津が、一部、馬車鉄道に乗り換えるとしても、鉄道でつながったということになるわけです。明治20年の11月、兆民は横川~小諸間を馬車(ないし人力車)で行くしかありませんでしたが、明治25年2月には、横川~小諸間を、馬車鉄道と汽車を利用して移動できたことになるわけです。軽井沢から小諸までは、御代田を経由しておよそ1時間の乗車時間でした。この状況は、明治26年(1893年)4月1日の碓氷線(アプト式鉄道)の開通(運転開始)によって、さらに大きく変化することになります。碓氷線の工事が始まったのは明治24年(1891年)2月のこと。完成したのが翌明治25年(1892年)12月26日のことで、運転が開始されたのが明治26年の4月1日のことでした。小山太郎も兆民も、明治25年の2月2日、横川から軽井沢まで鉄道馬車に乗りながら、アプト式鉄道建設工事が大々的に進められている現場を目の当たりにして、碓氷峠(新道=国道)を越えていったのです。この碓氷線の開通により、鉄道馬車で2時間半~3時間かかっていた横川~軽井沢間は、1時間15分と、半分ほどに短縮されることになりましたが、この建設工事は歴史に残る難工事でもありました。 . . . 本文を読む

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 軽井沢その1

2009-08-29 06:49:10 | Weblog
中江兆民は、明治20年(1887年)11月19日と明治25年(1892年)2月2日に、横川から碓氷峠を越え軽井沢を通過しています。20年の時の同行者は小山久之助ら(他の人々の名前はわからず)。小山久之助は、兆民の愛弟子で小諸の出身でした。おそらく長野西北馬車会社の馬車に乗っています。25年の時の同行者は小山太郎(1871~1965)。太郎は小山家(総本家)の24代小山清太郎(1848~1920)の長男で、後に25代当主となる人物。清太郎の弟が久之助だから、久之助と太郎の関係は叔父・甥の関係になる。明治20年に小山家に泊まった兆民は、この時16歳の太郎と会っているはずだから、明治25年2月2日の朝、磯部温泉鳳来館で会った時は、5年ぶりの再会ということになる。この小山太郎は「雅俗日誌」という日記を残していますが、そこに、この再会のところが詳しく乗っています。前に記したことがありますが、再度、押さえてみます。明治25年1月31日、21歳の太郎は、午後7時5分発の終列車で小諸を出発。その日は軽井沢の追分宿「油屋」に宿泊しています。翌2月1日、太郎は午前5時発の鉄道馬車(賃銭40銭)に乗り、午前8時に横川の「万屋(よろずや)」に到着。この約3時間の鉄道馬車の車中から、太郎はアプト式鉄道の開鑿工事の様子を目撃しています。明治25年の1月末においても、アプト式鉄道の工事(橋梁やトンネルの建設工事)が、多数の労働者を動員して、突貫工事で進められていたことがこの日誌からわかります。この横川の「万屋」で、太郎は兆民を待ちますが、到着する汽車にはいずれにも兆民は乗っておらず、やむなく太郎は午後4時過ぎの鉄道馬車に乗り込み、追分宿の「油屋」に戻っています。しかし、おそらく太郎はこの「油屋」で、兆民がこの日、磯部温泉の鳳来館に泊まったことを知ります。兆民は高崎から横川に向かう途中、どういう理由でか磯部停車場で途中下車し、そこから磯部温泉の鳳来館に赴き、そこで一泊することにしたのです。ということで、太郎はその翌日の2月2日、今度はなぜか鉄道馬車には乗らずに人力車で「油屋」前を出立。午前7時に横川停車場に到着して、始発の汽車に乗り、磯部停車場で下車。鳳来館で兆民と再会した太郎は、午前11時発の鉄道馬車(10人乗り)に兆民とともに乗り込みます。軽井沢で汽車に乗り、小諸到着は午後2時55分でした。 . . . 本文を読む

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 西上州その5

2009-08-28 07:12:18 | Weblog
碓氷峠を兆民が越えた時に利用した馬車や鉄道馬車(両方とも新道=国道を走る)については、『軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)』や、『信州の鉄道物語』小林宇一郎・小西純一監修(信濃毎日新聞社)が詳しい。それらによると碓氷峠を越える新国道(碓氷新道)の建設が始まったのは明治16年(1883年)6月で、開通したのは明治17年(1884年)の5月22日。工期わずか10ヶ月の突貫工事でした。火山灰を路面に敷いてローラーでならし、橋梁はすべて木材でしたが、橋台はすべて石材を使ったという。新道が出来ても、坂本・沓掛・追分の各宿場町は依然として道路沿いでした。この新国道の完成によって、車が碓氷峠を越えることが可能となりました。車とは、馬車・荷馬車・牛車・荷車・人力車など。貨物の輸送にあたったのは、「長野中牛馬会社」や「高崎中牛馬会社」などの運送会社で、生糸・繭・蚕種・味噌・醤油・米などさまざまな物資が、荷馬車などによって運ばれることになりました。旅客を運ぶ馬車を運行させていた会社としては「長野西北馬車会社」というのがありました。二頭立ての幌馬車で、たとえば追分発の一番馬車(始発)は、早朝4時の早立ちで、横川停車場始発列車に間に合うように運行されていました。もちろん旅客を乗せる馬車は横川からも折り返し出ていたはずだから、明治20年の兆民は、おそらくこの馬車を利用して碓氷峠を越えたものと思われます。この新国道を利用するかたちで「碓氷馬車鉄道」が開業したのは明治21年12月1日のこと。軌間は約50cm、レールの高さは約4,3cm、レールの底幅は約6cm。車両・線路ともにフランス製。馬車鉄道は長野県内ではこの碓氷峠を走るのが唯一でした。出発時刻は、横川・追分とも、午前8時、午前11時、午後2時、午後4時50分。上等車は一頭引き5人乗りで、10人乗りは二頭引きで背中合わせに乗りました。貨車は長さ約1m、幅72cm、高さ15cmほどの台に木枠を組み立てたもの。この馬車鉄道の客車に乗った一人にあの文豪森鴎外(林太郎)がいます。鴎外が乗ったのは明治23年(1890年)の8月17日。「みちの記」によると、木の腰掛にフランケットが2枚敷いてあり、車体は木製で、外は青いペンキで塗られていました。左右に木綿の帳(とばり=カーテン)があって、上下に筋金を引いて、それで帳を開け閉めできるようになっていました。 . . . 本文を読む

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 西上州その4

2009-08-27 06:24:22 | Weblog
萩原進さんの『碓氷峠』(有峰書店)によれば、坂本宿が完成したのは寛永2年(1625年)。七間型と三間半型の人家が160軒ほど軒を連ねました。東と西に木戸があり、その両木戸の間は約400間(約720m弱)。宿の道幅は8間1尺(約15m)とかなり広いものでした。英泉の絵でもその広さを伺うことができます。その道の中央に幅4尺(約1,2m)の用水が流れていました。用水は街道中央ばかりか、両側の人家の裏を南北ともに流れ、東口で合流していました。これは防火用水でもあったようです。本陣、脇本陣とも2軒ずつ、そして問屋も2軒。160軒ばかりの人家のうち、半数近くの70軒ばかりが「飯盛女」という女郎を置く旅籠でした。この坂本宿の「飯盛女」の場合、出身は越後・信州・三河・尾張の出身者が多く、「やりて婆(ばばあ)」は信州人が多かったという。この坂本宿には、家が通りにびったりと面しておらず、いくらか斜めになって建っているのが見受けられましたが、これは「はすかい屋敷」(斜交屋敷)と言うもので、軍事的な目的を持つものであるらしい。この坂本宿が徹底的な打撃を受けたのは、明治26年(1893年)の横川~軽井沢間の鉄道全通でした。それまでは、碓氷馬車鉄道が走っていた時代もあり、以前に較べればやや翳(かげ)りが見えていたとは言え、それなりに賑わいを保っていたのです。前にも記したように、馬車鉄道の軌道が宿場内の街道のどこを走っていたのかはわかりませんでしたが、用水路を埋め立てたとは考えられず、用水路のどちらかの側の通りに敷設され、その上を馬車の引っ張る車両(鉄道馬車)が旅客を乗せて走っていたのです。この碓氷馬車鉄道が、横川~坂本間に開通したのは明治21年(1888年)8月9日のこと。これが碓氷峠を越え、軽井沢追分宿まで全通したのが同年12月1日のことでした。この鉄道は、明治19年(1886年)に完成した「碓氷新道」(国道)を、ほぼ利用するものでした。この鉄道馬車が写っている写真がないか探してみたところ、『関所のまち よこかわ』(うすいの歴史を残す会)のP34に、5両の小さな車両が写った写真が掲載されていました。どうもこれが唯一の碓氷鉄道馬車の写っている写真のようです。しかしこの馬車鉄道は、横川~軽井沢間にアプト式鉄道が開通して明治26年4月1日より営業が開始されると、間もなく廃業に追い込まれました。 . . . 本文を読む

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 西上州その3

2009-08-26 06:36:49 | Weblog
磯部温泉については、『磯部温泉誌』(安中市観光協会)がもっとも参考になりました。この手の本は神奈川の地ではまず見ることができず、やはり現地(地元の図書館)に赴くことが大事であることを再認識しました。この本によると、ここに温泉(厳密には鉱泉)が湧出したのは、天明3年(1783年)のこと。なぜ天明3年かというと、この年7月6日に浅間山の大噴火があり、その影響で新しく湧き出したのだという。以来、馬の足の疾病(創傷・打撲・瘍等の外傷)に効果があるとして近隣の村々に知られるようになりました。文久2年(1862年)、この磯部村の大地主であった大手万平が、関口某より浴場の権利を買い取り、明治12年(1879年)には旅館名を「鳳来館」と命名し、本格的に旅館業を営むようになりました。この頃には、飲用に特にすぐれた効果(胃腸病に効く)があるとして知られるようになっていたようです。この磯部温泉の発展のきっかけは、明治18年(1885年)の鉄道の開通にありました。『磯部温泉誌』にも「磯部温泉は明治十八年十月十五日の鉄道開通と同時に始まった」と記してあります。明治19年(1886年)には旅館の数は10軒に増え、さらに大木(喬任)文部大臣や井上(馨)外務大臣等の別荘が次々と完成していました。またこの年、大手万平の「鳳来館」は増築が行われており、木造3階建ての新館が5月に落成、新築披露が盛大に行われています。兆民がここに泊まる5年近く前のことです。兆民が泊まった時の「鳳来館」は、まだ新築されて間もないピカピカの建物であったということになる。10軒の旅館の中には幸田露伴が宿泊した「共寿館」もありました。磯部停車場前には、「鳳来館」や「林亭」など各旅館の案内所があったそうで、そこからやや離れた旅館まで客の荷物を持って案内する人がいたのでしょう。明治20年の11月3日には、万平の長男宇佐吉とその妻のぶとの間に大手拓次が生まれています(次男)。同書に掲載されている明治中頃の磯部温泉街の地図を見てみると、停車場前の通りを突き当たると赤木神社があり、そこが井上馨の別荘のあるところでした。左手の警察分署(明治20年新設)のところを左折すると温泉街があり、その通りの突き当たりに「鳳来館」がありました。客室は100余、収容人員は500名。2階から風呂場へ行く橋があり、その下を潜った正面突き当たりが玄関でした。 . . . 本文を読む

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 西上州その2

2009-08-25 06:24:37 | Weblog
上野~高崎間の鉄道(日本鉄道)が全通し、高崎駅の開業式が明治天皇の臨席のもとに行われたのは、明治17年(1884年)6月24日のことでした。では、高崎~横川間はどうかというと、高崎~横川間の工事が着手されたのが同年10月20日。開通したのが翌18年(1885年)10月15日のこと。わずか1年ばかりで工事が完了したことになります。上野から横川まで汽車でやって来ることができるようになったわけですが、そこから先は中山道を歩くことになるのかというと、実はそうではない(幸田露伴のように旧中山道を歩くことを選択した人もいましたが)。実はこの明治17年5月に碓氷新道が一応完成し(起工は明治16年の2月)、明治19年(1886年)には「国道」として開通しているのです。道は、旧中山道と同様にくねくねと曲がっており、また旧街道より約3km長くなってはいるものの、急勾配はほとんどなくなり、道幅も四間(約7m余)と広くなりました。つまり、馬車や人力車、大八車などが行き交うことができる道として計画され、そういう道として完成されたのです。では、この国道を利用して、群馬から長野へは何が運ばれ、長野から群馬へは何が運ばれたのかというと、群馬から長野へは、魚・薬種・呉服太物・こんにゃく玉・舶来品・砂糖・材木・塩など。長野から群馬へは、繭・生糸・穀物(米や麦など)・麻・畳糸など。それらの物資の運送にあたったのは、「信濃中牛馬会社」や「内国通運会社」の馬や荷馬車などでした。人を運ぶ馬車としては、横川~追分宿間を約3時間半で結ぶ「西北馬車会社」というものがあって、一日4回運行していたようです。横川と追分は、物資や人々の集散地として賑わい、横川駅では明治18年10月15日、「おぎのや」が、にぎり飯にお新香を付け、竹の皮で包んだものを五銭で人々に売り出すようになりました。これが「駅弁」の誕生であったのです。明治20年(1887年)の上野~横川間の汽車時間表によると、横川までは、熊谷と高崎で2回乗り換えが必要で、高崎~横川間の停車場は、飯塚・安中・磯部・松井田の4駅でした。高崎~横川間の所要時間はおよそ2時間であったという(『関所のまち・よこかわ』『碓氷峠』による)。追分まで馬車で約3時間半かかったとなると、高崎~追分までは休憩も入れて、およそ6時間前後の行程ということになるのでしょう。 . . . 本文を読む

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 西上州その1

2009-08-24 07:23:22 | Weblog
今年の夏は、高崎から碓氷峠を越え、軽井沢を経由して長野まで、それから上田・小諸・佐久およびその周辺を回って、麦草峠を越えて塩尻から帰宅の途に就く取材旅行を行いました。飛行機利用もなく、また鉄道利用もなく、もっぱら愛車を利用して、しかも車中泊という形での5泊6日の旅でした。コースの多くは、中江兆民の足跡を辿るもの。兆民はその生涯のうち3回、東信(東信州=長野県東部)および北信(北信州=長野県北部)地方へ足を向けています。1回目は、明治20年(1887年)11月19日から12月4日頃まで。長野~戸倉~小諸を回っています。2回目は、明治25年(1892年)1月31日から2月11日まで。前橋~高崎~磯部温泉~軽井沢~小諸~野沢~臼田~上田~望月~武石(たけし)などを回っています。用件は選挙関係で大同団結運動に関わるもの。なぜ信州、とくに東信地方かといえば、小諸に愛弟子の一人小山久之助(ひさのすけ)の実家があったから。3回目は彼が死んだ年である明治34年(1901年)の3月で、この時兆民は戸倉村の坂井家に宿泊していることがわかっています。今回の取材旅行は高崎より始めました。高崎から磯部温泉に立ち寄り、そこから横川を経て碓氷峠を越えて信州へと入っていくコース。ということで圏央自動車道から関越自動車道へ入り高崎ICで下りることになりました。群馬県も伊香保温泉をはじめとして兆民の足跡を辿ることができるところなのですが、今回はそれについては割愛し(またの機会として)、明治20年と25年に兆民が信州へ向かう起点となった高崎から始めることにしたのです。ここから信州へ入っていくためには険しい碓氷峠を越える必要があり、1回目は兆民はその碓氷峠をおそらく馬車で越え、2回目は馬車鉄道で越え、そして3回目はアプト式鉄道で越えました。明治20年から明治34年まで、日清戦争を挟んで(明治27年~28年)、この碓氷峠の人的・物的輸送の手段(交通機関)は大きく変貌していきましたが、兆民はその変貌を目の当たりにし、またそれによるその周辺地域の変貌も目の当たりにしました。街道としては、中山道と北国街道、そして佐久街道(佐久と諏訪を結ぶ地方街道)の周辺地域となります。選挙運動かたがた兆民はどういう景色を眺め、どういう人々と出会ったのか。それを探る取材威旅行でした。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その最終回

2009-08-17 04:00:22 | Weblog
正岡子規の『病牀六尺』は、新聞『日本』に連載され、死の2日前まで書き続けられた随筆集。明治35年(1902年)5月5日から始まり9月17日に終わっています。子規が亡くなったのは、その2日後の19日のことでした。最後の「百二十七」は「俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか」で終わっています。上田三四二さんの「解説」によると、新聞が子規の病状を心配して休載の日をつくったことがあった時、子規は以下のように訴えたという。「僕ノ今日ノ生命ハ『病牀六尺』ニアルノデス。毎朝寝起ニハ死ヌル程苦シイノデス。其中デ新聞ヲアケテ病牀六尺ヲ見ルト僅ニ蘇ルノデス。今朝新聞ヲ見タ時ノ苦シサ。病牀六尺ガ無イノデ泣キ出シマシタ。ドーモタマリマセン。若シ出来ルノナラ少シデモ(半分デモ)載セテ戴イタラ命ガ助カリマス。」自分の書いたものが新聞に掲載される、すなわち自分の書いたものが新聞の読者に読まれている、ということが「死ヌル程苦シイ」闘病の日々を送る子規の支えであったのです。これは物書きに従事する者の、ある意味ではまさに「真骨頂」といっていい。このすさまじいまでの闘病生活を、根岸の自宅で送っていた子規は、中江兆民の『一年有半』を読んでいました。兆民が、気管切開手術を受け、発声不能のため筆談によりながら『一年有半』の執筆を始めたのは明治34年(1901年)の6月のことでした。脱稿したのは8月3日で、兆民はその原稿を幸徳秋水に託します(8月4日)。兆民は、その秋水の勧めで生前の刊行を決意し、それが博文館によって出版されるのは早くも翌月の9月2日のことでした。出版後一年間のうちに23版、20万部が売れるというベストセラーになりますが、その一冊を子規は手に入れ目を通しています。それがわかるのが「七十五」の記事(P123~124)。それによれば、子規はあるところで、兆民は「あきらめる事を知つて居るが、あきらめるより以上のことを知らぬ」と評したことがあったらしい。そして次のように記しています。「兆民居士が『一年有半』を著した所などは死生の問題についてはあきらめがついて居つたやうに見えるが、あきらめがついた上で夫(か)の天命を楽しんでといふやうな楽しむといふ域には至らなかつたかと思ふ。」子規が「病気を楽しむ」という域に達したかどうかはともかく、子規が兆民の闘病生活を意識していたことは確かなことです。 . . . 本文を読む

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その7

2009-08-16 07:25:22 | Weblog
筑摩書房の『樋口一葉全集』第三巻(下)の巻末索引の次に、「明治20年代後期東京市街部分図」というものが掲載されていることを知りました。「(1)麹町区西部」から始まって「(23)本所区向島附近」で終わりますが、これらに私が今まで一葉関係で歩いてきたところは、東京市街についてはほぼすべてカバーされています。菊坂も龍泉寺町界隈も、新吉原も、丸山福山町も、日本橋・京橋なども。しかもありがたいことには、一葉に関係する人物の家や訪れた店の場所などが、その地図にしっかりと指し示されています。この市街図は、牛込区を除いて、明治29年の調査図を使用しているとのこと(牛込区のみは明治40年頃のもの)。つまり一葉晩年の頃の東京市街図がほぼここに掲載されていることになるのです。これは非常にありがたい資料です。これが掲載されていることを私はつい最近まで知りませんでした。今、歩いている(と言っても取材後ふりかえってのことですが)谷中霊園(当時は「谷中墓地」)が載っているのは「(19)下谷区上野公園附近」。この地図の①が中島(網谷)幾子の墓で、この周辺が谷中墓地。これと「谷中霊園案内図」と照らし合わせてみると、その墓地の形、規模、墓地内を走っている道のようすなど、ほとんど変わっていないことに驚かされます。五重塔があるところは四角い枠が記されています。「芋坂」の方へ通じる曲がった道もほぼそのまま。寛永寺が管理する徳川家墓地の形もほぼそのまま。谷中墓地入口の左手には「茶屋町」があり、路地を挟んで10軒ほどの茶屋が並んでいます。また田中みの子宅や丸茂医院(桜井病院)が、谷中墓地へ行く途中の道筋にあったこともわかります。五重塔を仰ぎ見ながら墓地内の曲がりくねった通りを進んで、やはり曲折した「芋坂」を下っていくと、線路の踏み切りを渡り、おそらく田んぼの中の一本道を進んで通り(「王子街道」)にぶつかりますが、その突き当たりにあったのが日蓮宗善性寺(このお寺は地図上には記されていない)で、そして右角手前にあったのが「羽二重団子」の店でした(これも地図には記されていず)。この通りに出たところで右折すれば、やがて根岸名所(東京名所)の「御行の松」に出る道に至るのです。 . . . 本文を読む

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その6

2009-08-15 06:12:20 | Weblog
台東区立台東図書館編の『いま・むかし下谷・浅草写真帖』のP9には、明治40年(1907年)頃の谷中墓地の写真が掲載されています。これは現在の霊園管理所の前辺りから北方向を望んだ光景と思われます。道の奥が天王寺がある方向で、繁った樹木の間から五重塔が見えます。この五重塔は、天王寺の二代目の五重塔で、寛政3年(1791年)に棟梁八田清兵衛らによって再建されたもの。“総棟梁ののっそり十兵衛”を主人公にした幸田露伴の名作「五重塔」は、この再建時の話を素材としているという。この露伴の「五重塔」は、明治24年(1891年)11月から『国会』に掲載され、後に単行本『小説尾花集』に収録されました。この「五重塔」発表当時、露伴は数え年わずかに26歳。発表当時、評論家の石橋忍月は、「近来第一の小説は露伴の五重塔也」と激賞したという。この露伴の「五重塔」を一葉は目を通しているはずで、明治26年(1893年)6月25日、妹くにと網谷幾子の墓参りをした際、五重塔を仰ぎ見た一葉の脳裡には露伴の「五重塔」のことがあったものと思われる。「五重塔」と「血紅星」の2編を収めた『小説尾花集』が嵩山堂より出版されたのは明治25年(1892年)10月のことで、一葉が網谷幾子の一周忌に合わせて谷中の墓地に墓参りする前年の秋のことでした。この幸田露伴が、明治29年(1896年)7月20日に、森鴎外の弟三木竹二(森篤次郎)に案内されて、丸山福山町の一葉宅を訪ねて来ます。一葉の「みずの上日記」によれば、次の通り。「雨風おひたゝし。午後二時ころ斗(はか)らず三木君幸田君を伴い来る。はしめて逢い参らす。我れは幸田露伴と名のらるゝに有(あり)さまつくづくうち守れば色白く胸のあたり赤く丈はひくくしてよくこえたり。物いふ声に重みあり。ひくゝしずみていと静かにかたる。めさまし草に小説ならすとも何か書きもの寄せられたし。こをハ頼みに来つるなりといふ。」一方、その時の露伴の一葉に対する印象はどうであったか。「その時分のそのくらいの年の女としては少し野暮の方でしてね。勿論初対面だけでしたからでもありましょうが、思うこともまあ十のものなら七つは呑んでしまって口へ出せないという調子の人に見えました。…勿論不器量というのじゃないけれども、そんなに奇麗な女というのじゃありません。」一葉が肺結核で死んだのはその年の11月23日のことでした。 . . . 本文を読む

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その5

2009-08-14 07:27:16 | Weblog
後で入った谷中霊園管理所でもらった「谷中霊園案内図」(寄付金を入れて、もらう)によると、この谷中霊園は、主として谷中天王寺の敷地等を東京府が引き継いで、明治7年(1874年)9月1日に、「谷中墓地」として開設したものだとのこと。その後、明治22年(1889年)に東京市に移管され、昭和10年(1935年)には「谷中霊園」と改め、現在に至っているという。また次のようにもある。「付近には寺院も多く寛永寺や天王寺の墓地と入り組んでおり、霊園全体の形は複雑になっている。幸田露伴の小説で有名な谷中天王寺の五重の塔跡地が霊園の中央にある。この跡地のほか3ヶ所の墓所が都の文化財に指定されている。」確かに「谷中霊園案内図」を見ても、その霊園全体の形が複雑であることがよくわかります。おそらく「甲」のうす緑色に印刷された区域が天王寺のかつての墓地で、「乙」の黄色に印刷された区域が明治7年以後に新しく開かれた墓地であるのでしょう。寛永寺が管理する徳川家の墓地は、この「乙」の区域の中にありますが、もちろんこれは谷中墓地が明治7年に開かれる以前からずっとあったもの。一葉姉妹が墓参りをしていた頃、ここは「谷中霊園」ではなく「谷中墓地」であったことが、この案内マップでわかりました。この案内マップでわかったことは、谷中墓地から根岸の方へ下っていく坂道が四つあって、それぞれ「御殿坂」「紅葉坂」「芋坂」「御隠殿坂」という名前であること。このうち「御行の松」方面へ下りていく坂道としては、「芋坂」か「御隠殿坂」の二つに絞られるであろうということ。一葉は根岸へ下っていった坂道の名前は記していない。この谷中墓地のかつてのようす、しかも明治15年(1882年)以前のようすを写した写真が、『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』の中に収められています。P161~162にまたがる写真がそれで、撮影したのは臼井秀三郎。写真真ん中の標柱に「乙 第壹號墓地」と墨で書かれ、その右奥に九輪を乗せた五重塔がすっくと聳えています(昭和32年心中放火により焼失)。樹木は現在のようには繁茂してはおらず、お墓も現在のように石垣等で整然と区画されているわけではない、といったことがわかります。「乙1号」を案内マップで調べてみると、「金子屋」の東側辺り。ここが臼井の撮影地点。もちろんこの頃には網谷幾子は健在で、そのお墓はまだありません。 . . . 本文を読む

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その4

2009-08-13 07:09:15 | Weblog
『江戸を歩く』によると、田中優子さんの父は根津清水町といって、根津神社の門前町通り西側裏(現在の根津小学校の東裏)に生まれました。祖父にあたる方は新潟の小国(おぐに)から江戸に出てきて、本郷本富士町や池之端を転々として根津に落ち着いたのだという。この根津清水町(今は存在しない町名)の表通りが根津権現の門前町で、ここには幕末から明治中期まで根津遊廓があり、本郷の大名屋敷や旗本屋敷に出入りする大工たちが通うことで繁盛し、明治に入るとますます繁盛した、とのこと。しかし西隣に帝国大学ができたことを理由に、明治21年(1888年)、深川の洲崎にその遊廓は移転させられたのだという。この田中さんの記述には、「お化け階段」のことも出てきます。なぜ「お化け階段」というのか疑問に思っていたのですが、P148の「お化け階段」の写真に付された解説によると、「向かって右がお化け階段。上がりと下りで数を間違えることからこう呼ばれたとも。」とある。上る時の階段数と、下る時の階段数がなぜかきまってずれた、ということなのでしょう。「藪下通り」や団子坂についての記述もあります。この団子坂のかつての賑わいについては、あの山本松谷がちゃんと描いていました。その絵を私は『目で見る江戸・明治百科四 明治時代四季の行楽と博覧会の巻』で見つけました。同書P89の絵がそれで、さすがに松谷、明治30年前後の団子坂と、その菊人形の際の非常な賑わいを丁寧に、生き生きと描いています。「団子坂の菊人形の賑わいとは、ああ、たしかにこういうものだったのか」と、その光景を髣髴とさせる絵です。大きな幟(のぼり)には、「菊細工」・「弁天小僧」・「佐倉宗五郎」・「太功記」・「八犬傳」・「弁慶五條の梯」・「文覚○○」などの芸題が書かれ、また「植重」・「種半」・「植惣」などの名が見えますが、井出鏗二郎(こうじろう)の言う「花戸」、すなわち植木屋の名前がそれらであったのです。これらの植木屋(もともとは染井の植木職人)がその庭園に舞台を作り、木戸銭を取って趣向を凝らした菊人形を見せたというわけです。明治42年(1909年)に、名古屋の黄花園というのが両国国技館に進出すると、この団子坂の菊人形は滅びたのだという。この絵に描かれる狭くて、急で、ゆるやかに曲がった団子坂が、今のように拡張されてゆるやかになったのは、それ以後のことであるのでしょう。 . . . 本文を読む

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その3

2009-08-12 06:38:34 | Weblog
林順信さんの『都電が走った街 今昔Ⅱ』を紐解いてみると、P80に「根津八重垣町」(根津二丁目)」が出てきます。このページの写真に写っている通りは「不忍通り」で、東京メトロ(地下鉄千代田線)の根津駅を出て直面したのがこの通りで、また、団子坂を下って「団子坂下」で交差したのがこの通りでした。この「不忍通り」は、「その外周の山手線に一応添うかたちで環状的に不忍池畔から目白通りに出るまでつづく」という。上の写真は昭和42年(1967年)3月26日に林さんが撮影したもので、下の写真は平成10年(1999年)1月14日にやはり林さんが撮影したもの。22年の間に通りおよびその両側のようすが大きく変貌していることがわかります。この写真は「根津八重垣町」(停留所)から「駒込千駄木町」(停留所)方面を写したもので、その次が「団子坂下」となり、「駒込動坂(どうさか)」や「神明町車庫前」などに続いていくことになります。違いは都電の軌道や敷石が無くなっていること以外に、通り両側の建物が高層化していることが挙げられます。22年の間に東京の下町でさえ高層化がどんどん進んでいったことがわかります。林さんは、この写真の左側に入ったところで育ち、少年の頃は、竹竿にベエゴマを挟んで、ここから手前の藍染橋(根津一丁目)までを何度も往復してベエゴマの名品を手造りしたのだという。隣ページの「池ノ端七軒町(池ノ端二丁目)」を見ると、池ノ端二丁目から根津一丁目にかけてはトロリーバス101系統が併走していた時代があったとのこと。説明によると、「ここから右手に見える屋根瓦葺きが二つ」あって、「左側は二階建ての会津木工店で、右の方の三階建ては、爪革(つまかわ)でならした三田商店で、娘さんの三田澄江さんは私の小学校同級生」であり、「今は串揚げのはん亭となっている」という。この「はん亭」の前を、私はまだ通ったことはありませんが、たまたま田中優子さんの『江戸を歩く』を見ていたら、P150にその写真が出てきました。次のように田中さんは記されています。「根津に戻ると木造三階建てのめずらしい建物がある。今は串揚げの店となっているが、もと爪革問屋だったという。下駄の爪革も必要なくなったが、このような建物もめったに見られない。料理屋になって残ることができてよかった。吉原にはこういう建物が並んでいた。」 大正時代の建物であるらしい。 . . . 本文を読む

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その2

2009-08-11 07:41:46 | Weblog
明治26年(1893年)6月25日の一葉が、谷中霊園に向かうために、今私が歩いているコースを歩いていたかというと、どうもそうではないようだ。当時一葉が住んでいたところは本郷菊坂町69番地。路地の奥に入ったその家を出て、菊坂の通りに出て坂を少し下って菊坂下に出た一葉と妹くには、そこからゆるやかな坂を上って高崎屋が左角にある本郷追分に出ます。そこから今の「言問通り」に入って、東京帝国大学の構内を突っ切って弥生坂(鉄砲坂とも)を下り、そのまま直進して上野桜木(吉田屋酒店がある)のところで左折し、谷中霊園に入っていった可能性が高い。というのも、それが一番の近道であり、わかりやすい道であったから。私は弥生坂の途中で左折しましたが、おそらくこの道は一葉の頃にはなかったものではないか。一葉は、根津神社境内や藪下通りを歩いていますが、この日は歩いておらず、根津神社や藪下通り、そして団子坂に向かう場合は、今の「不忍通り」のところを左折して根津八重垣町を通過し、途中で左折して根津神社の大鳥居から社域を抜けていくか、根津裏門坂を上がって「藪下通り」に入っていった(逆のコースをたどることも)と思われます。今の「不忍通り」は、かつては今のように幅広の道ではなく、根津谷の、貧しい人々が住む長屋などがあったところを貫いて走る狭い通りであったようです(森鴎外の『青年』の記述より)。根津にはかつて遊廓がありましたが、一葉の頃にはすでに洲崎に移転しています。馬場孤蝶の『明治の東京』によれば 次の通り。「根津にあった遊廓が今の洲崎へ移された年代を今記憶しないが、明治十七年ごろまではあすこに娼楼が一郭をなしていたと思う。藍染橋までは引手茶屋であったらしく、花暖簾などが風に翻るのを見たことがある。橋から先きが娼楼の区域で、権現(根津神社のこと─鮎川)の方へ曲っている八重垣町の方に大楼があったのではなかろうかと思う。」団子坂についても、次のような記述があります。「団子坂が改修されて長い坂路(さかみち)になったのは、七、八年前かと思うのだから、あの坂のへんに曲って下りになっていたのを、藪蕎麦と菊人形と共に記憶している人は多いであろう。そして、あの辺の路が今よりもずっと狭かったことはいうまでもあるまい。」現在の団子坂と、一葉や鴎外、漱石が歩いた頃のかつての団子坂とは、ずいぶん違っていることがわかります。 . . . 本文を読む

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その1

2009-08-10 07:08:42 | Weblog
今回の取材コースも、前回と同じく、『樋口一葉と歩く明治・東京』(野口碩監修/小学館)によりました。前回は本書P96の「竜泉・吉原コース」をメインとしましたが、今回はP64の「上野・湯島コース」とP65の「谷中・根津・千駄木コース」を合体させています(一部変更し、また追加もしています)。基本的には樋口一葉が歩いたことのあるコースを辿ってみるという取材旅行で、特にメインとしたところは谷中霊園。一葉は母たきや妹くにとともにしばしば谷中霊園を訪れていますが、墓参りの対象は、萩の舎を主宰する中島歌子の母である幾子(網谷幾子)のお墓と、両親の恩人である真下(ましも)専之丞の娘黒川まき子のお墓でした。このうち網谷幾子のお墓と、同じく谷中霊園にある馬場孤蝶およびその兄である馬場辰猪のお墓をぜひ見ておきたい、というのが今回の取材旅行のポイントの一つでした。明治26年(1893年)の6月25日の午後、行水をした一葉は、妹くに(国子・邦子)とともに谷中霊園に赴いています。「天王寺に中嶋老君(網谷幾子=中島歌子の母)寺参りす」。墓参りを済ませた二人は、それから、根岸の「御行(おぎょう)の松」を見物し、坂本→山下→五条天神(上野停車場前)→上野広小路→池之端(不忍池)→馬見場(競馬場)→本郷菊坂69番地の自宅、というふうに歩いています。夕立の後に家を出て、根岸の「御行の松」では日が暮れかかり、不忍池の馬見場では福島中佐の歓迎場を設置する工事のために「かがり火」が焚かれていたというから、この6月25日、夕方4時頃から7時半頃までを、一葉は妹くにとともにこの行程を歩き通したものと思われます。自宅から谷中霊園まで、また谷中霊園から根岸の「御行の松」まで、さらに「御行の松」から上野を経て自宅まで、実際にどういった道筋を辿ったのかを推測するべく、歩いてみることにしたわけです。谷中霊園では、たまたま挨拶を交わした土地の方に、私が見学を予定していた以外のお墓をいろいろと案内してもらい、その上詳しい説明もしてもらえるという、たいへんありがたい出会いもありました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む