鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島から佐久島まで-その1

2015-04-24 05:59:26 | Weblog
崋山の『参海雑志』の旅の日程と行程を、あらためてここで確認してみたい。旅に出立したのは天保4年(1833年)の4月15日(陰暦・以下同)。田原城下をお昼に出立して高松村の冨士見茶屋で昼食を摂り、赤羽根村の遠見番所に立ち寄って、若見、越戸(おっと)などの村を経て和地村の医福寺に宿泊。翌16日は堀切村の小久保三郎兵衛(供人の鈴木喜六の縁者)の家に立ち寄り、その後見人である政右衛門の案内で新築なったばかりの常光寺を見学。その後、堀切村を出立して伊良湖村に至り、伊良湖明神に参詣。芭蕉塚に寄ってから伊良湖の浜より乗船し、伊良湖水道の「ドワイ」を渡って神島南岸の「ニワの浜」あたりに上陸。島長である小久保又左衛門の家に宿泊することになります。翌17日の早朝、島の東海岸の岩の上から荘厳な「日の出」を眺めた後、朝食を摂ってから又左衛門の弟の案内で島見物に出掛け、灯明山(とうめやま)の中腹にある八代(やつしろ)明神や頂きにある灯明堂の施設などを見学します。そして灯明堂から戻った崋山一行は、島の船に乗って伊良湖の浜へと戻り、そこから陸路、左手に西山長池や豊島池を眺めながら畠村へと向かいました。畠村に到着すると、この地を支配する大垣新田藩の陣屋(畠村陣屋)をスケッチしています。この日、崋山一行がどこに泊まったかはわかりませんが、おそらく畠村の免々田(めめだ)川沿いの旅籠に宿泊したものと思われます。崋山は旅に出立する前から、「伊勢の国の神島」とともに「三河の国のさく嶌」を訪ねることを予定していましたが、なぜ佐久島へ渡ろうとしたのか、その理由はよくわからない。4月18日の記述は、いきなり畠村を出立するところから始まります。免々田川に沿って古田(こだ)村まで歩き、そこから船に乗って佐久島へと渡っています。佐久島見物を済ませた後、その日のうちに佐久島から幡豆郡の吉良(きら)あたりに上陸し、吉良にある吉良氏菩提寺華蔵寺(けぞうじ)に立ち寄っています。吉良道を利用して東海道藤川宿へと出ているはずですが、この日(4月18日)の夜、どこに宿泊したかはわからない。おそらく藤川宿に泊まったものと思われますが確証はありません。東海道吉田宿を経由して田原に帰着したのは翌19日か20日のことであったでしょう。不思議なことに、神島までの記述とは異なり、佐久島以後田原帰着までの詳しい記述はほとんどありません。 . . . 本文を読む