鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

「村山古道」とオールコック 最終回

2008-10-31 06:28:49 | Weblog
オールコックらイギリス人8名、案内の山伏3名、日本人通訳1名、幕府役人数名、強力(ごうりき)数名、人足数名、合わせて20名ほどの一行が、いっぺんに宿泊するところ(しかもそれはおそらく予定されていた)としては、「一の木戸」がもっとも可能性が高いと思われる。ほかにも木室(木造の小屋)や石室(石造りの小屋)がありましたが(一合目は木室、二合目や三合目は石室といった具合)、大人数(しかも身分の違うものが一緒に)が泊まれるものであったかどうか。この「一の木戸」には、村山興法寺から社人が出張ってきており(登山者から山役銭を徴収)、その社人はオールコックらの到着を今か今かと待ち構えていたに違いない。ここは修験者の修業の中心地でもあって、長期滞在が可能な場所(水の補給もでき、便所もあったことでしょう)でした。標高は2100m超。吉原宿あたりより12℃も気温は低いことになる。日没以後は急速に冷えこんできたことでしょう。9月といっても、夜中は5℃前後に下がったのではないか。オールコックはその宿所に疲労困憊の体(てい)で到着します。彼らはそこに強力が運んできた毛氈(もうせん)を敷いて横になりました。もちろん夜食も蝋燭(ろうそく)の薄明かりの中で摂ったことでしょう。彼らは「いろんなことを気にするには、あまりにも疲れきって」いました。「にもかかわらず、寒さとさきの巡礼者がのこしていった居住者たちのために熟睡をさまたげら」てしまいました。この「さきの巡礼者がのこしていった居住者たち」とは、「ノミ」のこと。寒さとノミによるかゆみのために、一行は疲れているにも関わらず安眠が出来なかったというのです。山小屋の「ノミ」については私も体験がある。山小屋の蒲団や畳の中にノミが生息しているのです。場合によっては畳の上を飛び跳ねている姿を見ることさえ出来る。私の幼少時には、ノミは珍しいものではありませんでした。血を吸ったノミを指で押し潰すと、指先に赤い点が出来たもの。ノミが繁殖しているようだとなれば家中大騒動でした。幕末以後に日本にやって来た外国人旅行者も、ノミや蚊などには困らされたようです。普通の旅籠(はたご)にもたくさんいました。ましてや山小屋ともなれば、かつての粗末なそれであってもノミはたくさん「居住」していたに違いない。オールコックが足首や首のあたりをボリボリと掻いている姿を想像してみるのも面白い。 . . . 本文を読む

「村山古道」とオールコック その9

2008-10-30 06:20:00 | Weblog
オールコック一行は中宮(ちゅうぐう)八幡堂で馬と別れて、「いよいよ人間の恒久的居住地ないし出没するところでない地域に足をふみいれ」ました。「やがて森林はまばらになり、木の大きさが小さくなって」、「カシやマツがブナやカバにとって代わられ」るようになりました。この道中で、オールコック一行は日本で初めてヒバリを目撃しています。またこの森林に住んでいる野生の動物についてもいろいろと聞いています。その生息している動物の数の多いことに驚いたオールコック一行は、通訳として同行している幕府役人にその数について聞きただしたところ、その通訳は、「ああ、たしかにそのとおりだ。何百万もいる」といいかげんに答えています。カシやマツの生えている低木地帯を登っていくと、オールコック一行は、「植物たると動物たるとを問わず、およそ生命のあるものがまったく見かけられないところへさしかか」りました。スズメが時々、一羽か二羽、登山道を横切って飛んでいくばかり。「山の粗石(あらいし)や火山岩のかすの上についている曲がりくねった登り道」に沿って、「巡礼者たちが避難できるように一部を掘って屋根をかけた小さな小屋ないしほら穴がつくられて」ありました。「それらは、八幡堂から頂上までに十一あり、だいたい二マイルごとにひとつずつあったように思う」とオールコックは記しています。 . . . 本文を読む

「村山古道」とオールコック その8

2008-10-29 06:36:49 | Weblog
オールコックの『大君の都』の記述に戻ります。馬に乗って村山登山口を出発したオールコック一行は、ここ数日に渡って吹き荒れた台風により沿道が被害を受けた風景を目のあたりにしながら登山道を進み、標高1000mの地点にある中宮(ちゅうぐう)八幡堂に到着しました。畠堀さんを先導者とした私たちが村山登山口からここまで要した時間は4時間50分。といっても天照教の駐車場のところで50分ほど、優雅な朝食かたがた休憩を取っていますから、実質、小憩を含めて4時間というところ。当時、登山道はもっと歩きやすい(人間にとっても馬にとっても)ものであったはずだから、馬に乗って進んだオールコック一行は、台風で被害を受けた直後の道を進んだということを考えあわせてもおよそ4時間以内に中宮八幡堂に到着したと推測されます。オールコック一行が村山登山口を出発したのは夜明けの後。遅くとも6時頃には出発したと考えれば、ここ中宮八幡堂への到着時刻はおよそ10時。私たちと同じように、早朝の出発準備の慌しさの中で、朝食をゆっくり食べることはなかったでしょう。とすれば、ここ中宮八幡堂のところで周囲の樹林を眺めながら朝食を摂った可能性が高い。彼らはここの広場で馬から下り、馬を引いていた別当たちもここで馬を休ませ、馬たちに餌を与えたことでしょう。「中宮馬返し」と言って、ここから先は馬を利用することは出来ませんでした。強力たちは背負子(しょいこ)の荷物を下ろしました。その荷物の中から、オールコックらはコーヒーやビスケット、コーヒーを沸かす道具や、それを飲むためのカップやスプーンなどを取り出しました。ビスケットは、すぐに腐らず、大量でも軽く、旅の携行食品として当時においても重宝でした。オールコックは愛犬のスコッチテリアを連れて来ています。名前はトビー。おそらく駕籠に入れられて運ばれてきたトビーは、ここで駕籠から出され、オールコックに撫でられながらビスケットの朝食にありついたに違いない。そしてひとしきりあたりを走り回ったことと思われます。この中宮八幡堂のかつての様子については、畠堀さんの本のP196に古写真が載っていて、それで雰囲気を窺うことが出来ます。広場中央に藁屋根の建物があり、その左右に板葺きの家があります。畠堀さんは、左の家は馬小屋かも知れないとされています。この八幡堂には村山から派遣された社人が常駐していました。 . . . 本文を読む

「村山古道」とオールコック その7

2008-10-28 06:01:52 | Weblog
フェリーチェ・ベアトは1867年(慶応3年)の初秋、オランダ総領事ポルスブルックとともに富士登頂を果たしたのか。それとも果たさなかったのか。それは今のところ私にはわかりません。もし登っていれば、その登山道の途中から写真を撮ったはず。しかし登山の途中から撮ったと思われる写真は一枚もない。富士山の登山口(須走口・吉田口・大宮口〔富士宮口〕─いずれも富士浅間神社があるところ)までの沿道の風景写真や登山口付近の風景写真は残っているのに、肝心の富士山の登山道に入ってからの風景写真は一枚も残っていない。なぜだろうか。考えられるのは、まず、彼は登山道には入らなかったこと。つまり富士登山はしなかったということ。しかしわざわざ富士山のふもとまでやって来て登らなかった理由はなんだろう。次に考えられるのは、富士山には登ったが写真は撮らなかったということ。しかしわざわざ富士登山をしたのに写真家であるベアトがその写真を撮らなかったのはなぜだろう。たしかに銀板写真機の機材は重たいが、強力(ごうりき)たちを雇えば、彼らは重さ百キロぐらいの荷物を背負って山道を登ることが出来たはずなのです。3番目に考えられるのは、富士登山をして写真は撮ったけれども、どういう理由でかその写真を公開しなかったということ(あるいはなくしてしまったということ)。しかしその理由とはなんだろう。ベアトの写真集の解説を読んでも、富士山頂に登ったという記述なり描写は出てきません。ここであらためてベアトが写した富士山の写真を眺めてみると、富士山は旧四合目付近まで白雪に覆われています。旧四合目というと標高2700m付近。吉田口から登っていったとすると、旧三合目あたりから雪道に遭遇したと思われます。ポルスブルック一行が登山したのは西暦1867年9月14日とありますが、この時期にこれだけ雪が積もっていたことになります。果たしてこの旧三合目ないし四合目あたりからの雪のある登山道を、ポルスブルック一行やベアトは登っていったのか。まずは、ポルスブルックの残した日本滞在期間の記録から、富士登山関係の記録を拾い出してみる必要がありますが、それは今後の課題ということに。 . . . 本文を読む

「村山古道」とオールコック その6

2008-10-27 06:49:15 | Weblog
ベアトを含むオランダ総領事ポルスブルック一行は、富士登山を行うためにどういうルートを辿ったのか。正確なルートは私にはまだわかりませんが、ベアトの一連の写真からある程度の推測はつきます。東海道を江戸から箱根湯本まで行き、そこから塔ノ沢→堂ヶ島→宮ノ下→木賀→仙石原→乙女峠→鮎沢→水土野→須走→篭坂(かごさか)峠→上宿→富士浅間神社へ至るコース。写真からベアトが須走の須走口登山道、富士吉田の吉田口登山道を見ていることは確かです。ところが彼の写真の中には、富士宮(大宮)の登山口(浅間神社)付近を写しているものがあるからややこしい。三島から富士山を写した写真や、原宿の帯笑園(植松家の庭園)でポルスブルック一行の警護の武士団を写した写真も残っていますから、ベアトを含むポルスブルック一行が富士宮まで行ったであろうこともほぼ確実。富士宮(大宮)から富士登山をしたなら、とうぜんに村山まで行き、そこから富士山頂に向かって村山口登山道を進んでいったことになりますが、それはどうもなさそう。というのは村山を写した写真がないからです。写真集のP90に、森山から富士山を望んだという写真が掲載されていますが、この「森山」とは「村山」のこと。つまり村山から富士山を望んだ写真ということになりますが、その解説にある通り、山容から見て村山から写したものではなく富士吉田方面から写した写真です。ベアトはおそらく、オールコック一行が富士に登ったコースは村山口からであることを知っていたはずです。もし彼が村山まで来ていたなら、その登山口付近を写さなかったはずがない。なぜなら、ベアトは須走登山口付近と富士吉田登山口付近の写真(および富士宮登山口付近の写真)をしっかり撮っているからです。村山まで来ていたなら村山登山口付近の写真を撮らないはずがない。村山口の手前(大宮〔富士宮〕寄り)には、秋の草花を通して富士山が望めるビューポイントがいくつかあることを私は知っています。ということは、ポルスブルック一行が富士登山をしたコースは、須走か富士吉田からのコースということになりますが、おそらく富士吉田からであると思われます。インターネットで調べると、ポルスブルックが富士登山をしたのは1867年(慶応3年)9月14日(西暦)。しかし不思議なことに、ベアトがその登山道から下界なり山頂なりを写した写真は一枚も残っていないのです。 . . . 本文を読む

「村山古道」とオールコック その5

2008-10-26 06:53:08 | Weblog
幕末・維新期の人物で私が関心を持っている人物の一人にイギリス人写真家フェリーチェ・ベアトがいますが、彼もオランダ総領事ポルスブルック一行に加わって富士登山をしているらしい。しかしほんとうに富士登頂を果たしたのか、というと今のところ私にはよくわからないのですが、ポルスブルックらとともに富士山の近くまでやって来ていることは確か。なぜなら富士山の近くで写した写真および富士山を近くで写した写真が残っているからです。このポルスブルック一行との富士登山の旅は重要で、これによってベアトはまたまた外国人遊歩規定の範囲外に出て、当時の日本の風景や人物たちを写すことができたのです。この時の「範囲外」とはどこかと言えば、酒匂(さかわ)川以西の地域。具体的に言えば、箱根や富士の近辺の地域でした。酒匂川までの東海道の風景を彼はカメラ(銀板カメラ)で撮っていますし、また酒匂川以西の東海道やその周辺、さらに富士山に至るまでの道中の風景もベアトはカメラで撮っています。酒匂川までの東海道およびその沿道の風景はここでは省きます。酒匂川以西の東海道およびその周辺の(富士山に至るまでの)写真を、ベアトの写真集から拾ってみましょう。まず写真集2のP12。この写真は、小田原市立図書館の『一枚の古い写真 小田原近代史の光と影』にも「酒匂川の輦台(れんだい)渡し」という題で掲載されています。この写真については、2007・11・21のブログで触れていますが、そこで「おそらくこの写真は、幕末ではなく明治初年に撮られたものと思われます」としていますが、これは間違い。写真集2のP12の解説にあるように、慶応3年(1867年)にベアトがオランダ総領事ポルスブルックに同行して、富士登山の旅をした時に撮影した可能性がきわめて高い。小田原宿は写真集P70。小田原から湯本にかけては同じくP71。箱根旧街道は同じくP79~P85。芦ノ湖を上から写したのが同じくP86~87。箱根七湯を写したのが同P76~P78。富士宮の表口浅間神社付近を撮ったと思われるのが同P88~81(上の写真)。富士吉田や須走(すばしり)から撮ったのが同P90~91。東海道原宿の帯笑園(植松家の庭園)で撮った写真が同P72~73。さらに写真集2には、須走村(先とは別の一枚)および須走口登山道入口付近より富士山を撮った写真もおさめられています(P13、P41)。 . . . 本文を読む

「村山古道」とオールコック その4

2008-10-25 06:51:02 | Weblog
この村山口登山道(「村山古道」)を通って富士登山をおこなった幕末の人々の中で、私が関心を持っている人物は、オールコック以外に2人います。一人は丹後宮津藩第六代藩主の松平宗秀(本荘宗秀・1809~1893)で、もう一人は浮世絵師である五雲亭貞秀(1807~?・1879年頃までは生きていたらしい)。この2人についてはすでにこのブログで触れていますが、本荘宗秀はおそらく現役の藩主としては唯一の富士登山達成者であり、五雲亭貞秀は数多い浮世絵師の中でもやはり数少ない富士登山達成者。しかも1回ではなく数回にわたって富士登山をおこなってます。本荘宗秀は恐るべき健脚家であり、もしかしたら参勤交代の道中においても駕籠にはあまり乗らずに歩いていたかもしれない。常日頃歩くことを怠らなかった人物のように思われます。大名や将軍というと、あまり歩かなかったのではないかというイメージがあり、私もそう思っていたのですが、全員が全員そうではないはずであり、中には武士の棟梁として常日頃、よく歩き、よく馬を走らせ、よく武芸に励み、また芸道の世界にも通じていた人物もいたと思われる。若い時から富士登頂を夢見ていたと思われる本荘宗秀は、それをいつか果たすべく意識的に足腰を鍛えていた可能性がある。この人物は政治家としても有能であり、後に井伊大老のもとで京都所司代を務め、また幕末においては老中として難局に対処しています。なぜ彼が富士登頂を試みようと思ったのか。その執念はどこから出てきたのか。彼の宗教観と深い関係があるように思われるのですが、このことについては今後探っていきたいと考えています。五雲亭貞秀は「空とぶ絵師」とも言われ、鳥瞰図を得意とした浮世絵師。とくに横浜浮世絵を数多く描いた浮世絵師として知られています。横浜浮世絵を描いた絵師は50人近くいるとのことですが、その第一人者とされている絵師。彼は「大約名所を描くにも親しく実地を踏みて見ざれば其(その)真景ハ写しかたし」と言っています。現地に赴き、実際の景色を自分の目で見て絵を描くことを基本としていました。その彼が「鳥の目」になって上空からの景色を描くようになったのは、富士登山がきっかけであるとされたのは「横浜浮世絵と空とぶ絵師五雲亭貞秀」という論文の著者横田洋一さん。ともかくこの興味深い2人の人物が、この村山口登山道を登っていることは確実なことなのです。 . . . 本文を読む

「村山古道」とオールコック その3

2008-10-24 06:18:11 | Weblog
畠堀操八さんの『富士山 村山古道を歩く』には、口絵写真が16ページにわたって掲載されています。村山登山口から富士山旧四合目(現在の新六合目)までの村山登山道を、畠堀さんたちとともにほぼ正確に辿った今、あらためて口絵写真を眺めてみると、最後の民家を過ぎたところで見える樹林帯と富士山を写した写真から、白雲がたなびく愛鷹(あしたか)連峰を見下ろした写真まで、当然ながら、私が今回の登山の途中で見た風景とまるで一致します。この風景はオールコックらも当然に見た風景。しかし150年近くの歴史を経て、登山道のようすや周囲の樹林相はかなり変わっていると思われる。この一連の写真の中に、風損木が登山道に倒れこんだ中を登山者が進んで行く写真がありますが、これもオールコックが遭遇した光景でした。「夏草茂る大倒木帯では折り重なる風損木で踏み跡はたどれず、歩きやすいステップを選ぶだけ」とありますが、このような光景は、中宮八幡堂の手前の登山道においても見られたはず。何しろオールコックが三島から吉原宿を経て村山興法寺に到着するまで、23日(万延元年7月)と24日の両日は、大型台風による暴風雨がこの一帯を襲っていたわけだから。『大君の都』には、次のような風損木についての記述が出てきます。「例の台風が吹き荒れたことをしめす多くの恐ろしい痕跡に出くわした。大きな木は短くばらばらに裂かれたり、根こそぎに倒されたりしていた。それらの一本がなぎ倒されてちょうどわれわれの通り道をふさいでおり、われわれはそれをのりこえるか、その大きな幹をはいのぼるかしなければならなかった。」ここには「一本」とありますが、「一本」どころではなかったのではと私には思われる。もしほんとうに「一本」であったのなら、考えられることは村山の地元の人たちが、ほとんど総出で登山道に倒れこんだ樹木を片付けたということになる。前日24日に大慌てで片付けたのです。ほんとうのところはどうだったでしょうか。倒れこんだ樹木を前に、馬に乗って道を進んでいたオールコックらイギリス人一行(8名)は、馬から下りざるをえませんでした。この倒れた樹木を乗り越えるのに苦労したのは人間ばかりではなかった。彼らが乗っていた馬もその樹木を越えなければならない。その馬を曳く日本人の別当たち(彼らはイギリス公使館や領事館に雇われていた者たちでした)も、そうとうに苦労したはずです。 . . . 本文を読む

「村山古道」とオールコック その2

2008-10-23 06:06:22 | Weblog
オールコック一行が村山の登山口を出発したのは、夜明けすぐのこと。先導するのは三人の山伏。旅行用の毛氈(もうせん)や二日二晩の食料品(米・コーヒー・ビスケットなど)を運んだのは、『大君の都』の記述では、「数名のしっかりした山武士、すなわち『山の男』」とありますが、これはおそらく「強力」(ごうりき)のこと。登山者や山伏などの荷物を運ぶ地元の人足たちのことを一般に「強力」と言いますが、その「強力」を写した写真が、例によってベアトの写真集の中に出てきます。それは『F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本』(横浜開港資料館編・明石書店)のP13の「須走より富士を望む」と題された写真。この写真の中央やや下に大きな荷物を背負い、杖をついて前屈みになっている横向きの男がそれ。両足は素足です。P15には、東海道畑宿付近で手伝いの娘とともに倒木に腰を下ろして休憩している「強力」が写し撮られています。箱根の「山中の湯治場へ生活物資を運ぶ強力」と説明がされている。米俵のような大きな俵物を二つ背負い、手にはやはり杖を持っています。もっとはっきりとわかる写真はP76に出てきます。背中には柳行李(やなぎこうり)二つと蒲団以外に、布に包まれた荷物まで背負っています。荷物を載せている道具は背負子(しょいこ)。右手には短めの杖を持ち、おもしろいことに左手には魚を二本ぶらさげています。寒い時期に撮ったためか、この中年の「強力」は完全装備をしており、足も素足ではない。これらの「強力」たちはどれぐらいの重さの荷物を運べたのか。人によって異なるでしょうが、およそ百キロ前後の荷物は運べたようです。自分の体重の二倍くらいの荷物を背負って、山道を上り下りすることが出来る脚力を持っていたことになる。さて、3名の山伏が先導し、数名の強力たちが荷物を背負って付いていくオールコックらの一行(イギリス人たちは騎馬。したがって馬には日本人の別当〔べっとう=馬曳き〕も付いていた)は、最初のうちは畑や草が高く生い茂った草地の間を進みますが、やがて森林の中に分け入っていきました。樹木は、大きく成長した樫(かし)や松、またブナなど。台風等による風損木で行く手をさえぎられた登山道(村山道)を、その風損木を乗り越えたり、大きな幹を這い登ったりしながら(ということはしばしば馬から下りたということ)、一行は登って行ったのです。 . . . 本文を読む

「村山古道」とオールコック その1

2008-10-22 06:08:22 | Weblog
幕末の有名な駐日公使にオールコック(1809~1897)という人物がいました。88歳という、当時としてはかなり長命であった人で、日本に外交官として滞在したのは、1859年6月(陽暦)から1864年12月まで。ただし1862年3月から1864年3月まで2年間、開市開港延期交渉の仲介のために帰国していますから、およそ3年と半年ばかりを日本で生活したことになります。この3年半の日本滞在中のことを、彼は『大君の都』としてまとめていますが、これに目を通すと、このオールコックは駐日公使(最初は駐日総領事)としての外交官特権を利用して、江戸およびその周辺(江戸は外国人遊歩規定によれば、外国人が自由に「遊歩」できるところではありませんでした)や東海道(これも酒匂川以西は「遊歩」できない)、上方(かみがた─神戸はまだ開港されておらず、大坂も開市されていない。天皇のいる京都に異国人〔毛唐〕が立ち入るとはもってのほかで、オールコックさえこの時期には結局立ち入ることは出来ませんでした)、長崎街道などを、積極的に、馬に乗って旅行したことがわかります。その彼が、富士登山を行いたいとの申請を幕府に提出し、ねばり強い交渉の末、幕府の許可を得て富士登山の旅を決行したのは1860年9月(和暦では万延元年7月)のことでした。彼はその時、初老の域に差し掛かった51歳。前年11月に総領事から公使に昇任していました。オールコックがイギリス公使館が置かれていた高輪(たかなわ)の東禅寺から神奈川宿の浄瀧寺(じょうりゅうじ)に赴き、ここから総勢100名の者たちとともに富士山に向かって出発したのは万延元年の7月19日(西暦1860年9月4日)。それ以後の東海道の道筋のようすなどについては、すでにこのブログで触れたところです。オールコック一行が吉原宿から大宮街道を通って、大宮の浅間神社に立ち寄って村山の興法寺(今の村山浅間神社)に到着したのは7月24日の夕刻。その翌朝、興法寺の僧坊を騎馬で出発し中宮八幡堂のところで下馬。そこで杖をもらうと、いよいよ本格的に登山道を登り始めたのです。オールコックを含めたイギリス人8名を案内するのは3名の屈強な山伏。彼らの荷物を持つのは強力(ごうりき)や神奈川宿から付いてきた人足たち。警護の武士は、もし付いてきたとしても数名であったことでしょう。台風一過、空は青く澄み渡っていました。 . . . 本文を読む

2008.10月「不動坂~本牧~根岸」取材旅行 その4

2008-10-18 06:08:46 | Weblog
横浜港へ入港する手前の根岸湾や本牧岬のあたりは、船に乗った外国人の目にはどう映ったか。さらに調べてみると、宮野力哉さんの『横浜 船と港ものがたり』にいくつかの記述が出てきました。以下の引用文は、その本からの孫引きです。まず文久2年(1862年)9月、蒸気船ランスフィールド号で来日したイギリスの外交官アーネスト・サトウ。 「ミシシッピー・ベイ(根岸湾のこと─鮎川)の白い断崖がだんだん近くなり、それが次第にはっきり見えてきた。船は条約岬(本牧東端のこと)を迂回して、碇泊地のすぐ沖合のところに投錨した。」次に明治14年(1881年)6月、エスカンビア号で来日したイギリスの地理学会員アーサー・クロウの場合。「江戸湾は私が見たうちではもっともすばらしい。幅は二十マイルほどで、青い海面には、あらゆる方角に和船や漁船の白い帆がちりばめられている。早朝の靄が晴れてゆくにつれて、昇る太陽で美しいバラ色に染まった、雪をいただいた富士山の頂上があらわれてくる。」ランスフィールド号上からサトウが見た「ミシシッピー・ベイの白い断崖」は、先に触れたベアトの写真にしっかりと写っています。本牧岬の一の谷、二の谷、三の谷付近の土が露出した断崖です。クロウがエスカンビア号上から見た、白い帆を突き立てたおびただしい数の和船や漁船が浮かぶ東京湾の風景は、あのイザベラ・バードが見たそれとまったく同じ。クロウが日本にやってきたのは、バード来日の3年後のことでした。ペリー艦隊は、江戸湾の岬や島に英語で名前を付けました。根岸湾は「ミシシッピー・ベイ」、大津湾は「サスケハナ・ベイ」、長浦は「ポーハタン・ベイ」、諸磯は「マセドニアン・ベイ」、対岸の富津(ふっつ)崎は「サラトガ・ポイント」。これらはいずれもペリー艦隊を構成していた軍艦の名前からとったもの。夏島は「ウェブスター島」、猿島は「ペリー島」、本牧岬は「トリーティ・ポイント」(条約岬)。そして本牧十二天の崖は「マンダリン・ブラフ」。露出した崖の色が、マンダリン(柑橘類の一種─宮野)の肌色のようであったのでしょう。船の甲板上から左手に見える本牧岬の「白い崖」ないし「マンダリン」色の崖が、横浜入港がもう間もなくであること(ここから左に旋回すれば横浜の街の風景が広がり、その港の沖合に船は静かに碇泊する)を示す「道標」のようなものであったと言えるかも知れません。 . . . 本文を読む

2008.10月「不動坂~本牧~根岸」取材旅行 その3

2008-10-17 06:15:43 | Weblog
フェリーチェ・ベアトが写した根岸湾や本牧岬あたりの風景は、横浜港に入る船に乗った外国人の目にはどのように映ったのか。恰好な資料として『イザベラ・バードの日本紀行』を挙げることができます。バードが横浜に入港したのは、明治11年(1878年)の5月20日。その日の早朝、彼女が乗った「シティ・オブ・トーキョー号」は、キング岬(野島崎)を右手に見て、やがて海岸線すれすれに「江戸湾」を北上しました。野島崎というのは房総半島の南端。左手には噴煙を上げる大島が望めたことでしょう。野島崎を右手に見た「シティ・オブ・トーキョー号」は、やがて右にカーブし、浦賀水道に入っていきました。海沿いのいたるところにある入江には漁船がたくさん停泊し、海面にも四角い白帆を掲げた漁船がおびただしく浮かんでいました。時折り船尾の高い帆掛け船(弁才船か─鮎川註)とすれ違います。湾は狭まり、森を頂いた山々や棚田の谷間、灰色の村々が見えてきました。船は久里浜や浦賀湾を左手に見て、観音崎を過ぎたところでやや左へカーブ。左手の海岸にはペリー島(猿島)やウェブスター島(夏島)、そしてミシシッピー湾(根岸湾)、さらにトリーティ岬が見えて来ました。このトリーティ岬というのが本牧岬のことになります。バードにとって、「江戸湾」すなわち東京湾の海岸線の風景は、ほかの土地のそれよりずっと魅力的ではあったものの、それほど意表を突くところはなかったようです。木々に覆われた切れ込みの深い山々が水辺からきれぎれにそびえ立ち、軒の深い灰色の人家が谷間の口あたりに集まっている。そして鮮やかな緑の棚田が、鬱蒼(うっそう)と続く森の間をすばらしい高さまで上がっていました。東京湾に入った船上のバードにとって印象的だったのは、入江の村に停泊するおびただしい数の漁船と、海で操業するやはりおびただしい数の漁船(白木の船体で四角い純白の帆を揚げる)であったようです。当時の東京湾では盛んに漁業が行われていたのです。「五時間のうちにすれちがった漁船の数は何百ではきかず、何千隻にもなり」、その「三角形状の群れになった四角い白帆の漁船団を粉砕してしまわ」ぬよう、「シティ・オブ・トーキョー号」はスピードを下げざるをえませんでした。そしてその白帆の漁船は、横浜港に向かって左旋回する「シティ・オブ・トーキョー号」の右手にも、数え切れないほど浮かんでいました。 . . . 本文を読む

2008.10月「不動坂~本牧~根岸」取材旅行 その2

2008-10-16 06:20:30 | Weblog
『F.ベアト幕末日本写真集』P24の写真の撮影地点は、同書P27~28の「横浜地図」(明治4年)で言えば、どのあたりになるのでしょうか。上に飛び出ている部分の楕円形のところが根岸競馬場。その左側に根岸村があり、その海岸沿いの道を上へ(八景島方面)やや進んだところに「滝頭埠頭の計画図」が描きこまれていることを考え合わせると、根岸競馬場の上部の方からぐるっと湾曲して根岸村の方へ下りていく道が不動坂。そのぐるっと旋回している部分、やや下りた地点がベアトがP24の写真を撮影した地点と思われます。私が歩いた根岸森林公園の根岸競馬場跡のガイドパネルのある地点は、「横浜地図」の根岸競馬場の外周コース左側の地点ということになる。ここは「滝の上」(現在は「滝之上旭台」の住宅地が崖側に広がる)といわれるところで、この「滝」とは「白滝」のこと。この「白滝」の滝上に「白滝不動尊」があり、その滝下に「白滝不動尊」への登り口があったのです。不動坂を下ると、「外国人遊歩道」はその白滝不動尊の参道に合流していました。合流した地点あたりからベアトが、白滝不動尊の参道と登り口を撮影したものが、P25の写真。この参道を進み石鳥居を潜って、その奥にある石段を登っていくと白滝不動尊があるはずです。さて、この不動坂は「外国人遊歩道」の一部として新しく造られたものですが、写真を見てもわかる通り、かなりの急な斜面を削って造られたものでした。したがって、馬車や馬に乗って下って行くことを考えると、勢い余って崖下に落ちないようにガードレールを造る必要がありました。崖際には丸太で高さ1m20cmほどのガードレールが坂下の方まで伸びているのがわかります。人間が歩くだけなら、わざわざこんな施設を設ける必要はなかったはず。この坂道を下りていって、坂下で合流する道が白滝不動尊の参道(P25の写真に写っている参道)で、そこを左折して鳥居を潜り石段を上がっていくと白滝不動尊の社殿がある。P24の写真で、左上真ん中あたりに黒々と見える森は、P25の写真の上にある黒々とした森と重なり合うと思われます。この森が、白滝不動尊の社殿の横ないし背後にある森であるようです。したがって、P24の写真の左側(写っていない部分)が、根岸競馬場(現在の根岸森林公園)がある一帯だということになります。 . . . 本文を読む

2008.10月「不動坂~本牧~根岸」取材旅行 その1

2008-10-15 06:03:30 | Weblog
先月は、横浜の外国人遊歩道のうち、地蔵坂から北方・小港を経て本牧十二天へ至る道筋(途中、天徳寺・和田山まで足を伸ばす)を歩きましたが、今回は、地蔵坂上から右折し、旧根岸競馬場(現根岸森林公園など)の横を通って、不動坂上から坂道を下り、本牧お馬通りのところで、先月回ったところに合流。そこから戻って根岸まで、というコースです。この不動坂の上から本牧岬や根岸村、また根岸湾の海を見下ろした風景は、幕末の写真家フェリーチェ・ベアトによって写真におさめられています。それが『F.ベアト幕末日本写真集』のP24の写真で、すでにこのブログで触れたことがあります。今回歩いて気がついたことですが、この写真の右上、一の谷、二の谷、三の谷が写っているあたりの地形は、現在とはよほど異なっているようです。私は、ここに写っている岬の突端に近い丘陵上を、現在の「本牧山頂公園」のあたりに比定しましたが、それは誤りで、写真中央やや上の一番高い部分が「本牧山(和田山)山頂」であるようです。したがって、この写真に写っている二の谷や三の谷付近は、現在、「三溪園」や「本牧市民公園」のあるあたりということになる。突端の部分が「本牧市民公園」のところとなり、その向こうが、「八王子鼻」といわれたところ。本牧十二天があるところは、この写真で言えば、写真中央やや上の和田山山頂のやや左手の向こう側ということになります。これらのことは実際に現地を歩いてみてわかったことで、歩いて確かめることがいかに大事であるか、ということを痛感しました。写真の、一の谷、二の谷、三の谷を、現在の「本牧通り」の「二の谷」「三の谷」のバス停付近に比定してしまうと、とんだ間違いをしてしまうことになるのです。このベアトの写し撮った風景が、現在はどのようになっているのか。実際に、この不動坂の上からベアトのように眺めてみたい、というのが今回の取材旅行の最大のポイントでした。 . . . 本文を読む

2008.9月「元町~地蔵坂~本牧」取材旅行 その8

2008-10-11 05:24:22 | Weblog
『F.ベアト幕末日本写真集』の中の折込ページとして「横浜地図」(P27~P28)と「横浜周辺外国人遊歩区域図」(P29~P30)というものがある。「横浜地図」は、関内・山手両居留地と遊歩新道(外国人遊歩道のこと─鮎川)沿いの地域、すなわち横浜居留外国人の生活空間を示す地図。この解説に「遊歩新道」のことが記されています。「遊歩新道は堀川を遡上、製鉄所の対岸を通って地蔵坂を登り、右手へ現在の山元町を抜けて競馬場を廻り、不動坂を一気に根岸湾まで下る。…海岸に沿って本牧本郷村に入り根岸丘陵の山裾を廻る。水田を横切ったところで二手に分かれ、一方は妙香寺下と射撃場の前を通り、現在の桜道を登って地蔵坂の上に戻る。もう一方は山手の裾づたいに、小港の屠牛場から十二天に至る。沿道の各所に記入されている赤い小さな四角は、見張り番所のようなものであろうか。」製作年代は明治4年(1871年)のようである。この記述からもいろいろなことがわかります。今の北方(きたがた)町の辺りは水田が広がっていたらしく、外国人遊歩道はその水田を横切っていたこと。小港には屠牛場があったこと。沿道各所に見張り番所のようなものがあったようだということ。この地図を現在のそれと照らし合わせてみると、けっこう面白いことがわかってくるかも知れない。「本牧十二天」のあたりの様子もよくわかります。一方「横浜外国人遊歩区域図」の方は、1867年(慶応3年)かその翌年(明治元年)に作成されたもの。桃色の線で示されているのが外国人遊歩区域。外国人が旅券なしで旅行できるのは開港地から十里四方。ただし横浜の場合は、東は六郷川(多摩川)まで、西は酒匂(さかわ)川まで、北は甲州街道の日野宿や駒木野あたりまででした。凡例の末尾の星印は、当時外国人に知られていた遊歩区域内の代表的な景勝地。能見堂や鎌倉の由比ヶ浜、江の島、丹沢の宮ヶ瀬(みやがせ)、蓑毛(みのげ)などがそう。編集・作図をしたのは英国海軍のA.G.S.ホース大尉という人物。このホースは、津久井町史編纂室の井上泰(やすし)さんによると、津久井地方に初めて足を踏み入れた外国人でした。色分けで示されているのはいくつかのパーティの旅行コース。ホースは鎌倉・江の島にも行き、厚木や飯山にも行き、また大山にも登頂しています。写真家ベアトも、これらのコースに沿って幕末日本の写真撮影を行いました。 . . . 本文を読む