鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その5

2015-04-18 06:25:51 | Weblog

 監的哨の屋上から見下ろした弁天岬の突端の切り立った断崖は、白い岩肌が露出して、まわりの青い海面や陸地の緑の中で目立っていましたが、「ニワの浜」の左端にそそり立つ岩場も、白い岩が上に向かって突き立っているもので、異彩を放っていました。

 「ニワの浜」はその白い岩が露出したところから、右手奥の岩礁地帯までの幅の狭い、小石の多い浜でした。

 陸地側は高い防潮堤のようなコンクリートの壁面となっており、浜の両端のような切り立った自然の岩場ではなくなっています。

 そのコンクリートの壁面の上に、柵が設けられた山道から続く歩道があり、その奥(南側)に東屋が設けられていました。

 その歩道から、防風のための砦のような長い柵を通して、左手に広いグランドと校舎らしき建物が見えました。これが神島中学校と神島小学校。

 浜の左端の白い岩が何十本も空に向かって突き立っているところの近くには、「神島のカルスト地形」と記された案内板がありました。

 それによると、これは露出した石灰岩が長い年月の間に、大気中の二酸化炭素を含んだ雨水に溶かされて浸食されたもので、それがドリーネとよばれるすり鉢状の穴や鋭利な三角錐状塔群や空洞など、特有の地形に発達することがあり、これらの地形を総称してカルスト地形というとのこと。

 神島のカルスト地形は、志摩半島では貴重な自然の造形で、鳥羽市の天然記念物に指定されているという。

 白い岩が何十本も空に向かって突き立っているカルスト地形は「三角錐状塔群」というものであり、それが「ニワの浜」の左端(北東部)に顕著に見られるのです。

 東屋の手前右手には石碑があって、それには以下のようなことが記されていました。

 神島は、バードウォッチャーの間で、鷹渡りで知られており、2000年10月にスカイフェスタ2000が開催され、パラシューティング世界選手権が当市で行われたが、そのイベントに因んで「空の一句」全国俳句募集のイベントとして、鷹渡りの島で「俳句ウォーク」が挙行され、多くの人々が俳句を楽しんだこと。

 そしてこのイベントを機に、「神島俳句ウォーク」を年中の行事として後世につなげ、俳句の島・「潮騒文学」の島として自然の中で豊かな文化を育み、島興しの契機ともすべく第1回の優秀句を句碑として建立し、後世に遺すものである、ということ。

 これはやはり、芭蕉が伊良湖岬で詠んだ「鷹ひとつ見つけてうれしいらご崎」の句に由来するものであると思われます。この際の「鷹」とは、神島灯台の案内板にあった「サシバ」という鷹のことであり、春に南西諸島以南から日本に渡来し、秋に伊良湖岬に集結して南下していく際に、この神島が「絶好の観察ポイント」となっていることと関係があるのでしょう。

 その傍らの「近畿自然歩道」の案内マップを見てみると、遊歩道は、「ニワの浜」の上から「神島中学校 神島小学校」のグランドの南端を通って、「古里の浜」の横を過ぎ、「鏡石」の横を経て集落へと続いています。

 おそらくこれが昔からの集落と「ニワの浜」とを結ぶ道であり、「ニワの浜」でアワビ採りやワカメ採りをする海女たちが通った道筋ではないかと思われました。

 「ニワの浜」に上陸したものと思われる崋山たちも、海女に案内されてこの道を進み、島北側にある集落へと向かったのではないか。

 例の『潮騒』関係案内板もあり、その紹介されている『潮騒』文中に、「歌島の海女は六月七月にもっとも働いた。根拠地は弁天岬の東側のニワの浜である。その日も入梅前の、すでに初夏とはいえない烈しい日ざかりの浜に、焚火が焚かれ、煙が南風につれて王子の古墳の方まで流れている。ニワの浜は小さな入江を抱き、入江はまっすぐに太平洋に臨んでいる。」とあり、神島(作中では「歌島」となっている)の海女の「根拠地」が「ニワの浜」であることが示されています。

 「六月七月」よりももっと海が冷たい旧暦の四月半ば(崋山が上陸した時)においても、「ニワの浜」においては、体が冷えた海女たちが温まるための焚火が赤々と燃え、その煙が磯辺に満ちていたことでしょう。

 この案内板が立つ東屋からは、北東方向に、海へと落ち込む石灰岩の露出した山の斜面(崖)と、その右手海面向こうの陸地(渥美半島)が見えました。

 遊歩道はここで右折し、弁天岬の付け根をまたいで、「古里の浜」へと向かっていきます。

 

 〇参考文献

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」



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