荻野山中藩陣屋襲撃事件を、『草莽崛起-荻野山中藩御陣屋焼討事件』(露木國寛)という労作(厚木市中央図書館に置いてあります)をもとにまとめてみたい。慶応3年(1867年)の10月10日(陰暦)、相楽総三(さがらそうぞう)がかつての同志たちに檄文を飛ばし、それに応じて平田派の国学者を中心に同志がぞくぞくと江戸に集結し、11月には500人ほどの数になります。主な者は、落合源一郎(水原二郎・武州多摩郡駒木野村小仏峠関守の子)、森田谷平(木田谷平)、峰尾小一郎(藤井誠三郎)、林幸之助、権田直助(刈田積穂・武州入間郡毛呂本郷村の医者で歌人)、小川勝次郎(梅咲香)、小川喜三郎(竹内啓・武州川越竹内村の医者)、会沢之輔(鹿児島藩脱藩浪士で水戸に居住)、坂田三四郎(鯉淵四郎)、山本鼎(菅沼八郎・伊勢国亀山藩脱藩浪士で下野国都賀郡寺尾村に居住)ら。集まった者たちによる組織づくりが行われ、総裁-相楽総三、副総裁-水原二郎、大監察-刈田穂積(権田直助)ら、監察-会沢之輔ら、使番-渋谷総司ら、輺重長-桜国輔(原三郎)、偵察-小島直次郎が決定。彼らは江戸を三方より脅かす計画を立て、まずその前に江戸市中を辻斬り・強盗・放火という手段で混乱させるという行動をとります(江戸市中取締役にあたった藩は出羽庄内藩)。江戸を三方より脅かす計画とは、「一、野州で討幕の兵を挙げ、東北口を押さえる。一、甲府城を攻略して甲州方面を押さえる。一、相州で騒ぎを起こして東海道筋を混乱させる」というもの。11月中旬、その計画を実行に移す3隊が組織されます。野州挙兵隊隊長-竹内啓、甲府城攻撃隊隊長-上田修理(長尾真太郎)、相州襲撃隊隊長-鯉淵四郎というもので、密偵が調査と準備のために各地に派遣されます。野州では12月11日、栃木陣屋への襲撃が決行されるものの諸藩兵により討伐されて失敗。12月15日、三田の薩摩藩邸を甲府城攻撃隊が出発しますが、八王子の妓楼で同心方に斬り込まれて失敗。相州攻撃隊が江戸の薩摩藩三田藩邸を出立したのは12月13日頃。14日、浪士隊は矢倉沢往還(大山街道)を急行してその夜は下鶴間宿に宿泊。翌15日、厚木宿で昼食をとり、その日の夜に荻野山中藩陣屋の焼討を決行したのです。一方、地元側にもその浪士隊の動きに呼応する動きがあったことが同書には詳しく記されており、見過ごすことの出来ない大事な記述です。 . . . 本文を読む
上荻野村、中荻野村、下荻野村の三つの村のうち、上荻野村を治めていたのは下野烏山(からすやま)藩大久家、中荻野村と下荻野村を治めていたのは小田原藩大久保家の支藩である荻野山中藩大久保家でした。この荻野山中藩の陣屋が下荻野村にありました。いたって小藩で禄高およそ1万3千石。崋山が所属する田原藩が1万2000石であったから、規模的にさほど変わらない。しかし荻野山中藩は支藩ということもあり城はなくて陣屋でしたが、田原藩の場合は三河田原に城がありました。厚木村や半原村、上荻野村などを支配する下野烏山藩は3万石。やはり小藩であって、崋山はその烏山藩の「苛政」に関心を持ちましたが、荻野山中藩については全く触れることはありませんでした。現在、陣屋跡は史跡公園となっており、そこに「山中城趾碑」があります。その「碑文」は以下の通り。「本陣屋ハ小田原城主大久保忠増(ただます)ノ支藩教寛ノ裔(えい)教翅(のりのぶ)ヨリ教義(のりよし)ニ至ル四代八十八年ノ居館タリ。教翅(のりのぶ)始メ駿州松永村ニ住シ後地ヲ本村トシテ陣屋ノ築造ヲ企図ス。天明三年工ヲ起シ四年竣(お)フ。仍(より)テ転住シ山中大久保ト称シ附近一帯ヲ領ス。禄凡一万三千石ナリ。慶応三年十二月、鯉淵四郎ヲ首領トセル一隊ノ浪士ニ襲撃セラレ館烏有(うゆう)ニ帰ス。浪士ハ元薩州ニ属スルモノト称シ此変ハ鳥羽伏見ノ戦ノ遠因ヲ為セリ。(後略)」。ここで触れられている慶応3年(1867年)12月(陰暦)の陣屋襲撃事件は「荻野山中藩陣屋襲撃事件」と言われるものですが、江戸三田の薩摩藩邸焼き討ちや鳥羽伏見の戦いにつながるものとして、無視することのできない事件です。 . . . 本文を読む
崋山の『客坐録』(かくざろく)に、「厚木これハ八王子より平塚道 又江戸よりハ矢倉澤 大山 諏訪道 甲州 荻野村」というメモ書きがあります。これは厚木宿を通る街道を羅列したものと思われます。八王子から厚木宿を経て東海道平塚宿へと延びる「平塚道」。江戸より矢倉澤へと延びる「矢倉澤往還」。この道は「大山詣で」の道でもあったことから「大山街道」「大山道」とも呼ばれました。「諏訪道」とは甲州街道下諏訪宿へと向かう道であるかと思われる。厚木宿からだと「甲州」へと向かう道であり「甲州道」と呼ばれました。「荻野村」というのは唐突に出て来ていますが、厚木から「甲州」へと向かう「甲州道」は「荻野村」を経由していく、といった意味合いで入れたのかも知れません。崋山は『游相日記』において、厚木が繁栄している理由として、相模川の水運と陸上交通の交差点(水陸交通の要衝地)であることを挙げています。そこで厚木を通過する諸道として、八王子からの平塚道、江戸からの大山道(矢倉沢往還)、信州諏訪からの甲州道を挙げている(「信ノ諏訪、甲州、荻野、諸道」)のですが、平塚から厚木・荻野や田代・半原、津久井を経て甲州街道(信州の下諏訪宿へ至る)へと至る道、つまり「甲州道」を、平塚道や大山道以外にしっかりと挙げているのが崋山の情報収集力の確かさを示しています。この「甲州道」こそ、半原村に居住する孫右衛門が江戸へ向かう際に歩いた道であったのです。 . . . 本文を読む
崋山の『游相日記』に「荻野」(当時、荻野には上荻野村・中荻野村・下荻野村があった)であるらしい地名が出て来ます。小園村の大川清蔵(まち=「お銀さま」の夫)が、「田夫荻村におばあり、病あやふきをもて行たり」と崋山に不在であった理由を述べる箇所。この「荻村」が「荻野」である可能性が高い。これが「荻野」であるとすると、崋山が小園村の大川家を訪ねた時、「まち」の夫である清蔵が不在であったのは、おばの病勢が進んでいたため、清蔵が荻野(上中下の荻野村のどれかはわからない)のおば宅にお見舞いに行っていたことによるということになります。夜になって帰宅し、妻の「まち」から賓客があったことを知ると、草鞋(わらじ)の紐を解くこともなしにそのまま厚木宿まで駆けてきたのです(途中、長男の清吉から崋山が万年屋に泊まったことを知らされます)。おそらく清蔵は、この日(天保2年〔1831年〕9月22日〈陰暦〉)の早朝、小園村の自宅を出立して相模川を「厚木の渡し」でわたり、厚木から甲州道(津久井道)に入って妻田経由で荻野に至ったのでしょう。清蔵のおば宅が荻野のどこにあったのかはわからない。そして見舞いを済ませた清蔵は、荻野のおば宅を出立して、相模川をふたたび「厚木の渡し」でわたって自宅に戻り、来客を知ってふたたび厚木へと向かったのです。清蔵はこの日、相模川を3回渡ったことになります。小園村から厚木宿までは、今で言えばおよそ2時間ほど。厚木宿から荻野までは3時間ほどと考えると、往復で10時間ほどを歩き、またまた小園村から厚木宿まで2時間ほどを歩いた(ほとんど駆けながら)ことになります。長男の清吉も、この日、馬を連れて厚木宿まで赴き、戻って来てからふたたび崋山を厚木へと案内して(馬を連れて)います。当時の男たちは、このようにけっこう仕事や用事で家を留守にすることが多かったものと思われます。 . . . 本文を読む
鈴木光雄さんの講演レジメから、幕末嘉永2年(1849年)の半原大工諸職人情況を見てみると、大工49人、木挽56人、屋根29人、桶屋12人、鍛冶1人となっています。鍛冶1人というのはもしかしたら崋山の『游相日記』に出てくる井上孫兵衛(天保12年〔1841年没〕)の息子であるのかもしれない。鍛冶屋は大工道具や農具の金属部分の加工修理等を行っていたと考えると、村に一軒しかない鍛冶屋(井上家)と半原大工との関わりは密接であったものと推測できます。大工から鍛冶までの人数の合計は147人。半原村の当時の人口は1492人。成年男子が3分の1の500人ほどだとして、成年男子の3分の1近くが大工関係の仕事をしていたことになり、田畑の少ない半原村の特異性を示しています。この矢内匠家に率いられた半原大工の建造した愛川町域の神社仏閣等をやはり講演レジメから見ていくと、田代勝楽寺、田代中津神社、中津山十邸、半原小学校、郷社半原神社などが挙げられています。興味深いのは明治12年(1879年)に建造された半原小学校の洋風校舎も、矢内右兵衛高光一門が手掛けていること。つまり古写真で馬渡橋とともに写っている愛川村役場の洋風白亜の建物(これは明治12年建設の半原小学校校舎を転用したもの)は、矢内右兵衛高光一門が建造したものであったのです。さらにレジメの「江戸城普請と柏木矢内匠家匠歴譜」を見ていくと、明治になってから、陸軍省竹橋門御陣営所の時計櫓や海軍省石川島修船所の建設にも矢内匠家に率いられた半原大工が関わっていることがわかります。この2つが建設されたのは明治6年(1873年)から明治7年(1874年)にかけてのこと。矢内匠家(矢内右兵衛高光)や半原大工たちは、維新期の東京において文明開化の息吹に触れ、そしてその影響を強く受け、明治12年建設の半原小学校(洋風建築・臼ヶ谷3850番地)にその知識や技術を活かしたものと考えられます。鈴木光雄さんによると、当時の絵図面が矢内匠家に所蔵されてあり、現在は鈴木さんがそれを所蔵しているとのこと。絵図面によると、木造平屋建一部二階建て寄棟屋根に外観は西洋風の校舎。向玄関(昇降口)は切妻の屋根に特徴ある朝日の小壁柄飾であったという。また外塀の校門は洋式の丸型木戸で、門柱左右は棚塀にされていたとのこと。当時最先端の細工や意匠が吸収されていたことになります。 . . . 本文を読む
手元に「半原の宮大工今昔 古代.幕末.大正.昭和の地元矢内匠家」という講演のレジメがあります。講師は矢内匠家14代曾孫弟子の鈴木光雄さん。それによると半原村に大工職が増えていったのは享和年代(1801~1803)頃のこと。矢内家の前姓の本姓は「柳川」であり、その柳川家の12代柳川右兵衛安則が生まれたのは宝暦10年(1760年)。右兵衛安則は明和年代(1764~1772)に江戸本所の立川通りに住む立川流初代幕府御用大工の立川小兵衛富房に工匠技術を伝授されたと伝えられているという。安則は若くして藩主大久保家のお抱え大工となり、後に江戸城御本丸作事方となり、一代限りとして「柏木」の匠姓を許されたとのこと。住所は半原村の下新久(しもあらく)。愛川町消防署半原出張所があるあたりが下新久であったことは、その裏手にあった石造物群の案内板で触れた通り。「柏木」姓を許された柳川右兵衛安則は「柏木右兵衛藤原安則」を名乗り、その立川流妙技技法は一門に伝承されました。文政9年(1826年)の「大工仲間議定之事」には柏木右兵衛安則(右平)を筆頭に、大工が47人も名を連ねているとのこと。柏木匠家の13代は安則の長男徳太郎(1788~1871)。14代が安則の孫である右兵衛高光(1822~1907)。この14代高光は、嘉永元年(1848年)に幕府作事方として「苗字帯刀」と匠姓「矢内」を許され、「矢内但馬藤原高光」と名乗り、以後、半原宮大工矢内匠家を継承したという。右兵衛高光は「右仲郎」とも名乗ったらしい。勝楽寺の山門を造った大工棟梁は、この「右仲」(1822~1907)と「柳川佐仲郎」(1823~1892)と「矢内佐文治」(1829~1900)の3兄弟(13代徳太郎の息子たち)でした。安政3年(1856年・その前年の安政2年10月に「安政の大地震」が発生している)以降、7年間に渡って地震で破損した江戸城の普請工事が継続されますが、矢内匠家一門に加えて近在近郷の大工仲間もこの作事に携わったとのこと。安政大地震後の江戸城の修復事業等に、矢内匠家の棟梁(矢内右兵衛高光)に率いられた半原村の大工集団が関わっていたことになります。 . . . 本文を読む
『新編相模国風土記稿』(下之巻二)によれば、田代村の勝楽寺は、曹洞宗で満珠山と号すお寺。開山は内藤三郎兵衛秀行であり、内藤氏の墓が4基(ともに五輪塔)あり、その内2基は内藤秀行夫婦の墓であるという。『勝楽寺誌要』(勝楽寺編集)によれば、開山は能菴宗為大和尚。その二十四世が天外独生大和尚で、これが崋山の『游相日記』に出てくる「相州第一人者」の「天外和尚」のこと。天保8年(1837年)12月28日(陰暦)に亡くなっています。山門(三門)は嘉永4年(1851年)に上棟されたもので、大工棟梁は「半原村矢内但馬藤原高光他」。中門は文政元年(1818年)に造立されたもので、大工棟梁は「半原村柏木右兵衛安則同氏徳太郎」。本堂は文政4年(1821年)に再建されたもので、大工棟梁は「半原村藤原安則右兵衛」。開山堂は文化10年(1813年)に再建されたもので、大工棟梁は「半原村柏木右兵衛安則同徳治郎」。ここで注目されるのは、勝楽寺の再建にあたった大工棟梁は「半原村」の大工であり、特に堂宇の再建は文化文政期に集中しており、その時の大工棟梁が「半原村」の「柏木右兵衛安則(藤原安則右兵衛)およびその一族であったこと。おそらくその再建時の寺主は天外独生大和尚であり、天外和尚のもとで修行していたもと佐藤一斎塾の天童は、これら再建された堂宇の中で過ごしていたものと思われます。半原村のところでは触れませんでしたが、実は、半原村には優秀な宮大工(みやだいく)がおり、彼らは烏山藩大久保家のお抱え大工として江戸城本丸普請に関わったり、近隣の神社仏閣や神輿(みこし)等を建造するなど、優秀な宮大工として活躍していました。文政9年(1826年)の「大工仲間議定書」によれば、半原村戸数340軒のうち、大工職は49人を数えました。おそらく「農間職人」として農業の傍ら大工の仕事をすることで現金収入を得る男たちが多数いたのでしょう。田んぼの少ない山間(やまあい)の村落にとって、「農間余業」(養蚕や女性の手による製糸業や男性の手による大工仕事や出稼ぎなど)は、現金収入を得る大事な手段であったのです。 . . . 本文を読む
崋山は厚木に着いてから、丹沢のふもと、田代村の勝楽寺(しょうらくじ)というところに、「相州第一人者」と言われる天外(てんがい)和尚という僧が寺主としていて、そこでもと佐藤一斎の塾生で「天童」という僧が修行していることを知りました。三年ほど修行しているが学問はまだ成就しておらず、現在も薪水の用など天外のために立ち働いているのだという。崋山は厚木にいる間にこの田代村の勝楽寺をぜひ訪ねようと思っていましたが、厚木の人々との応対などが忙しく、結局訪ねることはできませんでした。「為恨」(恨みと為す)と崋山は記しており、よほど訪ねることができなかったことが残念であったようです。崋山は、今は「天童」と名乗っているが、かつては佐藤一斎の塾にいたというその男と顔見知りであったのだろうか。佐藤一斎は崋山にとって儒学の師であったから、「天童」は同門であったということになる。『客坐録』(かくざろく)を見てみると、「天外和尚田代勝楽寺主」とあり、また「天童和尚一斎」という記述がある。「天童和尚一斎」というのは、「天童和尚」は佐藤「一斎」の門下生であった、ということを示すものだろうか。崋山がぜひ訪ねようと思って、結局果たせなかった田代村の勝楽寺とはいったいどういうところであったのだろうか。 . . . 本文を読む
以前に紹介したことのある『細野区100年史』には、半原地区内における甲州道(津久井道)の詳しいルートが示されています。そのルートとは、次の通り。田代~半原馬渡~下細野~中細野~上新久~下新久~原と市之田の小字境~臼ヶ谷~小字久保地内~宮沢沿いに下りる~中河原~中津川~日向の真名倉の小字境~真名倉~津久井韮尾根。「馬渡」(まわたり)は馬渡坂を下ったところにある中津川沿いの集落(田代側から見れば馬渡橋を渡った対岸の集落)。「細野」は馬渡坂を上がって赤坂を右折して深沢(沢には板橋が架かっていた)へと下るまでの地域にある集落。深沢にあった石造物の土台に「中細野」という文字が刻まれていました。愛川町消防署半原出張所の裏手(東側)に古い延命地蔵などの石造物がありましたが、そのあたりが「下新久」(しもあらく)。延命地蔵近くの案内板には「半原 下新久 辻の神仏」と記されていました。臼ヶ谷(うすがや)は旧半原小学校跡地や現半原小学校があるあたり。その臼ヶ谷から久保へは急な「馬坂」を下ります。下ったところにある沢が「宮沢」で、その宮沢沿いに下って行くと右手に「孫兵衛」の家があったことになります。半原神社の鳥居の前で左折し、しばらく進んで中津川を渡るところにあるのが日向(ひなた)橋。その日向橋を渡ってすぐに左折して上がって行く坂道が真名倉(まなぐら)坂。この真名倉坂は韮尾根(にろおね)まで長々と続きますが、この韮尾根の集落があるところはかつての津久井県長竹村となります。 . . . 本文を読む