鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

佐渡市相川「京町通り」 その17

2019-03-01 07:12:59 | Weblog

 水替人足(無宿)の墓がある場所はかつては日蓮宗覚性寺の跡地で、「次助町」に属します。

 その「次助町」は鉱山労働者が居住する町でしたが、現在はほとんど人家はなく、「京町通り」に出る道の両側には草葉に覆われた古い石垣があり、その上には草木が繁茂していました。

 かつてはこの道の両側にも人家があり、人々の生活があったのです。

 「京町通り」に出て、先ほどの道筋を佐渡奉行所に向かってずんずん下っていくと、右手に「佐渡金山元鉱山長住宅」があり、入口の戸に「Cafeガシマシネマ」とあって、上映映画のポスターがあることから、元鉱山長住宅は映画が観れる喫茶店になっていることがわかりました。

 「大人1000円 高校生以下500円」となっていて、飲み物やカレーなど軽食をとりながら、映画を比較的低価格で観ることができるようです。

 興味がありましたが時刻の関係でその前を通り過ぎると、通りの前方に青い海が見えてきました。

 もちろん日本海。

 さらに下っていくと、通りが右に折れるところの右角に、高い石垣の上に造られた鐘楼がありました。

 「時鐘と鐘楼 味噌屋町」と記された案内板があり、それによるとこの鐘楼は万延元年(1860年)に改築されたもので、鐘は正徳3年(1713年)に佐渡の出銅で鋳造されたもの。

 越後高田住の「藤原家次」の銘があるとのこと。

 この時を告げる時の鐘は明治初期まで続けられたという。

 江戸時代中期から幕末を経て明治初期まで、相川の町に時を告げていた鐘ということになります。

 相川の海岸に沿った町、また奉行所から金山を結ぶ相川の「メインストリート」であった「京町通り」の界隈に、この時鐘は一定の時刻に鳴り響いていたことになります。

 もちろん佐渡奉行所の役人たちもこの時鐘を聞いていたことになります。

 この時鐘がある角で右へと通りを折れると、通り右手に瓦屋根の赤いレンガ塀が長く続いており、その赤レンガ塀に沿って進んで行くと、左手に復元された佐渡奉行所の表門が現れました。

                         続く



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