鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.6月取材旅行「海老名~河原口~厚木~愛甲石田」 その5

2014-06-29 06:20:26 | Weblog
河原口の渡し場から相模川を渡った崋山は、その相模川についてどう記しているだろうか。「相模川をわたる。此(この)川大凡(およそ)三四丁もありぬらん。清流巴(ともえ)をなして下る。香魚甚多。」 さらに崋山は相模川の舟運について詳しく記しています。その部分は次の通り。「厚木ノ盛ナル所以ハ、唯相模川船路便ヲナスト、旅客ノ達路トナリ。河ハ相ノ須賀浦、柳嶌ニ達シ、津久井、丹沢諸山ヨリ炭薪ヲ出ス。皆此地ノ豪商買取テ須賀ヘ出ス。須賀ヨリ海舶ニ載、都ニ達ス。塩ト干鰯(ほしか)トハ、相海ハ言ニ不及(およばず)、総房諸州ヨリ此地ヘ至売販、又是ヲ信甲ノ山中ニ致故、塩魚、炭薪ヲ以最上利トナス。此余、海運ノ便ヲ以、布帛金鉄ヨリ以下諸物、常用ノ具ニ至ルマデ、一モカクルモノナシ。是運送ノ便ヲ以テ也。」 相模川の水運と江戸等とを結ぶ海運についてきわめて要領よくまとめています。厚木の繁栄は、相模川による水上交通と陸上交通の要路に位置するからだとしています。津久井地方や丹沢の山々で生産された炭や薪が、この地の豪商の買い取るところとなり、相模川の河口部にある須賀湊や柳島湊へと運ばれ、そこから江戸へと運ばれていること。塩や干鰯(ほしか)が相模湾はもちろんのこと、房総の諸州からも運ばれてきていること。また織物類や鉄などの金属類、さまざまな日用品などが海運や水運で運ばれてくるので厚木では何でも手に入ること。とりわけ信州や甲州にも運ばれていく塩魚や、丹沢や津久井地方などで生産される炭や薪は、い利益を上げている物品である、といったことを、崋山はしっかりと指摘しています。 . . . 本文を読む

2014.6月取材旅行「海老名~河原口~厚木~愛甲石田」 その4

2014-06-28 06:16:19 | Weblog
『新編相模国風土記稿』に、厚木の河岸場は、諸物資を大住郡の須賀湊に運搬するところであるという記述がありましたが、では相模川の河口部にある須賀湊とはどういうところであったのか。『平塚市須賀の民俗 平塚市博物館資料No17(平塚市博物館編)によれば、旧須賀村は、現在の平塚市代官町・久領堤・夕陽ヶ丘・高浜台・幸町・札場町・須賀・千石河岸・松風町・袖ヶ浜の一部を含んだ地域であり、江戸時代においては天領(幕府領)でした。幕末には戸数は500戸ほどで人口は2500人前後であったという。「大山千軒、須賀千軒、南湖は三六十軒」といわれ、江戸や房総半島、遠州などとを結ぶ海運の拠点として、また相模川舟運の拠点として繁栄しました。相模平野各地の年貢米や津久井地方からの炭・薪・木材等がここに運ばれ、そしてこの湊に入った干鰯(ほしか=肥料)やさまざまな日用品がここから相模平野各地や津久井地方などに運ばれました。天明元年(1781年)9月に、廻船会所が設けられ、船持は18人を数えたという。「船持」とはおそらく廻船の所有者であったでしょう。須賀湊には廻船問屋や肥料(干鰯)問屋などが軒を並べていました。肥料問屋としてはたとえば「三河屋」や「尼屋」というのがあり、「三河屋」は妙徳丸や妙宝丸といった廻船(千石船)を所有し、蔵が10棟もあったというし、また「尼屋」は静観丸を所有し、蔵が8棟もあったとのこと。干鰯は、九十九里浜あたりから樽に入れられて船で運ばれてきました。また大山詣の人々も、房総や伊豆方面から漁船に乗ってここに上陸し、わらじ・白脚絆(きゃはん)・白足袋姿で歩いて大山に向かっていったという。厚木の河岸場は、この相模川河口部にある須賀湊と密接に結びついていたのです。 . . . 本文を読む

2014.6月取材旅行「海老名~河原口~厚木~愛甲石田」 その3

2014-06-27 05:54:13 | Weblog
『新編相模国風土記稿』の「巻之五十五」、「愛甲郡二」に「渡船場ノ図」というのがあり、この図によって、当時の渡船場のようすがわかります。渡船場は高座郡河原口村にあり、そこから相模川を渡って対岸の中洲へと上陸すると、中津川と小鮎川の河口部(相模川に合流するところ)に架かる橋(二つ)を渡って、厚木村へと入る土手に上がることになります。小鮎川に沿って土手道が延びているのがわかりますが、この道を進んで行くと荻野村や半原村、あるいは飯山村へと至ることができます。図の左側には、相模川に沿うような形で厚木宿が街道筋に軒を並べています。画面の奥には丹沢の山々も描かれています。「厚木村」の記述には、「渡船場」は「矢倉沢路及藤沢道ニ値レリ」とあり、ここは大山街道から藤沢道(藤沢や江の島方面へ至る道)の分岐点であったことがわかります。また「河岸場」については、「是モ同川ニアリ。船七艘ヲ置。近郷ノ諸色ヲ大住郡須賀湊ニ運致ス。水路四里」とあり、この厚木宿の河岸場から、近在近郷の諸物資が船に積み込まれて、相模川河口部にある須賀湊まで運ばれたこともわかります。「船」とは高瀬船であったはずです。厚木は相模川に中津川や小鮎川が合流する地点にあり、相模川上流はもちろんのこと、中津川や小鮎川の上流から舟等で運ばれてきたものも集まるところであり、それらは高瀬船に積みかえられて河口部の須賀湊へと運ばれ、そこから神奈川湊や一大消費都市である江戸へと海運により運ばれていったのです。 . . . 本文を読む

2014.6月取材旅行「海老名~河原口~厚木~愛甲石田」 その2

2014-06-24 05:12:09 | Weblog
小園村の早川村の村境である、目久尻川(早川)に架かる小園橋。ここで「まち」や幾右衛門、「まち」の子どもたちなどたくさん人々の見送りを受けた崋山と梧庵は、大山街道国分(こくぶ)宿に出て、国分坂を下り、一面の田んぼと正面に聳える大山などの諸山を眺めながら、「一大縄」(いちおおなわ)の直線道を河原口村に向かって歩いて行きました。崋山は次のように記しています。「国府といふ所に出る。むかしの国府寺の鐘ありと聞く。不到(いたらず)。これをいづれバ、一望曠然(こうぜん)、目中皆稲田、海老名といふ。此(この)田、三千石を収む。前に雨降山を揖(ゆう)シ、景いふばかりなし。堤(つつみ)の長さ十八丁、河原口村に到(いたる)。」 「堤」というのは、「一大縄」の直線道のこと。長さは「十八丁」とあります。大山道の国分宿に出た時に、この近くにむかしの国分寺の鐘があるとか、田んぼの広がりに驚く崋山にここが海老名というところであること、またこの水田全体でおよそ三千石の収穫があるといったことや、堤の長さが十八丁あるといったことなどを教えてくれたのは、馬を引いて道案内をする大川清吉であっただろうか。大川清吉は大川清蔵と「まち」の間に生まれた長男。たいへん太ってたくましく、そしてきわめて素朴な青年でした。「まち」と藩主三宅康友との間に生まれた三宅友信とは、父違いの兄弟であり、当時26歳であった友信とは4つ違いの22歳の青年でした。この清吉はこの日、所用で厚木宿まで馬を引いて出掛けていましたが、自宅に戻るとそこに来客として崋山がいたのです。そして再び崋山と梧庵を案内して厚木宿まで行くことになったのです。旅籠「万年屋」で夕食を崋山から供され、夜になってから小園村の自宅に戻っているから、この日清吉は、馬を引いて小園村~厚木宿の間を2往復したことになる。つまりあの「一大縄」(いちおおなわ)を2回往復したことになります。 . . . 本文を読む

2014.6月取材旅行「海老名~河原口~厚木~愛甲石田」 その1

2014-06-23 05:23:09 | Weblog
前月は、さがみ野から海老名までを歩きました。途中、大山街道を赤坂から古東海道へと左折し、「お銀さま」(佐藤まち)が嫁いだ大川家がかつてあった小園(綾瀬市小園)へ入り、「お銀さま」のお墓や大川家の跡地などを訪ねました。崋山が25年ぶりに「お銀さま」と会う感動の場面が展開された大川家の跡地は、現在、JAさがみ早園支店になっていました。『游相日記』のクライマックスの部分ですが、しかし、これで『游相日記』は終わりではなく、もう一つ最後にクライマックスが展開されます。その舞台が厚木宿天王町の旅籠「万年屋」。今月の取材旅行は、海老名から河原口を経て相模川を渡って、その西側にあった厚木宿界隈、および「万年屋」跡地を訪ね、それから大山街道を大山へと向かって小田急線の愛甲石田駅まで歩きました。以下、その取材報告です。 . . . 本文を読む

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その最終回

2014-06-16 05:23:17 | Weblog
『客坐録』に崋山は次のようにメモしています。「銀在所左之通 相州高坐郡早川村幾右衛門女 同國コゾネ村ト云所某家ヘ適 麹町八丁目上州屋万蔵ト云者 此(この)幾右衛門懇意 此銀 文化三丙寅十二月 又春ニ至リシヤ 御暇被下候(くだされそうろう)」。このメモはいつ書かれたものなのか。メモの前後は『毛武游記』の旅に関することであり、天保2年(1831年)の暮れに書かれたものかと推測されます。「小園」は「こぞね」と読んだらしいことが、このことからわかります。「小園」というバス停近くにあった「古東海道」の案内文には、宝暦6年(1756年)の「上小楚根村中」の銘文のある道祖神がある、との記述があり、「小園」の旧呼び名が「小楚根」であったということからも、「小園」は「こぞね」とよんだらしいことがわかります。「銀」(まち)が、いつ御暇を下されたのか、崋山にもはっきりとは分からなかったらしい。文化3年(1806年)の12月か、あるいは翌文化4年(1807年)の春にかけてのことであったらしい、としています。「銀」が三宅友信を江戸田原藩邸で産んだのは文化3年(1806年)の11月のこと。この年2月には世子(せいし)亀吉が逝去し、崋山は世子元吉(康和)の御伽役(おとぎやく)を命じられています。当時崋山は数えの14歳。「銀」は22歳ほどであったでしょう。母の急死により「銀」は大山街道を通って早川村へと帰り、それから二度と江戸へ戻ることはありませんでした。「銀」は藩主康友との間に後の「友信」を産みましたが、実家へ戻って以後、その「友信」に会うことはありませんでした。なぜ江戸の田原藩邸に戻れなかったのか。あるいは戻らなかったのか。その事情はいろいろと推測されるのですが、それはあくまでも推測に過ぎません。いつのまにか突然目の前からいなくなった「お銀さま」。その「お銀さま」と25年ぶりに再会した崋山は、その時の詳しい事情等について「まち」から聞いたりしたのだろうか。 . . . 本文を読む

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その16

2014-06-15 05:45:33 | Weblog
崋山が訪問した頃(天保2年〔1831年〕)、小園村や早川村などでは養蚕は行われていたのだろうか。もっと具体的に小園村の大川清蔵家(まちの嫁ぎ先)や早川村の佐藤幾右衛門家(まちの妹〔二女〕が清蔵の弟長右衛門を夫としている)では、養蚕を行っていたのだろうか。長津田宿や下鶴間宿の近辺では養蚕が行われており、大山街道を歩いた崋山は、それを目撃しています。さて、では小園村や早川村ではどうであったのだろう。そのことを伺わせる崋山の記述は何もありません。『綾瀬市史民俗調査報告書1 早川の民俗』によれば、明治期の「民業」として、「本村十分ノ九ハ皆養蚕ヲ勉ム 本村生計ヲ営ム養蚕ヲ第一ト」するとの記述が見られ、明治時代においてはほとんどの農家が養蚕を行っており、養蚕を生計の第一としていたことがわかります。水田は目久尻川流域にわずかしかなく、それ以外は台地上の畑であったり丘陵の山林や雑木林であったりした小園村や早川村にとって、養蚕は大切な現金収入を得る手段であり、明治以前から行われていた可能性があります。私は『客坐録』にある以下の記述が気に掛かっています。「麹町八丁目上州屋万蔵ト云者 此(この)幾右衛門懇意」。「幾右衛門」とは、「まち」(お銀さまの実父)のこと。「麹町八丁目」に住む「上州屋万蔵」が、佐藤幾右衛門と「懇意」であるというのです。これはおそらく幾右衛門が崋山に語ったことだと思われる。「麹町八丁目」に住む「上州屋万蔵」とは、どういう商売をやっているも者であったのだろうか。私は生糸で結びつかないか、と考えていますが、今のところ何の判断の根拠もありません。 . . . 本文を読む

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その15

2014-06-13 05:46:54 | Weblog
大川清蔵家で飼われている馬は、農耕用の馬というよりも運送用の馬のように思われる。長男清吉は、崋山が大川家を訪れた時、馬を引いて厚木宿に出掛けており留守でしたが、まもなく帰って来て、崋山たちが大川家を出立した時は、馬に頭陀袋や笈(おい)を載せて、厚木まで崋山たちを案内しています。この大川家の馬は何を運送していたのだろうか。近辺の最大の町場である厚木と小園の間を往復していたとすれば、何を運送していたと考えられるだろう。これは推測であって確証があるわけではありませんが、厚木が相模川(水運)や海上交通(海運)によって神奈川湊や江戸と結びついていたことを考えれば、米・塩・炭・肥料・小麦・大豆などを挙げることができるでしょう。米は年貢米であり、船によって江戸の佐倉藩の蔵屋敷に運び込まれます。回米には介在する運送業者がいたことでしょう。塩は神奈川湊から厚木へ船で運ばれる。その塩は赤穂塩や才田(さいた)塩であったり地廻り塩であったりする。肥料は干鰯(ほしか)・〆粕(しめかす)・糠(ぬか)などであり、これも神奈川湊から厚木まで運ばれて来る場合が多かったに違いない。小麦や大豆や薪などは、厚木まで馬で運ばれて、そこから神奈川湊まで船で運ばれたものと思われる。当時神奈川湊は雑穀の一大集散地であり、たとえば小麦は「相州小麦」として野田や銚子へ運ばれ、醤油の原料となりました。清吉は、農閑期には、収穫された農産物や林産物などを馬に載せて厚木まで運送したり、帰り荷として厚木で購入した肥料や塩などを運送したりして、いわゆる「駄賃」を稼いでいたことが考えられます。厚木だけでなく、場合によっては神奈川や八王子、あるいは江戸にまで出掛けることもあったかも知れません。 . . . 本文を読む

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その14

2014-06-11 05:17:36 | Weblog
『綾瀬市史6 通史編・中世近世』(綾瀬市)によると、厚木村は「県央最大の町場」であり、そこではさまざまなものが売買されていました。紙・水油(菜種油)・酒・味醂(みりん)・着物・布類・足袋・編み笠・抹香・白箸・草鞋・秤(はかり)・瓢箪(ひょうたん)・椎茸・千枚漬・浅草海苔(のり)・団扇(うちわ)・肥料・塩等々。日常生活に必要なあらゆるものが、それぞれの商店で売られていました。厚木村は松原・横町・上町・天王町・仲町・下町によって構成され、その中心街の幕末期のようすは、フェリーチェ・ベアトの写真で知ることができます。『F・ベアト幕末日本写真集』のP31には、「厚木」を写したその写真が掲載されており、「右手の建物に、『江州彦根 生製牛肉漬』『薬種』の文字が読みとれる」と記されています。通りの真ん中に用水路が流れ、その両側に商店が軒を並べています。その解説には、①厚木はかなり重要な町である②横浜から20マイルほど離れたところにある③大きな川(相模川)の右側にある④1本の広い道路に沿ってできた町である⑤生糸の中心地八王子と東海道沿いの藤沢を結ぶ主要道路沿いにあるので,よい店があり、人通りが多い⑥町の目立つ場所に火の見やぐらである高い梯子(はしご)がある⑦茶屋は清潔で居心地がよい⑧大川(相模川)という広い川があって、ときどき増水して数日間渡れなくなり、横浜との交通が遮断されることがある、などといったことが記されています。崋山は大川家で酒を幾右衛門と一緒に飲んでいますが、この酒は厚木で購入されたものであるでしょう。「まち」や幾右衛門などの着物の材料(布)は、厚木で購入されたものであるでしょう。日常雑貨の多くは、やはり厚木で購入されたものであると思われます。長男清吉は厚木まで馬を引いて出掛けていて、戻ってきました。馬に荷物を載せて厚木まで行き、帰りには何かを購入して馬の背に載せて帰ってきたのでしょう。清吉は、ベアトが写した厚木の通りを馬を引いて往来することがたびたびであったはずです。いや、佐藤幾右衛門も、大川清蔵も、その妻「まち」も、その通りを歩き、ものを購入したことがそれほど頻繁ではないがあったはずです。 . . . 本文を読む

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その13

2014-06-09 05:22:16 | Weblog
『游相日記』(原本は大正12年〔1923年〕の関東大震災で焼失)に描かれた大川清蔵家の室内の様子を詳しくみていきたい。左端にかしこまって正座している老人は、早川村から駆け付けてきた佐藤幾右衛門(78歳・まちの実父)。その幾右衛門が座っているところも含めて、この家の床はすべて板敷。幾右衛門の前に来客用の膳が置いてある。それに載っているのは「そばがき」や「吸い物」だろうか。お勝手に見える「まち」は、三つ目の膳を今しも運ぼうとしている。載っているのは「卵焼き」であろうか。「まち」心づくしの料理であり、精一杯のおもてなしである。板敷の床に敷いた「花筵(むしろ)に後姿を見せて座っているのはやはり崋山自身であると思われる。崋山は記念すべき、三人が会している場面を描き残しておきたかったのだ。二人の男(幾右衛門と崋山)が対面している部屋が「奥の間」だとすると、その向こうの囲炉裏のある部屋が「座敷」ということになる。囲炉裏には天井から2本の自在鉤が吊り下げられており、それぞれに鉄鍋のようなものが掛けられている。両方とも木の蓋(ふた)がされているようだ。「吸い物」や「お粥」を作っているのだろうか。左側の自在鉤には、魚の形をした横木(自在鉤の高さを調整するもの)が取り付けられています。2つの自在鉤の間に描かれているのが金属製の火箸(ひばし)。「まち」が膳を運んでいるところは「お勝手」であり、その奥に竈(かまど)が見えるが、そこが「土間」。「お勝手」と「土間」は地続きになっています。竈には薪がくべられており、その竈にはお釜が載せられている。その木蓋の上に置かれているのは、手桶(ておけ)のような形をしたもの。これは私の推測ですが、早川村から駆け付けた幾右衛門が携えてきたお酒の入った手桶ではないか。左端の上に描かれる板戸は、「勝手口」の戸であるでしょう。早川村から駆け付けた幾右衛門も、厚木から戻ってきた清吉も、この「勝手口」から家の中に入ってきたものと思われる。囲炉裏のある部屋の天井から吊り下げられたものがもう一つある。これは川魚を串刺しにして乾燥させているのではないだろうか。囲炉裏の燻煙で保存食を作っているのです。土間にある台所には調理台があり、壁の棚の上には大きなざるのようなものが一つ置かれています。「座敷」の障子際に置かれているのは、「葛籠」(つづら)を3段重ねて置いたものだろうか。 . . . 本文を読む

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その12

2014-06-08 05:23:53 | Weblog
「お銀さま」の実父佐藤幾右衛門が居住する早川村はどういう村だったのか。『綾瀬市史 民俗調査報告書1 早川の民俗』によれば、早川村は現在の綾瀬市域の中では最も大きな村で、天保期において戸数は150軒、天保14年(1843年)頃の村高は723石でした。五社明神社が村の鎮守。集落は目久尻川両岸の台地の縁辺部、目久尻川から五社神社に向かう谷戸(やと)の北部、深谷村との境の嫁ヶ久保にありました。幾右衛門家があったのは、目久尻川の西側の台地の縁辺部。現在で言えば、東名高速道路と目久尻川が交差する地点のやや西側にあたります。小園村からは、目久尻川を小園橋で渡って目久尻川の流れに沿って南下したところにありました。大川家とは1kmほどの距離。村の中には早川城跡もありました。目久尻川に架かる橋は、虚空蔵橋・瀬端橋・下大橋の3つ。水田は目久尻川流域にありましたがそれほど広くはなく、村人たちは海老名耕地への「出耕作」を行っていたらしい。海老名耕地は、相模川からその東側の台地の間にかけて広がる平野であり、広大な水田が広がっていました。そこへ丘陵を越えて「耕作」に出掛けていたのです。その早川村から買い物などに出掛けるところと言えば、相模川の西側にある厚木の町でした。経路は、五社大明神の前→大谷(おおや)→中新田→河原口→厚木の渡し(相模川を舟で渡る)→厚木というものでした。厚木は、現在の綾瀬市域・海老名市域・厚木市域などの農村部の人々の買い物の場であったのです。もちろん小園(こぞの)村の場合も同様でした。柏ヶ谷村─小園村→早川村(五社神社前)→大谷村→河原口→相模川渡船というルートは、古代の主要な道筋(古東海道)に重なるものでした。早川村の幾右衛門家から小園村へは、目久尻川に沿った道を北進して小園橋で目久尻川を渡って入って行きます。歩いて15分ほどだから、佐藤家と大川家には頻繁な往来があったことでしょう。幼い日の佐藤まち(後の「お銀さま」)は、この小園村にあった寺子屋(延命寺=地蔵堂)に通ったものと推測される。その寺子屋の開業は安永9年(1779年)頃と言われています。佐藤まちや大川清蔵が通った頃の寺子屋師匠は、寛政11年(1799年)に没した金子文績かその次の代あたりではなかったかと考えられます。 . . . 本文を読む

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その11

2014-06-07 08:11:47 | Weblog
小園村について、崋山は次のように記しています。「そもそも此(この)小薗(こぞの)といふ所は、戸わづかに二三軒に不過(すぎず)、高ハ弐百石、堀田相模守どのゝ領なり。土、赤黒、砂まじりにて、下石といふ。田少く圃多し。早川も蕭々たる村なり。佐倉より一年に一度、人別あらために来(くる)。農はさら也、寺社迄も、其(その)寓居に行て礼をなす。又これにて偵察をもすると聞けり。」 崋山は小園村の戸数はわずかに23軒、村は200石としていますが、『小園の歴史』によると天保年間の戸数は42戸(『新編相模風土記稿』に拠る)、天保14年(1843年)頃の村高は370石余でした。土地は火山灰地で痩せていました。「下石」というのは生産高が高くないということ。水田は目久尻川沿いにわずかにあって、あとは台地上に畑が多くあり粟やサツマイモが栽培されていました。領主は佐倉藩堀田家。高座郡では小園・吉岡・国分・上河内・用田の5ヶ村が佐倉藩領でした。崋山の記述によると、佐倉藩からは年に一度、人別改め(戸口調査)の役人がやってきたらしい。農家はいうまでもなくお寺や神社にいたるまで、役人がその戸口までやって来て調査をしたようです。かなり徹底した「人別改め」を佐倉藩はやっていたことになる。そしてその戸口調査は、村内の偵察も兼ねていたらしい。「寺社」というのは、東光山延命寺(地蔵堂)と子之社(ねのしゃ)であったでしょう。目久尻川を小園橋で渡って少し入ったところに、大川家が檀家であった曹洞宗長泉寺がありますが、このお寺のあるところは小園村ではなくて早川村でした。東光山延命寺(地蔵堂)の天保2年(1831年)当時の住職は、『小園の歴史』によると泰善法師(天保5年9月5日没)であったようです。佐倉藩の役人は年に一度「人別改め」にやってきて、一軒一軒もらさずに農家を訪ねて戸口調査をしました。もちろん大川清蔵家にもやってきました。江戸からお侍(役人)が村にやってくるのはそれぐらいで、武士がわざわざ村の者を訪ねてくるというのは、きわめて珍しいことであったでしょう。崋山と梧庵が、長男清吉とともに村を出立する時は、村の人々がみんな門前に出て来て見送ったほど。もちろん清蔵やまち、その子どもたち、そして老齢の幾右衛門も村境の小園橋のたもとまで崋山を見送ったことでしょう。天保2年(1831年)9月22日の午後のことでした。 . . . 本文を読む

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その10

2014-06-06 06:18:23 | Weblog
大川まち(お銀さま)の子どもの名前と年齢については、『遊相日記』に崋山が記しています。まちが一人一人崋山に紹介しました。「これハ二男にて、幸蔵十九と申、これハ女にて、もと十一歳、栄次郎八歳、これはさきを導きたる童なり、留吉三歳、皆一同につらなり拝をなす」。これ読むと、道案内をしてくれた男の子が「栄次郎」であったようにも思えてくる。それとも崋山たちが近づいてくるのをきょとんと見ていて、崋山が「家はどこか」と声を掛けたら答えもせずに家に走っていったのは、「留吉」ではなく「栄次郎」であっただろうか。男の子が、いが栗頭の子を見て「これが清蔵んちの子だ」と言ったことを考えると、びっくりしてきょとんと道にたたずんでいた子は栄次郎であったのかも知れない。弟に対して「これが清蔵んちの子だ」と兄が言うだろうか。しばらくして馬を引いて帰ってきたのが長男の清吉。22歳。「厚木迄馬引ていでしが、やがて帰りきつ」。この清吉について、崋山は「いと太く逞しきおのこにて、素朴いふばかりなし」と記しています。「まち」の子どもの名前とその年齢については、『客坐録』にも記述があります。「清吉廿二幸蔵十九もと十一榮次郎八留吉三」。「もと」は崋山の妹(桐生の岩本家に嫁いでいる)と同じ名前。気になるのは、そのあとに記してあること。「浅草瓦町仕立ヤ吉五郎家内元両國両山町住」と「長富町大清吉家内」。これはもしかしたら江戸にいるという「まち」の妹(三女と四女)の嫁ぎ先ではないだろうか。また同じく『客坐録』で気になる記述は、「麹町八丁目上州屋万蔵ト云者 此幾右衛門懇意」というもの。「お銀さま」の父親である早川村の佐藤幾右衛門は、三宅坂田原藩上屋敷(崋山の住所)の近くの麹町に店を構える「上州屋万蔵」という者と懇意にしていたということですが、早川村の佐藤幾右衛門は大山街道を介して麹町(「上州屋万蔵」というお店)と何らかの事情でつながっていたことが、この記述からわかるのです。幾右衛門の長女「まち」が若くして田原藩邸に女中奉公に上がることになったのは、このようなつながりが背景にあったからではないかということが推測されてきます。 . . . 本文を読む

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その9

2014-06-05 05:27:52 | Weblog
では、大川清蔵家(「お銀さま」の家)は小園村のどこにあったのだろうか。これについては『游相日記』に崋山が描いた小園村の図があり、それで大体の位置を推定することができます。それには東西南北を示す記号も記されています。左端上の「柏ヶ谷」は、大山街道に沿った柏ヶ谷(かしわがや)村のことであって、その赤坂の上から南へと延びている細道が、いわゆる「古東海道」で途中「望(モウ)地村」と記されています。ややカーブして人家のあるところに下りてくる道が、伊勢山の「古東海道」であり、車止めのあった山道のような下り道のこと。下って人家のところを東へと延びている道が、「子之社」(小園村の鎮守様)の鳥居前を通過する「宮の前坂」。そこで左折せずにまっすぐに延びる道が小園村を貫くメインルートであり、途中で右へと折れる道(この角に現在「コンビニエンスマートカネコ」がある)が目久尻川に架かる小園橋(国役橋)へ至る道。右折せずにまっすぐに進むと両側に人家があり、突き当たったところで左折すると、その道の奥に地蔵堂(東光山延命寺)が見えてきます。この地蔵堂が寺子屋のあったところ。この地蔵堂を左手に見て右折していくと人家があって、そこに「小園」と記されています。道はそのあたりでまた左折し、すぐに右折しますが、しばらく進んで右手の道を入って行くとそこに「清蔵家」とあります。幾右衛門家については、目久尻川(早川)を小園橋で渡ったところが「早川」となっており、そこに「幾右衛門家」と記されています。これはこの位置に幾右衛門家があったということではなくて、早川村に幾右衛門家があるということを示すもの。当時早川村には小園橋を渡って川沿いに南下したものと思われる。小園橋の架かる川には「是早川といふ」と記されています。この図より、大川清蔵家は地蔵堂を左手に見て通りを折れ(右折し)、しばらく進んで左へ折れ、すぐに右折して、やや進んだ通りの右手奥にあったことになります。これが現在のどこかというと、実は『ホントに歩く 大山街道』に明示されています。それには次のように記されています。「旧東海道古道を経て、1.4kmほどでJAさがみ早園支店に出る。ここは、お銀の家の跡であり、すぐ近くにお銀の墓もある。」 つまり「JAさがみ早園支店」のあるあたりが大川清蔵家(「お銀さま」の家)があったところであったのです。 . . . 本文を読む

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その8

2014-06-03 05:22:38 | Weblog
地図を見てみると、目久尻川は小園から早川に向かって南流しています。その目久尻川の流域に小園や早川の集落があり、その東側の台地(子之社の南東部)には整然と区画された小園団地が広がり、そして目久尻川西側の丘陵の西側にも整然と区画された団地(国分寺台団地)が広がっています。しかし目久尻川の流域である平地には、そのような整然と区画された団地の広がりはなく、かつての田園風景がまだまだ偲ばれるような気配を、地図上からも感じとることができます。実際に小園地区を走るバス路線(小園のメインルート)に沿って歩いてみると、かつて目久尻川沿いに広がっていたという田んぼはすでに見ることはできませんが、道の西側には畑が広がっており、また周囲に丘陵の緑を見ることもでき、かつての静かな農村風景を十分に想像することができ、自分の田舎に帰ってきたようなホッとした気分を味わうことができます。今まで東京からずっと人家やビルの密集地帯を歩いて来たからというわけでもなく、初めて車で訪れた時にもそのような印象を受けた覚えがあります。むかしからの集落で、周囲はともかくも、この目久尻川流域については大規模な開発の手が入ってこなかったからかも知れません。もし鉄道が入ってきていたら、こういうわけにはいかなかったでしょう。早川村の佐藤幾右衛門家(お銀さまが生まれたところ)があったところの近くには東名高速道路が走っているけれども、高速道路であるから大規模な近辺の開発は免れたのでしょう。崋山の歩いた道筋はほぼそのまま残っており、伊勢山の古東海道から地蔵堂前を経て「お銀さま」のお墓のある公園近くまで、崋山の息遣いを感じながら歩くことができました。大山街道を歩いた時には、なかなか味わえなかった感覚でした。 . . . 本文を読む