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連絡船から下りた乗客や観光客が歩いていった後を追うように、乗船場のあたりの風景を眺めながら集落の方へと歩いていきました。
道角に「日本の原風景が残る島」と記された立て看板があり、その先左手に「レンタル自転車」の看板があって、左奥を見てみるとレンタサイクルを置いてある倉庫のようなものがありました。
まだ開店してはいませんが、島巡りの観光客のための「レンタル自転車」のようです。
その先に、黒く塗られた板壁の人家や、いコンクリート壁の上のお寺の屋根らしき建物が見えました。コンクリートの壁は高さ7mほどはありそうです。
右側に広がったのは小さな入江のような漁港であり、発動機付きの小型漁船が10艘ほど着岸しています。
浜辺側はやはりコンクリートの擁壁があって、その上に舗装道路が走り、自然の浜辺らしきものは失われています。その舗装道路に沿って黒い板壁と黒い屋根の人家が並び、その背後の丘陵の上にも黒色の人家が並んでいるのが見えます。
舗装道路から上へと上がる石段があって、その上に高台に並ぶ人家があるのですが、その並びの左手にお寺の屋根らしきものが見えたので、その石段を上がり、左へと折れました。
その建物はやはりお寺であり、これが崋山の日記に出てくる「宗運寺」、正しくは「崇運寺」でした。お寺の建物はいつ造られたのかはわかりませんが、かなり年輪を経ているようです。
墓域へと入ってみると、私の関心もあるせいか、戦没兵士のお墓があちこちにあるのが印象に残りました。この島からも多数の若者たちが出征していったのです。
「橋」・「石井」・「大葉」・「藤井」などの姓がありました。
戦没兵士のお墓は、その正面の戒名と、側面の階級や経歴、戦死した場所等を刻んだ細かい文字からすぐにわかります。これは全国どこも共通しているように思われます。
南方の島々で亡くなっている人が多い。
この宗運寺の屋根を含む浜辺の集落の景観を眺めた時、崋山が描いた村落風景のスケッチがすぐに思い浮かびました。
そこで寺を出て石段を下り、漁港となっている入江にある埠頭へと歩いていき、先ほど下りた石段を中心として浜辺の集落全体の景観を眺めてみました。
崋山のスケッチでは、浜辺は砂浜のようになっており、その砂浜の上を荷物を担いだ男たちや島の女たちや子どもたちが歩いている様子が描かれています。
その浜に沿って、石垣の上に建つ板壁の人家があって、その人家の屋根は奥の丘陵の方へも連なっています。
そして左手の丘陵の麓、やや高台のところに描かれているのがお寺らしき建物。
現在はコンクリートの擁壁が造られたり、舗装道路が造られたりと、かつて島人が往来した砂浜は失われ、浜際の人家も失われていますが、全体の雰囲気や配置としては、崋山が描いたかつての浜辺の集落の面影を濃厚に留めています。
崋山のスケッチを見ても、人家の板壁は黒く塗られているようであり、また瓦屋根の色も黒そうです。
この崋山の村落風景のスケッチは、佐久島の西集落の浜辺の景観を描いたものと考えられます。
決め手はやはり宗運寺の建物とその位置であるでしょう。神島にはこのような景観はありません。
「弁天サロン」と記された看板が掛かる、古民家を再生したような施設が浜際にありますが、まだ朝早いために開店していません。
その左手の道が高台へと延びており、その坂道を上がって行くと、その路地のような道の両側には黒板壁の人家が並んでいました。
これが、佐久島のいわゆる「黒壁集落」。
「佐久島体験マップ」という例のパンフレットには次のように記されています。
「佐久島の最も印象的な風景といえば、西地区の崇運寺から大葉邸界隈の三河湾の黒真珠と称される黒壁集落だ。潮風から建物を守るためにコールタールで塗られた家並みの景観を残すため、島民やボランティアが保存活動に取り組んでいる。細い路地は迷路のように複雑に入り組んでいる。」
「崇運寺」については、「戦国時代の板碑があり、徳川家康が滞在したという言い伝えも残っている」と記されています。
ハイキングコースには案内標示があって、それぞれの行き先が記されています。
「おひるねハウス」「石垣古墳」と記された案内標示が現れたので、「石垣古墳」の方向へと足を向けてみることにしました。
続く
〇参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
・「佐久島体験マップ」
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